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投稿者:wajin128
『宋書』倭國伝 ① 倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王 自昔祖禰、躬擐甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿   順帝の昇明2年(478年)に、武は宋に遣使して上表文を奉じています。 倭國王の興が死亡し、弟の武が後を継いだ。 武は自ら 「使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事安東大將軍倭國王」 と名乗った。   祖先自ら甲冑を身にまとい、山や川を駆け巡り落ち着いて休む暇も無く、東の毛人五十五国を征服、西の衆夷六十六国を屈服、海を渡って北の九十五国を平定、王道によって平安をもたらし、土地を開拓し、畿(都)の範囲を広げました。   朝宗=古代諸侯於春天朝見天子(古代諸候は春に天子に謁見します) ------------------- 『宋書』倭國伝 ② 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無替前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王 毎年、間違い無く(木の葉が毎年増すように)年賀のご挨拶に朝廷を訪れようとしていました。 愚かなる臣下といえども、すべてを末裔に引き継ぎ統率してきました。  船舶を準備して崇拝する皇帝を訪れようとしましたが、高句麗は非道にも百済を欲して劉氏を強奪し隷属させました。 このために航路をふさがれ良い風が吹いても、これを逃してしまい、思うように来る事ができませんでした。 いまは亡き臣下の済は、航路を妨げる敵に怒り激しく抗議しました。突然に父兄を亡くし、喪に服す間は兵を動かす事もできませんでした。しかし今よりは、父兄の志を継いで甲冑を身につけ、戦いに臨みたいと思います。開府儀同三司を自ら名乗り強敵を打ち破って、勝利を治めて功績と為し、皇帝に忠節を尽くしたく思います。 皇帝の詔により、武は使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の爵位を与えられました。   倭王「武」が機内大和で治めていたとすれば、「海を渡って北の九十五国を平定」が意味不明の文章になります。 この文章を成立させるには、武は九州で治めていたと考えるしかありません。    
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