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072 【一大國】の訳 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 08:18:50 No.2320 【返信】

【一大國】の訳
 
魏志倭人伝に、一大國は【方可三百里】と記載されています。
この【方可三百里】とは、壱岐島(一大國)の大きさを表していると見て間違い無いでしょう。
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そこで【 方可三百里 】の検証を行なって見ましょう。

【從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里】

この文章によれば、ソウル(帯方郡)~泗川(狗邪韓國)までの海岸線の長さは、七千餘里という意味になります。
この間の海岸線の距離は 963kmです。
 
従って倭人伝に記されている一里とは、137mになります。
すると【方可三百里】×【0.137km】=41.1km
壱岐島の面積は、133.81K㎡です。
 
133.81K㎡を円面積とした円周の長さは、41kmになります。
つまり【方可三百里】とは、壱岐島の面積を円面積と見た【円周の距離】を表していると見て良いでしょう。
 
また対馬下島 (對馬國) の面積は、295.49K㎡ですが、この場合の円周の長さは、60.92kmになります。
60.92kmを里数になおせば、444.68里となります。
 
つまり對馬國の【方可四百餘里】の【餘里】とは、四百里を差し引いた【44.68里】と言うことになります。
また韓伝には、韓は【方可四千里】と記されています。
 
韓も倭も、総戸数は約【15萬戸】となっています。
韓も倭も良く似た地形をしていると記載されています。
倭を北九州に比定した場合、その面積は次の様になります。
 
福岡県 4,973.95K㎡
佐賀県 2,439.31K㎡
長崎県 4,094.04K㎡
大分県 6,338.82K㎡
熊本県 7,404.14K㎡
 
合計面積 25,250.26K㎡
円周 563.15km
 
円周 563.15km を里に変換すれば 4,110.62里になります。
つまり北九州の面積は【方可四千里】と同等と見なす事ができます。
全羅北道 8,050K㎡
慶尚南道 10,518K㎡
全羅南道 11,955K㎡

合計 30523K㎡

全羅道と慶尚南道の島々を除けば【方可四千里】となります。
韓の【方可四千里】の範囲は、全羅道+慶尚南道と見て良いでしょう。

『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳 鮮卑 には、遼東から敦煌まで【東西萬二千餘里】と記載されています。
また 『三國志』 魏書 明帝紀 には、洛陽から遼東まで【道路迴阻 四千餘里】と記載されています。

遼東から敦煌まで【 東西萬二千餘里 】の直線距離は、2,755kmです。
また洛陽から遼東まで【道路迴阻、四千餘里】の直線距離は、992kmです。
2,755kmは 992kmの約三倍ですから、おおむね合致します。
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【計其道里 當在會稽東冶之東】
 其の道里 ( 距離 ) を計算すれば (洛陽の宮殿から) 會稽郡東冶の東に在るに當る
 
** 中国語の辞書に【當】の意味は【適合 (等しい)】とあります。
** 【當 (等しい)】道里とは【自郡至女王國萬二千餘里】を指します **
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會稽郡東冶の東とは、上海の南に在る【寧波】付近と思われますが、洛陽から寧波までの直線距離は、985kmです。
 
魏の一里は 434mですが倭人伝の一里は、その三分の一でしかありません。
つまり倭人伝の一里は、140mとなります。
 
【到其北岸狗邪韓國 七千餘里】から計算した一里と、同程度になります。
【方可三百里】を一大國の一辺の長さとした場合、壱岐の面積は (137m×300里)×(137m×300里)=1,689K㎡になります。

壱岐の面積の 10倍に達します。
【方可三百里】を一大國 (壱岐) の面積を正方形と見た、一辺の長さとした説は誤りです。
 




071 【壹】と【 一 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 07:43:22 No.2319 【返信】

【壹】と【 一 】の意味
 
【邪馬壹國】
【一大國】
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古代日本人は【万葉仮名 (借字)】を使用しています。
魏志韓伝あるいは魏志倭人伝の名詞に使用されている漢字を見れば、いわゆる【万葉仮名】を使用している事に気付きます。
 
漢字には【音(音符)】と【意味(義符)】が、その字体に含まれています。
【万葉仮名】とは漢字の【意味】を捨て去り、【音】だけを利用しています。
 
【壹】も【一】も【 い 】あるいは【 いち 】と発音したとすれば、何れか一方で事足りる筈です。
つまり【邪馬壹國】を何故【邪馬一國】と記載しなかったのでしょうか。
 
あるいは【一大國】を何故【壹大國】と記載しなかったのでしょうか。
【邪馬壹國】あるいは【一大國】と記載した理由は、【壹】と【一】の音が異なっていた為と、考えるしかありません。
 
宋の時代以前は、文字の【旁 (つくり)】の部分を【音符】としていたと有ります。
【壹】の 旁 は【豆】です。
従って【登】あるいは【澄】と同様に【と】と発音していたと考えられます。
 
漢字の 90%は【旁】と同音になっていますが、この事は当初【旁】が音符とされていた証拠といえます。
こうした漢字を 「形声文字」 といいます。
  




070 【 伊都國 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 07:28:41 No.2318 【返信】

【 伊都國 】の意味
 
【 東南陸行五百里 到伊都國 】
 東の伊都國まで陸行五百里
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【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】

對馬國 ( 対馬下島 ) から一大國 ( 壱岐 ) の方位は【 南 】と記載されていますが、実際は【 東南 】にあります。
魏志倭人伝の方位は 30~45度、時計方向にズレています。
 
従って【 東南は東 】になります。
【 伊都 】とは【 いつ 】と読み【 委津 】の意味と思われます。
中国の辞書に【 委 】の意味の中に【 末 】あるいは【 端 】とあります。
 
おそらく【 委 】とは【 東夷の末端 ( 極東 )】の意味と思われます。
また古くは【 夷 】と【 怡 】は同じとあります。
【 津 】とは【 多くの人が集まる港 】と言う意味です。
 
前原からは【 伊都=夷津 】に相応しく遺跡遺物が数多く出土しています。
また【 糸島 】や【 前原市怡土 】などからも【 伊都國=福岡県前原 】と考えられます。
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【 郡使往來常所駐 】

 郡使があちこちに出かける際は、必ず停泊する
 中国の辞書に【 駐 】の意味は【 停留在一个地方 ( 一地方に滞在する )】とあります。

伊都國は倭の中継基地としての役目を担っていた様子が伺えます。
 




069 【女王之所都】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 07:20:22 No.2317 【返信】

【女王之所都】の意味
 
【到其北岸狗邪韓國 七千餘里】
【始度一海 千餘里至對馬國】
【又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國】
【又渡一海千餘里 至末盧國】
【東南陸行五百里 到伊都國】
【東南至奴國百里】
【東行至不彌國百里】
【南至投馬國 水行二十日】
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月】
【自郡至女王國萬二千餘里】
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上記のように魏志倭人伝には、郡 ( 帯方郡庁 ) から各國あるいは女王國の住まう都 ( つ ) という邑までの距離、そして移動手段が具体的に記載されています。
 
また郡から各國、あるいは都の方位も詳細に記載されています。
さらに各國の戸数までも記載されていますが、 当時は自給自足の社会ですから、戸数から國の大きさを知る事もできます。
 
考古学から三世紀の家族構成や國の中心地、食料についての資料、特に【 鐵鏃 】の出土から倭の範囲を知ることができます。
 
これ程の情報を手にしながら【 邪馬壹國 】あるいは、女王の住まう邑【都 ( つ )】の位置を認識できないとしたら、よっぽどの歴史音痴と言うほかありません。
 




068 魏志倭人伝の【 市糴 】の意味 ? wajin128 投稿日: 2020年08月19日 07:09:49 No.2316 【返信】

魏志倭人伝の【 市糴 】の意味 ?
 
本州あるいは朝鮮半島から【 阿蘇のピンク石 】と呼ばれる独特の石で造った、弥生期の石棺が出土しています。
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これら石棺は、1トンを越える巨大なものです。
いったい倭人は、こうした巨大な岩石をどうやって輸送したのでしょう。

加藤清正も巨大な岩石を、大阪城築造の際に阿蘇から運び出しています。
当時の人々の輸送手段は船です。
巨大な岩石を輸送する技術が、ポリネシアに今もなお残っています。

それは竹を利用した手法で、岩石に竹を縛り付けて浮力を与え、手漕ぎの船で引っ張って行くといった手法です。
おそらく弥生人もこうした手法で様々な物資を輸送したものと考えられます。

例えば奈良県には纏向遺跡があります。
この纏向遺跡をどうやって造ったか、その謎が解けてきました。

二世紀まで僻地で人の住まなかった地域に、突如大掛かりな建設が始まったのです。
まず最初に造られたのは、幅 10~12mの運河です。
矢板が打ち込まれた見事なものです。

最初に運河を造って物資を運び込むことから、纏向の建設が開始されたようです。
【 阿蘇のピンク石 】も河川を使って運び出されたようです。

白川は阿蘇を源流にしていますが、この川で1トンもの岩石かを輸送する事はできません。
白川の支流を塞いで運河を築き、この運河を使って輸送したものと考えられます。
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【 乘船南北市糴 】
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對馬國、一大國の人々は米を九州から朝鮮半島に輸送し帰りに、鉄やその他を九州に持ち帰ったと考えられます。
こうした交易は、運河を利用して行われたと思われます。
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【 其地無牛馬虎豹羊鵲 】
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倭國には【 牛馬 】がいないと記述されていますが、運河が発達していた為に、【 牛馬 】による輸送を必要としなかったのでしょう。
水路と陸路を同時に利用しようとすれば、橋が必要となります。
橋はヤッカイな代物で、台風や増水によって破損します。
 
破損した橋は水路を塞ぎ、また再建には労力や資金を必要とします。
水路を利用するには、陸路を諦めざるを得ません。
 




067 【 Y染色体 】について wajin128 投稿日: 2020年08月19日 06:48:03 No.2315 【返信】

【 Y染色体 】について
 
ミトコンドリアDNA
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
ミトコンドリアDNAとは、細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNAのこと。
ミトコンドリアが細胞内共生由来であるとする立場から、ミトコンドリアゲノムと呼ぶ場合もある。
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【 Y染色体 】は男性だけが持つ染色体です、従って父方のルーツを調べる事ができます。
【 ミトコンドリアDNA 】は母から女児へ遺伝して行きます。
 
従って【 ミトコンドリアDNA 】の調査は、女性のルーツを探るのに適していますが、前に述べたように男性のルーツは【 Y染色体 】に隠されています。
 
最近わかった事ですが、男女が同じルーツを持たない地域が多く確認されています。
女性が在来型遺伝子を継承しているのに対して、男性は外来型遺伝子を持つ事がわかってきました。
 
つまり現地住民 ( 縄文人 ) の女性と、外からやって来た ( 渡来人 ) 男性とが結ばれて、現在の子孫に到ったと言うことになります。
ここで気になるのは倭人伝に記された各國の戸数です。
 
【 奴國 】【 投馬國 】【 邪馬壹國 】は数万戸の戸数と記されていますが、それ以外の國は数千戸単位になっています。
弥生時代の西日本は【 照葉樹林帯 】に属していますが、【 広葉樹林帯 】と比較して土地はやせていて、生活には適さなかったと思われます。
 
集団稲作が開始される以前の西日本の食糧は【 海産物 】や【 小動物 ( 兎や鼠 )】が主体とだったと思われます。
【 稲作 】も行われていたようですが【 小規模 ( 家庭菜園程度 )】だったようです。
 
紀元前三世紀ころに、朝鮮半島からやって来た人々 ( 渡来堅弥生人 ) は【 集団農業 ( 組織力 )】や【 鉄製工具 】【 文字 】【 宗教 ( 哲学 )】を使って國を開き、たちまち巨大国家を築いて行ったと考えられます。
 
それに該当するのが【 奴國 】【 投馬國 】【 邪馬壹國 】です。
一方【 對馬國 】【 一大國 】【 末盧國 】【 伊都國 】【 不彌國 】等の小國は、在来型の漁業を生業としていたと考えられます。
 
最近の調査によって漁業を主体とした地域の人々は在来系 ( 縄文系 ) に属し、農耕を主体としていた人々は渡来系 ( 弥生人 ) に属している事がわかってきました。
 
今後こうしたDNA解析が進むにつれて、日本人のルーツが解明されるものと期待しています。
私は日本人のルーツを次の様に仮定しています。
 
大陸と日本が陸続きの時代に、大陸から渡って来た人々が縄文文化を築いた、次に【 銅鐸文化 】の人々が弥生文化を築き、漢の時代になって【 銅鏡文化 】の人々が九州に住み着き【 倭人 】と呼ばれるようになった。
 
大陸から渡来した人々は現地女性と交わって、今日の日本人に到ったと思われます。
まず九州に住みついた銅鏡文化の渡来系弥生人 ( 倭人 ) は、やがて東の畿内大和に移り住み、大和政権を築いたと想像します。
 




066 『 隋書 』 東夷傳 倭國 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 06:17:44 No.2314 【返信】

『 隋書 』 東夷傳 倭國
 
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
 608年、
 皇帝 ( 上 ) は文林郎裴清を倭國に使者として遣わす。
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度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
 百濟に達す、
 もし竹島に向かうとすれば[身冉]羅 ( 隠岐 ) 國を南に見ることになる。
 荒々しい大海の中に有る、都斯麻 ( 対馬 ) 國を経由する。
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又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。
 また東の一支 ( 壱岐 ) 國に至る。
 また竹斯 ( 筑紫 ) 國に至る。
 また東の秦王國に至る。
 その人は中国 ( 華 ) と同じく盛 ( 夏 ) んだ。
 この地が東の野蛮 ( 夷州 ) な國とは信じがたい様子だ。
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又經十餘國、達於海岸。
 また十餘國を経由して倭國の海岸に達する。
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自竹斯國以東、皆附庸於倭。
 竹斯國より以東は、皆倭に従う ( 附庸 )。
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倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
 倭王は小德の阿輩臺を遣わす
 従者数百人、式典 ( 儀仗 ) を設け、太鼓や角笛を鳴らして歓迎す。
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後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
 十日後にまた、大禮の哥多毘を遣わす。
 二百余騎を従えて郊外で慰労す。
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既至彼都、其王與清相見、
 ついに彼の都に至る。
 其の王と正式に出会う。
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大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。
 大変に喜びいわく。
 「 我は西の海の向こうの大隋は、礼儀を重んじる國と聞く 」、
 「 故に遣使をもって朝貢す 」。
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我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。
 「 我が國は海の一隅にあり、礼儀をわきなえていない ( 夷人 ) 」、
 「 以って境内で直ちにお会いすることができなかった 」、
 「 無礼をご容赦願いたい 」。
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今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。
 「 故に今、正しき道を知り館を飾る 」、
 「 貴国が大國となられた理由をお聞かせ願いたい 」。
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清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。
 裴世清は答えていわく。
 「 皇帝の徳に二つの事柄がある 」、
 「 蓄えられた徳は、四方の海に流れ出す 」、
 「 以って王は使を遣わし、人を行き来させ、ここに言葉をもって諭す 」。
 既に裴世清は引き上げて館に移動した。
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其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。
 その後、裴世清は人を遣わして、その王にいわく、
 「 朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う 」、
 ここに宴を設け、遣使裴世清をもてなす。
 再び隨に使者を立て裴世清を送り贈物を貢ぐ。
--------------------
此後遂絶。
 この後ついに交流は絶える。
 




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