歴史掲示板(渡来人研究会)


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秦氏・田島守ライン2
管理人 投稿日:2023年07月11日 00:11 No.284
先日お知らせした秦氏・田道間守についてのラインですが、図1のようなラインも存在することがわかります。

ここでは、以前も指摘したことがある出雲大社⇔田島(鳥取市)⇔籠神社⇔氷川神社⇔田島(松伏町)⇔鹿島神宮への東5度偏角のラインがあります。

また、宇佐神宮⇔垂仁陵北部⇔鹿島神宮への東20度偏角のラインがあり、その垂仁陵⇔籠神社への西60度偏角のラインも見受けられます。

その田島は先日もお話した田道間守やその子孫とされる三宅氏と関係し、秦氏とセットで地方の屯倉へと派遣された集団の痕跡を残すものでしょう。

垂仁陵については、その后の日葉酢姫とともに、田道間守伝承では重要な人物の墓となるわけですが、南方航海民系の遺物を出す佐紀盾列古墳群の測量起点となるのがこの垂仁陵となるわけです。

天日矛伝承とともに、田道間守の八枝の橘も、日と矛との組み合わせからなるある集団のレガリアを象徴したものであったはずで、神功皇后関連の記載に渡来伝承としてみえてくることも以前お話したとおりですね。

宇佐神宮は秦氏とゆかりが深い神社となりますが、そこに秦氏が拠点を置いた理由の一つはやはり精銅精錬との関係ではないでしょうか。

楽浪遺民と秦韓の関係からみても、漢代以来の精銅精錬技術が、秦氏の祖先をとおして日本へともたらされていったのではないかと感じます。

その宇佐は雨師・雲師のことで、秦氏系譜と関係して、朝鮮神話や扶余王系譜のそれとも関係してくるのですが、その辺については以前説明したので割愛しますが、特に下記のwikiの桓雄の話とも関係してくるでしょう。この辺についてはまた追って考えていきましょう。



『三国遺事』によると、天帝桓因(インドラ)の子で、人間を広め増やそうとして、桓因(インドラ)から天符印を3個授かり、3千人を率いて今の妙香山(原文は太白山。白頭山とする説は誤り)の神壇樹(신단수、シンダンス)に降り立った[1]。そのところを「神市」といい、桓雄を「桓雄天王」といった。風伯(풍백、プンベ)・雨師(우사、ウサ)・雲師(운사、ウンサ)といった、風の神・雨の神・雲の神が臣下として仕え、穀物・命・病気・刑罰・善悪など人間の360余りの事をつかさどり、世を治めた。洞窟にいた熊と虎が人間になりたいと訴え、ヨモギとニンニクを食べて、一定のあいだ蟄居(ちっきょ)[注 1]しているように教えると、熊だけが女性の人間になることができた。そして人間となった熊女との間に檀君となる王倹を生んだ、という[1]。

典型的な北方系の王権起源神話であり、元来は高句麗を経由して入ってきた夫余系の神話だったとみられている[3]。日本の天孫降臨神話とも同類型である。

金思燁によると、桓雄は古い発音では夫余の建国神話に登場する天神「解慕漱」(ヘモス)と同名で、同一の太陽神だったとみられる[7]。なお、井上秀雄は、夫余王・解夫婁の「解は太陽」を意味する

https://ja.wikipedia.org/wiki/桓雄




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