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101 【 難升米 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月21日 15:30:07 No.2348 【返信】

【 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 】
 景初二年六月。
 倭の女王は大夫の難升米等を遣わし、
 天子への朝獻を求めて、帯方を訪問す。
 
【 太守劉夏遣吏將送詣京都 】
 帯方太守の劉夏は官吏を遣わし、
 将軍を京都 ( 洛陽 ) に送り届ける。
 
中国語の【 難升米 】の【 難 】の意味は【 避難 】です。
日本語に訳せば【 難を避ける 】と言う意味になります。
また【 升 】は【 将軍 】のことです。
 
『 後漢書 』
【 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見 】
 安帝永初元年。
 倭國王の帥 ( 最高軍事指揮官 ) を担う升 ( 将軍 ) は、
 生口百六十人を献上して朝廷への謁見を請い願う。
 
【 帥升 】の【 升 】も同様です。
【 吏將送 ( 官吏は将を送る )】からも明らかです。
【 難升米 】の【 米 】を中国では【 ミ 】と発音します。
 
たとえば【 タタミ ( 畳 )】の【 ミ 】は【 米 】です。
【 卑彌呼 】の【 彌 】を韓国では【 ミ 】と発音しますが【 米 】のことです。
 
本来【 難升米 】の【 米 】は【 彌 】なのでしょうが、中国語に合せて【 米 】に変えたものと思われます。
【 難升米 】とは【 難を避ける将軍 】で、役職名が【 米 ( 彌 )】ということになります。
 
【 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授 】
【 遣塞曹掾史張政等因齎詔書 黄幢 拜假難升米為檄告諭之 】
 
【 難升米 】は【 黄幢 】を二度賜っています。
【 黄幢 】を賜ることの出来る人物は、魏の正規兵と認められた最高指揮官だけです。
つまり【 難升米 】は魏の同盟國倭軍の最高指揮官ということになります。
 




100 宋書倭国伝【 武 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月21日 15:02:54 No.2347 【返信】

【 興死、弟武立 】
【 自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 】
 
 興が死に、弟の武が立つ。
 自ら 「 使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王 」 を名乗る。
 
【 順帝昇明二年 ( 478年 )】
【 遣使上表曰 】
【 封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處 】
【 東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰 】
--------------------
興が死に弟の武が王位を継承し【 順帝昇明二年 ( 478年 )】に使者を遣わし上表すとあります。
その上表文によれば先祖代々甲冑を身に付け【 東征毛人五十國 】【 西服衆夷六十六國 】【 渡平海北九十五國 】を戦い取るとあります。
 
この文章で気付くのは【 南 】の記載がないことです。
 
『 後漢書 』 倭人伝
【 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也 】
 
倭國王は【 極南界 ( 最南端 )】に住まっていたとあります。
つまり【 南 】に倭王は居たのですから、当然【 南 】を攻めることはありません。
 
【 渡平海北九十五國 】の意味は【 倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王 】の文章から見て、朝鮮半島を指すと思われます。
 
すると【 弟武 】は九州で治めていたことになります。
 




099 卑弥呼の【鬼道】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月21日 14:39:51 No.2346 【返信】

 
『 三国志 』 韓伝
【 常以五月下種訖、祭鬼神、羣聚歌舞飮酒晝夜無休 】
 毎年五月には種をまき鬼神を祭る。
 人々は昼夜休む事無く酒を飲み、そして歌い舞う。
 
【 其舞數十人、倶起相隨踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞 】
 舞いは数十人が一つなってリズムに合せて、大地を高くあるいは低く足を踏みならす。
 手足の動作をあわせて踊る姿は、鐸の舞とよく似ている。
 
【 十月農功畢亦復如之。信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君 】
 収穫をおえると十月に、再び鬼神祭を行う。
 人々は祖先の霊魂を信じている。
 各国や邑では天神を祭る主催者を立てるが、この者の名をを天君という。
 
【 又諸國各有別邑、名之爲蘇塗 】
 また諸國および各邑では、異なる蘇塗を建てる。
 
【 立大木、縣鈴鼓、事鬼神 】
 大きな木を立てて鈴や鼓を懸け、鬼神を向かえる。

【 諸亡逃至其中、皆不還之、 】
 諸々の亡命者はその中に逃げ込み、皆ここから帰らず。
 
【 好作賊、其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異 】
 皆、好んで賊となる。
 その蘇塗を立てる儀式は浮屠 ( 仏陀 ) の教えに似ている。
 所によって、善悪の行いには異なりがある。
 
【 其北方近郡諸国差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚 】
 その北方近郷の諸国は、礼俗の習熟に格差がある。
 遠くに住む人々は囚人や奴婢の集団のように扱われている。
 
北方に住む人々は奴隷のような過酷な扱いを受けていて、そこで蘇塗に逃げ込んだものと思われます。
おそらく北方の人々とは、万里の長城建設に連れてこられた人々を指すと考えられます。
【 辰韓 】とは【 秦國 】の亡命者が建設した国家と言われています。
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おそらく卑彌呼が【 事 】としていた【 鬼道 】とは、祖先の霊を祀ることだったと思われます。
 
【 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 】
【 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 】
 
韓伝には【 各國邑 】には、天神を祭る主宰を立てた ( 共立した ) とあります。
卑彌呼は【 故鄭重賜汝好物也 】として【 銅鏡百枚 】を賜っています。
この【 銅鏡百枚 】は、邪馬壹國の天君達に配布するために賜った品と想像します。
 
おそらく卑彌呼を王に【 共立 】したのは、この天君たちだったと思われます。




098 【 東西 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月20日 04:48:01 No.2345 【返信】

 
【 韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里 】
 
 韓は帯方の南在り。
 東西は海を以って限りと為す。
 南の倭人と接す。
 韓は方可四千里。
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例えば ( 韓の東西 ) を ( 日本の東西 ) に置き換えたら【 東日本も西日本も ( 日本 ) は全て 】と言う意味になります。
-------
【 馬韓在西 】
 
 馬韓は西に在り
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【 辰韓在馬韓之東 】
 
 辰韓は馬韓の東に在り
--------------------
上の二つの文章を繋げると【 東の辰韓+西の馬韓=全韓 】になります。
( 東西は海を以って限りと為す=陸地は韓を以って限りと為す )と言う意味になります。
--------------------
【 接 】とは【 接触する ( 出会う )】と言う意味です。
たとえば中国で、電話で相手と会話することを【 接電話 】と記載します。
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魏志倭人伝に【 乘船南北市糴 】と記載されていますが、これを訳すと【 ( 對馬國の人々は ) 船に乗り南北で米の交易を行う 】と言う意味です。
 
韓の【 東西 】を、韓の【 東海岸、西海岸 】と同様に訳むすと、【 乘船南北市糴 】の訳は【 對馬國の北海岸と南海岸で米の交易を行う 】という意味になってしまいます。
 
古田氏のように、韓の【 東西 】を、韓の【 東海岸 】【 西海岸 】と訳すのは誤りです。
彼は中国語の文章を訳すだけの能力はありません。
 




097 【 奴國 】の訳 wajin128 投稿日: 2020年08月20日 04:33:41 No.2344 【返信】

 
【 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 】
 
 東の奴國まで百里。
 官を兕馬觚 副を卑奴母離と言う。
 二萬餘戸の家有る。
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【 伊都國 】から【 奴國 】までは、東へ百里と記載されています。
【 伊都國 】は福岡県前原市に比定されていますが、私は【 伊都國 】の基点は三雲付近と考えています。
 
三雲から東へ百里 ( 約 15km ) 行った地点とは、大濠公園付近でしょう。
【 東南至奴國 】の地点とは【 奴國 】の中心地を指します。
【 奴國 】には【 二萬餘戸 】の人々が住むとありますが、【 二萬餘戸 】の人々は農業で生計を立てていたはずです。
 
では【 二萬餘戸 】の人々が必要とする耕作地はどの程度の面積でしょう。
仮に一戸あたり 5人が居住していたとすれば、消費カロリーから考えて一戸あたり 70m×70mの耕作地は必要でしょう。
 
98k㎡=0.07km×0.07km×20,000戸
 
つまり【 二萬餘戸 】の耕作面積 ( 98k㎡ ) は、福岡平野全域になります。
従って【 奴國 】は福岡平野全域に比定する事になります。
【 三雲 ( 伊都國 )】から広い福岡平野に使者が向かった距離とは、そして方位とは奴國の中心地を指します。
 
中心地には奴國の【 官邸 】が在ったはずです。
 




096 【 都 ( みやこ )】は無い wajin128 投稿日: 2020年08月20日 04:21:44 No.2343 【返信】

 
【 邪馬壹國 女王之所都 】
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上の文章の【 都 】を 古田 氏は【 みやこ 】と訳していますが、三世紀の倭國に【 都( みやこ )】は存在しません。
【 韓の陸行説 】【 島半周説 】等、頓珍漢な訳も無知や妄想がなせるインチキ訳です。
 
考古学や歴史学を学んでいれば、三世紀の北九州に【 都( みやこ )】が存在しない事は、簡単に理解できたはずです。
もしも北九州に【 都( みやこ )】が存在したと言うなら、古代史ファンに証明して見せたらよいでしょう。
 
『隋書』東夷傳
【 其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也 】
 
 其の人は中國 ( 華 ) のように繁栄 ( 夏 ) している。
 ここが東の卑しい國 ( 夷州 ) とは信じがたい。
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【 字源 】 夏は大きな面をつけて踊る人の姿から生まれた象形文字。
やがて人の大きさを表わすようになり、引いては勢いが盛んな意味となり、春秋期には季節のひとつを表すようになった
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【 經都斯麻國 】

 都斯麻 ( つしま ) 國を経た。

** 【 都 】の読みは【 つ 】です。
** 【 伊都國 】の【 伊都 】も読みは【 いつ 】と思われます。
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もしも邪馬壹國に【 都( みやこ )】が存在したとすれば、上記の文章が見られたはずです。
 


095 【 都 】の音 wajin128 投稿日: 2020年08月20日 04:12:15 No.2342 【返信】

 
【 都 】をピンイン ( 拼音 ) では【 dou1 ( ツゥ )】と発音します。
 
** ピンインの [ d ] の音には濁りがありません、したがって日本語のローマ字では [ t ] になります。
日本語の【 つ 】と良く似た音です。
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『 隋書イ妥国伝 』
【 經都斯麻國 迥在大海中 】

 遙か大海の中に在る対馬を通過する

** 都斯麻 ( つしま )
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【 伊都 】の音も、おそらくは【 いつ ( 津 )】です。
【 邪馬壹國 の 都 ( つ )】は、熊本県菊池郡大津町と思われます。
 


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