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新・元伊勢(内宮)移動と箸墓の築造年代 管理人 投稿日: 2024年02月13日 16:46:50 No.373 【返信】

先日、元伊勢のうち外宮を結んだラインに続き、箸墓古墳に関する拠点を結んだラインを作成し、特に箸墓が笠縫邑(笠山荒神宮)や三輪山や長谷山口坐神社、大和神社等の崇神朝の諸拠点が関わっていることを明らかにしましたが、今回はそれらの結果をもとにして、今度は元伊勢のうち内宮の移動拠点を結んだラインを作成しなおしてみました。

図1がそのライン図となりますが、以前も指摘したように、元伊勢籠神社の奥宮とされる若狭湾の冠島(弥生時代の海底神殿⇒701年の地震で沈む)を測量の起点として意識され続けていたことがわかります。

今回、その内宮の移動拠点(滞在年数)とその推定地の一覧は下記のとおりです。

■豊鍬入姫命巡歴
笠縫邑(33年):笠山荒神宮
太神官社:吉志部神社
笠縫邑(33年:笠山荒神宮
吉佐宮(4年):真名井神社(籠神社摂社)
伊豆加志本宮(8年):笠縫邑?あるいは長谷山口坐神社
奈久佐浜宮(3年):濱宮
名方浜宮(4年):濱宮
弥和乃御室嶺上宮(2年):三輪山

■倭姫命巡歴
宇多秋宮(4年):阿紀神社
佐佐波多宮:御杖神社
隠市守宮(2年):宇流冨志禰神社
穴穂宮(4年):神戸神社
敢都美恵宮(2年):敢國神社
甲可日雲宮(4年):日雲神社
坂田宮(2年):坂田神明宮
伊久良河宮(4年):宇波刀神社
中島宮:真清田神社境外末社
桑名野代宮(4年)尾野神社
奈其波志忍山宮:布気皇館太神社
阿野国(未詳)
阿佐加(4年):阿射加神社
飯野高宮(高丘宮)(4年):神戸神館神明社
佐佐牟江宮:竹佐々夫江神社
伊蘓宮:伊雑宮
大河之滝原之国:瀧原宮(皇大神宮別宮)
矢田宮:口矢田ノ森
家田々上宮:神宮神田南の忌鍬山山頂(西ノ森)
大土御祖神社(皇大神宮摂社)
奈尾之根宮:那自売神社(皇大神宮末社)
五十鈴宮:皇大神宮


ここで、宮中から崇神5年の疫病災害を経て、6年に内宮のアマテラス大神を笠縫邑へ豊鍬入姫に託して移動させたことに始まり、その豊鍬入姫巡行のルートとしては、笠縫邑(33年):笠山荒神宮に宮中から移動したのち33年は笠縫邑におり、その後、一時期だけ摂津の吉志部神社方面に移動して、ふたたび笠縫邑へと戻り33年そこに居座ったことになっています。

その後、吉佐宮(4年)へ移動することとなりますが、これは真名井神社(籠神社摂社)と推定し、その後、再び伊豆加志本宮(8年):笠縫邑方面へと戻りますが、先の箸墓ラインにも見えてきた長谷山口坐神社は、図のように冠島⇔笠山荒神社ラインの延長線上にあることにも留意しておくべきでしょう。

その後、紀伊の奈久佐浜宮(3年):濱宮に向かい、その後、名方浜宮(4年)へと向かいますが、双方紀伊の濱宮周辺と予想します。

この濱宮は、図のように籠神社の真南に位置しており、また濱宮⇔笠山荒神社⇔熱田神宮への東35度偏角のラインを考慮すると、まず池上曽根遺跡の真北にあたる冠島に最初の弥生時代後期の信仰拠点があり、そこから、その後のある時期に奈良の宮中や笠縫邑方面へと移動する契機があり、その後、元伊勢の籠神社・熱田神宮・濱宮の三拠点が形成され、最後に籠神社⇔吉志部神社への西70度偏角のラインとそれに直交する吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮への東20度偏角のラインとが造られていく過程で、日雲神社等、豊鍬入姫の巡行を受け継いだ倭姫の巡行拠点が見えてくることになります。

豊鍬入姫は崇神天皇と紀国造の荒河戸畔の娘の子であり、図のように紀伊が拠点としてみえてくることとも関係しそうですが、またそれを引き継いだ倭姫は次代の垂仁天皇の娘とされ、年代が異なってきます。

具体的には豊鍬入姫は、崇神(在位68年)のうち、概ね66年前後を笠縫邑方面で過ごしたことになり。その後、垂仁朝になり、4年を若狭湾の籠神社へ、また8年を笠縫邑で過ごした後、7年を紀伊方面で過ごし、晩年?の2年をまた三輪山山頂で過ごしたことになるでしょう。

その後、倭姫は三輪山で受け継いで、垂仁25年に伊勢内宮へ祀るまで各地を移動したことになっていますが、年数は垂仁25年よりもっと多く、雄略22年(478年頃)まで移動していたことになるでしょう。

その倭姫の移動経路をみていくと、図のように、まず先の冠島⇔笠山荒神社⇔長谷山口神社ラインの延長線上にある宇多秋宮(阿紀神社)へと向かい、その後、図のように、ひとつ東にずれた冠島⇔御杖神社ラインへの西60度偏角のラインへと移動し、そのライン上にあったであろう隠市守宮:宇流冨志禰神社を経て、さらに東の穴穂宮:神戸神社を経て、その東にある冠島⇔日雲神社(甲可日雲宮)⇔敢國神社(敢都美恵宮)への西55度偏角のライン上へと拠点を移動させていきます。

その後、図のように、長谷山口坐神社⇔日雲神社への東70度偏角ラインの延長線上にある滋賀の坂田神明社(坂田宮)へと北上していきますが、このラインと熱田神宮⇔坂田神明社への西20度偏角のラインとが直交しています。

この時期に何らかの契機で伊賀方面から滋賀・美濃方面へと拠点を移動させる必要があったようにおもわれますが、その際に重要となってくるのが、熱田神宮で、倭姫が伊勢で渡したとされるヤマトタケルの草薙剣が最終的に奉納されたのがその熱田神宮となる点に留意しておくべきでしょう。

その後、岐阜の宇波刀神社(伊久良河宮)を経て、真清田神社境外末社(中島宮)へと東遷していきますが、図のように、坂田明神宮⇔宇波刀神社が東西同緯度ラインとなり、また冠島⇔宇波刀神社⇔真清田神社への西20度偏角のラインも想定できそうです。

その後は、先の吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮ライン上にある尾張の熱田神宮の西の野志里神社(桑名野代宮)、その南の奈其波志忍山宮(布気皇館太神社)、阿野国(尾野神社?)を経て、三重・伊勢方面へと移動していったように見受けられます。

その布気皇館太神社については、冠島⇔布気皇館太神社への西45度偏角のラインと、濱宮⇔笠山荒神社⇔布気皇館太神社⇔熱田神宮への東35度偏角のライン上の拠点であるとともに、笠山荒神社⇔真清田神社への東45度偏角のラインと前者のラインとが直交しています。

そして、その後、三重・伊勢方面へと南下していきますが、図のように、まず阿射加神社(阿佐加)は、濱宮⇔御杖神社(佐佐波多宮)⇔阿射加神社への東20度偏角のライン上にあり、それに続く、神戸神館神明社(飯野高宮(高丘宮))と、次の竹佐々夫江神社(佐佐牟江宮)は、御杖神社⇔神戸神館神明社⇔竹佐々夫江神社への東10度偏角のラインを構成しています。

それに続く伊蘓宮は伊雑宮と見なし、その西の瀧原宮(大河之滝原之国)と考えると、図のように、先の真清田神社の真南に伊雑宮が位置し、その真西に瀧原宮が、その瀧原宮と熱田神宮を結ぶ東60度偏角のライン上に先の神戸神館神明社が位置してくることも判ります。

またその瀧原宮は、図のように、冠島⇔日雲神社⇔敢國神社⇔瀧原宮への西60度偏角のライン上に位置することからみても、伊勢方面へと移動していく際の重要拠点であったことは間違いないでしょう。

最終的に、冠島⇔伊雑宮への西50度偏角のライン上に、図のように伊勢外宮と伊勢内宮が位置してくるのですが、その前に矢田宮、家田々上宮神宮、大土御祖神社、奈尾之根宮等を経て、伊勢内宮へと落ちづいたようにも見受けられます。

倭姫が伊勢方面の竹佐々夫江神社へと移動するまでには、4-?(4)-2-4-2-4-2-4-?(2)-4-?(2)-?(4)-4-4-?(4)年かかっており、?の部分を()で推測したように、前半は繰り返されている2年と4年の周期に合わせて、後半は4年になったとすると、合計で50年ほどかかったことになるでしょう。

そこから、さらに年数のわからない伊蘓宮から7つの拠点を経ますが、ここも4年周期とすると28年かかったとして、倭姫の巡行は78年、つまり80年前後かかったことになるでしょうか。

先の豊鍬入姫の巡行が87年ですから、2人合計で165年移動し続けたことになります。

この内宮の巡行が開始された崇神6年を、以前予想したように、崇神没年干支から258年とするか、318年とするかで、それぞれ、423年もしくは、483年となるでしょう。

ここで、先日の元伊勢の外宮が伊勢へと落ち着いた年代が、雄略22年で478年頃となりますから、この年代と後者の483年とが近いことに気づきます。

仮に以前推理したように、内宮と外宮とがセットで近い位置に移動し続けたとすると、伊勢へと双方が最後に落ち着いた年代も双方近い年代となるはずで、その点で雄略22年が内宮の最後に落ち着いた年代とするならば、結果として、崇神朝は310年代とのことになりそうです。

そして、崇神朝の拠点と箸墓古墳とが先日の方位ライン分析にあるように、密接に接合していることを考慮すれば、箸墓の築造年代も、310年前後とのことになるかもしれません。

それに先行するであろう纒向遺跡や纏向古墳群(纒向型前方後円墳)の年代も、3世紀後半から末期にかけてである可能性が見えてきます。

その件については、図2の笠山荒神社⇔黒塚古墳の東西同緯度ラインの存在があり、すなわち、笠縫邑の位置決定において、奈良最古級の前方後円墳である黒塚古墳があったことを示しています。

その黒塚古墳については、図のように、黒塚古墳⇔大和神社⇔垂仁陵への西65度偏角のラインがあり、その垂仁陵は開化天皇の率川宮(率川神社)と東西同緯度ラインとなるので、崇神の前代の開化天皇陵であった可能性も出てくるでしょう。

その率川神社⇔大和神社⇔箸墓古墳への西85度偏角のラインの存在は以前もお知らせしたとおりですが、また垂仁陵⇔豊日神社⇔笠山荒神社への西50度偏角のラインもあり、このラインと、黒塚古墳⇔豊日神社⇔伊勢遺跡への東75度偏角のラインとが、豊日神社で交差していることにも気づきます。

このラインについては、以前お知らせした魏年号銘鏡を出土した古墳を結んだ図3のラインのように、纒向型前方後円墳である分校マエ山古墳⇔伊勢遺跡⇔豊日神社⇔黒塚古墳へのラインと同じです。

ここから、予想できることとして、魏年号銘鏡(初期の三角縁神獣鏡含む)の年号(235年ー240年)以降のある時期に、方墳(前方後方墳)を主体として図3のラインが構築され、その末期に三角縁神獣鏡の第Ⅲ期までの鏡を33枚出土した黒塚古墳が造営され、その前後で笠縫邑(笠山荒神社)が出現することとなったのでしょう。

その年代は、被葬者の死後に古墳が造営されたとすると、その魏年号銘の年代より、20年~後の260~70年代前後で、女王・台与の年代となるかもしれません。

その時期の末期、年代からいくと孝元天皇から開化天皇の時代にかけて纒向型前方後円墳や纒向遺跡が造営され、そのころの都であった滋賀の伊勢遺跡方面から、奈良の纒向方面へと南下していく勢力がいて、それが物部氏の祖・ニギハヤヒと妻トビ(トミ)≒豊・台与に象徴される集団にあたるでしょう。

その孝元・開化天皇の時代は、物部系の伊香色謎命(イカガシコメ)が妃として両方の天皇に嫁ぐ(略奪婚?)時代となり。先の開化天皇の率川宮やその西の垂仁陵(本来の開化陵か?)が造営されていったことになるでしょうか。

その後、崇神朝となり、南下して纒向・三輪方面へと向かうことになり、その崇神5年に疫病がおきて6年に今回の豊鍬入姫による笠縫邑への内宮移動が始まるわけです。

その年代を310年代とすると、前述の開化朝は270年~310年代となり、図2のように、滋賀から奈良、纒向へと都が移動していく過程にあったと言えるでしょう。

その後、310年代前後のある時期に箸墓古墳が造営され、それに続いて、西殿塚・桜井茶臼山古墳なども造営していったことになります。年代的には320~330年頃となるでしょうか。

その後、崇神朝から垂仁朝へと以降して、佐紀盾列古墳群が、奈良方面へと構築されていくのが、330年~360年前後ではないでしょうか。このころに、先日お知らせした現在の崇神陵⇔巣山古墳(馬見古墳群)ラインに見えるような古墳が構築されていき、最終的に4世紀後半から末期にかけて応神・仁徳陵といった河内王朝にみられるような巨大古墳を造営する集団の時代へと移行していきます。

その崇神朝を310年頃であることを証明するには、やはり崇神5年の疫病災害に注目する必要がありますが、人口の大半が失われる疫病となるので、隣国の朝鮮や中国でも同様な疫病記載が見えてくる可能性が高いでしょう。

そこで、まず朝鮮のその当時の疫病記載をみていくと、百済の比流王(在位:304年 - 344年)の9年に下記の記載があります。

九年,春二月,發使巡問百姓疾苦,其鰥寡孤獨不能自存者,賜穀人三石。夏四月,謁東明廟。拜解仇為兵官佐平。

313年頃の出来事となりますが、疾苦として疫病が流行り、とり残された寡婦や子供が多数いたことがわかります。高い死亡率の疫病災害とみてよいでしょう。

次にお隣の新羅についてみていくと、基臨尼師今(在位:298年 - 310年)の末年に下記の記載があります。

十三年,夏五月,王寢疾彌留,赦內外獄囚。六月,王薨。

310年頃に疾病で死去したことになりますが、国全体への疫病災害であったかどうかは不明です。

同じく高句麗についてみていくと、美川王(在位:300年 - 331年)の時代となり、313年に楽浪郡、314年に帯方郡が高句麗によって滅ぼされることとなります。疫病記載はないようです。

同じく中国では西晋の懐帝(307年1月11日 - 313年3月14日)、愍帝(313年6月7日 - 316年12月11日)あたりが該当しますが、疾病記載は見つからない感じですが、末期の混乱した時代となるので、細かい状況記載が漏れている可能性もありそうです。

そうすると、上記の百済の比流王9年つまり313年頃の疫病記載が、崇神5年(315年?)の疫病記載と重なりそうですが、なお十分な証明とは言えないので、疫病記載以外の他の検証も進めていく必要がありそうです。




新・箸墓ライン 管理人 投稿日: 2024年02月06日 00:55:59 No.372 【返信】

先日、元伊勢を結ぶ方位ラインを作成したおりに、崇神紀の伊勢関連伝承について触れましたが、特に邪馬台国畿内説でかつて卑弥呼の墓とみなされた箸墓古墳について、その関連拠点を結んでみると新たに明らかになってくることがありましたので、お知らせします。

まず、箸墓については、ヤマトトヒモモソヒメの墓とされており、三輪山の大物主との伝承がよく知られているところですが、図のように、箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社(磯城か?)への西10度偏角のラインがみてとれます。

この長谷山口坐神社については、垂仁朝に倭姫命を御杖として、「磯城厳樫の本」に約8年間天照大神を祀った時に随神としてこの地に手力雄神を、また北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座したとされます。

ここで、磯城厳樫の本とあるように、この地域を磯城として、アマテラスつまり内宮の拠点としていた可能性があるでしょう。特に箸墓と内宮との関係でいくと、以前お知らせした図3のように、浦間茶臼山古墳⇔箸墓⇔伊勢内宮へ西10度偏角のラインがあり、浦間茶臼山古墳は、図にみえる杵ガ森古墳等とともに、箸墓と同時代の築造との見方がなされています。

また、箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社への東25度偏角のラインがありますが、この笠山荒神社については、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた笠縫邑の候補地として知られています。

その笠山荒神社については、初期の前方後円墳やその元となったであろう弥生時代末期の高地性集落(烽火台)ににた左右不均等な前方部をもつ墳丘が確認できます。

その際に、同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされますが、図のように、大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインがあることがわかります。

この西殿塚古墳は、箸墓に続く大型前方後円墳で、図のように箸墓⇔西殿塚古墳への東75度偏角のラインと、先の箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社へのラインとが直交しています。

そして、箸墓⇔桜井茶臼山古墳への西65度偏角のラインと、その箸墓⇔西殿塚古墳ラインは同距離となり、この西殿塚、桜井茶臼山の二つの古墳がセット関係で箸墓を起点として構築された可能性を示しています。

その桜井茶臼山⇔長谷山口坐神社への東25度偏角のラインは、箸墓⇔桜井茶臼山古墳ラインと直交しており、同時に先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社へのラインと平行になります。

桜井茶臼山古墳については、207mの前方後円墳で、やはり西殿塚同様に、箸墓に続く年代の古墳とされ、多数の三角縁神獣鏡され、神武天皇等の大王墓との見方もあるようですが、ここで図のように、この桜井茶臼山古墳⇔陶荒田神社との東西同緯度ライン上に位置していることに注目すべきでしょう。

この陶荒田神社は、崇神8年、崇神天皇により陶邑の大田の森に住む太田田根子が神主として選ばれ。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社とされています。

この太田田根子については、崇神朝の当時、大規模な疫病がはやり、国土が荒廃したある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げ、天皇が、茅渟県陶邑に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせたことによります。

なお、図2のように、陶荒田神社⇔孝霊天皇陵への東30度偏角のラインと、桜井茶臼山古墳⇔孝霊天皇陵への西30度偏角のラインとがあり、孝霊天皇陵を中点として、位置づけられていたこともわかります。

この孝霊天皇陵については、以前お知らせしたように、孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向矢塚古墳⇔三輪山への西20度偏角のラインに見えるように、箸墓より古い纏向型前方後円墳との関わりがあるとともに、同じく以前お知らせしたように、欠史天皇陵が、この孝霊天皇陵を起点として構築されていったことを考慮しておく必要があるでしょう。

同様に、この孝霊天皇陵については、図のように、孝霊陵⇔片塩浮孔宮(安寧天皇宮)への西60度偏角のラインがあり、このラインと先の孝霊陵⇔陶荒田神社ラインとが直交しています。

同じく、以前、箸墓規格の巨大前方後円墳状地形を想定した桜ヶ丘銅鐸出土地⇔天王寺公園⇔孝霊陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔三輪山への西20度偏角のラインがあり、このラインと先の片塩浮穴宮⇔黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)⇔率川神社(開化天皇宮)への東70度偏角のラインとが直交しています。

その天王寺公園古墳状地形⇔大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインもあり、弥生時代後期に、播磨の桜ヶ丘銅鐸を残した吉備系集団が東遷して畿内にはいっていく過程で、この天王寺付近を経て、黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)へと三輪山を目標にして進出していったことが予想できるでしょう。

そのことは孝霊天皇と息子の吉備津彦、その吉備の桃に関する伝承とが接点をもってくることもあり、吉備とその纒向遺跡にみえる桃のの種に関する大陸系の避邪観念、弧帯紋の流れ等とも関係してくるでしょう。

ただ、箸墓⇔纒向遺跡⇔大和神社⇔率川宮への西85度偏角のラインにみえるように、纒向遺跡は崇神朝以降のある時期の宮地だった可能性もありそうです。

関連して、欠史天皇陵である孝元天皇陵⇔三輪山⇔笠山荒神社への東45度偏角のラインもあり、概して欠史天皇陵や宮地が、実在のモデルを参考にしていることが明らかにしうるのです。

あと、大和神社⇔纒向山⇔長谷山口坐神社への西35度偏角のライン、同じく大和神社⇔崇神陵⇔穴師兵主神社⇔三輪山への西55度偏角のラインもあり、大和神社が重要拠点であったこともわかりますが、先の大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社ラインを考慮すると、西殿塚古墳の被葬者は、大和神社に関わる人物で、大和神社とかかわる渟名城入姫命だとすると、この渟名城入姫命は崇神天皇の子であるから、西殿塚古墳よりも古い箸墓等が、本来の崇神陵となってしまうでしょう。

ただ、箸墓は笠山荒神社方向へ古墳軸を向けており、先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社ラインにみえるように、笠山荒神社、つまり笠縫邑(最初の内宮遷宮地)の伝承と関わる人物が埋葬されている可能性があり、そうすると、アマテラス神とともに笠縫邑に向かった崇神の娘の豊鍬入姫命との関わりがまず想起しうるでしょう。

ただし、箸墓はヤマトトヒモモソヒメの墓とされていますが、ヤマト・トビ・モモソヒメは、以前の考察では、ニギハヤヒの妻トビ・トミに関連する存在で、後述する豊鍬入媛とも同一人物と思われます。

なお桜井茶臼山古墳については、図のように孝霊天皇陵と関わっており、また西の大田田根子と関わる陶荒田神社と関係する点で、大田田根子等との関わりも予想できますが、太田の字名が残っているのは、箸墓古墳の北隣の纒向遺跡周辺であり、この地にいた大田田根子等が、祭祀者として崇神朝に陶荒田神社方面へと移動させられた可能性もあるでしょう。

その箸墓古墳は箸中に位置しますが、その西隣りに豊前・豊田の字名が残っており、豊鍬入媛との関係をうかがわせます。

つまり、北隣の太田の大田田根子とともに、豊鍬入媛とが、崇神朝にこの周辺で祭祀を行っており、そこから笠縫邑や陶邑方面へと派遣された構造が浮かび上がってきます。

その崇神朝当時の宮地としては、現在比定されている崇神の磯城瑞籬宮跡地は、以前推定したように、箸墓サイズの巨大前方後円墳の後円部にあり、宮地であったところに、陵墓を造営した可能性、あるいは宮地は別に周辺に存在していたことも想定しておくべきでしょう。

その件は図1のように、箸墓⇔磯城瑞籬宮への西50度偏角のラインと、磯城瑞籬宮⇔三輪山への東40度偏角のラインとが直交していたり、穴師兵主神社⇔磯城瑞籬宮への東80度偏角のラインと、箸墓⇔三輪山ラインとが直交していること、磯城瑞籬宮⇔櫛山古墳⇔西殿塚古墳⇔石上神宮西部への西87度偏角のラインに見られるように、箸墓・西殿塚古墳と磯城瑞籬宮との関係性が浮かび上がってくる点で、箸墓とその被葬者は崇神朝の人物であった可能性が高まります。

次代の垂仁天皇の纒向珠城宮については、珠城宮古墳群(もともとは巨大古墳状地形)周辺となり、纒向遺跡東方となるので、纒向遺跡も垂仁の時代まで用いられていた可能性があるでしょう。

外戚・物部氏系の血が濃い崇神系統と、その後の垂仁系統には相違があり、垂仁天皇は九州・日向方面からの進出者(神武・オオヒコに象徴される)で、其れ以前のニギハヤヒに例えられる物部系の集団と区別する必要があります。

年代的には4世紀前半に畿内に進出した南方航海民の影響を受けた集団を想定しますが、其れ以前のニギハヤヒと妻トビ=ヤマト・トビ・モモソヒメとで勢力争いがあったはずです。

ニギハヤヒ・崇神系統は三輪山を中心として測量をしているのに対し、神武・垂仁系統は初瀬山を中心とした測量をしており、現在の崇神陵は、図3のように、4世紀末の巣山古墳⇔崇神陵の東西ライン、崇神陵⇔耳成山⇔神武陵への東50度偏角のライン、これと直交する耳成山⇔巣山古墳への西40度偏角のラインを考慮すると4世紀代の古墳と考えるべきで、先の箸墓や三輪山・磯城方面に関係する崇神の陵墓とは時代的にも考えにくく、むしろ垂仁天皇の陵墓のほうは自然でしょう。垂仁=神武との見方に従えばさらにその可能性が高まります。

また、その穴師兵主神社については、その東北に前述の左右不均等の前方部をもつ前方後円墳状地形があり、弥生末期のそれと考えると、穴師・兵主などにかかわる後漢末期の渡来系集団の影響を受けていたことも想定しうることで、纒向日代宮との関わりとともに、考えを進めていく必要がありそうです。

以上みてきたように、箸墓は崇神紀およびその記載にある各種祭祀拠点と密接に関係づけられており、このことは、崇神紀そのものの記載の信o性が高いことを示すとともに、実在した王朝をモデルとしてこれらの崇神紀の説話等が構成されていったと考えうるでしょう。

その崇神紀の年代が250年頃か、1干支降って310年頃なのかについては、なお断定できないのですが、箸墓が先のように女王台与(≒豊)の墓との見方ができるならば、その260年代以降、それほどくだらない時期の古墳と考えるべきでしょうから、崇神関連の上記拠点の多くは卑弥呼のいた247年頃までには、存在していたことになるでしょう。

ただ、台与が仮に箸墓の被葬者で周辺に都を構えていたとしても、その先代の卑弥呼もその周辺にいたとは限らず、なお九州や四国、滋賀、若狭方面にいた可能性もあるでしょうから、その件も明らかにしたいところです。




新・元伊勢(外宮)ライン 管理人 投稿日: 2024年01月30日 20:18:24 No.371 【返信】

先日、元伊勢に関する拠点を結んだ方位ラインを作成しなおしたのですが、特に若狭湾の冠島を起点として、外宮・内宮ともにその移動拠点の位置付けがなされていることがありました。

この冠島については、元伊勢の籠神社の奥宮とされる老人嶋神社(丹後風土記に凡海坐息津島社)があり、海底に神殿風の弥生遺跡があることがしられており、調べていくと図1のように、弥生時代の池上曽根遺跡と南北ラインで接合していたことがわかります。

そして、その池上曽根遺跡は図1のように、伊勢外宮と同緯度東西ラインで接合しています。

なお、その冠島の海底遺跡については、こちらのYouTubeをご参照ください。神殿部のスクリーンショットも図3として添付します。
https://youtu.be/zAys_Ze5kjo?si=SXoSwLc67SoYHy2h

この冠島については、701年5月8日(5月12日)(大宝元年3月26日) 大宝地震で海没したことが知られており(こちらのサイト参照 「徐福の探したもの、元伊勢と老人嶋神社」http://nohgaku.com/?p=6032 )、その際に先の弥生遺跡の神殿も沈んだ可能性があるでしょう。

この冠島の神殿域を測量起点として、前掲の内宮・外宮の拠点が構築・移動を繰り返していることを考慮すると、この神殿がアマテラス・豊受を信仰する集団にとって、アイデンティティに関わるものであったことが判るでしょう。

この冠島の神殿の構築時期は、先の図1からいくと、池上曽根遺跡以降の弥生時代中期後半以降のある時期となるはずで、邪馬台国の時代にもかかってくる可能性がありそうです。

そのことは、以前作成した全国各地の主要な弥生遺跡を結んだ方位ラインの測量拠点として、その池上曽根遺跡が位置していることと関係してきますが、今回注目した冠島をそのライン上に位置付けなおしてみたものが図2となります。

ここで、冠島については、上記2つのラインの他に、荒神谷遺跡⇔妻木晩田遺跡南部⇔青谷上寺地遺跡⇔太田南古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔冠島(老人嶋神社)⇔池守・池上遺跡への東10度偏角のラインがあることがわかります。

同じく、冠島⇔荒尾南遺跡北部⇔登呂遺跡への西15度偏角のライン、津島遺跡⇔冠島南部⇔大塚・千坊山遺跡⇔反町遺跡への東35度偏角のラインも見えてきます。

また池上曽根遺跡については、志賀島(前田遺跡周辺・漢の金印出土地)⇔池上曽根遺跡⇔登呂遺跡への東10度偏角のラインがあり、このラインは先の荒神谷遺跡⇔池守・池上遺跡へのラインと平行関係にあります。

同じく池上曽根遺跡⇔大塚・千坊山遺跡⇔恵山貝塚への東55度偏角のラインもあります。

その北海道の恵山貝塚は先の反町遺跡と南北ラインとなります。

その他、荒神谷遺跡⇔荒尾南遺跡が同緯度東西ラインとなります。

このように、冠島(老人嶋神社)は弥生時代の諸遺跡からみても、重要な位置付けにあったことがわかり、その海底に沈んでいる神殿遺跡自体も、弥生時代の構築であった可能性が高まるでしょう。

さらに、魏の年号銘鏡を出土した太田南古墳群がそこに関係してくることは、邪馬台国時代にこのライン拠点が関係していたことを意味していますが、以前取り上げた丹後の羽衣天女伝説と豊受神(≒女王台与?)を考慮しておく必要があるでしょう。その天女が死んだ奈具神社は、太田南古墳群に近い位置にあります。

特に元伊勢・籠神社の豊受神については、雄略天皇の夢に現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(豊受大神)を近くに呼び寄せるように」と言われたので、外宮に祀る様になったとされる。ここで天照女神と豊受女神は双方、セットとなるべき女神であったことが伺えるのであり、天照=卑弥呼説にしたがえば、豊受(トヨケ)=台与(トヨ)とみなすのは自然な流れともいえるでしょう。

実際、伊勢外宮については、伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原の地への移動となり、この山田(ヤマダ)の字名が邪馬台国と関係することも周知のとおりです。

その元となったであろう丹波の天女については、どこかからやってきて、元の故郷に戻れなくなったとの話があり、個人的には何らかの事情で西から東遷してきた台与が丹波経由で畿内へと入ったことを暗示しているのではないかと考えたことがあります。

また、先の雄略天皇の陵墓については、図1のように、冠島⇔大神木神社(仮宮)⇔河内大塚山古墳(本来の雄略陵?)への西85度偏角のラインがあり、その河内大塚山古墳⇔景行天皇陵⇔伊勢外宮への西5度偏角のラインも確認できます。

その大神木神社については、豊受神が山田ヶ原の外宮への移動途中で1年すごした仮宮とされており、ここが図1のように雄略陵とのライン上に位置していることも雄略天皇との関わりを示すものでしょう。

もっとも、現在の雄略天皇陵は、先の冠島⇔大神木神社へのラインから東にズレており、むしろ、今回取り上げた本来の雄略天皇陵とされる河内大塚山古墳のほうがライン面でも接合するので、この古墳が雄略天皇陵であった可能性が高まってくるでしょう。

あと、その河内大塚山古墳⇔伊勢外宮ライン上に載る景行天皇陵については、その真南にあるメスリ山古墳が、池上曽根遺跡⇔伊勢外宮ライン上にあり、年代が4世紀初頭の大王陵級で、景行天皇陵も4世紀前半とされるので、雄略陵とみなした5世紀半ばとされる河内大塚山古墳のそれよりはかなり古いこともわかります。その真西には、図1のように景行天皇の息子のヤマトタケルの白鳥陵があり、これは5世紀後半となります。

いずれにせよ、この雄略天皇の年代とされる5世紀中葉ごろまで、冠島の老人嶋神社(神殿?)が、常にアマテラス・豊受神を信仰する集団に意識されつづけていたことが明らかになり、そこに豊受が丹波方面に本拠をおいていた可能性を示すものです。

その内宮・外宮の移動の開始は、崇神天皇の5年に疫病の流行は人口の大半が失われた際に、天皇が翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにして、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせたことに始まります。

この年代については、古事記の崩年干支が戊寅年となり、258年、あるいは318年とされるので、崇神68年から一干支分を差し引いて崇神8年に崩御と考えると、即位が250年となりますが、卑弥呼の死が247年で、その後、男王が即位するものの騒乱がおきたので、台与が即位したことになっており、梁書の記載から249年頃に即位したとの見方が有力となっています。

そうすると、崇神天皇の5年頃に流行った疫病は、251年からローマで流行した疫病の可能性があることを以前お話したことがありますが、崇神5年を255年とすると、そのころに、疫病からの隔離の意味もあって、宮中から豊鍬入媛とともに天照大神を外へ出すという行為にいたった背景には、疫病隔離の意味がどこかにあったと考えるべきでしょう。

それで、その255年から、豊鍬入媛から倭姫に受け継がれて、内宮は90年かけて、現在の伊勢へ至ったことになりますが、その年代が345年前後とすると、垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったことになっているので、垂仁即位年は。320年前後となるでしょう。

ここで、崇神は先のとおり、250年頃に即位して、その68年後に死んだことになるので、318年に崩御となりますが、概ね次の垂仁の即位年と重なってくることがわかります。

ただ、また崇神崩御年を318年とする見方に従うならば、崇神即位は先のように310年頃となり、その315年に疫病とともに、内宮の移動開始があり、その後90年後に伊勢へ鎮座したとすると、405年ごろに鎮座したことになるでしょうか。

なお、外宮を伊勢へ鎮座させた雄略天皇の即位は457年頃となり、先のとおり、雄略22年に外宮へと鎮座させたことになっているので、そうすると479年頃の鎮座となるでしょう。

内宮も、外宮も、先のとおり、冠島を起点としたライン上の拠点に移動を繰り返しており、元はともに、冠島の神殿域にあったと考えるのが自然でしょう。そして内宮と外宮のセットで近い位置に移動しながら遷宮し続けたようにも感じますが、ただ、伝承上では、内宮のほうが先に移動をしはじめたことにとなりますが、その理由についても考えてみる必要があります。

また、その辺のことについては、その遷宮再拠点の確認、滞在年月の推定とともに、またの機会に考察してみましょう。




出雲・(元)伊勢・応神陵ライン 管理人 投稿日: 2024年01月22日 20:20:45 No.367 【返信】

先日、Facebookグループ「新邪馬台国探求会」経由で、福知山の元伊勢内宮皇大神社についての情報をいただいたことがあり、さっそく、関連しそうな遺跡を探して方位ライン図を作成してみました。

まず、図1のように、その元伊勢内宮皇大神社のすぐ南にある外宮豊受大神社に関して、外宮豊受大神社⇔出雲大社⇔息長陵への東西同緯度ラインがあることがわかりました。

この息長陵については、石棺・出土埴輪より5世紀中葉-後半頃の築造、6世紀中ごろの敏達天皇妃の広姫の墓とされますが、年代が合わないので、息長氏との関連が指摘されてます。墳長100m以上、後円部径55m以上、前方部長53m以上の前方後円墳との見方もあり、埴輪・葺石を備え、埴輪は古市古墳群との関係が強いとの指摘もあるようです。詳細はこちら参照(https://kofun.dosugoi.net/e1077964.html)その古市古墳群(応神陵)とのつながりは次のラインからも伺えます。


すなわち図2のように、その外宮豊受大神社⇔伊勢内宮への西35度偏角のラインがあり、これと直交して、息長陵⇔荒神山古墳⇔新開古墳群⇔応神陵への東55度偏角のラインがあることに気づきます。

その荒神山古墳については、4世紀末築造の全長124mの前方後円墳ですが、葺石で覆い、埴輪を巡らせるなど、大和中枢部のそれと同一の様式を持つことから、大和との強いつながりが指摘されてます。

またその新開古墳群(1号墳)からは、北燕(馮素弗墓)とのつながりが予想される馬具や甲冑が出土するなど、渡来系集団(新漢氏?)の影響を強く受けています。

このように、以上の拠点は、出雲大社、本伊勢、伊勢神宮といったアマテラス・豊受神に関する信仰を持つ集団との関わりが予想されると同時に、応神陵に代表される河内王朝の進出とも関わっているように見受けられますが、年代的には4世紀後半~6世紀前半にかけてで、その河内王朝の巨大古墳造営の背後には当時渡来してきた中国系渡来人(漢人等)の製鉄技術等の影響も大きかったはずです。

特に琵琶湖沿岸は、後代まで渡来系集団の拠点でしたが、また先の息長氏についても、応神の母・息長帯比売(神功皇后)を出すなど、5世紀の河内王朝、その後の6世紀前半の継体朝とも関わりが深かったことが予想されます。

継体朝擁立の背景には、古事記に近江から継体天皇が出てきたことが記載されているように、その周辺地域にいた渡来系集団(新漢氏)等のバックボーンがあったはずで、本来の継体陵とされる今城塚古墳自体にも中国系の土木技術が応用されているような事例にも見受けられます。

その上で、なぜ、出雲大社、(元)伊勢神宮といった信仰拠点がこのライン上にみえてくるのかが課題となりますが、元伊勢に関しては、その外宮と内宮の移動の歴史があり、その拠点を結んだ方位ラインを以前作成したことがありますが、それは図3のようになります。

上図が内宮の移動地点、下図が外宮の移動地点を結んだもので、双方冠島が起点となりますが、ただ外宮のラインについては、今回の福知山の元伊勢外宮の件もあるので、再度作成しなおしたものを、後日その考察とともにお知らせしたいと思います。




新・邪馬台国(畿内)方位ライン 管理人 投稿日: 2024年01月15日 20:02:44 No.366 【返信】

以前、畿内の邪馬台国時代に関連する古墳や遺跡、当時卑弥呼に銅鏡を賜与した魏の紀年銘を記した銅鏡の出土地を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、今回、邪馬台国畿内説で卑弥呼の都とみなされている奈良の纒向遺跡と同様な構造を持つ滋賀県の伊勢遺跡を知る機会があり、この遺跡に関連するラインを洗いなおしてみました。

その作成したラインが図1となります。

ここでは、まず、安満宮山古墳(魏紀年銘鏡出土)⇔伊勢遺跡(滋賀)⇔象鼻山1号墳(3世紀末前方後方墳)への東30度偏角のラインがあり、このラインと太田南古墳群⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳(三角縁神獣鏡大量出土)への西60度偏角のラインが直交しています。

同じく黒塚古墳⇔伊勢遺跡⇔分校マエ山古墳への東75度偏角のラインがあります。

その分校マエ山古墳を起点とするものとしては、分校マエ山古墳⇔太田南古墳群(魏紀年銘鏡出土)南部⇔森尾古墳(魏紀年銘鏡出土)への東30度偏角のラインがありますが、このラインと先の安満宮山古墳⇔伊勢遺跡への東30度偏角のライン、同じく先の太田南古墳群⇔安満宮山古墳への西60度偏角のラインとが直交しています。

また分校マエ山古墳⇔伊勢遺跡⇔豊日神社(布留遺跡西部)⇔黒塚古墳への東75度偏角のラインがあります。

その他、森尾古墳⇔安満宮山古墳への西45度偏角のライン、同じく森尾古墳⇔広峯15号墳(魏紀年銘鏡出土)⇔豊日神社への西50度偏角のラインもあります。


そして、図のように、太田南古墳群⇔黒塚古墳⇔象鼻山1号墳を結ぶ三角形の垂線上に伊勢遺跡周辺地域が位置していることがあり、この場所が当時の畿内周辺を統治するのに相応しい場所であったことも伺えます。

その伊勢遺跡周辺地域については、伊勢遺跡群があり、伊勢集落が政治と祭祀を、下鈎集落が工業を、下長集落が商業を分担する「機能別都市構成」がなされていたと考えられています。詳細はこちらのサイトをご参照ください。遺跡群の地図も図2として引用します。

「伊勢遺跡-守山弥生遺跡研究会」伊勢遺跡群
https://ise-iseki.yayoiken.jp/isekigun.htm

この図2の中で、伊勢遺跡北西にある山田遺跡がありますが、邪馬台国関連遺跡には山田の字名がつくことが多いことがあり、この地も邪馬台国の主要な拠点であった可能性が高いでしょう。

実際、前述した伊勢遺跡周辺を通過する各種ラインのうち、安満宮山古墳⇔象鼻山1号墳へのラインは山田遺跡を通過することもわかります。

年代的にも邪馬台国時代にあたる、弥生時代後期後半がこの遺跡の発展時期とのことで、九州から邪馬台国の勢力が東遷によって畿内へと拡大していく過程で、この地が主要な拠点となっていったのではないでしょうか。

その時期は女王卑弥呼もしくはその次の女王・台与の時代に関わる可能性がありそうですが、その東遷の主体には、ニギハヤヒを祖とする物部氏の影響を考慮すべきで、実際、伊勢遺跡から山田遺跡の間に物部(村)の字名がみえることにも留意しておくべきでしょう。

以前、卑弥呼とその姪であろう台与について、物部氏系で孝元・開化天皇妃となったウツシコメとその姪のイカガシコメに対応していることを指摘したことがありますが、この時期に物部氏の影響力が強かったことを考慮しても、邪馬台国の都周辺に物部氏の影響をうけた拠点があるはずです。

そのことは、前述した黒塚古墳⇔象鼻山1号墳へのラインが、物部氏の拠点の石上神宮や布留遺跡(布留式土器出土)東部の豊日神社周辺を通過することがあり、この周辺にある豊井・豊田の地名も、女王・台与(トヨ)と関わっていた可能性を考えてきたこともあります。

そのラインの延長線上には、纒向遺跡があり、そこに隣接するヤマトトヒモモソヒメ陵の箸墓古墳周辺にも豊田の字名が残ることがあります。

この豊日神社については、前掲した豊日神社⇔広峯15号墳⇔森尾古墳へのラインがあり、その森尾古墳からは、卑弥呼に鏡を与えた魏の正始元年(西暦240年)の銘文があり、同じく広峯15号墳からも、同じの景初四年(非実在の年号・西暦240年)の銘文が記されていることがあります。

ところで、前掲の三角形を形成するライン上にある安満宮山古墳と太田南5号墳からは、青龍三年(235年)方格規矩四神鏡が出土していることがあり、年代的に5年ですが上記の森尾古墳に関わるラインより古いことがわかります。

実際、今回のライン図をみても、双方のラインには、ずれがあり、構築年代に相違があったことも伺えますが、前者については、邪馬台国時代の指標とされる庄内式どきより新しい布留式土器を出土した布留遺跡周辺を通過することがあり、これを仮に女王台与が支配した250年代から60年代の構築と考えると、後者のラインについては、それ以前の235年頃の卑弥呼の時代には構築されていた可能性が出てくるでしょう。

伊勢遺跡については、後代の伊勢神宮との関わりも予想できますが、崇神天皇の年代を253年以降として、その時期に伊勢神宮が創始されたことを考えると、其れ以前に宮中で祀られていたアマテラス女神の存在を考慮しておくべきでしょう。

一説にはアマテラス女神と卑弥呼を同一視する見方もありますが、卑弥呼が果たして、この伊勢遺跡周辺にいたのが、それとも東遷前の九州や四国方面にいたのかについて確証するために必要となってくるのが、卑弥呼の径百歩の墓の存在となりそうです。

卑弥呼の墓が仮に畿内にあるとして、今回のライン上に位置するならば、伊勢遺跡周辺、もしくは、太田南古墳群、安満宮山古墳、黒塚古墳、象鼻山1号墳あたりが候補地に上がってくるはずです。

その象鼻山1号墳については、象鼻山の最高所に位置する前方後方墳で、全長約42.80m、後方部長22.95m、後方部幅25.86m、後方部高さ4.23m、前方部長17.15m、前方部幅14.40m、前方部高さ2.96m、濃尾平野に面する後方部東側のみ二段築成とし、部分的に葺石を備えています。埋葬施設からは鏡や石製品、刀、剣などが発見され、その築造時期は3世紀中頃と考えられています。

同じく安満宮山古墳の墳形は長方形で、規模は東西18メートル、南北21メートルと推定される、葬施設はコウヤマキ製の割竹形木棺の直葬。3世紀後半の築造と推定されています。

同じく太田南古墳群のうち、上記の魏年号銘鏡を出土した5号墳は、12m×19mの方墳で組合せ式石棺、4世紀後半の築造とされます。

同じく黒塚古墳は、全長約130メートルの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、三角縁神獣鏡33面とそれよりも少し古い画文帯神獣鏡1面が出土し、北東隅に大小2本の鉄棒をU字形に曲げた用途不明の鉄製品が立てかけられていた。大小2本の棒の間にはV字形の鉄製の管が、複数、付着または崩落し、この管で鋸歯状に大小のU字形鉄棒を結び付けていた形跡がある。

ここで、黒塚古墳以外は、方墳、もしくは前方後方墳と、後に主流となる前方後円墳ではない点に留意しておくべきでしょう。そして、20-25m前後の尺度で構築されている点でも共通性があります。

そこで、その他の魏の紀年銘鏡を出土した古墳を調べていくと、下記のようになります。

まず、魏の景初三年(239年)銘の三角縁神獣鏡を出土した神原神社古墳についても、方墳で、復元した場合の規模は29m×25m、高さは5m程とされます。島根県で最古期の前期古墳とされます。

次に柴崎蟹沢古墳は古墳時代前期(4世紀)ころに築造された径12メートルの円墳(長22メートルの方墳との説も)であり、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に森尾古墳ですが、35×24m前後の南北に長い基底部をもつ、方形台状の墳丘が想定されています。正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に、広峯15号墳は、直径40m、後円部径25m、前方部径13mの前方後円墳で、4世紀後半の築造、「景初四年(240年)」の銘の盤龍鏡が出土しています。

次に竹島古墳は全長56メートル、後円部径35メートルの前方後円墳で、4世紀前半の築造、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土しています。

次に持田48号墳は、全長78m、後円部径50m・高さ7.3m、前方部幅27m・高さ4m の柄鏡式前方後円墳で、、景初四年(240年)銘入り斜縁盤龍鏡が、この古墳から出土された(伝)があります。

このように、特に神原神社古墳、森尾古墳が方墳であり、柴崎蟹沢古墳も方墳だとすると、22~25m前後の方形部をもつ古墳である点で、先の古墳と同様な特徴と持つと言えるでしょう。広峯15号墳も円墳ですが、25mがみえます。

このような、22~25m前後の方墳として思い出されるのが、九州高良山そばの祇園山古墳で、形状は方墳で、規模は東西約23.7メートル、南北約22.9メートル、高さ約6メートル、主体部(石棺)、築造時期が3世紀中期であると考えられているケースがあります。規模とも吉野ケ里遺跡の楕円状構築物の上に築造された方形墳丘墓および楽浪漢墓(阿残墓)石巌里第9号墳に類似するとされ、墳丘外周からは、66人分以上と推定される甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基(未調査5・不明2を含む)、箱式石棺墓7基、竪穴式石室墓13基、構造不明7基の埋葬施設が確認されていることなどから、卑弥呼の墓として有力視されていることもあります。

あと、今回のライン分析では北陸の分校マエ山古墳があり、1号墳が全長37mの纏向型前方後円墳とされており、それより古いとされる6号墳(前方後円墳)との間に方墳が複数挟まれていることもあります。

ライン的には、この古墳は、黒塚古墳と、森尾古墳とに接続しており、以前作成した図3の上図のように、初期の前方後円墳、特に纏向型前方後円墳とに接続関係があると言えます。

また象鼻山1号墳については、前方後方墳となりますが、以前作成した図3の下図のように、全国各地の前方後方墳、特に長野の弘法山を起点とした。弘法山古墳⇔象鼻山1号墳⇔芝ヶ原古墳⇔矢野遺跡⇔物部(高知市)⇔高千穂峰南部⇔笠狭崎への東35度ライン上に位置していることが重要です。

この前方後方墳に関する拠点は物部氏との関わりが想定されており、図のように、象鼻山1号墳⇔神原神社古墳への東西同緯度ラインの存在も確認できます。

その出雲方面の神原神社古墳も方墳とのことがあり、前方後方墳と方墳との間には相関性があることも予想できるでしょう。

また、その辺の方墳・前方後方墳、そして纏向型前方後円墳との関係についても、今年もこれから考察をすすめていきたいと思います。




新・ヤマトタケルライン 管理人 投稿日: 2024年01月09日 17:09:18 No.365 【返信】

以前、20年ほど前にヤマトタケル(倭武、日本武尊)伝承に関わる拠点を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、今回、新たに多賀大社に関するラインがあることに気が付いたので、再度そのライン図を作成しなおしてみました。

図1はそのライン図で、図2、3は拡大図です。

まず、多賀大社に関わるラインとしては、伊弉諾神宮⇔今城塚古墳⇔多賀大社⇔伊夫伎神社南部⇔白根神社への東35度偏角のラインがあります。

ここで、多賀大社の祭神のイザナギ・イザナミと、淡路島の伊弉諾(イザナギ)神宮とが接合していることに留意しておくべきでしょう。また伊夫伎(いぶき)神社はヤマトタケルが五十葺山の蛇(白猪)神と戦った伝承にかかり、ヤマトタケルを祀る白根神社(草津)は草津に至ったタケルの伝承に基づく社と言えるでしょう。

今城塚古墳は、本来の継体天皇陵とも言われています。継体天皇は尾張氏の妻を迎えているように尾張と深い関わりがあります。その尾張氏は天火明命を祖神とし、天忍人命から始まり、美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となります。ヤマトタケルの時代には、拠点を熱田の南に移し、その尾張氏から出た宮簀媛はヤマトタケルの妃となり、後に三種の神器となる草薙神剣をヤマトタケルの死後に伊勢神宮へは戻さず熱田に置き、尾張宿彌の後裔の宗族は熱田神宮大宮司を代々務めました。

次に、多賀大社⇔浅間大社⇔走水神社への東西ラインがあり、その浅間大社は先の白根神社と南北ラインの関係にあり、双方が図のように直交しています。その走水神社は、弟橘姫の入水伝承としてヤマトタケル伝承に記されている地で、また浅間大社は富士山信仰の拠点となります。

続いて伊勢内宮⇔能褒野墓⇔多賀大社⇔気比神宮への西65度偏角のラインがあり、能褒野墓はヤマトタケルが最初に葬られた墓となりますが、のちにヤマトタケルの魂は白鳥となり、葛城の白鳥陵へと向かいます。

このラインは図のように、伊勢内宮⇔浅間大社への東25度偏角のラインと直交しています。

またその伊勢神宮は、ヤマトタケルに倭姫が草薙剣を渡した地であり、気比神宮は応神天皇と名前を取り替えた気比大神を祀っています。

その葛城の白鳥陵については、白鳥陵(葛城)⇔能褒野墓⇔熱田神宮への東35度偏角のラインがあり、また葛城一言主神社⇔白鳥陵(葛城)への東西ラインがみてとれます。

その熱田神宮は、ヤマトタケルの草薙剣がある神社となります。

またそこにみえる葛城一言主神社⇔多賀大社⇔泉神社への東60度偏角のラインがあり、また同じく葛城一言主神社⇔景行天皇陵⇔多度大社⇔白根神社への東40度偏角のラインがあります。

ここに見えてくる葛城一言主神社は、一言主神と幼武尊(わかたけるのみこと)=雄略天皇を祀っていますが、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競った話があり、旧約聖書でヤコブ(イスラエル民族の祖)がペヌエル(神の使い)と徹夜で格闘した伝承との類似性が指摘されているところです。

またその景行天皇陵で祀られる景行天皇は、ヤマトタケルの父であり、その景行天皇陵は西の白鳥陵(羽曳野)と東西ラインとなります。この羽曳野の白鳥陵は、先の葛城の白鳥陵からヤマトタケルの魂である白鳥が向かった場所とされています。

そして、その羽曳野の白鳥陵は、先の今城塚古墳と南北ラインで接合していることから、このことからも継体天皇とヤマトタケル伝承拠点とが関係していたことが明らかにしうるでしょう。

続いて、先の能褒野墓については、能褒野墓⇔伊夫伎神社への南北ライン、能褒野墓⇔焼津神社への東西ラインがあり、その焼津神社は、ヤマトタケルが草薙剣で草を薙ぎ向火を放って、悉く賊徒を討滅された焼津の伝承に由来しています。

そして図のように、伊勢内宮⇔焼津神社⇔走水神社への東18度偏角のラインも確認できます。

あと、その走水神社⇔白根神社への西55度偏角のラインと、先の伊弉諾神宮⇔白根神社への東35度偏角のラインとが直交しています。

その他、泉神社⇔伊夫伎神社への東西ライン、熱田神宮⇔伊夫伎神社⇔気比神宮への西39度偏角のライン、焼津神社⇔熱田神宮⇔多賀大社への西13度偏角のラインもありますが、その泉神社は、ヤマトタケルが先の伊吹山の神と戦った際に弱り果て、この「居醒(いざめ)の泉」の水を飲んでなんとか命を取り留めたとの伝承があります。

以上のように、ヤマトタケルに関する伝承拠点は正確に測量された拠点に位置していることがあり、そこに雄略天皇(ワカタケル)、応神天皇五世孫の継体天皇がかかわっていたことも伺えるのですが、これらの天皇が当時武力を行使しえた背後には、大陸から渡来した製鉄技術者集団の存在を意識していおく必用があり、その大陸由来の伝承要素も、これらのヤマトタケル伝承や関連伝承ににどのように影響を与えていたのかについて、考察していくことが課題です。

その伝承の起源については、すでに何度か研究会でも大陸由来の伝承との比較で考察を重ねていますが、改めて今年は考察しなおしてみたいと思います。




新・城郭ライン4 管理人 投稿日: 2024年01月08日 16:38:08 No.364 【返信】

先日の全国の城郭を結んだ方位ラインの件ですが、特に近江の長浜城に関するラインを調べてみました。図1のとおりです。

ここで、まず熊本城⇔高松城⇔長浜城⇔須賀川城⇔葛尾村夏湯への東30度偏角のラインがあります。

次に鶴丸城⇔高知城⇔長浜城⇔横山城⇔米沢城への東40度偏角のラインも確認できます。

この長浜城については、秀吉が1558年に構築したことになっていますが、その今浜が交通の要衝であったこととともに、これらの城郭ラインの交点に位置していたことも重視されていたのではないでしょうか。

なお現在の高松城は秀吉が1587年に四国制圧後に生駒氏に造らせてもので、また熊本城は1469年に菊池氏に一族が千葉城として築城され、加藤清正が1591年から中世城郭を取り込んで改築しています。

加えて高知城は1588年に長宗我部元親がここに構築しようとしたことがあり、その後、山内氏が1601年から築城しはじめます。

鹿児島の鶴丸城は1601年に島津氏によって築城されています。

長野の横山城については、1351年の足利氏の時代に山城があったようですが、ライン面ではややズレがあります。

山形の米沢城については、1238年に長井氏によって築城されたのが起源のようで、後に伊達氏の所領となります。

福島の須賀川城については、1399年に二階堂氏によって築城されています。

その他、葛尾村夏湯は、私の父方の祖父・先祖の地で南朝・田村氏と関わる領地のようです。


こうみると、西日本方面のラインは、秀吉との関わりがみえており、秀吉との協働関係にあった城郭・測量集団によるものではないでしょうか。以前秀吉と修験道等に関わる加茂・鴨氏との関わりを考えたことがありますが、その辺について追及していくべきかもしれません。

なお、秀吉に関わる地を結ぶラインとしては、以前も紹介した図2のラインがあり、秀吉が木下氏の時代から、鴨・加茂氏に関わる地と関係が深かったこともみてとれます。

同じく家康の先祖の加茂氏と岡崎城との関係もこれらのラインから見えてくることがあり、明智氏の祖と加茂氏との関係も含めて、当時の有力な戦国大名の背後には、鴨・加茂氏といった修験道・城郭・都市構築集団の存在があったことをうかがわせるものです。

その鴨・加茂氏については、全国を高屋を作って梯子をかけそれを上り下りした(つまり測量・櫓構築)を阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)を祖としており、役行角のような修験道者(測量・偵察)を主として集団へとそれらの技術が継承されていった結果として、戦国時代にはこれらの城郭を測量・構築する集団へと化していったのではないでしょうか。

そこから秀吉や家康、光秀等が現れてくるわけですが、彼らの奇抜な行軍や情報戦略の背景にはこれらの集団の先導があったことも想像しうるでしょう。正確に地理を把握し、素早い情報を得ているものが戦いを有利に進めることができるのは、昔も今も同じことです。




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