歴史掲示板(渡来人研究会)


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無題 弓張月 投稿日: 2023年07月24日 17:03:55 No.291 【返信】

水戸徳川家には、「水戸黒」なる言葉があるようです。
https://www.city.mito.lg.jp/site/kankouinfo/3934.html


水戸市の照会文には、御用紺屋は亀屋清兵衛(益子家)で、名に「亀」が使われているとのこと。

常陸太田市瑞龍町の徳川家の墓で、各墓石の下は亀石があります。
なぜ亀がいるかですが、四神で、北(≒亀蛇)方の神は玄武で「黒色」です。水戸徳川家の墓石から想像すると当主は亀に乗った「蛇」なのでしょうね?。
八幡宮は源氏の氏神。常陸太田市馬場町の馬場八幡宮の拝殿の入り口の上の軒下には、蛇の顔を持った亀の彫刻があります。そして、本殿の東脇には亀の子山古墳が。
偶然ではできないでしょうね? 熊本県八代市には九州の三大祭りのひとつの妙見祭では、「亀蛇」なる物が街を練り歩くようです。

テルマエ・ロマエの撮影でした水戸市国立町にある七ツ洞公園には七つ銅古墳があり、バラ園になっています。筑波山麓の旧八郷町には茨城県フラワーパーク(五三の桐)がありますから、この公園は「棘」の(五七の桐)陰紋的扱いかな?

どうも、大谷は「だいこく(大黒)」が怪しく思っていて、国立町の隣に「田谷町」かあり、田=蛇=大,谷=こく(黒)なんですね。常陸太田市に「かわねや」なるスバーマーケットがあり、経営者は大谷さん、かわねやは屋号のようです。
不思議と規則性があるように感じます?
弓張月 投稿日: 2023年07月25日 14:18:02 No.292
国立町はなく、国田地区でした。そして、七つ洞公園があるのは水戸市下国井町で<
古墳名は、七ツ洞古墳群でした。訂正します。
https://elemiddleman.seesaa.net/article/202005article_58.html


富士山・筑波山・鹿島神宮ライン 管理人 投稿日: 2023年07月15日 01:32:09 No.287 【返信】

弓張月さん、お久しぶりです。情報ありがとうございます。

ご紹介ありました下記の文面に見える方位ラインについてですが、図1のようなラインが存在するかもしれません。

村史によれば、・・・・・・・
 縄文時代の遺跡は村内を貫通する源氏川,山田川,浅川等の河川に広く分布するが、弥生時代及び古墳時代の遺跡は、山地が平地に移動する南半分の,沖積地に面する地域に集中して発見されている。特に古墳及び古墳群は、西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線上に位置しており、古代文化解明にも重要な位置を示している。


具体的には、小原神社(友部町小原)⇔加茂神社(内原町黒磯)⇔鹿嶋神社(瓜連町鹿島)への東50度偏角のラインと、それに平行する稲荷神社(加茂井町)⇔鹿嶋日吉神社(太田氏島町)への東50度偏角のラインとなります。この2つのラインの間に古墳や遺跡があるという意味ではないでしょうか。

また、図2の拡大図のように、手子后神社⇔小原神社(友部町小原)⇔筑波山(女体山)⇔氷川神社⇔富士山への東38度偏角のラインがみえてきますが、またここにみえる筑波山については、鹿島神宮⇔筑波山(女体山)への西30度偏角のラインがあり、鹿島神宮の位置付けについて考える上で重要です。

そして、氷川神社⇔田島神社(松伏町)⇔鹿島神宮への東2度偏角のラインもみえますが、氷川神社の位置自体は当時の島地の影響もあってかややずれた位置にあります。

全体的には富士山、筑波山、鹿島神宮が測量の起点となっていたはずですが、そこに先日の田道間守に関する集団がどうかかわっていたのかについて明らかにしていく必要があるかもしれませんね。




レイラインは考察に使えるか? 弓張月 投稿日: 2023年07月11日 18:49:08 No.285 【返信】

お久しぶりです。邪馬台国はいずこに?だいぶ活況のようですね?

きょうの話しはレイラインは古代史を考察するのに使えるかですが、
面白い古墳発掘調査記録を見つけました。

タイトル:善光寺横穴群発掘調査報告書
     平成 4年11月  金砂郷村教育委員会  善光寺横穴群発掘調査 

現在の住所は、常陸太田市松平町です。

第2節 周辺の古代遺跡群
金砂郷村の南半分は古代遺跡が数多く発見されており、常陸太田市,瓜連町と共に古代文化の中心をなしていたと思われる。
 村史によれば、・・・・・・・
 縄文時代の遺跡は村内を貫通する源氏川,山田川,浅川等の河川に広く分布するが、弥生時代及び古墳時代の遺跡は、山地が平地に移動する南半分の,沖積地に面する地域に集中して発見されている。特に古墳及び古墳群は、西茨城郡友部町小原,東茨城郡内原町黒磯,田島,水戸市加倉井町,国田町,那珂郡瓜連町鹿島,常陸太田市島町,幡町を結ぶ線上に位置しており、古代文化解明にも重要な位置を示している。
と書かれています。
そして、松平町の「松平」は、徳川家は松平家から分かたんでしたよね?
弓張月 投稿日: 2023年07月13日 18:33:55 No.286
「現在の住所は、常陸太田市松平町です。」は間違えでした。
正しくは、常陸太田市松栄町でした。

松平町は、旧水府村でした。前に投稿したように「水府」は、水⇒三(み)で「みふ(壬生)」でしょう?
水府村には、天下井(あまがい)なる名字があります。「てんかい」ですと、天海僧正。
天下野村(水府村天下野)の由来には、徳川光圀が関わっています。
https://www.sankei.com/article/20160409-UCQN2RC5MJI7POSD3NFIE763QQ/

面白いのは、水戸徳川家以前の村名が下高倉村であったとのことです。
日本歴史地名大系 「天下野村」の解説には、
山田川の上流域に位置し、北は高倉村。旧名は下高倉村であったが、元禄一二年(一六九九)に天下野村と改めた。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「下高倉」とあり、元禄郷帳に「天下野村」とみえ、「古ハ下高倉村」と注記される。
https://kotobank.jp/word/天下野村-3032162

現在の常陸太田市下高倉町には武生神社があります。謎解きのヒントが沢山あるようですね?
 


秦氏・田島守ライン2 管理人 投稿日: 2023年07月11日 00:11:26 No.284 【返信】

先日お知らせした秦氏・田道間守についてのラインですが、図1のようなラインも存在することがわかります。

ここでは、以前も指摘したことがある出雲大社⇔田島(鳥取市)⇔籠神社⇔氷川神社⇔田島(松伏町)⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあります。

また、宇佐神宮⇔垂仁陵北部⇔鹿島神宮への東20度偏角のラインがあり、その垂仁陵⇔籠神社への西60度偏角のラインも見受けられます。

その田島は先日もお話した田道間守やその子孫とされる三宅氏と関係し、秦氏とセットで地方の屯倉へと派遣された集団の痕跡を残すものでしょう。

垂仁陵については、その后の日葉酢姫とともに、田道間守伝承では重要な人物の墓となるわけですが、南方航海民系の遺物を出す佐紀盾列古墳群の測量起点となるのがこの垂仁陵となるわけです。

天日矛伝承とともに、田道間守の八枝の橘も、日と矛との組み合わせからなるある集団のレガリアを象徴したものであったはずで、神功皇后関連の記載に渡来伝承としてみえてくることも以前お話したとおりですね。

宇佐神宮は秦氏とゆかりが深い神社となりますが、そこに秦氏が拠点を置いた理由の一つはやはり精銅精錬との関係ではないでしょうか。

楽浪遺民と秦韓の関係からみても、漢代以来の精銅精錬技術が、秦氏の祖先をとおして日本へともたらされていったのではないかと感じます。

その宇佐は雨師・雲師のことで、秦氏系譜と関係して、朝鮮神話や扶余王系譜のそれとも関係してくるのですが、その辺については以前説明したので割愛しますが、特に下記のwikiの桓雄の話とも関係してくるでしょう。この辺についてはまた追って考えていきましょう。



『三国遺事』によると、天帝桓因(インドラ)の子で、人間を広め増やそうとして、桓因(インドラ)から天符印を3個授かり、3千人を率いて今の妙香山(原文は太白山。白頭山とする説は誤り)の神壇樹(신단수、シンダンス)に降り立った[1]。そのところを「神市」といい、桓雄を「桓雄天王」といった。風伯(풍백、プンベ)・雨師(우사、ウサ)・雲師(운사、ウンサ)といった、風の神・雨の神・雲の神が臣下として仕え、穀物・命・病気・刑罰・善悪など人間の360余りの事をつかさどり、世を治めた。洞窟にいた熊と虎が人間になりたいと訴え、ヨモギとニンニクを食べて、一定のあいだ蟄居(ちっきょ)[注 1]しているように教えると、熊だけが女性の人間になることができた。そして人間となった熊女との間に檀君となる王倹を生んだ、という[1]。

典型的な北方系の王権起源神話であり、元来は高句麗を経由して入ってきた夫余系の神話だったとみられている[3]。日本の天孫降臨神話とも同類型である。

金思燁によると、桓雄は古い発音では夫余の建国神話に登場する天神「解慕漱」(ヘモス)と同名で、同一の太陽神だったとみられる[7]。なお、井上秀雄は、夫余王・解夫婁の「解は太陽」を意味する

https://ja.wikipedia.org/wiki/桓雄




秦氏・田道間守ライン 管理人 投稿日: 2023年07月03日 00:33:38 No.278 【返信】

先日、田道間守やユダヤ人と関係する伝承拠点を結んだ図3の方位ラインを作成したことがありましたが、いくらか抜けていた拠点がありましたので、追加・整理してみたのが図1,2となります。

ここで追加したのは、気比神宮⇔広隆寺⇔橘本神社への東65度偏角のラインがあります。

ここにみえる広隆寺は秦氏の氏寺として知られていますが、また気比神宮については、伊奢沙別命(気比大神)、仲哀、神功皇后が祀られてます。

そして、その橘本神社については、田道間守が祀られており、図のように宇佐神宮⇔橘本神社への東10度偏角のラインがあることは先日も指摘したとおりです。

その宇佐神宮については、図のように宇佐神宮⇔出雲大社への東60度偏角のラインがあり、このラインと出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインが直交しています。

同じく宇佐神宮⇔気比神宮への東30度偏角のラインがあり、このラインと鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインとが直交しています。

なお宇佐神宮も秦氏の拠点として知られており、応神・神功と関わりが深い点で先の気比神宮への東30度偏角のラインとに接点がみえてきます。

また、図のように、広隆寺⇔当麻寺への南北ラインが確認できますが、また田島(鳥取市)⇔八幡神社(三木家住宅)への南北ラインもあります。

ここで田島(鳥取市)は先日お知らせした鳥取大神宮の西北に位置し、ライン的には出雲大社⇔田島(鳥取市)⇔籠神社への東5度偏角のライン上に位置しています。その田島は先の田道間守との関わりでとらえるべきです。

また八幡神社そばには三木家住宅があり、大嘗祭・忌部氏とゆかりの深い地であったと考えうるでしょう。

そのことは、先の宇佐神宮⇔橘本神社ライン上にこの八幡神社(三木家住宅)が載ることからもあきらかです。

その他、出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインと、橘本神社⇔吉田神社(菓子神社)への東60度偏角のラインとが直交し、その吉田神社⇔日葉酢姫陵への南北ラインがあります。

そしてその日葉酢姫陵⇔履中陵⇔八幡神社(三木家住宅)への東30度偏角のラインの存在があり、これが先の宇佐神宮⇔気比神宮ラインと平行になってくるわけです。

この日葉酢姫は田道間守が不老長寿の橘の木(メノラーのような8枝の燭台・レガリヤ)を渡した垂仁妃でもありますが、ある時期に垂仁に象徴される畿内を支配していたであろう南方航海民系(日向系)集団のところに、田道間守や天日矛に象徴される渡来系集団がやってきて、最終的に丹波王朝から河内王朝へと至る過程を示しているのでしょう。

その際にみえてくるのが、今回取り上げた気比神宮、応神・神功・八幡伝承と関わる秦氏の展開だったのではないでしょうか。

それゆえ、このライン上にさらに広隆寺が見えてくるのですが、秦氏は祭祀面では忌部氏の配下にいましたから、今回のライン上に忌部の拠点が見えてくることも理解しうるでしょう。

その秦氏については、ネストリウス派キリスト教(景教)との関連が指摘されていますが、その集団はユダヤ人を多く含んでいたことからみて、かれらが渡来時にユダヤ人の習俗や伝承等も同時に日本にもたらした可能性も高いのではないでしょうか。

それで、先の広隆寺の南に位置する当麻寺ですが、忌部氏の麻と関係する名が見えることには留意すべきで、当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があり、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推されていること(wiki当麻寺条参照)をみても、今回の田道間守・天日矛、海部氏と関わる籠神社との関わりを示しているようにも見受けられます。

葛城氏との関わりについては、一言主社と雄略や倭武伝承、それらと旧約聖書との関係を考える必要がありますが、またその辺については追って考えていきましょう。




吉野ヶ里遺跡、ザンネンでしたね(笑) sherpa 投稿日: 2023年06月28日 02:16:59 No.275 【返信】

吉野ヶ里遺跡、ザンネンでしたね(笑)
管理人 投稿日: 2023年06月28日 22:20:20 No.276
そうですね、しかし、墓の中に何もないというのも不思議です。使わらなかった墓があったということだとすると、その主はどこへ消えたのか?
管理人 投稿日: 2023年06月30日 16:08:58 No.277


続・九州弥生遺跡・神籠石ライン2 管理人 投稿日: 2023年06月21日 01:27:09 No.274 【返信】

先日お知らせした九州弥生遺跡と神籠石を結んだラインですが、もう少し綺麗に整理して作成しなおしてみたのが図1となります。図2は拡大図。

概ね前回お知らせした方位ラインと同じですが、特に 今回修正した点としては、鎌田原遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東西ラインを、鎌田原遺跡⇔宇佐神宮への東西ラインへと変更したことと、平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインについて雷山神籠石をライン上から外したことがあります。

また追加したライン・拠点については、まず那珂八幡古墳⇔鎌田原遺跡への西10度偏角のラインがあり、このラインは図のように、伊川・大日寺古墳状地形⇔唐沢山城⇔宇佐高校庭遺跡への西10度偏角のライン、吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓付近)⇔祇園山古墳⇔高良山神籠石⇔元宮神社への西10度偏角のラインと平行となり、これらはまた伊川・大日寺古墳状地形⇔高良山神籠石への東80度偏角のライン、吉野ヶ里遺跡⇔那珂八幡古墳への東80度偏角のラインと直交しています。

次に帯隈山神籠石⇔平塚川添遺跡⇔宇佐高校庭遺跡への東11度偏角のラインは、平原遺跡⇔那珂八幡古墳⇔今任原への東10度偏角のライン、女山神籠石⇔元宮神社への東10度偏角のラインと平行関係になり、これらは女山神籠石⇔那珂八幡古墳への西80度偏角のライン、小迫辻原遺跡⇔今任原への西80度偏角のラインと直交します。

ここで、赤村の古墳状地形の南西の今任原を新たな拠点として追加していますが、この周辺に図3の航空写真に書き込んだような巨大な1kmを超える前方後円墳状地形があるようです。

この後円部の中心点で2つのラインが交差しています。この前方後円墳状地形については、しばしば弥生後期から末期の墳丘墓や高地性集落・古墳状地形にみえる不均等な撥型に開く前方部を有している点で共通性があります。今任(イマトウ)原の字名については、その名のとおりヤマトを思わせる点で重要です。

続いて、天岩戸神社⇔ダンワラ古墳への西60度偏角のラインを、図のように天岩戸神社⇔元宮神社⇔日田古墳状地形④へと修正変更してみました。

このラインは図のように、ダンワラ古墳⇔日田古墳状地形④⇔宇佐神宮への東30度偏角のラインと直交しますが、この日田古墳状地形④は以前お知らせした直径1km前後の前方後円墳状地形ですが、その後円部中心点をラインが通過することになりそうです。

このように、東西に10度偏角傾けたライン・四方区画がある時期に重視されていたことが明らかになってきますが、平原遺跡や那珂八幡古墳、祇園山古墳、元宮神社等が構築されていく古墳時代初期の測量の影響ではないかと感じます。

そしてその10度偏角のラインは畿内の初期古墳を結ぶラインにも見えてくることも以前指摘したところですが、九州と畿内とのつながりがその当時どのようであったのかが課題となってくるでしょう。




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