日本語の起源 くまら掲示板


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青梅…一族は常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出した…
荊の紀氏 投稿日:2024年03月26日 20:40 No.953
「omen」は英語の単語であり、主に「前兆」や「予兆」という意味を持つ。https://www.weblio.jp/content/OMEN

吉兆?
東京都青梅市天ヶ瀬町で先日、龍が化身したと言われる「龍雲」が発生した。https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/155505
それとも…
この雲が青梅で撮影された数日後に浅間山で噴火が起きており、ただのシンクロ現象とも思われますが、あまりにもタイミングが良すぎて不気味です。
この龍雲が浅間山噴火という凶兆を示しただけでなく、東京オリンピックに向けて日本経済が活性化する吉兆でもあってくれれば良いのですが」と話している。

騎馬民族征服王朝説https://www.bokushoki.com/home/jindai/kibaminzoku
四世紀前半ごろ、大陸北方騎馬民族が、南朝鮮を征服支配し、さらにここを飛石として日本列島に侵入し、先住の倭人の国を征服、大和朝廷およびそれをめぐる貴族らの連合体となったという説
(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/2007年から抜粋)
神武東征の説話に見られるモチーフなどは、三〜四世紀ごろ、朝鮮半島を経由して渡来した、ユーラシアのステップ地域に起源を持つアルタイ系騎馬民族の文化によって、日本に持ちこまれたものであろうと主張されていた。
ユーラシアのステップ地域に起源を持つアルタイ系騎馬民族の文化によって、日本に持ちこまれたものであろうと主張されていた。
(『日本神話の源流』吉田敦彦/1975年)

群馬県の名は「 車評(くるまこおり)」に由来 する。 https://kumo.txt-nifty.com/blog/2017/11/post-8b78.html
…群馬県の名は「車評(くるまこおり)」に由来する。
古くは毛野国として、北関東に広く覇を唱えた騎馬民族の国だ。

…毛野国は、律令制以前における後の令制国である上野国と下野国を合わせた地域名を指す。https://www.7key.jp/data/geography/ryoseikoku/keno.html
上野国と下野国を合わせて、あるいはどちらかを毛州(もうしゅう)と呼ぶ。

武蔵国となる以前は、
「夭邪志」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配下にあった。
このうち「夭邪志」「胸刺」国造は出雲臣系氏族で、それぞれ兄多毛比命(エタモヒ命)とその子である(イサチノアタイ)を祖とするため、両氏の縁はかなり深かったと思われる。
一方で、「知々夫」国造は大伴氏の始祖である高御産巣日命(タカミムスヒ命)の子である八意思兼命(ヤツゴコロオモイカネ命)の
十世の孫である知知夫彦命(チチブヒコ命)を始祖とするから、前二氏とははっきりと違う系統であることがわかる。
「夭邪志」「胸刺」両国の国造が古墳時代以来の有力豪族であったと考えられるなら、まずは北武蔵領域の埼玉古墳群を中心とした一帯を考えることができる。
そして「夭邪志」「胸刺」は始祖が親子関係にあるため「夭邪志」がより有力な豪族であったと考えられる。
そうすると「夭邪志」国造は埼玉古墳群とその周辺の大古墳を築いた豪族と関係すると考えられる。
そして縁戚にある「胸刺」国造の領域は、容易には推測できない。
桓武平氏の良文流が秩父に入るはるか以前、百年はど前から、武蔵国に乱立し た土豪たちは血縁的な党派を結成して、後に武蔵七党と呼ばれる集団となった。
そして秩父には丹党と呼ばれる丹治氏の一族があった。
その「丹治系図《によると、先祖は「宣化天皇の後裔、武蔵守多治比広足五代 の孫、武信《とあり、例によって偽系図とされている。
その根拠とされるもの が、紀国に丹生神社を祭る「丹生祝氏系図《系図に、丹生祝氏から別れた秩父 丹治氏の系図が載せられていることによる。
丹治氏…

【丹党】 丹党: 古代豪族の丹比氏の末裔で、丹治(たんじ)氏を称し、代々武蔵守を相継。https://folklore2017.com/a019.htm
武蔵守…

『武蔵青梅 武蔵国守護代大石氏より領有権継承した氏康三男北条氏照に仕えた武蔵七党の西党を祖とする平山氏が支配するhttps://4travel.jp/travelogue/10730660
武蔵青梅…

青梅の市街地を抜け、里山のせまる集落。 山裾の古刹、天寧寺があります。
元々この地には、平将門が創建した、真言宗高峯寺がありました。 あの、平安時代の武士の、将門です。
一時は関東を席巻した将門、新皇と名乗ります。
朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。https://ometsu.net/tenneiji-2021-03/
青梅の市街地を抜け、里山のせまる集落。
山裾の古刹、天寧寺があります。
元々この地には、平将門が創建した、真言宗高峯寺がありました。
あの、平安時代の武士の、将門です。
一時は関東を席巻した将門、新皇と名乗ります。
朝廷と敵対、平将門の乱が勃発します。
ちなみに、成田山・新勝寺は、将門の鎮圧を祈願のために、朝廷の勅命で創建されました。
成田山は真言宗のお寺、なぜか、高峯寺と同じ宗派なのが、面白いですね。
成田山は真言宗のお寺…

…「秦氏」系の天皇に反抗したということは、やはり「平将将門」は「平氏」ではなく「源氏」か、または「反平氏」ということになります。
世界はアーリア人(秦氏)とチュルク族(月派・出雲)の抗争の上に成り立っている。https://ameblo.jp/aai610/entry-12825275406.html
○朱雀天皇 – Wikipedia
「朱雀天皇」はその名に「朱=赤」とありますので、明らかに「秦氏」でしょう。
で、その「秦氏」系の天皇に反抗したということは、やはり「平将将門」は「平氏」ではなく「源氏」か、または「反平氏」ということになります。
いずれにせよ、純粋な「平氏」ではありません。
しかし、こうして「秦氏」と「出雲族」の戦いについてあれこれ調べているうちに、私はいつしか「秦氏」と「出雲族」がやたらと共通点が多い、という事実に気付くようになりました。
例えば、「秦氏」も「出雲族」もどちらも「新羅」出身ですし、「大国主」を崇めていますし、「妙見信仰」を信仰しています。
実際、「平氏」側である豊臣秀吉は「大黒天」を氏神として崇めていて、この「大黒天」は「大国主」のことです。
○秀吉も信仰した出世守り本尊、三面大黒天! – 圓徳院 – 【京都の観光なら】ガイドブックス
そのため、ここ最近になって私は「秦氏」はもともと「出雲族」だったのではないか、と考えるようになりました。これについては、先日アップした以下の記事でも書きましたね。
○RAPT×読者対談〈第105弾〉関ヶ原の戦いより千年前に起きた天下分け目の戦いの真相。またはカタカムナと安倍晋三の深いつながり。
また、ずっと以前にも「秦氏はもともと出雲族だったのではないか」と何気なく書いています。以下の記事は、昨年の8月の記事なので、ちょうど一年前になりますね。
○スサノオのヤマタノオロチ退治と、蘇我氏による聖徳太子暗殺と、東京オリンピックにまつわる今回の騒動は、全く同じ構図のようです。
で、あれこれと考えた結果、今ではやはり「秦氏」はもともと「出雲族」だったに違いないとの結論に達することになりました。
その理由はこうです。
島根県の「出雲大社」の本殿には、「八雲之図」なるものが描かれています。
しかし、「八雲」と言いながら、この「八雲之図」には七つの雲しか描かれていません。
どうして七つの雲しかないのだろう、と誰しも疑問に思うことでしょう。私もずっと謎でした。
そもそも、この「雲」は一体何を表しているのでしょうか。
恐らくこれらの「雲」は、「出雲族」の中に有力な氏族が「八氏族」いたということを表しているのだと思います。
しかし、そのうちの「一氏族」が何らかの理由で「出雲族」から抜け落ちてしまった、だから七つの雲しか描かれていないのではないでしょうか。
で、その抜け落ちてしまった「一氏族」こそ、「秦氏」だったのでしょう。
先日もお話しました通り、「出雲族」とは「チュルク族」のことであり、「チュルク族」はもともとロシアのバイカル湖付近にいた民族です。
で、この「チュルク族」の中にいた「秦氏」が何らかの理由で「チュルク族」から脱退し、カスピ海の辺りにいた「アーリア民族」に合流した。
○アーリア人 – Wikipedia
念のために言っておくと、「チュルク族」のいた「バイカル湖」と、「アーリア人」のいた「カスピ海」はそれぞれ以下の場所になります。
その後、「アーリア民族」の中から「ハッティ」なる部族が出てきたわけですが、この「ハッティ」はその名の通り、明らかに「秦氏」と関係があります。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
○RAPT×読者対談〈第50弾〉ユダヤ陰謀論、ここに極まれり。https://rapt-neo.com/?p=34142

ナチス・ドイツが日本人を「名誉アーリア人」と称したのは、戦時中の同盟国として、その奉仕がドイツの経済と戦争努力にとって価値があると見なされたからである。
「日本:名誉白人の国の試練」https://note.com/fslabo/n/n74ca386298c2

遊牧、騎馬民族、スキタイのまとめ(起源について)https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2022/04/14/091903
騎馬民族の起源
騎馬民族が最初に文字史料に現れたのはキンメリア人とその直後のスキタイ人だ。ただしキンメリア人は考古学的証拠をほとんど遺さなかったため、スキタイ人のほうがクローズアップされている。
スキタイ人の起源については、ユーラシア・ステップ(大草原)の東部が有力視されている。
古代中央ユーラシア・中央アジア史が専門の林俊雄氏によれば、遊牧民と中国文明と接触により騎馬戦術が発明された(前9世紀)。
これを発明した人々は中国文明に刺激を受けて王権と権力の階層化を採用した(文字情報は無いが遺跡から確認できる)。
騎馬戦術を発明した人々の文化をスキタイ文化またはスキタイ系文化と呼ぶ。すなわち騎馬民族を誕生させたのはスキタイ人ということになる。
ただし、このスキタイ人は、西アジアとギリシアに現れたスキタイ人とは完全に一致するものではない。
最初の騎馬民族としてのスキタイ人は全ての騎馬民族の発生源であり、西アジア・ギリシアに現れたスキタイ人はそこから派生した騎馬民族のひとつだ。
つまり上位カテゴリのスキタイ人とサブカテゴリのスキタイ人の2つを区別して考える必要が有ることに注意。
西アジアに現れた騎馬民族
上記の通り騎馬民族はユーラシア・ステップ東部で誕生した。そして西部に進出あるいは伝播した。
西アジアとギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。
これら騎馬民族についてはヘロドトス『歴史』(前5世紀)の詳細な記述が有名だが、それ以前に西アジアに現れている。
メソポタミア(現在のイラク)で出土した新アッシリア帝国が記した碑文にキンメリア人(前8世紀末)とスキタイ人(前7世紀初頭)と比定される記録がある。
彼らは国家と呼べるほどの勢力を持ち、西アジアの各国と同盟を組むなどして西アジアの戦争に参加した。
キンメリア人の本拠地は黒海北岸(現在のウクライナ)にあったが、スキタイに追われて消滅した(諸説あり)。前6世紀になるとスキタイ人がここを支配した(前4世紀まで続く)。
西アジアとギリシアに現れた騎馬民族(キンメリア人とスキタイ人)はその騎馬民族の一部だ。
スキタイ人…

スキタイ人が日本に渡来していたというのは間違いなのでしょうか?https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1496060079
…間違いってことはないです。
正確には、白人渡来説を間違いだ、と言えるだけの反証を揃えることが出来ません。
ただ、いたずらに支持することもできません。可能性はあります。おかしくはありません。

蘇我氏はどこからやってきた?飛鳥の権力者・蘇我氏のルーツを探るhttp://fushigi-chikara.jp/sonota/5352/
…蘇我氏の渡来のいきさつ
 イラン東部のサカスタン王国のサカ族にミトラ教の精神を受け継ぎ弥勒信仰を捧持する支族がいました。その支族が蘇我氏のルーツのようです。その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
その支族が蘇我氏のルーツのようです。その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。
なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。
 移動の過程で高車族に接触します。
高車はバイカル湖周辺を故地とするトルコ系遊牧民で、ジュンガリア高原を支配していました。
高車の庇護のもと、バイカル湖南端を通り沿海州に至り、日本海を渡って越の国(中国名は扶桑国)に落ち着きます。
越の国は東北の地にあり西域の遊牧民系の人達がいたようです。
一族は故地に似た地形(山と湖)の常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出したと考えられます。
常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出…




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