歴史掲示板(渡来人研究会)
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秦氏・田道間守ライン
管理人
投稿日:2023年07月03日 00:33
No.278
先日、田道間守やユダヤ人と関係する伝承拠点を結んだ図3の方位ラインを作成したことがありましたが、いくらか抜けていた拠点がありましたので、追加・整理してみたのが図1,2となります。
ここで追加したのは、気比神宮⇔広隆寺⇔橘本神社への東65度偏角のラインがあります。
ここにみえる広隆寺は秦氏の氏寺として知られていますが、また気比神宮については、伊奢沙別命(気比大神)、仲哀、神功皇后が祀られてます。
そして、その橘本神社については、田道間守が祀られており、図のように宇佐神宮⇔橘本神社への東10度偏角のラインがあることは先日も指摘したとおりです。
その宇佐神宮については、図のように宇佐神宮⇔出雲大社への東60度偏角のラインがあり、このラインと出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインが直交しています。
同じく宇佐神宮⇔気比神宮への東30度偏角のラインがあり、このラインと鳥取大神宮⇔橘本神社への西60度偏角のラインとが直交しています。
なお宇佐神宮も秦氏の拠点として知られており、応神・神功と関わりが深い点で先の気比神宮への東30度偏角のラインとに接点がみえてきます。
また、図のように、広隆寺⇔当麻寺への南北ラインが確認できますが、また田島(鳥取市)⇔八幡神社(三木家住宅)への南北ラインもあります。
ここで田島(鳥取市)は先日お知らせした鳥取大神宮の西北に位置し、ライン的には出雲大社⇔田島(鳥取市)⇔籠神社への東5度偏角のライン上に位置しています。その田島は先の田道間守との関わりでとらえるべきです。
また八幡神社そばには三木家住宅があり、大嘗祭・忌部氏とゆかりの深い地であったと考えうるでしょう。
そのことは、先の宇佐神宮⇔橘本神社ライン上にこの八幡神社(三木家住宅)が載ることからもあきらかです。
その他、出雲大社⇔橘本神社への西30度偏角のラインと、橘本神社⇔吉田神社(菓子神社)への東60度偏角のラインとが直交し、その吉田神社⇔日葉酢姫陵への南北ラインがあります。
そしてその日葉酢姫陵⇔履中陵⇔八幡神社(三木家住宅)への東30度偏角のラインの存在があり、これが先の宇佐神宮⇔気比神宮ラインと平行になってくるわけです。
この日葉酢姫は田道間守が不老長寿の橘の木(メノラーのような8枝の燭台・レガリヤ)を渡した垂仁妃でもありますが、ある時期に垂仁に象徴される畿内を支配していたであろう南方航海民系(日向系)集団のところに、田道間守や天日矛に象徴される渡来系集団がやってきて、最終的に丹波王朝から河内王朝へと至る過程を示しているのでしょう。
その際にみえてくるのが、今回取り上げた気比神宮、応神・神功・八幡伝承と関わる秦氏の展開だったのではないでしょうか。
それゆえ、このライン上にさらに広隆寺が見えてくるのですが、秦氏は祭祀面では忌部氏の配下にいましたから、今回のライン上に忌部の拠点が見えてくることも理解しうるでしょう。
その秦氏については、ネストリウス派キリスト教(景教)との関連が指摘されていますが、その集団はユダヤ人を多く含んでいたことからみて、かれらが渡来時にユダヤ人の習俗や伝承等も同時に日本にもたらした可能性も高いのではないでしょうか。
それで、先の広隆寺の南に位置する当麻寺ですが、忌部氏の麻と関係する名が見えることには留意すべきで、当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があり、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推されていること(wiki当麻寺条参照)をみても、今回の田道間守・天日矛、海部氏と関わる籠神社との関わりを示しているようにも見受けられます。
葛城氏との関わりについては、一言主社と雄略や倭武伝承、それらと旧約聖書との関係を考える必要がありますが、またその辺については追って考えていきましょう。
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