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松浦氏について 管理人 投稿日: 2023年10月08日 01:22:57 No.339 【返信】

また、青面さん、先の投稿について情報提供ありがとうございました。返信しておきましたが興味深く感じてます。

それで、青面さんもご興味もっておられる阿波の歴史についてですが、うちの母方の祖母の実家が徳島県の池田町にあり、松浦姓となります。

その松浦氏について、メモ代わりに調べて記しておこうとおもうのですが、長崎の肥前国松浦郡が起源(ルーツ)である、嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)の平戸松浦氏の流れだという説があります。こちら参照(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matura.html

魏志倭人伝の末盧国ともされる地域ですね。

その松浦氏は中世に松浦党として瀬戸内に展開し、江戸時代には平戸藩主として著名な松浦静山も排出しており、その静山の著書の中に、群馬の羊大夫の墓から十字架が出土したとの話を載せています。平戸は蘭学でも知られていたように、キリスト教の知識を彼も持っていた可能性が高いでしょうから、そのことを記していたのでしょう。

その静山の娘に、明治天皇の母の中山慶子の母の愛子がいたようで、愛子は大正天皇の養育にも関わっていたようです。


また、蝦夷地の開拓で有名な松浦武四郎は、平戸松浦氏から分かれて伊勢に向かった子孫との説があります。

徳島にはまた松浦酒造があり松浦酒造の歴史については下記のように記されています。(https://www.kuramotokai.com/kikou/64/history


およそ一万坪を有する本家松浦酒造場の敷地。その一角に200年を越える大屋敷の棟が並び、鬱蒼とした木立ちが繁っています。
文化元年(1804)創業の蔵構えを残す奥座敷で、八代目社主の松浦恭之助(まつうらきょうのすけ)会長に話しを聴き始めると、古い書簡箱から一枚の家系図が出されました。
ここに現物を披露することはできませんが、色褪せた書面にある恭之助氏の血筋をたどると、本家松浦酒造場の創始者・直蔵(なおぞう)の名が見られます。さらにその先代は豊朗(とよあき)とあり、安永年間頃(1772~1781)に活躍した人物のようです。
「豊朗は松浦本筋から分家しておりまして、“加美屋七郎兵衛(かみや しちろべい)なる商人の跡取りに入っています。酒造りだけでなく、回船、米、肥料なども商っておったようです。その息子の直蔵が、改めて松浦分家として酒蔵を始めたのでしょう」

そう言って松浦本筋の系譜をなぞる恭之助氏の指先は、さらに書面を上って行きます。そのルーツは戦国時代にまで遡り、始祖には郡弾正(こおり だんじょう)の名が記され、妻は細川讃岐守(ほそかわさぬきのかみ)の女ともあります。

歴史上、細川讃岐守が頻繁に現れるのは、応仁の乱の頃。何やら武家の匂い漂うご先祖と筆者が感じた時、恭之助氏からあっと驚く言葉が投げられました。

「肥前の松浦党をご存知でしょうか。鎌倉時代から九州の長崎・平戸・五島周辺を根城にしていた水軍です。どうやらその一派が、私どものご先祖様のようです」
あの文永の役(1274)・弘安の役(1279)で蒙古と戦った海賊の子孫!!と思わず顔を見合わせる筆者とカメラマン。
そして、その証となる逸品を、インタビューの後で我々は目の当たりにすることとなるのです。


その九代目の松浦一雄氏は科学者で下記のような功績で知られているようです。

1995年、松浦一雄現:ナノミストテクノロジーズ株式会社[14])らによりエタノールと水の混合溶液を超音波霧化するとエタノールと水が分離し、結果としてエタノールが濃縮されることが報告された[2][3][15][16]。これにより、蒸留に代わる非加熱の分離濃縮法として超音波霧化分離が注目されはじめた[17]。

超音波霧化分離装置の構成の一例は次の通りである。[8][18]

溶液中に設置した超音波振動子により溶液がミスト化される。
ミストは、サイクロン等分級装置により、軽いミストは上部へ、重いミストは下部に分離される。
軽いミストは冷却等により凝縮され液体化、重いミストは重さにより落下し液体化する。

メリットとデメリット

液体を加熱する蒸留装置に比べ、次の利点がある[4][9][19][20]。

蒸留法と比較してランニングエネルギーが少なく環境負荷が小さい

用途
工業への利用

廃液の浄化や、エタノールや薬液の分離・濃縮[6]
電子材料工場から排出されるイソプロピルアルコール溶液の濃縮・回収、有機溶媒を含む廃液からの有機溶媒の回収[19]
石油の分離精製[23][24]

食品・飲料への利用

酢や果汁など食品や酒類の濃縮およびエキス・香気成分の抽出が可能である[25][26]

シイタケエキスの抽出:加熱して水分を蒸発させる方法に比べ、熱に弱いシイタケのうまみが損なわれにくい[27]。

酒類の濃縮:超音波霧化による分離を利用したアルコール度数25度の日本酒が本家松浦酒造場より商品化された[28]。

食品系廃棄物から香気など有用成分の回収:香酸柑橘類の果皮からの香気成分の濃縮・回収として、徳島県立工業技術センターでは、超音波霧化分離装置を使用して、スダチ果皮中の香気成分を非加熱で濃縮し、回収油100%のスダチ精油を得ることに成功しており、得られたスダチ精油の香気成分組成は、新鮮なスダチ果汁に類似しており、高い官能評価を得ている[29]。(徳島県の特産物スダチは、ジュースやお酒などへの加工後に廃棄される搾りかす(皮など)の有効利用が課題である。)

その他

船舶の排気ガス処理[30]
温泉水の濃縮[31]:不溶性成分のみの湯の花とは異なり、温泉の成分をほぼそのまま濃縮できる[32]。
海水の淡水化[





それで話は戻って、徳島の松浦氏についてですが、東みよし町の町長も松浦敬治氏であるように、池田町あたりに多くいるのでしょう。

あと、母方の祖母が住んでいた北海道の風連町にも、松浦氏の小学校教員がいるようで、親戚すじかもしれません。こちら参照(http://www.city.nayoro.lg.jp/school/s_furencyuou/u11p0p0000000066.html

その他、徳島にまつわる松浦姓の起源としてこちらのサイト(https://name-power.net/fn/松浦.html)下記の記載があります。

地形。徳島県美馬郡つるぎ町貞光皆瀬では松の裏による明治新姓と伝える。


おそらくは、先の中世の松浦氏に由来する地として松の裏があり、そこの住民が新姓を名乗ったのではないでしょうか。


地元の小学校 daizen 投稿日: 2023年09月27日 22:54:44 No.330 【返信】

私の出身校である福岡県久留米市にある大善寺小学校の敷地に不毛の霊地があるのですが、由来がわかりません。大善寺には、日本三大火祭りの鬼よがあるのですがこれと何か関係があるのですか?Bing AIで調べてもわかりませんでした。
管理人 投稿日: 2023年10月01日 01:30:32 No.333
daizenさん、お知らせありがとうございます。

ご指摘の大善小学校についてGoogleの航空写真でみると、その西側に荒地が見えますね。
その由来については残念ながらこちらでも調べることはできませんでしたが、そばにある玉垂宮については、高良山に関わる玉垂命と関係して造営されたはずです。

そして、その玉垂宮と関係しそうなので、その東北の御塚古墳・権現塚古墳でしょう。
これらの古墳はこの地の支配者の水沼君と関係づけられているようですが、そうだとすると初期の天皇家の外戚である物部氏と関わるでしょう。

特にその御塚古墳については、5世紀代の横穴式石室を持つ1130m前後で3重の堀を持つ帆立貝式前方後円墳とされます。

ただ、この帆立貝式前方後円墳については、個人的には西都原古墳群の男狭穂塚のケースのように、もっと古い纒向型前方後円墳との関わりを考慮しておくべきではないかと感じます。つまり邪馬台国時代の古墳を、後代の豪族が再度自身の古墳として利用したケースです。

この御塚古墳については、図1のように、先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石を結ぶ東15度偏角のライン上にあり、図3の拡大図のように、このラインのそばに玉垂宮やご指摘あった大善小学校付近(赤の□)を通過していることがあります。

また御塚古墳⇔女山神籠石⇔宇土境目遺跡を結ぶ西75度偏角のラインと、先のラインが直交しており、また御塚古墳⇔雷山神籠石への西45度偏角のラインも人工的な位置付けと言えそうです。

そして、図2のように雷山神籠石⇔与止日女神社への西75度偏角のラインと先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石へのラインとが直交しています。

その与止日女(ヨトヒメ)神社については、邪馬台国の女王台与(トヨ)との関わりを以前こちらで予想したことがあります。

このようにみていくと、この御塚古墳の原型となった古墳は、これらの神籠石の造営年代、さらに言えば境目遺跡の弥生時代後半から末期にかけての時代に造営されていた可能性がみえてきます。

そして、そこに玉垂命=武内宿禰?のモデルとなる人物がこの地を支配しにやってきた可能性が見えてくるのですが、その年代は河内王朝の時代とも重なってくるでしょう。それ以前にこの地を支配していた物部系の水沼県主(三間君)等を取り込んでいったのではないでしょうか。その影響がこの周辺の地に残っており、そして荒地・霊地として何らかの伝承とともにも現在の姿になっている可能性を感じますね。

その玉垂命については、こちらのサイト(https://kouratamadare.com/高良玉垂命とは?)に下記のように記されていますので、よろしくご参照ください。


もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。

高良大社麓高樹神社伝承


もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。

高良大社麓高樹神社伝承


daizen 投稿日: 2023年10月01日 18:54:09 No.334
ありがとうございます。まさかここまで解析してくれるとは思いませんでした。
元々妹が、自分に不毛の霊地の話をしてきて、妹いわく、源氏の女性と平家の男の人が結ばれ間にできたしまった子供を時代背景上土に埋めたとか、、、また自分の父に聞いたらお坊さんが関係しているなど、、結局妹の言うことも父の言うこともためしようがないですし、自分的には、せっかく近くに歴史古そうな古墳や神社❔がありますので関係しているのかな?と思ったりしていました。(家族みんな大善寺育ちです。)割と自分も地域の人なので、御塚古墳など詳しいはずですが初めて知ったこともあり新鮮だなと感じました。実際自分は、筑邦西中学校にかよっていて毎日はみている御塚古墳でさえ知らないことが多いと感じました。地元の古墳が、邪馬台国と関係していると考えると夢をかんじます。最後に聞きたいのですが、西75度偏角のラインなどの意味がよくわかりません。これは何をもとにして関係図けているのでしょうか?また、帆立貝式前方後円墳などがある事がはじめてしりました。社会は得意なはずなのに、、、中学生の学力では追いつきませんでした。
こんなことのためにここまで考察していただきありがとうございます。
管理人さんは、このようなことを独学で学んだのですか?それとも専門学校など行ったんですか?
管理人 投稿日: 2023年10月02日 00:46:48 No.335
daizenさん、さっそくお返事ありがとうございます!
源平のお話など、地元ならではの情報、大変興味深く感じます。

九州には、いまだ発掘されていなかったり、あまり注目されてない古墳や遺跡が多数眠っているようですので、その周辺に伝わる神話や伝承などと関わらせて、新たな発見が出てくるかもしれませんよ。

私自身は、実は大学時代に古代史(文献史学)を学んでいますが、古墳などを扱う考古学はもともと門外漢で、卒業後に得た知識がほとんどです。

またご指摘あった方位線(ライン)研究も古くからはありますが、まだ学問レベルではあまり注目されていない分野です。

畿内の古墳などでは、特定の山等を目安にしてその立地が決定づけられていったことが考古学でも明らかにされてきていますが、個人的に調べたかぎりでは、ほぼすべての古墳、神社、古代遺跡は、それぞれが明確な方位線を描く形で、双方が位置付けられていたことを確認しています。偶然ではない大変高い精度で測量されており、そのことが電子地図であきらかにできます。

そして、方位線研究は、まだ知られてない古墳や遺跡を発掘したり、その年代推定の手がかりとなるものです。

ここ最近は幸いなことにネットで多くの遺跡情報や地図情報等を仕入れることができますから、それをdaizenさんたちの若い世代が今後さらに生かしていくことを望んでいます。

ひとつ地図関連で最近注目されているものとして、海進状態を復元できる「Flood Map」(https://flood.firetree.net/)の利用があります。

図1~3は、昨日の投稿で分析した御塚古墳や大善寺、小学校、玉垂宮付近を7mの海進状態にした地図です。

こうみると、このあたりはほとんど海だったことがわかりますが、この古墳周辺だけが島地もしくは岬のようにして存在していたことがわかります。

実際、吉野ヶ里遺跡や多くの古墳は、この地図を用いると海岸沿いに立地していたことが明らかになり、逆にいえば海進が7m以下の低地には、全国的にみてもほぼ古代遺跡が存在しないこともわかります。

中世から近代にかけて、徐々に土砂が埋まったり、埋め立てられていく過程で、それらの土地にも遺跡が見えてくることがありますが、古代に海の下であったろう大善小学校の荒地については、その点からいくとご指摘にあったような中世以降の伝承に由来する可能性もありそうです。

ちなみに、このあたりの地域は、古代は海だったので遺跡や古墳はないだろうと考えていたので、今回情報をお教えいただき、すくなくとも5世紀にまで遡る古墳があることに気づき驚かされました。

なぜこのような海岸や島地にこのような古墳や神社が造営されていったのか?について、明らかにすることができれば面白いですし、さらに、なぜ火祭りや鬼の伝承がのこり、特に水沼君といった豪族がここに拠点を置いて、そのようなことをしていたのか?についても想像していくと、何か新たにわかってくることもあるかもしれません。

日本の歴史はロマンであふれていますので、ぜひ社会の勉強頑張ってくださいね!


青面金剛 投稿日: 2023年10月02日 03:30:10 No.336
 daizenさん、初めまして。Google Map の検索欄に「史跡」で検索すると、不毛霊跡と、夜明神社 乙名塚が見つかります。今の不毛霊跡には案内板も立てられた様です。

『朝日寺開山神子栄尊禅師にまつわる話です。土地の長者藤吉種継の娘が流人平康頼(安徳天皇の説もある)との間に子供をもちます。この子は口から異光を放ち、父母は恐れてこの子を野に捨てます。この子は千光寺の元琳和尚に拾われ、後に高僧の神子栄尊禅師となります。
この捨てられた場所は、草木も生えないと伝えられ、この碑が建てられました。』

朝日寺
『この寺は1245年に神子栄尊禅師が開いた久留米でも古い歴史を持つ臨済宗のお寺の一つです。
 神子栄尊は1192年に生まれました。父は平康頼(安徳天皇と云う説もある)、母は三潴庄の住人であった藤吉種継の娘です。
 栄尊は生まれたとき、口から異光を放ち、恐れた母親は寺院の近くに捨てました。永勝寺の元琳和尚が、その子を拾い仏門にいれました。栄尊は宋に渡り無準和尚に学び、帰国後各地を行脚し、万寿寺、円通寺、朝日寺などひらきました。朝日寺には、木造の神子栄尊座像が安置されています。』

宇佐市 円通寺
『伝説によれば、栄尊は宇佐神宮で祀られている八幡神との強い繋がりがあったとされている。寺院への参道と門、そして本堂が宇佐神宮の表参道と同じ直線上にあり、この寺が宇佐神宮と深い関わりがあることを物語っている。
 栄尊は日本に帰国した後、八幡大神に渡海の安全と成功の感謝御礼ため1243年に宇佐宮を参拝した。』
https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/14/toshikeikaku/keikan/matidukuri/usachiku/syuyumap/hotoke/12774.html


鬼夜  https://tamataregu.or.jp/oniyo

鬼夜2023 『偲フ花:五條桐彦』
https://omouhana.com/2023/01/08/鬼夜-2023/

大善寺玉垂宮『鬼夜』上:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:前半/

大善寺玉垂宮『鬼夜』下:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:後半/

『この秘密の神事に月は必須だからです。

 水沼氏は謎の多い氏族ですが、聞くところによると禊(みそぎ)の介添えの巫女を「水沼」と言い、水の女神を水沼女と呼ぶそうです。
 月には生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)があるという思想があり、神の禊を介添えすることでその水を地上で受けとることのできる巫女が「水沼」なのだそうです。

 月と不老不死、このキーワードに引っかかる、重要な人物に僕は心当たりがあります。
魏書に記された邪馬台国の女王にして龍宮の乙姫、宇佐王国の豊玉女王です。

 大松明の行事に民衆が気を取られている間に、秘密裏に鬼面尊神を連れ出し禊を介添えします。
 なぜなら、尊神は一年の間、参拝する人たちの罪・穢れをその身に受け、ドロドロになってしまっているのです。
 それを水沼の巫女の介添えを得て禊を行うことで月の再生の力を得る、それがこの鬼夜に隠された本質です。
 なんと美しく、そして物哀しい話でしょう。

 鬼面尊神は大松明廻しの時も、姿を隠し、赫熊姿の子供らに囲まれて鬼堂を7周半回っていたそうです。
 人目を避けながらも人々の穢れを受けてくださる鬼の名を負った優しき神、それを月神の力を借りて禊ぐ巫女、それが当社の真の祭神の姿です。

 この大善寺玉垂宮の新年の祭事では、置き換えられた新たな神の影で、古い神をひっそりと大切に、今日まで禊ぎ祀ってきたのです。
 その二人が主役であることは、この祭りが当社で最も重要な祭りであり、単に鬼払いの祭りではないことが示しています。』
管理人 投稿日: 2023年10月07日 23:55:17 No.337
また、青面さん、下記の情報ありがとうございました。ご紹介あった巫女の禊の話は、まさに先日指摘した大善寺周辺の御塚古墳周辺の岬状地形と関わる伝承と言えそうですね。

大善寺玉垂宮『鬼夜』下:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 序
https://omouhana.com/2023/01/07/大善寺玉垂宮『鬼夜』:後半/

『この秘密の神事に月は必須だからです。

 水沼氏は謎の多い氏族ですが、聞くところによると禊(みそぎ)の介添えの巫女を「水沼」と言い、水の女神を水沼女と呼ぶそうです。
 月には生命の大源で不老不死の水「変若水」(おちみず)があるという思想があり、神の禊を介添えすることでその水を地上で受けとることのできる巫女が「水沼」なのだそうです。

 月と不老不死、このキーワードに引っかかる、重要な人物に僕は心当たりがあります。
魏書に記された邪馬台国の女王にして龍宮の乙姫、宇佐王国の豊玉女王です。

 大松明の行事に民衆が気を取られている間に、秘密裏に鬼面尊神を連れ出し禊を介添えします。
 なぜなら、尊神は一年の間、参拝する人たちの罪・穢れをその身に受け、ドロドロになってしまっているのです。
 それを水沼の巫女の介添えを得て禊を行うことで月の再生の力を得る、それがこの鬼夜に隠された本質です。
 なんと美しく、そして物哀しい話でしょう。


静川遺跡ライン 管理人 投稿日: 2023年09月27日 01:33:57 No.329 【返信】

先日は、久しぶりに知人と苫小牧方面にある植苗貝塚やタプコプ遺跡、植苗古墳、その東方の静川遺跡に行ってきました。

その植苗貝塚については、5640年前の縄文時代の海進がもっとも進んでいたころの貝塚となり、図1の海進地図(7m)で見ると湾の西岸沿いにあったことがわかります。

その対岸にあったのがタプコプ遺跡で、縄文時代中期のタプコプ式土器や、その後も続縄文・擦文時代まで使用され、北海道最古の鉄器も出土しています。

なお、タプコプの意味は、コブのように海岸へ突き出た尾根上の土地で後代のチャシと関連づけうるでしょう。

そしてその北方にあったのが、北海道式古墳の植苗古墳ですが、こちらは跡地を確認するだけでした。位置的にはやはり内陸へと入り込んだ位置にあり、まだこの時代まではなお内陸への航海も可能だったのでしょう。

支笏湖そばの樽前山の噴火が複数回起こっており、それにともなう火山灰層の厚さがあるので、現在予想するよりも、はるか内陸まで船で移動できたのではないでしょうか。つまり9000年前から1739年に至る複数回の噴火で2m前後の厚さで千歳空港付近に堆積が繰り返されているので、それを差し引くと、千歳空港東側まで海が進出していたはずです。そしてそこから北上して、祝梅三角山遺跡あたりから、今度は石狩側からの海が入り込んでいたのでしょう。

そこで、また今回見てきたのが、静川遺跡となりますが、こちらも図のように、半島に沿った海岸沿いに位置しており、同時に図2のように、縄文中期後半の垣ノ島遺跡から東45度偏角でのびるライン上にあり、同時に、同じく縄文中期の札幌市豊平区西岡5条3丁目にあったT204遺跡からのびる西45度偏角との交差点上にあります。

具体的には、垣ノ島遺跡⇔静川遺跡への東45度偏角ラインと、T204遺跡⇔T469遺跡⇔恵庭公園遺跡⇔静川遺跡への西45度偏角のラインが確認できます。

その恵庭公園遺跡については、縄文時代から続縄文・擦文・アイヌ時代まで活用されています。


また図のように、大船遺跡⇔白老ポロト3遺跡⇔恵庭公園遺跡⇔冷水遺跡⇔神居古潭環状列石への東60度偏角のラインもあり、恵庭公園遺跡の位置が先のラインと交点に位置していることからみてもこの遺跡が重要な位置付けだったことが理解しうるでしょう。

白老ポロト3遺跡は縄文中期(特に中・後半)以降で擦文時代・アイヌ時代にも用いられています。この縄文中期後半は、環状列石(ストーンサークル)が伝来してくる時代であり、このラインが神居古潭環状列石へと結びつくこともその集団の影響と考えうるでしょう。アイヌ時代までこれらの遺跡とラインが神聖視されて継承されていったのでしょう。


その他図3の拡大図のように、垣ノ島遺跡⇔T210遺跡⇔T204遺跡への東70度偏角のラインがあり、T204遺跡は縄文時代から続縄文時代、T469遺跡も擦文時代にもちいられていることがあり、かなりこれらの遺跡も長い間重要視されていたでしょう。

なお静川遺跡については、下記のウィキ記載にあるように、環濠がある点で特殊な目的あったと言えるでしょう。


静川遺跡は、苫小牧市から厚真町・安平町・むかわ町にまたがる厚真台地上にある。1982年(昭和57年)の調査で、東西に双頭状に分かれた台地上から、縄文時代早期から続縄文時代までの土器、石器や装身具類18万点が発掘された。
東側のA地区からは、幅0.3〜3メートル、深さ1〜1.8メートル、全長139メートルにおよぶV字状の環壕と径8メートルほどの建物跡2棟が出土した。この環壕は縄文時代末期のものと考えられている。また、西側のB地区からは、環壕とほぼ同時期のものと考えられる竪穴建物跡33棟、土坑墓、落し穴、土器片囲炉、焼土跡など多数の遺構が発掘された。
静川遺跡は集落と環壕が一体となった、日本では他に例がない貴重な学術資源である。
本州における弥生時代の環濠集落が、集落を守る防御施設であると考えられているのに対して、静川遺跡の場合は環濠の外に多くの建物跡があることから、防御施設とは考えられず、その目的は諸説あり定まっていない。なお、環壕は現在埋め戻されているため、見ることはできない。


その環濠については、海岸沿いでかつ重要な交易・防衛拠点であったことによることと関係していたのではないでしょうか。

測量面では、道南から石狩平野へと北上しながら進出していく上で、45度偏角の最初の起点として、欠く事のできない位置にあり、最初期の進出拠点だった可能性がありそうです。

二つの集落に分かれており、それが梯子のようにして接合されていることも特徴的で、その集落の間が港湾のようになっており、そこに船が数隻入ってきて接合していたのかもしれませんが、環濠はその縄文末期のそれとのことで、大陸系の集団の移住の可能性も視野にいれておくべきかもしれません。その辺についてはまた追って考えていきましょう。




梁書の倭国関連記載について2 管理人 投稿日: 2023年09月17日 01:23:03 No.328 【返信】

先日、梁書の倭国関連の記載みえる倭国を九州方面、その東北7000里にある文身国を吉備・岡山方面、その東5000里にある大漢国を河内・奈良方面、その東2万里にある扶桑国を関東・東北方面、その東1000里にある女国を北海道方面と推定したことがありました。

そこで、さらにその詳細について考えを進めてみたいのですが、まずこれらの記載がいつ頃のものだったかについて考える必要があるでしょう。

最初の記載に下記のようにありますが、

其南有侏儒國、人長三四尺。又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。
又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。

これは魏志倭人伝にある次の記載と同一の文献からの引用でしょう。

女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

ただ、ここで、いくらか記載に相違があることに気づきます。

まず、魏志倭人伝では侏儒國は女王国の南に四千餘里にあるとし、裸國と黒齒國は別にその東南で東南 船行一年の距離にあるとしているのに対して、梁書では、侏儒國の南に黒齒國、裸國があり、去倭四千餘里、船行可一年至としてます。

ここで「其々」との語を省略していないならば、四千餘里=船行可一年との理解がなりたちます。

ただし、ここで、侏儒國とその南の黒齒國、裸國を1セットとして、南に四千餘里にあるとして、それとは別に船行可一年の場所で、かつその西南方面に海人がおり、身は黒、眼が白いとの記載をしているようにも見えます。

この場合、1万里=船行一年の距離として、肌の黒いフィリピン・インドネシア人が住む地域を、東南から西南にあらためて記載しなおしていた可能性もあるでしょう。

以前考えたように、倭人伝の侏儒國を低身長の遺骨が出ている種子島方面として、女王国から四千里として、裸国・黒歯国も琉球の奄美・沖縄方面とし、そこから1?万里に西南方面に距離を延ばした地点となると、例えば沖縄⇔フィリピン北部までが1000㎞となり、1里445mで、1万里を445㎞とすると、やや足りない計算です。

なお台湾南部からフィリピン北部へは南北ですが、400㎞ですから近似してきますね。仮にこの文献が魏以前の漢の時代のそれだとすると、尺度はもっと短くなり、1里420mで1万里で420㎞前後となるので、さらに近似してくるでしょう。

これらの前提の上で、次の下記の記載となりますが、

文身國、在倭國東北七千餘里 
大漢國、在文身國東五千餘里

これも基本的には魏志倭人伝の元テキストからの引用の可能性が高いでしょう。距離尺も方角も上記の記載の延長線上にあるはずです。

それで、方角と距離の件で、今回の西南万里が参考になるのは、次の記載でしょう。

扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、


ここでこの話は5世紀当時の僧・慧深からとなるので、上記の倭人伝の元テキストからの引用ではない可能性が高いわけです。

ただ、彼の話している扶桑国の記載は、それより古い扶余伝・高句麗伝の記載と共通性が多く、また同じくそ扶桑の東千餘里の女國の記載についても、先日指摘したように、『三国志』東夷伝東沃沮の条の王頎が毋丘倹の命令で高句麗王宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際の話と共通要素が多いことがありました。

ここで、その女国を習俗記載などからみて、東北(扶桑)から1千里北にある北海道方面と先日は予想したのですが、北沃沮の東方の海の向こうにある島は、図2のように北海道となるわけですから、矛盾しないことがわかります。

またかれらの描いていた距離・方角の理解は図1のようになりそうですが、全体的には東北が北へ、東が東北へと軸を西へ傾けた世界観をもっていたであろうことも予想できます。

そこで、特に扶桑国と女国の記載から、実際に関東・東北と、北海道に当てはまる要素があるかどうかについても考えみたいのですが、そのヒントとなるのが植生の記載でしょう。

まず、扶桑国の下記の記載があります。

其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笑、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。

ここで、この扶桑の木については、桑とする説などがあるようですが、桐に似た葉を持つもので、かつ食用の赤い実をもつものとしては、イイキリ(飯桐(https://www.jugemusha.com/jumoku-zz-iigiri.htm 参照))が挙げうるでしょう。実際赤い実をもち、本州以南に生えてますが、扶桑の名にふさわしい高木で、葉の形も桐に似てます。その扶桑国ではその木の皮を衣服にしたり、紙として用いていたのですが、そのイイキリの皮については灰褐色で比較的桐にいた感じとのことなので加工はしやすかったのかもしれません。

なお、この扶桑国には文字があったとの記載が重要で、しかも漢字であったとは記されていないことからみて、朝鮮系、あるいは日本独自の文字があったことを想定すべきでしょう。それを木の皮に記していたはずですから、それがどこからか発掘されれば古代関東・東北の歴史を知る手がかりになるかもしれません。

もうひとつ、この扶桑国記載で注目すべきは下記の記載です。

有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不責金銀。


まず、非常に角の長い牛がいるはずで、和牛でも角の短いものではないものを探す必要があります。

また鹿を牛の代わりにして車を引かせたりしているわけですが、鹿の埴輪あたりをみると、特に房総方面の古墳のそれなどに注目すべきでしょうか。

そして桑と梨があるとしてますが、梨はどちらかというと関東・東北方面を思わせます。

蒲桃が多いとの記載もありますが、これは調べていくと葡萄(ブドウ)のことと考えうるでしょう。これも関東・東北方面を思わせます。

そして銅はあるものの、鉄がないといってますね。

これらの植生や動物、鉱物にみあった地域が扶桑国となるはずです。

次に、その東とされる女国の記載についてみていくと、そこに描かれた人物像は、毛が長く、かつ色白とのことで、アイヌ民族の祖先、おそらくは縄文系の特徴が見えることを先日予想しましたが、また下記の記載もあります。

食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味鹹。」

訳文(http://inoues.net/yamahonpen4.html より)はこちら

鹹草(かんそう=「あしたば」)を食い禽獸の如し。
鹹草の葉は邪蒿(じゃこう)に似て氣は香しく味は鹹(から)し」


天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、
男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如竇云。


その邪蒿に似た草があって、いい香りがする辛い草があるといった記載のようにみえます。

この邪蒿は、先日も指摘したように、伊吹防風(http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild flowers/ibukibofu.htm)となりそうですが、これは北海道や近畿以東に分布してます。

ただ、それに似た葉だといっているので、それとは別の植物のはずで、辛みをする草となりますが、その辛みを出す草としては、からし菜(https://lovegreen.net/library/vegetables/p119936/)があげうるでしょう。

実際、そのギザギザの多い葉の形などは、先の邪蒿にも似ており、またwikiのカラシナ条によると下記のようにあります。


中央アジア原産といわれる。中央アジアから中国にかけて、アブラナの交雑、あるいはクロガラシとアブラナの交雑により生じた品種と考えられている。日本への伝来は弥生時代ともいわれ、平安時代である延喜年間(901年 - 923年)編纂の『本草和名』や承平年間(931年 - 938年)編纂の『和名抄』に記載がある。また、川沿いの土手などにも野生化して生えている。高さは1 - 1.5メートル (m) 。春に開花し、アブラナに似た黄色い花を咲かせる。辛味成分のシニグリンを含み、種子はからし粉の原料に使われる[1]。葉や茎は、漬物やお浸し、炒め物などにして食べられている。中国北部で栽培されていて、日本では北海道や東北地方を中心に栽培されている。耐寒性は高い作物で、発芽適温は25度前後とされる。葉を食べる場合の栽培期間は約3か月ほどで、春まきで初夏に収穫する栽培法と、秋まき(晩夏)で晩秋に収穫する栽培法がある。


このように、日本にも弥生時代以降には存在しており、かつ北海道・東北方面に適した植生を持っていることからみても、からし菜だった可能性が高いのではないでしょうか。

あと小豆を食べるとの記載ですが、縄文時代から小豆は食べられていたようです。ただ、またここには水稲記載がないので、小豆をその代わりに主食としていた可能性があるでしょう。小豆は全国で栽培されてますが、現在は北海道で多く栽培されているようです。

そして、築土爲墻、其形圓、其戸如竇云。との記載ですが、まず垣を巡らすようにして土塀を盛り、その形が角がなく丸みを帯びていて、かつ穴のような家に住んでいるとのことになるでしょう。

縄文時代の竪穴住居を想起させますが、wikiの竪穴住居条によれば、特に北海道東部の標津遺跡群のものは2m以上掘り下げており、穴に住むという表現が相応しい構造とも言えそうです。

その角が丸いとの記載についても、縄文時代には円形、楕円形、方形、長方形、六角形などがあるが、弥生時代から古墳時代前期にかけては隅丸方形が主体となり、古墳時代後期以降は方形に近い長方形が主流となるとのことなので、日本のそれとは矛盾しないでしょう。

そして家を囲む土塀の有無ですが、下記のwiki記載がありますね。

弥生時代から古墳時代前期の低湿地遺跡の集落などでは、竪穴部の外側に幅1-5メートルほどの土手状の盛土が廻る事例があり、周堤(しゅうてい)と呼ばれる(大阪府八尾市・八尾南遺跡など)。これらは雨水の侵入を防ぐ目的で構築されたと考えられている。また周堤のさらに外側には、外周溝(がいしゅうこう、単に周溝とも)と呼ばれる幅1-2メートルほどの溝が廻る事例がある。これらも弥生時代から古墳時代前期の低湿地遺跡集落などで検出事例が多く、除湿などの目的で構築されたと考えられている。


これらのことを考慮していくと、その女国が日本列島、特に北海道に存在していた可能性が高くなるのですが、その特定には、もう少し細かく東北・北海道の調査をすすめていく必要がありそうです。また何かわかり次第お知らせいたします。




梁書の倭国関連記載について1 管理人 投稿日: 2023年09月14日 01:39:14 No.327 【返信】

以前こちらでも分析して、会報第4号でも論じたのですが、『梁書』における倭国関連記載については下記の扶桑国の話があります。これは普通年間 (520 年‒527 年)に扶桑国から来たと言う者の話と記されています。


 其南有侏儒國、人長三四尺。又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。
 文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獣、其額上有三文、文直者貴、文小者賎。土俗勸樂、物豊而賎、行客不●糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲●、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獣食之、有枉則猛獣避而不食、脛宿則赦之。
 大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戦。風俗並與文身國同而言語異。
 扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在
中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笑、國人食之、實如梨而赤、績
其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其
國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男
女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人
於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七
世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角
導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、
以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、
徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不責金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕
灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、
五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕●●、不制●●。嗣王立、三年不
視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、●賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、徑像、教
令出家、風俗遂改。」
 慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。至二、三月、
競入水則任娠、六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能
行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」
天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、
男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如●云。



ここで、梁の「文身国」「大漢國」の情報と、僧慧深が南斉の永元元年(499)に「扶桑国」「女国」について語った情報とが記されており、その位置関係を整理すると、次のようになります。


まず倭国の東北7000 余里に「文身国」があり、その東5000 余里に「大漢国」、その東20000余里に「扶桑」、その東1000 餘里に「女國」となります。距離比率にして7:5:20:1 です。

魏志倭人伝の1里は、53.5m前後と以前考えたことがありますが、この場合の1里は、南北朝当時の445m前後とすると、7000里は311.5㎞なので、概ね住吉神社(福岡)⇔造山古墳(岡山)間の距離の334㎞(111km×3)に近似します。

その方角は図のように東20度偏角となり、東北というよりは、東北東と言えるでしょう。

ここで「文身国」については、その刺青の様子や、歓楽的で食物が安く豊富なこと、王の宮殿の周りに水銀を満たした堀があることなどが記されており、倭人伝の倭国記載同様に、倭人の習俗に近いと言えるでしょう。ただ、水銀を満たした堀の話は、秦の始皇帝陵のそれを思わせますね。

一方でその東の「大漢國」は、習俗は同じものの言語が違うとしており、渡来系集団が中国の「漢」に由来して名付けた国名のようにも見受けられます。

この6世紀前半当時、日本に渡来した漢氏は隅田八幡鏡に「穢人」と記されているとおり、その「穢」が「漢」に対応し、上記「大漢国」の国名起源とも関係しそうです。

渡来系集団、特に漢氏がその当時多かったのは、吉備方面あるいは河内方面、飛鳥南部でしょう。


そこで、その大漢国は文身国の東5000里となるので、岡山から222㎞東となり、航海をしての直線距離でいくと、造山古墳(岡山)⇔高津宮(河内)は156㎞前後でやや足りないのですが、陸路を経由したならば、概ね河内から奈良周辺と考えうるでしょう。

ここで倭国というのが、これらの国とは異なる九州周辺地域と理解していることに留意しておくべきかもしれません。

ただ、続く扶桑国は大漢国の888㎞も東となり、河内⇔鹿島神宮間でも500㎞なので、東北・北海道方面になってしまう計算です。

もっとも陸路で、図のように、関東の観音山古墳(群馬)経由で東北の伊沢城方面まで向かったとすれば、高津宮⇔綿貫観音山古墳間が484㎞、綿貫観音山古墳⇔胆沢城間が367㎞で、それらを足すと851㎞となるので、888㎞にそれなりに近い距離と言えるでしょう。

あるいは、高津宮⇔芝山古墳群間が459㎞で、芝山古墳群⇔胆沢城間が394㎞なので、それらを足すとやはり853㎞となり近似してきます。

なお、図のようにその綿貫観音山古墳⇔埼玉古墳群⇔子の神古墳群⇔芝山古墳群への30度偏角のラインがあることは以前も申したとおりですが、その綿貫観音山古墳⇔胆沢城への東60度偏角のラインとが直交している点にも留意しておくべきでしょう。

同様に、綿貫観音山古墳⇔造山古墳⇔住吉神社(福岡)への東20度偏角のライン、芝山古墳群⇔高津宮⇔住吉神社(福岡)への東10度偏角のラインの存在も確認できます。

その扶桑国については、ウィキペディアによれば下記のような諸説があるようです。

平田篤胤は、その著『大扶桑國考』で、国王を意味するという「乙祁」を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた。現代では宝賀寿男や大和岩雄も同様に日本の別名とする説である。

関西説

赤松文之祐やいき一郎の説では、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとしている。

関東説

荻生徂徠は1736年の著書『南留別志』において、「上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、扶桑国は房総半島とした[要文献特定詳細情報]。

その他の日本国内説
九州説、東海地方説(前田豊は三河説、何新は富士山説)、東北地方説、北海道説、樺太説がある。




その扶桑国の習俗や官制は概ね扶余・高句麗のそれと同じであることは以前会報でも指摘したとおりですが、その扶余・高句麗系集団が、5世紀~6世紀にかけて、東北・関東方面へと移住していたとすれば、そこにそのような習俗や官制の国が存在していたとしてもおかしくはないでしょう。その中心拠点が群馬の綿貫観音山古墳付近や千葉房総の芝山古墳群付近にあり、北方の拠点として胆沢城・多賀城付近、さらに北限が津軽海峡だったことも予想できます。

多くの太陽を射落とす扶桑樹信仰に関連するであろう日高見国と関係しそうですが、北燕遺民が当時朝鮮半島から倭の日本海側へと移住していたので、その影響を受けて成立した国があったのかもしれませんね。

群馬高崎方面の古墳群の埴輪にも見えてくる集団となるでしょうか。継体朝あたりから、越・尾張方面から進出していったのでしょう。

そして、今回興味深く感じるのは、その扶桑国の東1000里にある女国の下記の習俗です。

慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。」

これは色白で彫りが深く毛が濃いとされるアイヌ人の祖先、つまり縄文系の集団、東北の蝦夷とも関わる集団の習俗のようにも見えます。

1000里を44㎞とすると、概ね津軽海峡を越えて北海道南部となるでしょう。

仮に北海道の縄文人の末裔だとすると、下記の記載は古代北海道の習俗記載となりそうです。

具体的にみていくと、

至二、三月、競入水則任娠、

まず、春に入水して妊娠するという鮭のような感じでしょうか。


六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、

数か月で出産し、毛から乳がでて育てるという話になってますね。成長がともかく早い。


偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」

偉丈夫を畏れ、草を食べ、邪蒿に似た草花と動物のように戯れる、その香りと味が云々といってますね。


邪蒿については、イブキボウフウ(伊吹防風)だとすると、北海道・近畿以東、朝鮮南部となるでしょう。

こちら参照。
http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild flowers/ibukibofu.htm


これと似たような女国に関する話としては、下記の伝承があります。


同類の伝承として『三国志』東夷伝東沃沮の条に、王頎が毋丘倹の命令で高句麗王宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10 日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7 月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。

また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。」


新羅と東沃沮(扶余)との間には、同族関係にあることは別章で論じたとおりで、新羅伝承は、この東沃沮の伝承を元に作成されたことがわかります。

そして慧深の「女国」の伝承も、「7月」「うなじ」「子供」といった要素で共通するわけです。

そうすると、古代北海道の住民の特徴として、女性が多い?といった現象が起きていた可能性が出てくるでしょう。

島地であり、かつ海で出産したり、子供を鎮めたりすることからみて、海との関わりが強い。

あと、仮に北海道がこの女国だったとすると、中国からみての東の方角が、徐々に東北へとずれてしまっていたことも考えうるでしょう。

大漢国の東とされた扶桑国も東北方向であった可能性も出てきます。

この東北・北海道方面とかかわりそうな古代資料について、また少しこれから考えていきましょう。




魏志倭人伝の分析2 管理人 投稿日: 2023年08月30日 01:28:46 No.326 【返信】

先日に続いて魏志倭人伝を読み直していきたいと思いますが、今回は下記の記載に注目してみましょう。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡


ここで、女王国より以北の国ついては戸数や道里を略載することができたが、その餘りのかたわらにある國については、遠すぎて 詳しく明らかにすることはできないと言っていますね・

つまり女王国の北に位置する伊都国などから投馬国までは、確かに戸数や道里(距離)は掲載されているのですが、それ以後の後半の諸国についてはその記載がないことと一致しています。

ここで撰者は投馬国を女王国の北にある国だと認識していることがわかります。

南至邪馬壹國 女王之所都

とあるが、女王国連合?の中に邪馬台国があるという理解のようにも見えます。

それは、残りの21国の最後に此れ女王の境界の盡きる所なりとあるように、この21国も女王国の連合国とみなしているのでしょう。

邪馬台国については、その女王が都するところであり、都市や小さな地域の地名として残っている可能性があり、それが南西諸島から九州や吉備・畿内のヤマトの字名と関係してくるはずです。

ここで、官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸 とある七万戸は、その21国の不明な戸数は含まれておらず、九州福岡方面の奴国のような一地域の戸数と理解すべきでしょう。福岡平野の数倍前後の農地を持つ平地である可能性がありますね。

そして、その官職ですが、長官の伊支馬はイチマで、次官が彌馬升(ミマ・ショウ)、次が次が彌馬獲支(ミマ・ワキ)となりますが、この升は、漢書の倭国王師升(スイ・ショウ)、女王国からの使者の難升米(ナン・ショウ・マイ)の升との称号になりますから、王から王族の地方長官クラスとかんがえるべきかもしれません。

これはその次の彌馬獲支(ミマ・ワキ)とも関係して、ミマという地域が邪馬台国(ヤマト)にあり、その支配者としてのミマがいたと考えると、後代の崇神天皇がミマキ・イリヒコとなることとも関係するはずです。

崇神は、ヤマトの王族の中でもやや下に位置するミマという地域の豪族だったのではないでしょうか。

これは物部氏の祖の三間(ミマ)君とも同類で、水沼県主(ミヌマ)とも対応するはずですから、物部氏と関わる筑後川沿いの支配者もしくは、畿内でいけば三輪山方面の支配者が想定しうるでしょうか。

ここで、ミマ⇔ミワの変換も予想しうるのですが、彌馬獲支(ミマ・ワキ)自体にすでにミワの語音を含有していることにも注目すべきです。

彌馬獲支(ミマ・ワキ)は、ミマという地域の皇族の別流となる別(ワケ)・君(キミ)の意味かもしれません。後代の応神のホムダ・ワケのワケと見なしてよいでしょう。

ヤマトとミワの組み合わせは九州朝倉方面や吉備、畿内大和方面等に見えてくるので、このセット関係を考慮しておく必要があります。

ここで難升米の難(ナン)も、その支配地域名だった可能性があり、邪馬台国に近い地域に位置する同じ系統の官職を持つ集団の長であり、難(ナン)との地域のそれだとすると、奴国のナに関わるかもしれません。

奴国は、那珂(ナカ)地域と関係するとみられてますから、ナのカワ⇒ナンの対応で、福岡北部の豪族を、卑弥呼が帯方郡方面へと遣使した可能性がみえてきます。

同様に倭国王の帥升も、帥(シ・スイ)との地域の豪族であり、漢からは倭国王とみなされていたと考えると、金印が出土した志賀(シカ)島周辺に、そのシ・スイと関わる地名が残っている可能性があるでしょう。

その上位にいた皇族は、ショウと呼ばれていたはずですが、さらにその上位にいた長官が伊支馬はイチマで、イチとの称号をもっていたはずです。

市磯長尾市のように、箸墓のあるオイチ(大市)を治める守とすると、ミマキイリヒコの時代の人物ですから相関性がみえてきそうです。

そのイチは、女王国北部の諸国を監視・統率し伊都国にいた特別な官職・一大率(イチダイソツ)のイチにかかるかもしれません。伊都国にはまた別に長官の爾支(ニギ)、副は泄謨觚(セツバクコ)、柄渠觚(ヘイヒョウコ)がいます。

ここで、次の奴国の長官の兕馬觚(ヒマコ)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)、また壱岐対馬の長官・卑狗(ヒク)、副官・卑奴母離(ヒナモリ)を考慮すると、伊都国の副官・泄謨觚(セバクコ)は、奴国の「ヒマコ」に、同じく柄渠觚(ヘイヒョウコ)は、卑狗(ヒク)に対応する官だったと考えうるでしょう。

ここで、伊都国では謨(バク)を用いるのに対して、奴国では馬(マ)音を用いてますから、前者は馬の中国北部方言のバを、後者は馬の呉音のメを用いる集団であった可能性があり、初期の弥生人の故郷の長江方面の呉音をもちいていた奴国連合のところへ、ある時期に朝鮮半島方面から北部中国系の集団が伊都国を造っていった構造が浮かびあがってきそうです。

そこで伊都国にみえてくるのが、漢音の一(イツ(漢音)・イチ(呉音))を長官とする集団の影響ですが、同じくその長官の爾支(ニギ)の二も、数字の二(ジ(漢音)・ニ(呉音))の影響で成り立っていたことも予想しうるでしょう。

そのニギが、天孫降臨に出てくるニギ・ハヤヒ、ニ・ニギといった外来系集団となるはずです。

そのニニギは北部九州から高千穂・日向・薩摩方面へと南下していき支配を広げていくわけですが、先の邪馬台国の官職としては、一番目にイチマがおり、このマは呉音系の名残を残しつつ、次官には彌馬(ミマ)が入るので、この彌(ミ)が、三(サム)のムにかかり、倭訓のミにもかかっていた可能性があるでしょう。

倭訓は高句麗祖語のそれでしょうから、全体的には朝鮮系の影響があるのでしょう。

最後にみえてくる4番目の序列の官の奴佳鞮(ヌカダイ)についても、奴が地名を表していた可能性があるでしょう。

そうすると、奴国や、周辺21国にも多くみえてくる●奴国の長官と考えると、郡県の地方長官といった具合に理解できそうです。

ここで、後代の県主(アガタ・ヌシ)がありますが、そのアガタと、このヌ・カダイのカダイが音的に近いように感じます。

アガタは、大きい「ガタ」の意味ではないでしょうか。そのカタが、カダイに対応するわけです。

このように、邪馬台国とその北部諸国の官職構造から、その集団の故地や言語系統まで明らかにしうる可能性がみえてきますが、実際に先の21国がどこに位置していたかを明らかにできれば、概ね邪馬台国の位置もみえてくるはずです。その辺についてはまた後日考えてみましょう。


斐太神社の「斐」を考える 弓張月 投稿日: 2023年08月21日 12:06:20 No.319 【返信】

「斐」をひふみ(一二三)とすると、いろんなことが連想出るようですね?

その中で、「非」は樋知大神社 (ひじりだいじんじゃ)と出雲国に樋社があることから「樋」とすると、「文(二三)」の読には、「あや(阿彌)」がありますね。そして、茨城県では阿彌を「あみ」としていて、阿弥神社があります。また、「み」は、水戸の「水・三(東海道五十三次の五十番宿は水口,壬生(みぶ)は、み=三・水から水府)
言いたいことは、弥彦神社の「いやひこ」で、「あや」に対して「いや」であって、「いやひこ」とは、「母子」のことでしょう? 高志国と言えば、沼河比売なのでしょうから。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:37:12 No.320
「二三」を国道23号から想像することは、

 23=二見で、伊勢の「二見浦」となりますね。
 二見は、本は双見でしょうか?
 となると、双(そう)⇒相(桑・草)⇒あい(愛・糸・伊都≒伊豆)と見⇒弥 となりま 
 すか。
 つまり、二見は「あや」と「いや」である。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 09:54:32 No.321
この掲示板をお読みになっている方々には、既にご存知かもしれませんが、
阿弥神社のある茨城県阿見町には、「清明川」があり、下流から上流に昇っていくと、二つある阿弥神社のどちらかに行きつきます。よく考えてますね。
弓張月 投稿日: 2023年08月22日 21:11:01 No.322
出雲国の斐伊川(ひいかわ)がありまが、

斐(ひ)・・・ 敏達天皇
伊(い)・・・ 伊達(だて)氏  

斐は「一二三」で、「ひふみ」から敏達天皇,伊達は「伊に達する」で、伊とは「伊都・井」でしょうか?
   
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:22:20 No.323
広島東洋カーフで、
カープは「鯉」で、「昔広島城のある付近一帯は海で、「己斐(こい)の浦」と呼ばれていた」から
ネットに、「広島県海田町が推す観光スポット「旧千葉家住宅」が、あまりにも千葉県だった / 海田町に広島への背信の疑い https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/広島県海田町が推す観光スポット-旧千葉家住宅-が-あまりにも千葉県だった-海田町に広島への背信の疑い/ar-AA1fEgUT?ocid=msedgntp&cvid=752e63a1daac49a991f0cd78f9bee386&ei=8 」なる記事があった。
ウィキペディアには「古くは「許斐」とも書いたことから筑前宗像の「許斐神社」と何らかの関係を有するというもの(芸藩通志)、などである。」と

己斐の己の読み仮名に「き」がある。話は外れて、巳年の巳の読み仮名は「み」(=水・三)と「し」がある。己の「こ」と巳の「し」の共通の漢字「子」で同じだったしたら、己は「き(亀)」と巳=蛇ですね。
そして、広島城を築いたのは「一文字三星」紋の毛利氏で、本姓は大江氏ですね。また、嵯峨源氏の渡辺氏の紋は渡辺紋です。違いは三ッ星の上に一か、下に一。
水戸市渡里町と宮城県亘理郡亘理町の「わた」の大元は、ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)だったのでしょうかね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 12:53:46 No.324
己巳で、己(き)を亀とし、巳年は蛇(だ)なので、読み仮名から己巳(きし)は「「亀蛇」が連想でますね。東洋工業の「マツダ」は、ゾロアスター教のアフラマズダー神からでしたね。繋がりますね?
弓張月 投稿日: 2023年08月24日 19:44:22 No.325
「古くは「許斐」とも」で、名字の許斐の読みには、「このみ,こい,いび,もとい,ゆい,このい」だそうで、斐伊川(ひいかわ)の反対の「いび」があります。そして揖斐川は、ウィキペディアに、語源として、「揖斐」は大昔、水田へ水を引く「井樋」(イビ)から名付けられたと見られるとあり、また、「元々は大垣市内を南北に流れる杭瀬川が揖斐川の本流だったが、戦国時代の1530年に発生した大洪水で呂久川と呼ばれていた現在の揖斐川筋に流れが変わり今日に至っている。」と

そして、ブログ:「リタイア男の暇つぶし」さんの「中山道 第56宿 赤坂宿(1) 呂久川は流れを変えて揖斐川へ」に、

・中山道七回り半
 三津屋の集落を抜け左右が開けてくると、次に「中山道七回り半」と彫られた道標が現れた。 先ほどは「三回り半」であったが、今度は「七回り半」と倍近く曲がりを繰り返すようである。(「三回り半」は、京に向かって三つの曲がりと小さな曲がりが一つあるという意味らしい。道標が立つ曲がり角が一つ目で、二つ目のカーブの所に「素盛鳴社」と名のついた小さな社が祀られていたとのこと)(「七回り半」では、最後の回りの角には、加納薬師への道標を兼ねたお地蔵様を祀るお堂が立ち、横には同じく加納薬師への道標が立つとのこと)
なぜ、五三桐・五七桐紋があるのかと併せて考えると、歴史上の史実と何が関係あるのか不思議です。中山道ですしね。

また、斐伊川と揖斐川、樋の読み「とい」と「とよ」、卑弥呼と宗女の「壹與(台与、いよ、とよ)」と連想ゲームすると、これまた不思議と近い。

https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=許斐
https://x-polarstar.com/2022/09/01/naka-56-1/


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