歴史掲示板(渡来人研究会)


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梁書の倭国関連記載について1
管理人 投稿日:2023年09月14日 01:39 No.327
以前こちらでも分析して、会報第4号でも論じたのですが、『梁書』における倭国関連記載については下記の扶桑国の話があります。これは普通年間 (520 年‒527 年)に扶桑国から来たと言う者の話と記されています。


 其南有侏儒國、人長三四尺。又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而醜。其肉美、行者或射而食之。
 文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獣、其額上有三文、文直者貴、文小者賎。土俗勸樂、物豊而賎、行客不●糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲●、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獣食之、有枉則猛獣避而不食、脛宿則赦之。
 大漢國、在文身國東五千餘里。無兵戈、不攻戦。風俗並與文身國同而言語異。
 扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云「扶桑在大漢國東二萬餘里、地在
中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笑、國人食之、實如梨而赤、績
其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其
國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男
女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人
於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七
世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角
導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、
以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、
徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不責金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕
灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、
五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕●●、不制●●。嗣王立、三年不
視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、●賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、徑像、教
令出家、風俗遂改。」
 慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。至二、三月、
競入水則任娠、六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能
行、三四年則成人矣。見人驚避、偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」
天監六年、有晉安人渡海、爲風所飄至一島、登岸、有人居止。女則如中國、而言語不可曉、
男則人身而狗頭、其聲如吠。其食有小豆。其衣如布。築土爲墻、其形圓、其戸如●云。



ここで、梁の「文身国」「大漢國」の情報と、僧慧深が南斉の永元元年(499)に「扶桑国」「女国」について語った情報とが記されており、その位置関係を整理すると、次のようになります。


まず倭国の東北7000 余里に「文身国」があり、その東5000 余里に「大漢国」、その東20000余里に「扶桑」、その東1000 餘里に「女國」となります。距離比率にして7:5:20:1 です。

魏志倭人伝の1里は、53.5m前後と以前考えたことがありますが、この場合の1里は、南北朝当時の445m前後とすると、7000里は311.5㎞なので、概ね住吉神社(福岡)⇔造山古墳(岡山)間の距離の334㎞(111km×3)に近似します。

その方角は図のように東20度偏角となり、東北というよりは、東北東と言えるでしょう。

ここで「文身国」については、その刺青の様子や、歓楽的で食物が安く豊富なこと、王の宮殿の周りに水銀を満たした堀があることなどが記されており、倭人伝の倭国記載同様に、倭人の習俗に近いと言えるでしょう。ただ、水銀を満たした堀の話は、秦の始皇帝陵のそれを思わせますね。

一方でその東の「大漢國」は、習俗は同じものの言語が違うとしており、渡来系集団が中国の「漢」に由来して名付けた国名のようにも見受けられます。

この6世紀前半当時、日本に渡来した漢氏は隅田八幡鏡に「穢人」と記されているとおり、その「穢」が「漢」に対応し、上記「大漢国」の国名起源とも関係しそうです。

渡来系集団、特に漢氏がその当時多かったのは、吉備方面あるいは河内方面、飛鳥南部でしょう。


そこで、その大漢国は文身国の東5000里となるので、岡山から222㎞東となり、航海をしての直線距離でいくと、造山古墳(岡山)⇔高津宮(河内)は156㎞前後でやや足りないのですが、陸路を経由したならば、概ね河内から奈良周辺と考えうるでしょう。

ここで倭国というのが、これらの国とは異なる九州周辺地域と理解していることに留意しておくべきかもしれません。

ただ、続く扶桑国は大漢国の888㎞も東となり、河内⇔鹿島神宮間でも500㎞なので、東北・北海道方面になってしまう計算です。

もっとも陸路で、図のように、関東の観音山古墳(群馬)経由で東北の伊沢城方面まで向かったとすれば、高津宮⇔綿貫観音山古墳間が484㎞、綿貫観音山古墳⇔胆沢城間が367㎞で、それらを足すと851㎞となるので、888㎞にそれなりに近い距離と言えるでしょう。

あるいは、高津宮⇔芝山古墳群間が459㎞で、芝山古墳群⇔胆沢城間が394㎞なので、それらを足すとやはり853㎞となり近似してきます。

なお、図のようにその綿貫観音山古墳⇔埼玉古墳群⇔子の神古墳群⇔芝山古墳群への30度偏角のラインがあることは以前も申したとおりですが、その綿貫観音山古墳⇔胆沢城への東60度偏角のラインとが直交している点にも留意しておくべきでしょう。

同様に、綿貫観音山古墳⇔造山古墳⇔住吉神社(福岡)への東20度偏角のライン、芝山古墳群⇔高津宮⇔住吉神社(福岡)への東10度偏角のラインの存在も確認できます。

その扶桑国については、ウィキペディアによれば下記のような諸説があるようです。

平田篤胤は、その著『大扶桑國考』で、国王を意味するという「乙祁」を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた。現代では宝賀寿男や大和岩雄も同様に日本の別名とする説である。

関西説

赤松文之祐やいき一郎の説では、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとしている。

関東説

荻生徂徠は1736年の著書『南留別志』において、「上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、扶桑国は房総半島とした[要文献特定詳細情報]。

その他の日本国内説
九州説、東海地方説(前田豊は三河説、何新は富士山説)、東北地方説、北海道説、樺太説がある。




その扶桑国の習俗や官制は概ね扶余・高句麗のそれと同じであることは以前会報でも指摘したとおりですが、その扶余・高句麗系集団が、5世紀~6世紀にかけて、東北・関東方面へと移住していたとすれば、そこにそのような習俗や官制の国が存在していたとしてもおかしくはないでしょう。その中心拠点が群馬の綿貫観音山古墳付近や千葉房総の芝山古墳群付近にあり、北方の拠点として胆沢城・多賀城付近、さらに北限が津軽海峡だったことも予想できます。

多くの太陽を射落とす扶桑樹信仰に関連するであろう日高見国と関係しそうですが、北燕遺民が当時朝鮮半島から倭の日本海側へと移住していたので、その影響を受けて成立した国があったのかもしれませんね。

群馬高崎方面の古墳群の埴輪にも見えてくる集団となるでしょうか。継体朝あたりから、越・尾張方面から進出していったのでしょう。

そして、今回興味深く感じるのは、その扶桑国の東1000里にある女国の下記の習俗です。

慧深又云「扶桑東千餘里有女國、容貌端正、色甚潔自、身體有毛、髪長委地。」

これは色白で彫りが深く毛が濃いとされるアイヌ人の祖先、つまり縄文系の集団、東北の蝦夷とも関わる集団の習俗のようにも見えます。

1000里を44㎞とすると、概ね津軽海峡を越えて北海道南部となるでしょう。

仮に北海道の縄文人の末裔だとすると、下記の記載は古代北海道の習俗記載となりそうです。

具体的にみていくと、

至二、三月、競入水則任娠、

まず、春に入水して妊娠するという鮭のような感じでしょうか。


六七月産子。女人胸前無乳、項後生毛、根白、毛中有汁、以乳子、一百日能行、三四年則成人矣。見人驚避、

数か月で出産し、毛から乳がでて育てるという話になってますね。成長がともかく早い。


偏畏丈夫。食戯草如禽獣。戯草葉似邪蒿、而氣香味●。」

偉丈夫を畏れ、草を食べ、邪蒿に似た草花と動物のように戯れる、その香りと味が云々といってますね。


邪蒿については、イブキボウフウ(伊吹防風)だとすると、北海道・近畿以東、朝鮮南部となるでしょう。

こちら参照。
http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild flowers/ibukibofu.htm


これと似たような女国に関する話としては、下記の伝承があります。


同類の伝承として『三国志』東夷伝東沃沮の条に、王頎が毋丘倹の命令で高句麗王宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10 日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7 月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。

また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。」


新羅と東沃沮(扶余)との間には、同族関係にあることは別章で論じたとおりで、新羅伝承は、この東沃沮の伝承を元に作成されたことがわかります。

そして慧深の「女国」の伝承も、「7月」「うなじ」「子供」といった要素で共通するわけです。

そうすると、古代北海道の住民の特徴として、女性が多い?といった現象が起きていた可能性が出てくるでしょう。

島地であり、かつ海で出産したり、子供を鎮めたりすることからみて、海との関わりが強い。

あと、仮に北海道がこの女国だったとすると、中国からみての東の方角が、徐々に東北へとずれてしまっていたことも考えうるでしょう。

大漢国の東とされた扶桑国も東北方向であった可能性も出てきます。

この東北・北海道方面とかかわりそうな古代資料について、また少しこれから考えていきましょう。




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