投稿者:管理人
先日、元伊勢に関する拠点を結んだ方位ラインを作成しなおしたのですが、特に若狭湾の冠島を起点として、外宮・内宮ともにその移動拠点の位置付けがなされていることがありました。
この冠島については、元伊勢の籠神社の奥宮とされる老人嶋神社(丹後風土記に凡海坐息津島社)があり、海底に神殿風の弥生遺跡があることがしられており、調べていくと図1のように、弥生時代の池上曽根遺跡と南北ラインで接合していたことがわかります。
そして、その池上曽根遺跡は図1のように、伊勢外宮と同緯度東西ラインで接合しています。
なお、その冠島の海底遺跡については、こちらのYouTubeをご参照ください。神殿部のスクリーンショットも図3として添付します。
https://youtu.be/zAys_Ze5kjo?si=SXoSwLc67SoYHy2h
この冠島については、701年5月8日(5月12日)(大宝元年3月26日) 大宝地震で海没したことが知られており(こちらのサイト参照 「徐福の探したもの、元伊勢と老人嶋神社」http://nohgaku.com/?p=6032 )、その際に先の弥生遺跡の神殿も沈んだ可能性があるでしょう。
この冠島の神殿域を測量起点として、前掲の内宮・外宮の拠点が構築・移動を繰り返していることを考慮すると、この神殿がアマテラス・豊受を信仰する集団にとって、アイデンティティに関わるものであったことが判るでしょう。
この冠島の神殿の構築時期は、先の図1からいくと、池上曽根遺跡以降の弥生時代中期後半以降のある時期となるはずで、邪馬台国の時代にもかかってくる可能性がありそうです。
そのことは、以前作成した全国各地の主要な弥生遺跡を結んだ方位ラインの測量拠点として、その池上曽根遺跡が位置していることと関係してきますが、今回注目した冠島をそのライン上に位置付けなおしてみたものが図2となります。
ここで、冠島については、上記2つのラインの他に、荒神谷遺跡⇔妻木晩田遺跡南部⇔青谷上寺地遺跡⇔太田南古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔冠島(老人嶋神社)⇔池守・池上遺跡への東10度偏角のラインがあることがわかります。
同じく、冠島⇔荒尾南遺跡北部⇔登呂遺跡への西15度偏角のライン、津島遺跡⇔冠島南部⇔大塚・千坊山遺跡⇔反町遺跡への東35度偏角のラインも見えてきます。
また池上曽根遺跡については、志賀島(前田遺跡周辺・漢の金印出土地)⇔池上曽根遺跡⇔登呂遺跡への東10度偏角のラインがあり、このラインは先の荒神谷遺跡⇔池守・池上遺跡へのラインと平行関係にあります。
同じく池上曽根遺跡⇔大塚・千坊山遺跡⇔恵山貝塚への東55度偏角のラインもあります。
その北海道の恵山貝塚は先の反町遺跡と南北ラインとなります。
その他、荒神谷遺跡⇔荒尾南遺跡が同緯度東西ラインとなります。
このように、冠島(老人嶋神社)は弥生時代の諸遺跡からみても、重要な位置付けにあったことがわかり、その海底に沈んでいる神殿遺跡自体も、弥生時代の構築であった可能性が高まるでしょう。
さらに、魏の年号銘鏡を出土した太田南古墳群がそこに関係してくることは、邪馬台国時代にこのライン拠点が関係していたことを意味していますが、以前取り上げた丹後の羽衣天女伝説と豊受神(≒女王台与?)を考慮しておく必要があるでしょう。その天女が死んだ奈具神社は、太田南古墳群に近い位置にあります。
特に元伊勢・籠神社の豊受神については、雄略天皇の夢に現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(豊受大神)を近くに呼び寄せるように」と言われたので、外宮に祀る様になったとされる。ここで天照女神と豊受女神は双方、セットとなるべき女神であったことが伺えるのであり、天照=卑弥呼説にしたがえば、豊受(トヨケ)=台与(トヨ)とみなすのは自然な流れともいえるでしょう。
実際、伊勢外宮については、伊勢国高倉山渡会の山田ヶ原の地への移動となり、この山田(ヤマダ)の字名が邪馬台国と関係することも周知のとおりです。
その元となったであろう丹波の天女については、どこかからやってきて、元の故郷に戻れなくなったとの話があり、個人的には何らかの事情で西から東遷してきた台与が丹波経由で畿内へと入ったことを暗示しているのではないかと考えたことがあります。
また、先の雄略天皇の陵墓については、図1のように、冠島⇔大神木神社(仮宮)⇔河内大塚山古墳(本来の雄略陵?)への西85度偏角のラインがあり、その河内大塚山古墳⇔景行天皇陵⇔伊勢外宮への西5度偏角のラインも確認できます。
その大神木神社については、豊受神が山田ヶ原の外宮への移動途中で1年すごした仮宮とされており、ここが図1のように雄略陵とのライン上に位置していることも雄略天皇との関わりを示すものでしょう。
もっとも、現在の雄略天皇陵は、先の冠島⇔大神木神社へのラインから東にズレており、むしろ、今回取り上げた本来の雄略天皇陵とされる河内大塚山古墳のほうがライン面でも接合するので、この古墳が雄略天皇陵であった可能性が高まってくるでしょう。
あと、その河内大塚山古墳⇔伊勢外宮ライン上に載る景行天皇陵については、その真南にあるメスリ山古墳が、池上曽根遺跡⇔伊勢外宮ライン上にあり、年代が4世紀初頭の大王陵級で、景行天皇陵も4世紀前半とされるので、雄略陵とみなした5世紀半ばとされる河内大塚山古墳のそれよりはかなり古いこともわかります。その真西には、図1のように景行天皇の息子のヤマトタケルの白鳥陵があり、これは5世紀後半となります。
いずれにせよ、この雄略天皇の年代とされる5世紀中葉ごろまで、冠島の老人嶋神社(神殿?)が、常にアマテラス・豊受神を信仰する集団に意識されつづけていたことが明らかになり、そこに豊受が丹波方面に本拠をおいていた可能性を示すものです。
その内宮・外宮の移動の開始は、崇神天皇の5年に疫病の流行は人口の大半が失われた際に、天皇が翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにして、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせたことに始まります。
この年代については、古事記の崩年干支が戊寅年となり、258年、あるいは318年とされるので、崇神68年から一干支分を差し引いて崇神8年に崩御と考えると、即位が250年となりますが、卑弥呼の死が247年で、その後、男王が即位するものの騒乱がおきたので、台与が即位したことになっており、梁書の記載から249年頃に即位したとの見方が有力となっています。
そうすると、崇神天皇の5年頃に流行った疫病は、251年からローマで流行した疫病の可能性があることを以前お話したことがありますが、崇神5年を255年とすると、そのころに、疫病からの隔離の意味もあって、宮中から豊鍬入媛とともに天照大神を外へ出すという行為にいたった背景には、疫病隔離の意味がどこかにあったと考えるべきでしょう。
それで、その255年から、豊鍬入媛から倭姫に受け継がれて、内宮は90年かけて、現在の伊勢へ至ったことになりますが、その年代が345年前後とすると、垂仁天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったことになっているので、垂仁即位年は。320年前後となるでしょう。
ここで、崇神は先のとおり、250年頃に即位して、その68年後に死んだことになるので、318年に崩御となりますが、概ね次の垂仁の即位年と重なってくることがわかります。
ただ、また崇神崩御年を318年とする見方に従うならば、崇神即位は先のように310年頃となり、その315年に疫病とともに、内宮の移動開始があり、その後90年後に伊勢へ鎮座したとすると、405年ごろに鎮座したことになるでしょうか。
なお、外宮を伊勢へ鎮座させた雄略天皇の即位は457年頃となり、先のとおり、雄略22年に外宮へと鎮座させたことになっているので、そうすると479年頃の鎮座となるでしょう。
内宮も、外宮も、先のとおり、冠島を起点としたライン上の拠点に移動を繰り返しており、元はともに、冠島の神殿域にあったと考えるのが自然でしょう。そして内宮と外宮のセットで近い位置に移動しながら遷宮し続けたようにも感じますが、ただ、伝承上では、内宮のほうが先に移動をしはじめたことにとなりますが、その理由についても考えてみる必要があります。
また、その辺のことについては、その遷宮再拠点の確認、滞在年月の推定とともに、またの機会に考察してみましょう。