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130 【 東西 】と【 南北 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年09月02日 16:02:32 No.2376 【返信】

【 韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里 】

 韓は帯方の南在り
 東西は海を以って限りと為す
 南の倭人と接す
 韓は方可四千里
--------------------
上の文章の「東西」を、古田氏は「東海岸」と「西海岸」と訳しています。

【始度一海千餘里至對馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴母離 所居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑有千餘戸 無良田食海物自活 乘船南北市糴】
 
するとこの文章の「南北」も「南海岸」と「北海岸」と訳すことになります。
 
【無良田食海物自活 乘船南北市糴】
 
(對馬國には) 良い田畑が無く、海産物を食している。
人々は船に乗り、對馬國の南海岸と北海岸とで、穀物の交易を行っている。
 
狭い対馬の南岸と北岸で「交易を行う」などあり得ない話です。
古田氏のように、自分に都合よく翻訳しようとする人物は、ほかにも大勢います。
こうしたみっともない事は、絶対に辞めましょう。
 





【神翻訳】に注意しよう。
 
中国語で「神」とは「超越した」という意味があります。
したがって「神翻訳」とは「常識では考えられない翻訳」という意味になります。
あるパンダ舎の前に【静静请看】と記載した看板が立てられました。
 
これを中国人が見たら【しずかちゃん観てください】と理解します。
この看板を立てた人物は、おそらく【静かにご覧下さい】と書いたつもりなのでしょう。
 
パンダに「ランラン」とか「カンカン」とか名付けますが、中国人はこれを「ランちゃん」あるいは「カンちゃん」と理解します。
文字が連なった場合「愛称」と判断します。
 
母親を「母 (マァ)」と言いますが、子供は「マァマァ (お母ちゃん)」と呼びます。
中国では当然のことが、日本人の多くは理解できていません。
古田氏、安本氏、岩波文庫の魏志倭人伝訳でも、こうした【神翻訳】が数多く含まれています。
 
彼らの翻訳本を参考にする方は、「神翻訳」に引っかからないようにしましょう。





二世紀以前の機内大和は「過疎地」だった。
 
奈良盆地は一面の湿地帯でした。
つまり人の住めない「古池」といって良いでしょう。
ここに九州からやって来た倭人は、溜まり水を運河を作って大和川に水を流し、灌漑に取り組んでいます。
 
灌漑を行った地域を田畑に変え、莫大な利益を得たようです。
二世紀以降は利益を求めて、人口が爆発的に増加しています。
こうした人口爆発が「大和王権」の源泉となっています。
 
畿内説の人々は、二世紀以前の奈良がどうなっていたかを、説明しようとしません。
これは卑怯というべきでしょう。
 




127 『宋書』倭國伝 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 13:04:54 No.2373 【返信】

『宋書』倭國伝 ①
倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
自昔祖禰、躬擐甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿
 
順帝の昇明2年(478年)に、武は宋に遣使して上表文を奉じています。
倭國王の興が死亡し、弟の武が後を継いだ。
武は自ら 「使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事安東大將軍倭國王」 と名乗った。
 
祖先自ら甲冑を身にまとい、山や川を駆け巡り落ち着いて休む暇も無く、東の毛人五十五国を征服、西の衆夷六十六国を屈服、海を渡って北の九十五国を平定、王道によって平安をもたらし、土地を開拓し、畿(都)の範囲を広げました。
 
朝宗=古代諸侯於春天朝見天子(古代諸候は春に天子に謁見します)
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『宋書』倭國伝 ②
累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

毎年、間違い無く(木の葉が毎年増すように)年賀のご挨拶に朝廷を訪れようとしていました。
愚かなる臣下といえども、すべてを末裔に引き継ぎ統率してきました。
 船舶を準備して崇拝する皇帝を訪れようとしましたが、高句麗は非道にも百済を欲して劉氏を強奪し隷属させました。

このために航路をふさがれ良い風が吹いても、これを逃してしまい、思うように来る事ができませんでした。
いまは亡き臣下の済は、航路を妨げる敵に怒り激しく抗議しました。突然に父兄を亡くし、喪に服す間は兵を動かす事もできませんでした。しかし今よりは、父兄の志を継いで甲冑を身につけ、戦いに臨みたいと思います。開府儀同三司を自ら名乗り強敵を打ち破って、勝利を治めて功績と為し、皇帝に忠節を尽くしたく思います。

皇帝の詔により、武は使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の爵位を与えられました。
 
倭王「武」が機内大和で治めていたとすれば、「海を渡って北の九十五国を平定」が意味不明の文章になります。
この文章を成立させるには、武は九州で治めていたと考えるしかありません。
 



 




126 四千里征伐 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 12:39:24 No.2372 【返信】

『三国志』巻三 明帝紀
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【爲四萬兵多、役費難供】
 
 四萬もの大量の兵士を派遣するには、多額の資金が必要で賄いきれません。
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【帝曰「四千里征伐、雖云用奇亦當任力、不當稍計役費】
 
 帝は 「四千里(公孫淵)征伐には、奇策を用意しているので、資金の心配は不要」 と述べた。
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【遂以四萬人行】
 
 ついに四萬の大軍を派遣した。
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【帝曰「住還幾日?」對曰「往百日、攻百日。還百日、以六十日爲休息、如此、一年足矣。」】
 
 帝は、「公孫淵の征伐に何日必要か?」 と家臣にきいた。
 家臣は答えて、「行くに百日、攻撃に百日、帰還に百日、兵士の休息に六十日、すべてを合わせるとおよそ一年になります」 と答えた。
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四千里(公孫淵)征伐の移動に100日とあります。
魏の一里は430mですから、四千里は1,720kmになります。
すると1日の移動距離は「17.2km」です。
 




125 【 往 】の音は【 wang2 】 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 10:01:55 No.2371 【返信】

【 往 】の音は【 wang2 】
放送大学の【 アジアと漢字文化 第三回 】の授業で【 往 】の音 ( 読み ) は【 おぅ 】と教わりました。
 
その理由は【 往 】の旁 ( 声符 ) が【 王 】だからです。
ただし中国での読みは【 わん 】です。
--------------------
【 邪馬壹國 】の読みを知りたければ、形声文字について学ぶべきでしょう、そうすれば【 邪馬壹 】の読みが【 やまと 】だという事を理解できるようになります。
 
中国の殷王朝の時代に亀の甲羅に刻まれた【 甲骨文字 】は紀元前1500年のものと推定されています。
そして現在発展を遂げた、漢字の 90%は【 形声文字 】と言われています。

【 形声文字 】は【 声符 ( 読みを表す部分 )】と【 義符 ( 意味を表す部分 )】とで成り立っています。
【 往 】は【 王 ( 声符 )】を表し、【 王 】以外の部分は【 義符 】を表しています。
 
【 壹 】も【 形声文字 】です、したがって【 豆 ( 声符 )】また【 士・冖 ( 義符 )】になります。
【 登 】あるいは【 澄 】も【 豆 ( dou4 )】の【 形声文字 】ですが、これらと同様に【 壹 】も【 と 】と読まれていたと想像します。
 
私たちは【 壹 】を【 いち 】と読みますが、中国の辞典に【 壹 】は【 数字の一の大字 】とあります。
これが【 壹 】を【 いち 】と読む理由です。
 
古田氏は【 形声文字 】について一言も語ったことはありません。
漢字の80%は【 形声文字 】だと言う事を知らないのでしょう。




124 【 將送 】とは wajin128 投稿日: 2020年08月26日 08:37:12 No.2370 【返信】

【 太守劉夏遣吏將送詣京都 】
 
 太守劉夏は官吏を遣わし、
 将軍を京都に送る。
--------------------
『 後漢書 』 光武帝紀
【 初 樂浪人王調據郡不服 秋 遣樂浪太守王遵撃之郡吏 殺調降 】
 
 樂浪人の王の調據は郡に服従せず。
 樂浪太守の王遵は郡の軍隊 ( 郡吏 ) を遣わし之を攻撃した。
 調據は殺害され ( 楽浪は ) 降伏した。
--------------------
【 遣吏 】とは【 軍隊を派遣する 】という意味です。
また【 遣吏將送 】の【 將 】とは【 大夫難升米 次使都市牛利 】を指すと見てよいでしょう。
 
三國志 』魏書 明帝紀
【 二年春正月 詔太尉司馬宣公 帥衆討遼東 】
 
 景初二年春正月。
 大尉 司馬後の宣公 ( 晋の皇帝 ) は、明帝の詔を受け、
 遼東の最高軍事指揮官および従う者を討ち滅ぼした。
 
【 秋八月丙寅 司馬宣公圍公孫淵襄平 大破之 傳淵首于京都 海東諸郡平 】
 景初二年八月 ( 238年 ) 丙寅 ( へいいん 9月10日 )
 司馬宣王は襄平の公孫淵を囲み
 之を大破した
 海の東側の諸郡を平定して淵の首を京都に伝送した
--------------------
【 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 】
 
 景初二年六月、
 倭の女王は大夫難升米等を郡に派遣し、
 天子の朝廷を訪問し、貢献を願い出た。
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司馬 懿 ( しば い ) が公孫淵を殺害したのが、景初二年八月とすればその二ヶ月前に大夫難升米は郡を訪問したことになります。
しかも半年後の景初二年十二月には【 朝見 】が叶えらるという異例の早さです。
 
【 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 】
 
 汝が奉げて献上したる 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 を受取る。
 
女王が献上した品は【 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 】という、常識からすれば【 バカにするな !! 】と突っ返されそうな粗末なものです。
 
これに対して魏から贈られたものは【 親魏倭王 金印紫綬 】並びに【 絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳 】【 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 】といった豪華なものばかりです。

しかも使者を倭に遣わしてまで、送り届けるという念の入れようです。
この文章を理解できない人物に【 魏志倭人伝 】を語る資格は無いでしょう。




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