歴史掲示板(渡来人研究会)


| 検索 | アルバム | 管理用 | ▼掲示板作るならRara掲示板 |

渡来人研究会(www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/)の歴史掲示板です。
オカルト等の歴史に関係のない投稿、誹謗中傷、宣伝目的・同じ内容の重複投稿、度を越した長文投稿等、なりすまし投稿については、管理人の独断で削除・投稿拒否設定をしますので、ご注意ください。

■アクセス数
TODAY 124
YESTERDAY 109
ALL 39927
お名前
メール
タイトル
画像添付
削除キー ( 記事を削除する際に使用 )
文字色

邪馬台国 歴史学者が画期的新説? 弓張月 投稿日: 2024年05月02日 07:33:40 No.454 【返信】

今朝、ネットに「文藝春秋」2024年3月号と、「文藝春秋 電子版」で、《邪馬台は「ヤマト」と読む》「邪馬台国はどこにあったのか論争」に歴史学者が画期的新説 

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/邪馬台は-ヤマト-と読む-邪馬台国はどこにあったのか論争-に歴史学者が画期的新説/ar-AA1o09W2?ocid=msedgdhp&pc=LCTS&cvid=cc3bd64cbf264806b66e2c7d00c89701&ei=96

「邪馬台国」論争は、私には興味なし。

ただ、「やまと」は言魂的な私の解釈は、「弥頭(やと)」と、卑弥呼も連れられて行ったのだから、弥と頭のあいだ(=愛多)に「間」かな?
頭の読みが「と」には、音頭があります。「音」は子(ね)言魂的にはかんがえれれてますね。(弥間頭に合うのは、旧事本記・物部系図の清寧天皇と母)
弓張月 投稿日: 2024年05月04日 15:29:49 No.457
「弥頭(やと)」は、他に「みと」なので、水戸,三戸ですね。鹿島神宮には、私には理解不能な「祭頭祭」なる祭りもありますね。

そして、伊弥頭国造 ( 越 )いみづのくにのみやつこ【国造】
http://www.nihonjiten.com/data/263265.html
(現・富山県射水市・氷見市、高岡市と富山市の一部)を支配した。
国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、 蘇我氏(そが、宗我)と同祖で武内宿禰(たけうちのすくね、建内足尼)の孫である大河音足尼(おおかわとのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。行政区域としての射水の地名は先代旧事本紀で登場するのが初見とされ、国造は射水氏が世襲していたという。高岡市の二上射水神社は現在の祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)だが、古くは二上神(ふたがみのかみ)を祭神とし、諸説あるが伊弥頭国造の祖だとも言われ、古くから越中国の総鎮守であり、国造氏族・射水氏が守っていたという。同市内の桜谷古墳は規模等から国造級の有力首長の墳墓と言われ、特に第2号墳は伊弥頭国造・大河音足尼一族の墓との説もある。と

前に、氷見市と卑弥呼について投稿しましたが、卑弥(ひみ)と伊弥(いや・いみ)で、射水氏(いみずし)は、水戸(みと)から、「いみ」もありますね。
二上神の双子もありますし、不思議なものですね?
青面金剛 投稿日: 2024年05月06日 02:44:23 No.463
 出雲伝承を読む者にとっては、「邪馬台国」論争は、既に決着済みです。宇佐神宮は、普段詣でる『拝み墓』です。「ヒミコ」は、姫巫女(ひめみこ)を中国の下級役人が、速記の当て字で書いた、代ものでしか有りません。

『宇佐神宮の中心である二之御殿に祀られる比売大神こそ正体は豊玉姫であり、この大元神社の先にある禁足地は豊玉姫の御陵となります。

 ヒミコ・豊玉姫は大船団を率い大和に向けて東征を開始しますが、志半ばで病のため亡くなり、安芸の宮島で葬儀されました。遺体は宇佐に戻され、神奈備の御許山山頂に埋葬されます。その御霊が比売大神として宇佐神宮に祀られ続けているのです。

 御許山に鎮座する大元神社は拝殿のみで本殿がありません。禁足地である豊玉姫の陵墓を直接拝しています。
 奥には三つの巨石が鎮座していると伝えられ、姫はそこに埋葬されているのだと考えられます。』

https://omouhana.com/2023/10/10/御許山常世考:白姫 番外/


答え出しましょう『応神天皇=秦の始皇帝』と『武内宿禰=呂不韋』
画像
◉2023年12月22日発売【アマテラス解体新書】のAmazonのURLhttps://www.amazon.co.jp/アマテラス解体新書-岡本佳之/dp/4862576869/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=WO1SSHQ9W1WJ&keywords=アマテラス+解体新書&qi...
www.youtube.com


※ 古代アナトリア地方に住むヒッタイト人(ヒッタ)⇒秦⇒誉田(ホッタ)。

八幡=中華戦国七雄(秦、趙、魏、韓、燕、斉、楚)+東周。

周王朝55代をウガヤフキアエズ1代で纏める。周王朝の末裔「姫氏」。

天武天皇は、秦、斉、周の末裔に当たる。



栗山(くりやま)yam-ni-us-i 栗の・木・多くある・ところ

https://www.bojan.net/2011/04/16.html


栗岡(くりおか)yam-ni-us-i 栗・木・多くある・もの

https://www.bojan.net/2017/04/09.html


「磯」と「五十」について 弓張月 投稿日: 2024年05月05日 07:35:33 No.462 【返信】

常陸太田市磯部町に「五十部神社」があります。
であれば、「いそ」は、「磯」=「五十」でしょうね。

https://ameblo.jp/asahonmati/entry-12810357660.html

磯部町の西隣は谷河原町で、青麻神社と天白羽神社が同じ場所にあります。
茨城県には国道50号があり、桜井市に「磯部稲村神社」がある。

これから、八幡神社の春季例祭に行かねばならないのでこの先は後で
探せば探すほどあら不思議で、皆さんの考察意欲に火をつけられますかね?


秦氏・今来漢人・欽明・推古陵と伊勢・豊受神 管理人 投稿日: 2024年05月04日 02:48:15 No.455 【返信】

先日、松尾大社などの秦氏の拠点と伊勢外宮およびその豊受神を祀る拠点を結んだ方位ラインについてお知らせしましたが、また松尾大社に関しては図1のようなラインの存在も明らかになりましたので、お知らせします。

以前、元伊勢外宮・内宮の移動拠点を結ぶラインを作成した際に、その起点として位置づけられていた冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)がありましたが、この冠島に注目すると、まず冠島⇔松尾大社⇔西山塚古墳⇔穴師兵主神社への西72度偏角のラインがあることがわかります。

この西山塚古墳は、3世紀後半と推定される西殿塚古墳(手白香皇女陵)のそばにあり、継体天皇皇后の手白香皇女の真陵と見なされていることがあります。

この手白香皇女については継体天皇の后であるとともに、欽明天皇の母でもあり、さらに母が春日大娘皇女(雄略天皇皇女)とされることがあり、この点が、今回のライン面でもきれいに見えています。

すなわち、西山塚古墳の真北に春日大社があり、その延長線上に先日の宇佐八幡宮(大津市)が位置しますが、この春日大社が、その母・春日大娘皇女を想起させます。

また、西山塚古墳⇔欽明陵への東70度偏角のラインと直交するのが、図のように、推古陵⇔倭彦命陵⇔欽明陵⇔飛鳥稲淵宮への西20度偏角のラインとなります。

この倭彦命墓は巨大方墳であるとともに、そばにある新塚千塚の方墳群(今来漢人等の墓)の主の墓と見なすのが自然ですが、この陵墓については下記の興味深い話があります。

すなわち、『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られた。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが(日本書紀に記される初にして唯一の殉葬の記録である)、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。

また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、野見宿禰が人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とすることを進言し、天皇は大いによろこび、以後これが慣例になったとする(人物埴輪・形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる。

『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の分注として、倭日子命の時に初めて「陵に人垣を立てた(殉葬した)」としている。

すなわち、6世紀前半に渡来した今来漢人の主であろう倭彦命の墓造営から、殉死に変えて人形埴輪が造営され始めたことが伺えるのであり、そこに先日注目した土師氏とその祖・野見宿禰の話とがリンクしてくるのです。

この 野見宿禰は、このライン上にみえる穴師兵主神社のそばにある相撲神社にも関連していいます。

そして、このライン上の推古天皇陵がライン面で欽明天皇陵と接合してくる点について考える必要がありますが、推古天皇は欽明天皇の娘ですから、親子でこのライン上に見えるのは自然なことと考えうるでしょう。

この推古陵については、先の冠島⇔藤越神社⇔高井田横穴⇔推古陵への西80度偏角のラインの存在もあり、その高井戸横穴の真東が先の西山塚古墳となります。

その藤越神社については、野椎命(鹿屋野比女)を祀りますが、イザナギの子で、薩摩の阿多群におり、日向から伊勢へ向かい、淡海国の日枝山に向かう際に、山野の物・甘菜辛菜に至るまで霊感を示したとの話が社伝としてあリます。(http://www.norichan.jp/jinja/renai2/fujikoshi.htm)参照。

その神社の東に月読橋があり、この伝承が先日お話した月読(ツキヨミ)神やオオゲツヒメなどの保食(女)神、特にトヨウケ等のウケモチ神信仰とに関係していたことも考えうるでしょう。

そのラインの北端の冠島は、先のとおり元伊勢・籠神社の奥宮で、その籠神社では伊勢外宮で後に祀られたトヨウケ神が、雄略天皇の時代に移された経緯がありますので、ここでも先の手白香皇女墓が雄略の娘であることを想起させます。

そしてこのライン上の南端に女帝・推古天皇の陵墓が出てくるのも、トヨウケ女神と、推古=豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)との関係性をうかがわせるものです。

彼女の名前には、豊(トヨ)の称号とともに、ツキヨミ・トヨウケに関する保食を意味する食炊が見えてくることにも注目すべきでしょう。

先日お話した秦氏の氏社・松尾大社について、古事記の大年神の系譜を示した条文によれば、淡海の日枝(山)にいる鳴鏑を持つ神として松尾大社の神を記していることがあり、この鹿屋野比女が伊勢・淡海を経由してこの地に坐したこととも関係してくるはずで、さらにその大年神の子孫としてオオゲツヒメが出てくることもやはり必然の結果と言えるでしょう。

そして、今回のライン上に先の松尾大社が見えてくるわけです。

あと、このライン上にみえる高井戸横穴については、九州に6世紀初頭から現れはじめる横穴墓をもたらした集団の子孫による造営を考えるべきで、具体的には筑紫君磐井がその乱によって滅ぼされた際に、その配下にいた渡来系集団が、九州南部から近江、東海、関東、東北方面へと移動していった流れの中で横穴墓が造営されており、その拠点の一つと考えるべきです。

その集団はオオ氏とも言われますが、おそらくは年代的にみても上記の今来漢人の子孫であり、横穴墓に壁画を残していますが、特に高井戸横穴の壁画に関しては、線刻が主体で船を描いており、同様な線刻主体の横穴墓としては、九州北東部の玖珠の鬼ヶ城古墳があり、ここにも船などの線刻が描かれ、豊前秦氏との関連が指摘されているところです。

そしてこの横穴の真東に先の西山塚古墳があり、継体妃の墓と想定されていますが、継体天皇が富山から近江を経て畿内へと進出していく過程で、当時渡来してきたその今来漢人等の力があったろうことも以前お話したとおりです。

その同時代に秦氏も勢力を伸ばしていくのですが、その秦氏の祖の秦大津父が欽明天皇の即位前記に伊勢の商いの話とともに見えてくるように、欽明の擁立に秦氏の力があったことも想定しておくべきでしょう。

なお、先日のライン(図3)では、秦河勝を祀る大避神社を起点として、特に大避神社⇔服部(斑鳩町)⇔額安寺⇔伊勢外宮へのラインを明らかにしましたが、このライン上にみえる額安寺は額田部氏の氏寺であるとともに、推古朝に聖徳太子が額田部の地に建てた熊凝精舎とも言われており、額田部が推古天皇の名代とみられることも考慮すれば、図3のラインと今回の図2のラインが接合しており、そこに推古陵が見えてくることも必然の結果であったと考えるべきでしょう。

ともあれ、先日お話ししたトヨウケ信仰と推古女帝との関係が今回浮かび上がってきたことは興味深く、この点については、また後日改めて考察してみたいと思います。


弓張月 投稿日: 2024年05月04日 07:16:01 No.456
大津市に「宇佐八幡宮」があるんですね。歴史を書き物では無く、レイラインで残したならガッテンです。
園城寺と京都の蛇塚古墳は東西ライン上です。何度も投稿していますが、石清水八幡宮、蛇塚古墳と真弓八幡宮(京都市北区真弓八幡町)は南北ライン上です。
北区の北(きた)は、=亀蛇(玄武)で、南北ラインは矢、東西ラインは弓(上弦月と下弦月)となり、
宮城県仙台市宮城野区岩切にある青麻神社(あおそじんじゃ)の天之御中主神・天照大御神・月読神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。主祭神三神はそれぞれ星神・日神・月神。旧称を青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などといい、日本各地にある青麻神社・三光神社の総本社と同じ揃い組。
なので、蛇塚古墳は「墳丘封土は失われ、現在は露出した石室のみが残る。」となり、ウィキペディアに、真弓八幡宮,宇佐八幡宮,馬場八幡宮は書き込みなしで、八幡宮の総本社は宇佐神宮(大分県)で、八幡の文字が無い訳かな。そして、大分県の大分は、「王を分ける」の意味か?
管理人 投稿日: 2024年05月04日 17:01:23 No.459
ご指摘のラインを確認してみましたが、おっしゃるとおり、真弓八幡宮⇔蛇塚古墳⇔石清水八幡宮への南北ラインは精度の高いラインとみてよいでしょう。添付の図をご参照ください。

同じく、ご指摘の蛇塚古墳⇔園城寺の東西ラインについては、園城寺のうち三井寺のやや南の法泉院あたりが正確な位置となりそうです。

加えて、延暦寺⇔園城寺⇔春日大社の南北ラインがあることもわかります。

さらに、石清水八幡宮⇔延暦寺への東60度偏角のラインと、石清水八幡宮⇔春日大社への西60度偏角のラインとが線対称となっており、同距離です。

石清水八幡宮には三女神社があり、先の園城寺の三井寺同様、三がつく点で秦氏の三に関する神観念と関係しそうですが、その辺については、また後日改めて検討させていただきますね。


弓張月 投稿日: 2024年05月04日 18:40:01 No.460
前に投稿してますが、真弓八幡宮が特別なのは貴船神社、熱田神宮、高尾山古墳(沼津市)、三嶋大社が東西ライン上である。三嶋大社の「山」と高尾塚でなく高尾山なのが興味深いですね。


秦氏と伊勢外宮と豊受神 管理人 投稿日: 2024年05月01日 02:17:41 No.453 【返信】

青面さん、弓張月さん、わかちあいありがとうございます。ご指摘の蘇我氏については、秦氏と祭祀面や屯倉運営でつながりがあることが知られていますが、まずは秦氏の拠点と先日から注目している伊勢外宮との関わりについて、ライン面から分析してみたところ図1のようなラインが明らかになりましたのでお知らせします。

その秦氏の氏神・松尾大社について注目していくと、まず宇佐八幡宮(長船町服部)⇔大避神社⇔松尾大社⇔宇佐八幡宮(大津市)への東12度偏角のラインがあります。宇佐八幡宮は言わずと知れた豊前秦氏の本拠ですが、またその大避神社については、7世紀代の秦河勝の伝承があり、またその大闢(避)は中国語でダビデを意味するため、秦氏はユダヤ人と主張する説があることは先日も紹介したとおりです。

その宇佐八幡宮のある長船町服部周辺の邑久郡については、周囲に秦氏関連の地名が残っていることが知られており、服部(はとり)も秦氏関連地名と考えるべきでしょう。

次に伊勢外宮⇔服部町(伊賀)⇔松尾大社⇔大年神社(夜久野町畑)への西30度偏角のラインがありますが、その服部町(伊賀)は、後世の服部半蔵の出身地とみなしうることがあります。

その大年神社の夜久野町畑の畑も秦氏関連地名と考えるべきですが、古事記記載の大年神系譜では、その大年神の子として、韓神や曾富理神(そふり=朝鮮語か)、竈神のように、朝鮮・中国を想起させる神名があり、同じく大山〈上〉咋神については別名を山末之大主神とし、日枝山(比叡山)におり葛野の松尾の鳴り鏑を持つ神であると記しています。

つまり、ここで秦氏の松尾大社の由来が大年神との関連で記されているのですが、またそれは図2の松尾大社⇔下鴨神社⇔比叡山(大比叡)への東30度偏角のラインとも関係してくるでしょう。

もうひとつ松尾大社に関するラインとしては、籠神社⇔松尾大社⇔加茂八幡宮への西55度偏角のラインがあり、その加茂八幡宮は、大避神社⇔服部天神宮⇔加茂八幡宮⇔服部町(伊賀市)への東西同緯度(34度45分55秒)ライン上に位置しています。

次に大避神社に関するラインとして、大避神社⇔大年神社(夜久野町畑)⇔籠神社への東50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、籠神社⇔伊勢外宮への西40度偏角のラインとなります。

そして大避神社⇔服部(斑鳩町)⇔額安寺⇔伊勢外宮への西10度偏角のラインにも注目すべきでしょう。

その服部(斑鳩町)は法隆寺の南にあり、額安寺は推古神社など額田部氏の所領となりますから、推古天皇・聖徳太子と秦氏との関わりを想起させるラインと言えそうです。

なお、京都付近における秦氏の拠点を結ぶラインについては図2のラインがあります。

まず前述した松尾大社⇔下鴨神社⇔比叡山への東30度偏角のラインがあり、また松尾大社⇔広隆寺⇔平野神社への東40度偏角のラインがあります。

また、伏見稲荷に関しては、先の下鴨神社⇔伏見稲荷への南北ライン、伏見稲荷⇔平野神社への西60度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。

あと、広隆寺⇔蚕の社への東西ラインもあります。

その他、松尾大社の南に摂社・月読神社があり、月神との関わりが予想できますが、先の松尾大社の主神である大年神系譜では、その大年神の子の大山〈上〉咋神について、その子の羽山戶神が、大氣都比賣(オオゲツヒメ)神を娶っていることが記されており、このオオゲツヒメが月神なので共通性を持ちます。

この大気都比売については、スサノオが空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えるものの、それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していたので、須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまう。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収したとの話があります。

ここで、秦氏の養蚕に関わる蚕がそのオオゲツヒメから産まれている点にも留意しておくべきですが、『日本書紀』では同様の話が月読(ツクヨミ)がウケモチを斬り殺す話として出てきます。

書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったとの話があります。

ここで、伊勢外宮で祀られているトヨウケビメについて考える必要がありますが、豊宇気毘売神(豊受気媛神、等由気太神等)のウケは、上記の保食神のウケと同意で、『古事記』では伊邪那美命から生まれた和久産巣日神の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相に鎮座したと記されています。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であり、後に、他の食物神の大気都比売神・保食神などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになります。

ここで伊勢外宮のトヨウケ神と、伏見稲荷の稲荷神が見えてきますが、今回の図1のラインでも伊勢外宮が秦氏の諸拠点とラインで接合していること、また図2のライン面で秦氏の氏社の松尾社と、カモ氏の下鴨神社との関連から伏見稲荷が見えてくることがあります。

その秦氏とカモ氏との関係については、先の松尾社に関して、大山咋神が鎮座するとの『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するとの『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承があり、さらに、松尾社の摂社の月読社に関しては、『日本書紀』では顕宗天皇3年条に創建伝承が記載され、壱岐県主(壱岐氏)が奉斎したと見えています。

壱岐・宗像方面とのつながりもみえてくるのですが、また図2の松尾大社⇔広隆寺⇔平野神社へのライン上にみえる平野社については、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神として平城京に祀られた神祠とされ、渡来系で百済・部寧王の子孫とされる和氏から伝わる今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神が祀られており、その今木は新漢人等にみえるような今来(イマキ)=新しく来るの意味を持つ神となり、久度大神、古開大神は朝鮮系の竈神との関連が指摘されているところです。

それとは別に摂社の縣神社には、天穂日が祀られており、土師氏の氏社としての性格も有しています。

その土師氏については、先日もお知らせした図3の銅鐸出土地と伊勢外宮、そしてカモ・土師氏関連の拠点を結ぶラインとの関係を想起させますが、何らかの形である時期に、秦氏とカモ・土師氏の祖先とが接点を持っており、そこに伊勢外宮およびトヨウケ神信仰とが融合していったことを予想します。

その過程で、図3のライン上にみえる天穂日の子・建夷鳥を祀る鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多乃神社へのラインがあり、その阿伎留神社や伊勢・出雲神宮には日文や阿比留草文字と呼ばれる仮名文字の起源ともされる文字が残っており、その形がアラム・古ヘブライ文字と類似することも以前お話したとおりです。

その日文が残る神社として鎌倉の鶴岡八幡宮がありますが、図3のように、比奈多乃神社⇔芝山古墳(ユダヤ人風の埴輪を出土)へのラインがこの鶴岡八幡宮の北部を通過することから、後代源氏の氏社となる以前から、すでに秦氏と関わる八幡神を祀っていた可能性があり、その影響でこの八幡宮にも上記に日文が残っているのではないでしょうか。

もっとも、その源氏と平氏は先の土師氏の平野社を氏神としており、ここでも源氏と土師氏とのつながりが見えてくるのも偶然ではないでしょう。

ともあれ、前述のように秦氏と大年神の子孫や(トヨ)ウケ神、それにかかわる諸儀式については、松尾大社の摂社の月読社と、そこに関わる壱岐氏等との関わりも考慮しておく必要がありますが、その年神へ備える鏡餅の風習や、餅に関わる山城秦氏の稲荷伝承、そこにみえてくる白鳥・白猪・白馬および、その復活伝承などについても考察をする必要があります。その件についてはまた後日改めてお話したいと思います。




茨城県稲敷郡阿見町に二所ノ関部屋 弓張月 投稿日: 2024年04月27日 09:04:55 No.446 【返信】

昨日は、大相撲・水戸場所(地方巡業かな?)があったようで、

稀勢の里の部屋は、「二所ノ関部屋」だそうですね。
稀勢の里は力士になる前は牛久市と竜ケ崎市と縁があったのかな?でも、「阿見町」に相撲部屋を立てたのは、相撲(角力)を神事と歴史から考えると、「阿弥神社」が二ヶ所あるからかな? 二ヶ所とは、やっぱ双子・二子古墳でしょうね。
そして、伊勢志摩サミットでは、つくば市で「G7茨城・つくば科学技術大臣会合」が、広島サミットでは、水戸市で「G7茨城水戸内務・安全担当大臣会合」が行われた。歴史好きにとっては、まさしくガッテン そして、水戸黒の副将軍・水戸光圀公と。でも、黒=北=秦氏は筑波の三五桐紋で、水戸の元吉田古墳(蘇我氏)は、五七桐紋でしょうか? 政府は五七桐、法務省と検察庁が三五桐でしたっけ。
青面金剛 投稿日: 2024年04月27日 11:13:05 No.447
「蘇我氏の祖廟 蘇我氏神社」(徳島県名西郡石井町石井城ノ内993)は、庵木瓜(いおりもっこう)紋。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/137037

宗我坐宗我都比古神社(奈良県橿原市曽我町1191)と、
入鹿神社(奈良県橿原市小綱町335)の神紋は、シンプルな木瓜紋。

画像
社号 宗我坐宗我都比古神社 読み そがにますそがつひこ / そがにいますそがつひこ 通称 旧呼称 入鹿宮 等 鎮座地 奈良県橿原市曽我町 旧国郡 大和国高市郡曽我村 御祭神 曾我都比古神、曾我都比売神
jun-yu-roku.com


画像
蘇我入鹿公を御神体とする神社。入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であ...
yamatoji.nara-kankou.or.jp


 
 出雲大社の本殿北側に在る『素鵞社そがのやしろ』の神紋は、亀甲紋(出雲では龍燐紋と呼ぶ)の内側に、剣木瓜(つるぎもっこう)紋。


 高良大社(福岡県久留米市御井町1)の神紋は、「門光紋」(もんこうもん)なので、蘇我氏の木瓜紋も、其の流れを継承している、と伺わせます。

高良大社に開化天皇(玉垂命)の神紋を発見した
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12374421376.html
青面金剛 投稿日: 2024年04月28日 05:32:43 No.448
入鹿神社の境内に掲げられている、のぼり旗には、庵木瓜(いおりもっこう)紋も使われています。

天高市神社(あめのたけちじんじゃ大和国高市郡奈良県橿原市曽我町659)
https://ameblo.jp/keith4862/entry-12413180216.html
 
◎ 当地のすぐ近くで発見された「曽我遺跡」。こちらは5世紀後半から6世紀前半の遺跡で、勾玉や管玉など80万点(資料により200万点)、トラック20台分というおびただしい量が出土。すぐ南には天太玉命神社が鎮座し、当地は忌部氏の本貫地。国家祭祀の中心を担っていたことがよく分かります。(中略)。
中世以降には『曽我八幡神社』と称され八幡神を祀っていました。

※ 神紋は、波波迦木(ははかのき:ウワミズザクラ上溝桜)が花を咲かせた形なのか、薦枕(こもまくら)を載せた形なのか、全体の形は、ぱっと見で、『亀』の様にも見えてしまいます。


波波迦木(ははかのき)は、大嘗祭用の斎田を決める『亀卜(きぼく)』に使用する神木。

https://nihonshinwa.com/archives/12767

※ 波波迦木(ははかのき)は、天の香久山と、葛木坐火雷神社[笛吹神社] かつらきにいますほのいかづちじんじゃ[ふえふきじんじゃ]に植えられています。

 天の香久山は、正統な大和の初代大王である、『天叢雲』の父君『天香語』の名を付けています。
 [笛吹神社] は、『天叢雲』の邸宅です。『天叢雲』は大嘗祭用の『麁服(あらたえ)』を、授かる為に、山崎忌部神社(徳島県吉野川市山川町忌部山)に詣でています。

画像
山崎忌部神社。吉野川市山川町忌部山、山の中腹に鎮座。式内名神大社 忌部神社の論社。
momijiaoi.net


青面金剛 投稿日: 2024年04月30日 02:31:24 No.449
 天高市(あめのたけち)神社『曽我八幡神社』(式内大社)の神紋は『橘紋』として紹介されています。
 『土佐国・安芸の国人領主である「安芸氏」は、蘇我氏を出自とする一族と伝わりますが、橘氏後裔の異説もあり、彼らによる橘紋の使用(他に「三つ割り剣花菱」も使用)はそれ故のものともされています。』
家紋・橘(たちばな)の種類を一覧でご紹介。また「源平藤橘」の一角を占める橘氏や、彦根藩主・井伊氏に使用された橘紋の意味や由来、苗字や地域、武家や寺社などの著名な使用例など、橘紋のアレやコレをまとめています。
hakko-daiodo.com


『橘紋』を神紋とする寺社は、奈良県北葛城郡「廣瀬大社」と、大和(おおやまと)神社、橘寺が有ります。

廣瀬大社 https://hirosetaisya.p-kit.com/

※ 奈良盆地は古では、湿地帯の沼でしたが、治水事業に由り、橘が香る土地に成りました。

大和(おおやまと)神社 http://ooyamatohp.net/ 奈良県天理市新泉町

橘寺 https://tachibanadera-asuka.jimdofree.com/


蘇我蝦夷の本名は『石川雄正(おまさ)』です。

https://ameblo.jp/pelecyphoras/entry-12632591226.html

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)を祀る、
加佐美神社 (かさみじんじゃ)岐阜県各務原市蘇原古市場町
https://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=780

石川の家紋である「丸に笹竜胆」
画像
石川姓といえば、プロゴルファーの石川遼さんや、女優の石川佳純さん、また、あの天下の大泥棒石川五右衛門までと、どう繋がりがあるのか気になります。それだけ様々な分野で名をとどろかせていますね。また石川県という県がありますが、 ...
kisetsumimiyori.com


弓張月 投稿日: 2024年04月30日 05:49:50 No.450
宮城県の北部、仙台市から北方へ70キロメートルに位置する。宮城県栗原市と宮城県本吉郡南三陸町の間にあり、岩手県一関市と境を接する「登米市(とめし)」と市内の「登米町(とよままち)」は古代歴史の「とよ」を考察できる暗号かも?
茨城県にあるカインズの店舗で、一番大きいのは日立市留町の店舗。二番目は阿見町店。阿見町店ができる前は二番目だったが、三番目は常陸太田店。茨城県那珂市にカンセキがある。日立市留町と常陸太田市中城町は直線で約10km、また、カインズは、過疎が進んでいる大子店もある。大きなお世話ですが、利益が得られるとは?古代史から考えると進出したい?
弓張月 投稿日: 2024年04月30日 06:12:37 No.451
日立市留町はある意味日立市久慈町と一緒。大甕神社の6年に1度開催される例大祭の神輿渡御 久慈浜漁港から神輿を船に載せて約20隻の船団で海上渡御を行う。72年に1度開催の東西金砂神社の大祭礼は水木町へ 東西金砂神社大祭礼の馬場祭場で、神輿を置くところは土の土台に久慈浜の産砂、その上に水木の産砂を敷く。まあ、双子だからかな?
弓張月 投稿日: 2024年04月30日 19:43:50 No.452
カインズ常陸太田店でビックリしたことは、リホームカウンターに神棚があり、天照大御神?のお札が祀ってありました。カインズの店舗すべてにあるんですかね?


外宮・銅鐸ラインとユダヤ人 管理人 投稿日: 2024年04月25日 02:15:14 No.443 【返信】

先日、天孫降臨以前に渡来したとみられる天穂日・建夷鳥を祖とする土師氏、同じく味鍬高彦根を祖とする加茂氏の拠点を結ぶ方位ライン(プレ天孫降臨集団のライン)が、銅鐸出土地と関係することを指摘しましたが、その際に伊勢外宮がライン上に見えることもありました。

その伊勢外宮については、以前その外宮の遷宮拠点を結んだラインを作成したことがありましたが、再度そのラインを前述のプレ天孫降臨集団のラインとを接合して関係性を考察してみたのが今回のライン図となります。

まず、先日も指摘した吉野ヶ里遺跡を起点としたものとしては、吉野ヶ里遺跡⇔矢野銅鐸出土地⇔伊勢外宮⇔比奈多乃神社への東12度偏角のラインがあり、同じく吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地⇔大神木神社(元伊勢外宮仮宮)⇔伝名古屋城銅鐸出土地への東20度偏角のラインがあります。

また加茂岩倉遺跡(銅鐸出土地)を起点としたものとしては、加茂岩倉遺跡⇔成務・日葉酢姫陵⇔春日大社⇔伊勢外宮への西15度偏角のラインがありますが、この成務陵の真南が橿原神宮で、橿原神宮は図のように伊勢外宮と34度29分05秒で同緯度東西ライン上に位置します。そのラインの延長線上に少しずれて池上曽根遺跡がある点にも留意しておくべきでしょう。

なお、元伊勢の籠神社から雄略朝に伊勢外宮へと遷宮される際に一時的に造営された仮宮の大神木神社があり、図のように、籠神社の奥宮とされる冠島(奈良初期に海底に沈んだ弥生遺跡・神殿がある)⇔大神木神社⇔河内大塚山古墳への西80度偏角のラインがあることは以前も指摘したとおり。

そして、このラインと先の伊勢外宮⇔橿原神宮ラインの延長線とが交差する廿山二丁目付近にも前方後円墳状地形が確認できます。

そのライン上にみえる河内大塚山古墳が本来の雄略陵であることが指摘されていますが、そのことはこの遷宮ラインが雄略朝の伝承をもつことからも明らかにしうるでしょう。

ここにみえる冠島が伊勢内宮の遷宮拠点を結ぶラインの起点ともなっていることも以前指摘したとおりですが、また図のように、池上曽根遺跡の真北に冠島が位置することがあり、また冠島⇔伊勢外宮⇔伊雑宮(元伊勢)への西50度偏角のラインも存在します。

さらに、冠島⇔芝山古墳群への35度40分38秒の同緯度東西ラインも確認できますが、その途中に後述する阿伎留神社(南部)や皇居(宮中三殿)が位置していることにも留意しておくべきでしょう。

この芝山古墳群にユダヤ人の風貌をした埴輪があることが近年、田中英道氏によって指摘されていますが、この芝山古墳を起点として、芝山古墳群⇔子ノ神古墳群⇔奥の山古墳(埼玉古墳群)⇔綿貫観音山古墳への西30度偏角のラインがあることも以前指摘したところで、このラインと直交するのが、綿貫観音山⇔比奈多乃神社への東60度偏角のラインとなります。

この比奈多乃神社に関しては、先日も指摘したように、比奈多乃神社⇔阿伎留神社⇔鷺宮神社への東45度偏角のラインがあり、これらの神社では、土師氏の祖の建夷鳥(タケヒナトリ)やその父の天穂日が祀られていることから、土師氏の同族によるライン拠点と考えたことがありました。

そしてその阿伎留神社(+伊勢神宮・出雲大社等)から、記紀に記された日文とみられ、仮名文字の起源とされる阿比留草文字が見つかっていること、その文字がアラム・古ヘブライ文字との相関性があることを先日もお話したところですが、前述のように、ユダヤ人風の埴輪が出土する芝山古墳と、これらの拠点が方位ライン面で接合していることはがあり、決して偶然ではないと考えるべきでしょう。

なお、図のように、伊勢外宮⇔豊川稲荷⇔阿伎留神社南部⇔氷川神社⇔虎塚古墳への東30度偏角のラインがあり、その豊川稲荷の稲荷社が秦氏と関連する稲荷神を祀っている点にも留意しておくべきでしょう。

その秦氏の稲荷神の拠点としては、伏見稲荷がありますが、図のように、伊勢外宮から西30度偏角のライン上にあり、豊川稲荷が伊勢外宮から東30度偏角のライン上にあるのと線対称となっている点からみても秦氏と外宮との関係性が理解できます。

その秦氏の祖の秦大津父の伝承にも、欽明天皇即位前記に伊勢へ商いに向かっていた話があり、彼らは伊勢と深いつながりがあったと考えるべきでしょう。

同じくライン上にみえる氷川神社については、出雲方面から移住した武蔵国造の祭祀拠点とみられており、スサノオやクシナダヒメ、大己貴を祀っていることからもその件は明らかです。

そしてこのライン上にみえる虎塚古墳については、壁画が描かれていることが知られていますが、その壁画に描かれた盃と供え物(餅?)が、山城国風土記の秦氏に関する「餅の的」伝承と関係を想起させるもので、当時中国に伝わっていたネストリウス派キリスト教(大秦景教)のミサ儀式で用いる聖杯(酒)と聖体(種なしパンの代わりに餅を用いた)を表していた可能性を考えます。

当時のネストリウス派キリスト教はユダヤ人が多く混ざっていましたから、仮に彼らが渡来しならば、当然ユダヤ人風の風貌をした人物やアラム・ヘブライ語・文字・儀式が伝わってくることもありうることであり、今回示したライン拠点に、それらの痕跡が見えてくることも、然るべき結果と考えるべきでしょう。

このように、伊勢外宮については、弥生時代前期に遡る銅鐸などを用いていた渡来系集団のカモ氏等によってまずは測量拠点として形作られた後、その後、土師氏や秦氏といった後続の渡来系集団によって、雄略朝ごろまでには、トヨウケ神の信仰拠点としても重要視され、儀式面でも整備されていったのではないでしょうか。

なお九州方面に目を向けると、弥生時代前期の吉野ヶ里遺跡については、図3のように、宮崎神宮⇔山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(銅鐸鋳型出土地)⇔平原遺跡への西60度偏角のラインがあり、またその平原遺跡⇔川部・高森遺跡(宇佐)への東西同緯度(33度32分20秒)ラインと、このラインと直交する川部・高森古墳群⇔天岩戸神社東部⇔山田(西都市)古墳状地形への南北ライン(131度21分30秒)とで、直角三角形を構成していることがあり、この件は以前もお知らせしたとおりです。

この弥生時代の拠点では、天岩戸に関わるアマテラス信仰が存在して、それらが後に冠島(元伊勢籠神社の奥宮)へと東遷していく過程で、最終的に伊勢内宮のアマテラス祭儀が確立していき、先の外宮・トヨウケ関連儀式も融合されていったのではないでしょうか。

その他、ユダヤ文化と神社との関わりでいえば、秦河勝の伝承が残る大避神社の大避が中国語で言う「ダビデ」を記すとの説がありますが、この大避神社⇔籠神社への東50度偏角のラインと、伊勢外宮⇔籠神社への西40度偏角のラインとが直交しております。

その元伊勢の籠神社の奥宮に眞名井社があり、そこに籠目紋が記されていることから、ユダヤ人の六芒星との関わりがあるとされ、伊勢にも籠目紋があることが知られています。

またその眞名井のマナが、ユダヤ人の神宝のマナの壺と関連づける見方もありますが、これらも単なる偶然の一致ではなく、今回の方位ライン面からも明らかにしうるのであり、それらの件については、また後日さらに詳細に考察してみたいと思います。


青面金剛 投稿日: 2024年04月26日 02:59:36 No.444
 橿原神宮は、その設立自体が、幕末から明治初頭の、「国家神道」旗揚げ目的のテーマパークでしかなく、考古学的な価値は有りません。深田池の直ぐ北側の一等地に、長山稲荷社が建っていて、これが元々あった出雲系の社で、その更に北側に、無理やり建てた代物です。天孫系の神社には、こう言った落とし穴が、潜んでいるので、注意が必要です。

長山稲荷社
https://kashiharajingu.or.jp/point/8282.html

地元の郷土史家が指摘する神武天皇社は、御所市柏原に在ります。
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=34336

 実際の神武天皇は福岡県から、宇佐の南側にある「安心院(あじむ)」までしか東征して居なくて、御所市柏原の神武天皇社も、後に分祀されたものと考えられます。


 大和の正当な初代大王は、『天の叢雲』で、大和王朝の最後の皇士が『大彦』で、九州物部に攻められ、琵琶湖の兵主大社の地に移り、そこで銅鐸を広めました。

画像
大和で勢力を強める物部勢は、執拗に大彦軍を攻め続けた。 大彦は三島の地を離れ、琵琶湖東南岸に移住することを決意…
omouhana.com



 皇居(宮中三殿)は、江戸城跡に造られたもので、考古学的な価値は有りません。府中市の大國魂神社の様な、古社と関連付け無ければ意味無いです。

大國魂神社 https://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/


 田中英道氏らによって「ユダヤだ」と指摘されるだけでなく、その源流の流れを、ソグドの源流と重なるのか、まで解き明かさないと、その本質が見えて来ません。

>仮名文字の起源とされる阿比留草文字が見つかっていること、その文字がアラム・古ヘブライ文字との相関性

 仮名文字の起源とされる阿比留草文字と、アラム・古ヘブライ文字との相関性が、戦前からら唱えられていた、学研レベルの話で終わってしまうんでは、新味が有りません。

 縄文文化が世界最古の文明である事から、日本列島から、西に渡った末裔が、また戻って来た、『出戻り説』も念頭に置いて、考察を進めるべきかと思います。
管理人 投稿日: 2024年04月26日 08:06:15 No.445
皇居の宮中三殿の件は、後代の造作の産物であることはよく理解した上であえてライン上に載せています。つまり、この東西ラインを理解している人が明治時代にはいたということ。気づいてないのは現代の頭が悪い我々だけ。

また、橿原神宮の位置については、以前から、方位ライン面の分析から重要拠点だったことを指摘してます。おそらく下記の宮地でしょう。宮地に関する考古考証がどのようになされたかについては知りたいところですね。


畝傍橿原宮
うねびのかしはらのみや

記紀にみえる神武天皇の宮。宮名は白橿の原野であったことに由来するか。「古事記」では畝火之白檮原宮。「日本書紀」は畝傍山東南の橿原に宮を造営したと伝えることから,現在の奈良県橿原市久米町に比定される。橿原神宮は,神武天皇陵および宮跡の調査考証にもとづき,1889年(明治22)に宮比定地に創祀されたもの。


皆神山・水上と水口 弓張月 投稿日: 2024年04月24日 10:40:50 No.442 【返信】

ネットで、「世界情勢予測の第一人者であるイアン・ブレマー氏(ユーラシアグループ)は、イランとイスラエルの報復合戦については終戦と見ているとの見解を示した。もちろん中東の火薬庫がいつ爆発するかもしれないことは大前提だ。それゆえ本稿見出しには「水入り」と書いた。」とあるホームページで見た。

「水入り」とは、ヒフティー・ヒフティー(50・50ですか)
東海道五十三次の50番目の宿場は、水口です。
皆神山のある長野県は、物部守屋の伝承が多々あったんですね。
利根川の上流の水上町には藤原があります。そして、金精峠は栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境にあり、国道120号が栃木県日光市から群馬県沼田市に至り、水上町と沼田市の関係は上流・下流の位置にある。
また、金精峠には、男根を御神体とする金精神社が祀られている。

やっばり、沼田大蛇と八岐大蛇は別物で、第50代天皇は桓武天皇(桓≒かん・関)と水口から水入のヒフティー・ヒフティーかな?


1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | >>


Powered by Rara掲示板
管理者に連絡 | 新着投稿をメールで受け取る | スポンサー募集