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先日、松尾大社などの秦氏の拠点と伊勢外宮およびその豊受神を祀る拠点を結んだ方位ラインについてお知らせしましたが、また松尾大社に関しては図1のようなラインの存在も明らかになりましたので、お知らせします。 以前、元伊勢外宮・内宮の移動拠点を結ぶラインを作成した際に、その起点として位置づけられていた冠島(元伊勢・籠神社の奥宮)がありましたが、この冠島に注目すると、まず冠島⇔松尾大社⇔西山塚古墳⇔穴師兵主神社への西72度偏角のラインがあることがわかります。 この西山塚古墳は、3世紀後半と推定される西殿塚古墳(手白香皇女陵)のそばにあり、継体天皇皇后の手白香皇女の真陵と見なされていることがあります。 この手白香皇女については継体天皇の后であるとともに、欽明天皇の母でもあり、さらに母が春日大娘皇女(雄略天皇皇女)とされることがあり、この点が、今回のライン面でもきれいに見えています。 すなわち、西山塚古墳の真北に春日大社があり、その延長線上に先日の宇佐八幡宮(大津市)が位置しますが、この春日大社が、その母・春日大娘皇女を想起させます。 また、西山塚古墳⇔欽明陵への東70度偏角のラインと直交するのが、図のように、推古陵⇔倭彦命陵⇔欽明陵⇔飛鳥稲淵宮への西20度偏角のラインとなります。 この倭彦命墓は巨大方墳であるとともに、そばにある新塚千塚の方墳群(今来漢人等の墓)の主の墓と見なすのが自然ですが、この陵墓については下記の興味深い話があります。 すなわち、『日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に倭彦命は薨去し、11月2日に「身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)」に葬られた。その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされたが(日本書紀に記される初にして唯一の殉葬の記録である)、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出したという。 また同書垂仁天皇32年7月6日条では、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、野見宿禰が人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とすることを進言し、天皇は大いによろこび、以後これが慣例になったとする(人物埴輪・形象埴輪の起源譚)。この起源譚は、垂仁28年条の記事が前提になる。 『古事記』では、倭日子命(倭彦命)の分注として、倭日子命の時に初めて「陵に人垣を立てた(殉葬した)」としている。 すなわち、6世紀前半に渡来した今来漢人の主であろう倭彦命の墓造営から、殉死に変えて人形埴輪が造営され始めたことが伺えるのであり、そこに先日注目した土師氏とその祖・野見宿禰の話とがリンクしてくるのです。 この 野見宿禰は、このライン上にみえる穴師兵主神社のそばにある相撲神社にも関連していいます。 そして、このライン上の推古天皇陵がライン面で欽明天皇陵と接合してくる点について考える必要がありますが、推古天皇は欽明天皇の娘ですから、親子でこのライン上に見えるのは自然なことと考えうるでしょう。 この推古陵については、先の冠島⇔藤越神社⇔高井田横穴⇔推古陵への西80度偏角のラインの存在もあり、その高井戸横穴の真東が先の西山塚古墳となります。 その藤越神社については、野椎命(鹿屋野比女)を祀りますが、イザナギの子で、薩摩の阿多群におり、日向から伊勢へ向かい、淡海国の日枝山に向かう際に、山野の物・甘菜辛菜に至るまで霊感を示したとの話が社伝としてあリます。(http://www.norichan.jp/jinja/renai2/fujikoshi.htm)参照。 その神社の東に月読橋があり、この伝承が先日お話した月読(ツキヨミ)神やオオゲツヒメなどの保食(女)神、特にトヨウケ等のウケモチ神信仰とに関係していたことも考えうるでしょう。 そのラインの北端の冠島は、先のとおり元伊勢・籠神社の奥宮で、その籠神社では伊勢外宮で後に祀られたトヨウケ神が、雄略天皇の時代に移された経緯がありますので、ここでも先の手白香皇女墓が雄略の娘であることを想起させます。 そしてこのライン上の南端に女帝・推古天皇の陵墓が出てくるのも、トヨウケ女神と、推古=豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)との関係性をうかがわせるものです。 彼女の名前には、豊(トヨ)の称号とともに、ツキヨミ・トヨウケに関する保食を意味する食炊が見えてくることにも注目すべきでしょう。 先日お話した秦氏の氏社・松尾大社について、古事記の大年神の系譜を示した条文によれば、淡海の日枝(山)にいる鳴鏑を持つ神として松尾大社の神を記していることがあり、この鹿屋野比女が伊勢・淡海を経由してこの地に坐したこととも関係してくるはずで、さらにその大年神の子孫としてオオゲツヒメが出てくることもやはり必然の結果と言えるでしょう。 そして、今回のライン上に先の松尾大社が見えてくるわけです。 あと、このライン上にみえる高井戸横穴については、九州に6世紀初頭から現れはじめる横穴墓をもたらした集団の子孫による造営を考えるべきで、具体的には筑紫君磐井がその乱によって滅ぼされた際に、その配下にいた渡来系集団が、九州南部から近江、東海、関東、東北方面へと移動していった流れの中で横穴墓が造営されており、その拠点の一つと考えるべきです。 その集団はオオ氏とも言われますが、おそらくは年代的にみても上記の今来漢人の子孫であり、横穴墓に壁画を残していますが、特に高井戸横穴の壁画に関しては、線刻が主体で船を描いており、同様な線刻主体の横穴墓としては、九州北東部の玖珠の鬼ヶ城古墳があり、ここにも船などの線刻が描かれ、豊前秦氏との関連が指摘されているところです。 そしてこの横穴の真東に先の西山塚古墳があり、継体妃の墓と想定されていますが、継体天皇が富山から近江を経て畿内へと進出していく過程で、当時渡来してきたその今来漢人等の力があったろうことも以前お話したとおりです。 その同時代に秦氏も勢力を伸ばしていくのですが、その秦氏の祖の秦大津父が欽明天皇の即位前記に伊勢の商いの話とともに見えてくるように、欽明の擁立に秦氏の力があったことも想定しておくべきでしょう。 なお、先日のライン(図3)では、秦河勝を祀る大避神社を起点として、特に大避神社⇔服部(斑鳩町)⇔額安寺⇔伊勢外宮へのラインを明らかにしましたが、このライン上にみえる額安寺は額田部氏の氏寺であるとともに、推古朝に聖徳太子が額田部の地に建てた熊凝精舎とも言われており、額田部が推古天皇の名代とみられることも考慮すれば、図3のラインと今回の図2のラインが接合しており、そこに推古陵が見えてくることも必然の結果であったと考えるべきでしょう。 ともあれ、先日お話ししたトヨウケ信仰と推古女帝との関係が今回浮かび上がってきたことは興味深く、この点については、また後日改めて考察してみたいと思います。
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