日本語の起源 くまら掲示板


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>天忍骨命…
荊の紀氏 投稿日:2024年03月24日 15:50 No.935
宇佐八幡神は新羅の神だった http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
…この八幡神はもとはれっきとした新羅からの外来神だったのである。
別稿(日本人および日本の誕生)で述べたが、鎌倉源氏は自らを「新羅」の末裔と信じた節がある。
ならば、守護神を八幡神とするのも至極当然である。
源氏の「白旗」とは実は八幡の「素幡」(しろはた)だったということになる。
そう言えば、「八幡」太郎義家と名乗った者もいる。また、明治維新の元勲・
西郷隆盛が育った薩摩藩では、幼少からの藩士教育が盛んだったことが有名であるが、その
作法が八幡神経由の新羅由来のものだったとしたら、どうだろう。
…「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。
秦氏は、秦の始皇帝の流れを汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来した、と自称していたのだ。
…確かに秦氏は相当の多数で渡来し、豊前に留まらず山背国南部(太秦:うずまさ)など日本全国に拡がり、様々な活躍をしたことは間違いない。
しかし、ここでは秦氏の神・八幡神の変貌を中心に記述し、彼らの信仰がいかにニッポン人の信仰へと流れ込んでいったのかを考えるための「補助線」を何本か引いてみるばかりである。

忍骨命(オシホネ-ノ-ミコト)とは、偉大なる母神・天照大神の御子神(みこがみ)である
天忍穂根命(アメ-ノ-オシホネ-ノ-ミコト)から「天」の一字を除いただけの神名に見える。
しかし屈折がある。
「オシホネ」は「大-シホ-根」である(接尾の「根」は天皇和名にしばしば登場する美称)。
つまり中核は「シホ」で、これは古代朝鮮語の原語「ソホ」よりの転訛、そしてその
神名はニッポン神・天オシホネ命への付会(こじつけ)と思われる。
ソホとは「ソフル」(聖地の意:大韓民国の首都名もこれ)の「ソフ」と同じで、神の降臨する聖地を意味する。オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。
オシホネ命は、本当は新羅の「御子神」である。

…「大目」とは、「秦王国」に六世紀末に実在した巫女のオトメやオフメから採ったものと思われる。
結局、朝鮮と日本の和合名である。
 豊姫命は紀記神話の豊玉姫に比せられたりもするが、この女神こそが秦氏の主神の一つである。
その名は地名「豊」を付けた程度の意味で、要は母神である。
実は、秦氏の八幡信仰は母子神信仰である。そしてその御子神は「太子」と呼ばれる。
ニッポン人なら「太子」と聞けば、聖徳太子を思い起こすだろう。そう、
八幡神信仰には聖徳太子から、何と最澄や空海にまでつながっていたのである。

…香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。
どちらも秦氏一族である。
後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その
「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。
その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である
(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。
秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。
八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。
 香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の
『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは
神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。
「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、
新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨(くじ)峯に降臨した。

…書紀は、天オシホネ命の子・ニニギ命が降臨した山を「日向の襲(そ)の
高千穂の添(そほり)山峯」と本文で記し、他の一書として「日向の高千穂の樓触(くしふる)峯」と記している。
また、古事記は「日向の高千穂のクジフルタケ」としている。
…朝鮮の降臨神話では王は卵から生まれる(加羅神話の亀旨とは卵生の亀を示唆している)。
実はこれが聖山より重要なのである。その卵は箱舟に乗って海から漂着したというのが、
南朝鮮も含めた「倭族」神話の古形である。
日本の場合は、少なくともニニギ命の場面では聖山への降臨に重点がある。
ただし、命が包まれていたという「真床追衾」(まとこおうふすま)には、卵の王たちを温めた布の温かみがかすかに残っている。

…宇佐での八幡神祭祀は辛島氏のもの
…辛島氏の神山に天下ったと書かれてあるのである。
辛島氏の神山とは、本来は香春岳以外にはない。
あえて、宇佐における辛島氏の神山を探せば「稲積山」である。
実は「辛島」とは「辛国(宇豆)高島」をつづめた称である。
ちなみに、山背の「太秦」(うずまさ)の「うず」とは「宇豆」であり、「まさ」は
「勝」で「すぐり」(朝鮮の「村長」)の意である。
だから太秦とは、秦氏一族の勝(すぐり)の統領(が住んだ地)を表している。
 辛島郷には、辛島氏が祭祀した鷹居社や鷹栖山の山号をもつ寺があった。
この「鷹」とは、実は香春の八幡神である。

…神懸かりして託宣するシャーマンが八幡宮の巫女である。
誰かに似ていないだろうか。
そう、紀記中最大のシャーマン・神功皇后である。
巫女に憑依しているのは母子神である八幡神だ(八幡神は「太子神」として現れるが、そのとき巫女は言わば「母神」である)。
母神の神格にぴったりなのが神功皇后なのである。
大神氏はこうして「太子」たる応神天皇を持つ「大帯姫神」を持ち込んだのである。
神功皇后が討伐に向かう中でもらす新羅への「愛憎」のうち、愛の方は「望郷愛」だったのかも知れない。

…太宰府の命で「秦王国」の人々の一部は、七世紀頃から日向南部に移住したらしい。
そこは未だ朝廷に服さぬ「隼人」たちの国であった。699年に「稲積」(辛島氏の神山の名)城が築かれ、
713年には日向国から大隅国として分立されるが、隼人の叛乱が相次いでいた。
『続日本紀』には、714年の記事として「豊前国の民二百戸(五千名ほどか)を移して」とある。
秦氏は曽於郡とそこから分けられた桑原郡に多く住んだ。
「曽於」はソホであり、新郡名「桑原」とは豊前香春にある地名である。
そして、曽於郡には韓国宇豆峯社が、桑原郡には鹿児島社が建てられたのである。

…大隅八幡宮は、もと隼人の聖地・石体宮(しゃくたいぐう)に発する。
神仏習合ならぬ「神々習合」である。大隅国隼人の地主神に、新住民・秦氏の八幡神信仰が架上されたのだ。
平安末期の記録には、その神官は辛島氏出自の漆島・酒井氏とある。なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。
なお、秦氏は大隅から薩摩国にも移住した。西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。この社は「亀山」にある。
西方の旧国府があった川内市に新田社という八幡宮がある。
現主祭神をニニギ命とするが、その神官・惟宗(これむね)氏とは秦氏である。
この社は「亀山」にある。

…紀記の「日向にニニギ命は降臨した。イワレヒコ命は日向から東遷した」などの記述から、
日向国を中心に九州には「天孫降臨パラノイア」が蔓延している。どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。
どこもかしこも「降臨地」だらけで、あちこちの神社にはニニギ命らが盛んに祭られている。
しかし実は、それらの天孫降臨伝説のすべてが「ソホリ」(ソホ・ソフル)か
「クジ」(クシ:亀旨)の名をもってそこを「聖地」として聖別していることからも分かるように、奇妙なことに「外部」に依拠しているのだ。
 九州での「降臨」伝説は、新羅・加羅から秦氏が八幡神とともに持ち込んだとも考えられる。
豊前の秦王国から日向へ、そして大隈となった現鹿児島県東部から西部の薩摩へと、
秦氏の移住先には八幡神信仰が移植され、その降臨伝承がニッポンの天孫降臨神話に置換されていった。
降臨神話のすべてとは言わないが、少なくとも、もと八幡神信仰のあった地でのそれは置換されたものに相違ない。

(三)新羅、秦氏、八幡神の信仰の広がり
島津氏が継承した新羅の民俗
 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわたり南九州を支配した豪氏である。
だが、その素性は案外知られていない。
島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、
源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。
その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。
…名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、
集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、
戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ赴いた(天草の乱などでの記録がある)。
この稚児様とは、八幡神の依り代であった。
実は、新羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。

…「太子」とは朝鮮の巫女が降神させるある神霊への呼称であり、
その巫女は「太子巫」と呼ばれた。
ここにも「母子」のセットが見つかるが、朝鮮の神王は卵から生まれる。
だからその卵(アル)は太子なのだが、生まれた太子もアルなら、生んだ卵たる母もアルなのだ。
紀記神話の天照大神と天オシホネ命、神功皇后とホムタワケ命も「アル」だと分かる。
しかしニッポンではしだいに母神が欠け落ち、太子だけの信仰となる。
 思えば、アメノヒボコはなぜ新羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか、
ツヌガアラシトはなぜ大加羅の「王子」と呼ばれなくてはならなかったのか。彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。
彼らが童神、すなわち太子(アル)だったからに他ならない。
新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だったことも分かる
(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。

…河内国大県郡に高尾山(現高安山か。新羅系ニギハヤヒ命の降臨地だとの説もある山)がある。
別名鷹尾山、鷹巣山である。そしてそこには高尾社(鐸比古鐸比売社:たくひこ-たくひめ社。実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。
実は夫婦ではなく母子神)がある。秦氏の「高尾」である(もう、くだくだしい説明は不要だろう)。
高尾社の祭神は鐸石別(ぬてしわけ:鉱石と石を分けるの意)命であるが、これは河内秦氏の鍛冶・鋳造神の名である。
香春山はカル(金属)の山であったが、八幡神は鍛冶神でもあった。

…大和の穴師兵主(あなしひょうず)社は新羅の王子アメノヒボコを祭り、かつては穴師山(弓月嶽・巻向山)にあった。
ここは秦氏始祖とされる弓月君に関わる地である。アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。ここは新羅系息長氏の本拠地である。
アメノヒボコは書紀によれば、近江国吾名(あな:阿那)邑にしばらく住んだ。
ここは新羅系息長氏の本拠地である。

秦氏のもう一つの聖山・英彦山
 781年頃、朝廷は宇佐八幡神に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、さらに783年に「大自在王菩薩」を追号している。
これで、名実ともに「八幡大菩薩」となったわけだ。
この「菩薩」とは何か。神宮寺が弥勒寺であるように、弥勒菩薩である。
そして、秦王国にはもう一つの聖山があった。
豊前・豊後・筑前に広がる英彦山(彦山。もと「日子」山)である。
ここには英彦山社があり、香春と同じオシホネ命が祭られている。

…弥勒は下生し修行するが、これが洞窟に籠もる花郎や童子である。
下生した弥勒を写したのが、弥勒半跏思惟像とされる。
弥勒は第二のシャカであり、それは出家前(在家)のシャカ、シッダールタ王子(悉達「太子」)像である。聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。
聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。
(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。

最澄と円珍の弥勒信仰
…延暦寺の第五世座主・円珍は、唐からの帰国後、園城寺(三井寺)を開くが、その本尊は弥勒像であった。
円珍没後、園城寺の寺門派は比叡山の山門派に対して天台宗正統を主張するが、この論拠の一つは
最澄の弥勒信仰を円珍の園城寺が受け継いだことにあった。
その園城寺の鎮守社・新羅善神堂の祭神は新羅明神と称する弥勒の化身である。そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。
そしてもう一つの鎮守は白山明神であり、その神官は秦河勝の子孫であった。

…『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、
『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だとかあるように、「魏」は方位磁石の針のように秦王国を指し示している。

…空海の密教とは、自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰から成るものだったことが分かる。
弥勒信仰は聖徳太子(タイシ)信仰となって普及していった。
この信仰は、なぜか大工や鍛冶屋など手工業者の信仰なのである。
しかしこれももう読者諸賢にはご明察であろう。
そこに弘法大師(ダイシ)も流れ込み、太子・大師信仰となっていく。
弥勒たる八幡神と秦氏がこれを裏打ちしていたのだった。天台宗と真言宗が、
なぜ聖徳太子を問題にし、また山岳信仰に深く関わるのかもお分かりだろう。

…アルの母子神を求めて、日子=太子=弥勒を求めて、常世=兜率天の出入口を求めて、神仏との回路たる鉱物を求めて…。
シャーマニズム、アニミズム、道教、仏教、神道、朝鮮宗教などの坩堝(るつぼ)…。
それが仏像による立体曼陀羅であり、護摩などの加持祈祷であった。
秦氏の八幡神「雑密」信仰は、空海によって「純密」と姿を変えたのである。それはすでにニッポン宗教であった。しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。
それはすでにニッポン宗教であった。
しかし「秘密仏教」と言われる空海の密教に「秘密」はあったのだろうか。
私たちが解体点検してきたように、空海に「秘密」なぞなかったのである。
あったとすれば、私たちがニッポン人の中に流れ込んでいる「八幡神」を忘れていただけのことである。
弥勒…

弥勒(ドルイド)信仰とは死と再生の常世信仰である・・・生命や活力の源???https://rara.jp/kumara/page927
…ドルイド教は、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。

宗教を創造した非常に強い力を持った権力者たちがいた…
ミトラ教はフリーメイソンの教義でもある。と言う事も忘れずに。https://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10703372350.html
…この救世主待望はキリストであり、弥勒であり、現代のニューエイジであり、UFO待望であり、ようは延々と利用されて来た。

…今は、はやりのグローバル化でグローバル宗教に統一しようとしているということか。…




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