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忌部ライン 管理人 投稿日: 2023年05月09日 15:28:52 No.252 【返信】

先日、剣山(剣神社)と魏年号銘鏡出土地等を結ぶラインを作成しましたが、その剣山について後代の伝承を調べていくと、特に忌部との関わりが重要になってきそうです。

以前、各地の忌部神社を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、再考してみたのが図1です。図2,3はその拡大図。

具体的には、伊勢外宮⇔国見山⇔岩橋千塚古墳群(南部・将軍塚付近)⇔忌部神社(山川)⇔宇佐神宮⇔平塚川添遺跡⇔与止日女神社への東12度偏角のラインが確認できます。

ここで、伊勢外宮の豊受(トヨウケ)神と、女王台与(トヨ)との関係を予想した与止日女神社がライン上にみえ、平塚川添遺跡とともに邪馬台国時代、特に台与(トヨ)の名残をこの忌部が引き継いでいた可能性がでてきます。

なお、岩橋千塚北西部には紀伊忌部の拠点があったことにも留意しておくべきでしょう。

そして図3のように、忌部神社(山川)の南方の忌部山古墳群をラインが通過していることがあります。

年代的には、岩橋千塚と同様6世紀中葉あたりに、忌部氏が蘇我氏のもとで全国展開していった際にこれらの古墳群が造営させていったのでしょう。

また図2のように、忌部神社(豊中)⇔大剣神社への西40度偏角のラインと、大剣神社⇔忌部神社(山川)への東50度偏角のラインとが直交しています。

ここでは、忌部神社(山川)と剣山を起点にして、忌部神社(豊中)を造営したことも伺えます。

なお、忌部氏の展開については、『古語拾遺』のほうに、下記の記載等(https://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.html から引用)があるので、よろしくご参照ください。


天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、 正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、 高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ) の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、 殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。
また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。 その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。 故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。
天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、 良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、 是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。
天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。 その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。 その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。


ここで、讃岐忌部氏がみえてきますが、これは図3の忌部神社(豊中)を拠点とした集団で、手置帆負命を祖として、祭具の矛竿を献上していたとの記載があります。詳細は下記(http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1510.htmlから引用)のとおりです。この手置帆負命の件は後日、改めて説明したいと思います。


古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。

讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐文(さぶみ、麻分の意味)、同町佐股(麻またの意味) などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。




邪馬台国時代の測量方法4 管理人 投稿日: 2023年05月06日 23:57:32 No.250 【返信】

先日、九州、瀬戸内、畿内を結ぶ魏年号銘鏡出土地などを結んだラインを作成しましたが、その折に、四国の剣山付近を通過することがあり、その剣山について注目しながら、あらためて魏年号銘鏡を出土した各地の拠点を結んでみたのが図1,2,3となります。

ここで、まず剣山そばの剣神社をラインが通過することがわかりますが、具体的には持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔物部(高知市)⇔剣神社⇔安満宮山古墳(魏年号銘鏡出土)⇔森将軍塚古墳へと延びる東40度偏角のラインがあることがわかります。

このラインと直交するのが、以前もお知らせした森尾古墳(魏年号銘鏡出土)⇔広峯15号墳(魏年号銘鏡出土)⇔黒塚古墳(三角縁神獣鏡多数出土)への西50度偏角のラインです。

また先の持田古墳群⇔竹島御家老屋敷古墳(魏年号銘鏡出土)への東85度偏角のラインと、竹島御家老屋敷古墳⇔剣神社への西5度偏角のラインとが直交して直角三角形を構成していますが、また先日も指摘した神集島⇔竹島御家老屋敷古墳⇔楯築墳丘墓への東20度偏角のラインと、楯築墳丘墓⇔剣神社への西70度偏角のラインとが直交しています。

あと、先の持田古墳群⇔神原神社古墳(魏年号銘鏡出土)への東70度偏角のラインは、神原神社古墳⇔黒塚古墳への西20度偏角のラインと直交しており、また持田古墳群⇔黒塚古墳南部(箸墓付近)⇔柴崎蟹沢古墳(魏年号銘鏡出土)への東32度偏角のラインは、太田南5号墳⇔安満宮山古墳⇔黒塚古墳への西60度偏角のラインと直交しています。

加えて、神原神社古墳⇔太田南5号墳北部⇔柴崎蟹沢古墳への東10度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔剣神社への東10度偏角のラインとが平行関係にあり、留意しておくべきラインです。

またその神原神社古墳⇔津久見島⇔西都原古墳群への東68度偏角のラインがありますが、その津久見島⇔持田古墳群への東75度偏角のラインが、先日も説明した神集島⇔平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインと直交していることもあります。

その他のラインについては、先日も説明したので詳細は割愛しますが、太田南5号墳⇔安倉高塚古墳(呉年号銘鏡出土)⇔和泉黄金塚古墳(魏年号銘鏡出土)への西75度偏角のラインについては、呉の年号銘鏡の出土地も関わっている点で注目すべきでしょう。

そして神集島⇔三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔岡本遺跡⇔赤塚古墳への東西ラインは以前から指摘しているところですが、赤塚古墳⇔竹島御家老屋敷古墳⇔神原神社古墳への東55度偏角のラインの存在も重要です。

このように、すべての魏年号銘鏡出土古墳は、整然とこれらのライン上に位置付けられていることからみて、剣神社についても、魏年号銘鏡等が出土していたもおかしくはない感じがします。

その剣神社については、大山祇、スサノオ、安徳天皇を祀っており、安徳天皇が天叢雲剣(草薙剣)を修めたという伝説があり、それがもとになって剣山と改名されたとの由来があります。

このように剣山については、三種の神器の剣に関わる伝承があることも興味深いところですが、ともあれ、ラインが通過するのは、図1下図のように、剣山頂上ではなく、この木屋平の剣神社であることに留意しておくべきで、先のとおり魏の年号が記された銅鏡が奉納されていた可能性は、その測量上での重要位置にあることからみても高く、そのことと神器伝承とが後代、何らかの接点をもったのかもしれません。

あと、大剣神社については、先の竹島御家老屋敷古墳⇔剣神社へのライン上にあり、ここにも何らかの宝物等が残っていた可能性はあるかもしれません。




邪馬台国時代の測量方法3 管理人 投稿日: 2023年05月05日 00:42:43 No.249 【返信】

先日お知らせした平塚川添遺跡、津久見島、持田古墳群等を結んだ方位ラインについてですが、特に持田古墳群から魏年号銘鏡が出土していることに注目して、瀬戸内・畿内の年号銘を出土した古墳とを方位ラインで結んでみたところ図1のようになりました。

ここで、津久見島とは別に神集島が測量の起点となっていたことがわかりました。

具体的には、まず神集島⇔三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔岡本遺跡⇔大野城(大城山)⇔川部・高森遺跡への東西ラインがあります。

また神集島⇔平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡⇔下綾垣遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインがあることは先日もお知らせしたとおりです。

そして、神集島⇔竹島御家老屋敷古墳(魏年号銘鏡出土)⇔楯築墳丘墓への東20度偏角のラインがあり、その楯築墳丘墓については、楯築墳丘墓⇔川部・高森遺跡⇔小迫辻原遺跡西部(日田市山田)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン、神原神社古墳⇔楯築墳丘墓⇔萩原2号墳への西40度偏角のラインがあることにも気づきます。

加えて、天岩戸神社⇔津久見島⇔楯築墳丘墓⇔太田南5号墳(魏年号銘鏡出土)への東42度偏角のラインもみてとれます。

あと、西都原古墳群(男狭穂塚)⇔萩原2号墳⇔安満宮山古墳(魏年号銘鏡出土)への東38度偏角のラインもあったようにみえます。

このラインと平行となるのが、神集島⇔神原神社古墳への東38度偏角のライン、庄内町阿蘇野⇔楯築墳丘墓への東38度偏角のラインとなり、前者と直交するのが、神集島⇔山田(西都市)への西52度偏角のラインとなります。これらのラインで、図のように長方形の方形区画を九州から瀬戸内方面に構成していたことも伺えます。

加えて、平塚川添遺跡⇔八女津媛神社⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西60度偏角のラインがあり、それと平行して、山田(西都市・古墳状地形)⇔女山神籠石⇔三雲小路南遺跡への西60度偏角のラインが存在します。

さらに西都原古墳群⇔津久見島⇔神原神社古墳への東70度偏角のラインも確認でき、そのほか、川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)への南北ライン等は先日もお知らせしたとおりです。

こうみていくと、神集島⇔平塚川添遺跡⇔津久見島ラインを弥生時代中期までには把握していた集団がおり、その2島を測量起点として、弥生後期に、神集島⇔三雲小路南遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ライン、および川部・高森遺跡⇔山田(西都市)への南北ライン等を作成し、さらにその後、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインを造営し、弥生末から古墳初期にかけて、その延長線上に楯築墳丘墓等を拠点として造営しながら、魏年号銘鏡を出土した瀬戸内・畿内の拠点を構築しながら東方展開していったのではないでしょうか?




邪馬台国時代の測量方法2 管理人 投稿日: 2023年05月01日 03:05:32 No.245 【返信】

先日、平塚川添遺跡から南北へ延びる方位ラインの存在とその測量方法について説明しましたが、また同じ平塚川添遺跡を拠点とした他のラインの測量方法についても考えてみたいと思います。

図1,2では、以前からお知らせしてきた平塚川添遺跡から西15度偏角の方位ラインについて示してますが、具体的には、平塚川添遺跡⇔長田大塚古墳(朝倉市山田)北部⇔杷木神籠石⇔北方岳⇔小迫辻原遺跡⇔下綾垣遺跡⇔宝山⇔倉木山⇔古城山⇔津久見島へのラインとなります。

このラインと直交するのが、津久見島⇔持田古墳群への東75度偏角のラインで、その持田古墳群からは魏の景初四年銘を記した盤龍鏡が出土していることからみて邪馬台国時代と関係するラインと言えるでしょう。

その持田古墳群⇔八女津媛神社⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインがありますが、このラインと直交するのが図のように、八女津媛神社⇔川部・高森遺跡への東45度偏角のラインとなります。

そのラインと直交するのは、川部・高森遺跡⇔津久見島への西45度偏角のラインであり、このラインと天岩戸神社⇔津久見への東45度偏角のラインが直交し、その天岩戸神社⇔八女津媛神社への西45度偏角とで正方形を形成していることも見て取れます。

その正方形の対角線として、天岩戸神社⇔庄内町阿蘇野⇔川部・高森遺跡への南北ラインと、女山神籠石⇔八女津媛神社⇔庄内町阿蘇野⇔津久見島への東西ラインがあります。

その他、先の平塚川添遺跡⇔持田古墳群ラインと、女山神籠石⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインが直交しており、これらのラインは、45度、90度、15度、30度、60度の偏角の測量を組み合わせていたことが予想しうるでしょう。

特に今回平塚川添遺跡とは別に、津久見島、八女津媛神社といった拠点が重視されていたことが伺えるのですが、おそらくは津久見島が測量の起点となり、そこから平塚川添遺跡、持田古墳群方面へと測量をしていったのではないでしょうか。

この方位ラインの電子地図動画についてはこちらにアップしておいたので、ご参照ください。
https://drive.google.com/file/d/1pjrBNWWgOSr_j-9OozwixXrGKSVcI_fl/view?usp=share_link

また、先日同様にGoogleEarthを用いた3D測量シュミレーション動画もこちらにアップしておきます。図3はそのスクリーンショットとなります。

平塚川添遺跡から津久見島への測量シュミレーション動画
https://drive.google.com/file/d/12h5exKo4NpnV1biAcyO4MDr96PWAAIyx/view?usp=share_link
津久見島から平塚川添遺跡への測量シュミレーション動画
https://drive.google.com/file/d/1KGuPPGIgmswvxlhzVXLK-GPkFEPOCjLD/view?usp=share_link

この平塚川添遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインについては、図のように、津久見島の他、月出山、北方岳、宝山、倉木山、古城山といった山・丘陵を目印としていたはずで、頂上部が若干加工されているようにも見受けられます。この辺は平地に造られた前方後円墳、それ以前の高地性集落とも共通する左右不均等な撥型の前方後円墳形状に近いものもあり、すでに弥生時代にはそのようなマウンドと狼煙通信施設とが設置されていたことを示すものかもしれませんが、ただ、その一部については、縄文時代、旧石器時代からの測量拠点も考慮しておく必要もあるでしょう。

また津久見島も月見と関係し、月出山とともに月に関する地名であり、日月信仰との関わりを想起させますが、関連して天岩戸神社、八女津媛神社等、女神・女性首長に関わる拠点がみえてくることも重要で、邪馬台国の女王とそれらがどう関わっていたのかについても考えてみたいところです。




邪馬台国時代の測量方法01 管理人 投稿日: 2023年04月27日 01:26:50 No.244 【返信】

ここしばらく、弥生末期から古墳時代初期にかけての方位ラインをおしらせしてきましたが、そのような数十キロ離れた遠距離の遺跡間をどのように正確に測量しうるのかについて疑問を感じておられる方も多いかと思いましたので、今回あらためてその測量の実態について考えてみたいと思います。

まず図1は、以前お知らせした平塚川添遺跡(大型建物)⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ラインですが、27.5㎞で50m前後の誤差範囲で測量していたことが伺えます。双方、東経130度39分10秒で、1/500の誤差範囲ですから、0.3度以下の誤差となり、かなり精度が高いと言えるでしょう。

そこでどのようにその測量を行ったのかですが、図1に示したように、その2点を含むライン上にいくつか測量の目印となる拠点を置いていたことが予想されます。

具体的には、平塚川添遺跡(大型建物)⇔大穴貴神社西北の岡(三輪山状)⇔目配山(東山頂部)⇔少彦神社⇔三箇山北部(西部に三箇山大山祇神社)⇔伊川・大日寺の古墳状地形⇔笠置山東部⇔大山祇神社といったラインが見て取れます。

ここで、大穴貴、少彦、大山祇といった日本神話の神々が見えてきますが、また目配山、三箇山、笠置山のように、弥生時代からの目安とした山の名がそのまま残っていることにも気づきます。そこに弥生時代末期から古墳時代初期に使用されたであろう平塚川添遺跡がダイレクトにかかわっていくわけです。

これらの拠点から次の拠点を眺めた風景をGoogleAEarthで再現したのが図2となりますが、10㎞前後で丘陵や山岳地帯の一部に目安をつけて、そこに向けて移動して拠点をつくり、その拠点同士で烽火を上げたり鏡や鏡石で反射させながら、次の拠点への目印・信号を送りながら、南北へと測量を進めていったことがわかります。

そのGoogleEarthで具体的な測量風景を再現した動画を作成しましたので、こちらご参照ください。(200mbほどあります)
https://drive.google.com/file/d/15949lY14PoFoLr8JNDNpT3tcHoZR6c1L/view?usp=share_link

同じく電子地図の動画(160mb)もこちらからご覧いただけます。いかに高い精度で測量していたかは、その緯度・経度の数値をみていただければ一目瞭然です。
https://drive.google.com/file/d/1EkH52d9yQdzJ4MqQzU5fDs48xDO15b_J/view?usp=share_link


なお、平地においては、アジスキタカヒコネが梯子をかけた高屋を建てながら、全国を巡り歩いた話にあるように、高屋を建てて、見晴らしをよくしたうえで測量を行い、支配領域を決めてから、いわゆる天孫降臨といった形で軍事進出していったのでしょう。

同様に、南北のラインができたら、次に分度器がわりとなる三角縁神獣鏡などのメモリを用いて、半角の45度、3分の1角の30度といった具合で、斜め方向へのラインを構築していくことで、先日お知らせしたような拠点間を結ぶ直角三角形領域を構築し、最終的には方格を構成しながら測量地図を作成していったはずです。

その距離単位の算出には、三輪山伝承のように、リールにまいた糸や縄の長さ(尺)で具体的に長さを1里なりで測っていったことはずですが、長距離になると周髀算経のようにして、ノーモン棒を用いた古代中国の緯度計算から正確な南北間距離を算出していたはずです。

その辺の距離算出と地図作りの詳細については次回、改めて考えていきましょう。




山田ライン04 管理人 投稿日: 2023年04月21日 01:39:21 No.243 【返信】

先日から、九州各地の山田の字名に関するラインを作成してきましたが、ひとつ忘れてはいけないのが、朝倉市山田にある長田大塚古墳でしょう。ここも卑弥呼の墓との指摘もあるようですが、図1のように、平塚川添遺跡⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔杷木神籠石⇔小迫辻原遺跡への西15度偏角のラインがあることは以前もお知らせしたとおりです。

関連して、女山神籠石⇔山田(朝倉市)長田大塚古墳への東45度偏角のラインがあり、また図のように、山田(朝倉市)長田大塚古墳⇔鷹取山西部への東65度偏角のラインが、平塚川添遺跡⇔吉田・辺田ノ上遺跡⇔女山神籠石への東65度偏角のライン、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインと平行となっています。

なお、その吉田・辺田ノ上遺跡⇔祇園山古墳の南北ラインがあり、また吉田・辺田ノ上遺跡⇔鷹鳥山西部⇔杷木神籠石への東30度偏角のラインを考慮すると、最近弥生後期の環濠集落や多数の鉄器を出土したこの吉田・辺田ノ上遺跡もかなり重要な遺跡であり、かつ祇園山古墳の被葬者とも関係していたことが伺えます。

そして、この吉田・辺田ノ上遺跡⇔杷木神籠石ラインと鷹鳥山西部で直交するのが、平塚川添遺跡⇔八女津媛神社への西60度偏角のラインです。

この八女津媛神社については、図のように女山神籠石⇔八女津媛神社への西1度偏角の東西ラインがあり、それと直交して、八女津媛神社⇔杷木神籠石への東1度偏角の南北ラインがあります。

あと、小迫辻原遺跡⇔八女津媛神社への東65度偏角のラインが、祇園山古墳⇔八女津媛神社への西35度偏角のラインと直交しています。加えて、祇園山古墳⇔鷹取山西部の東西ラインもみてとれます。

さらに、図3の拡大図のように、その平塚川添遺跡⇔八女津媛神社ラインの延長線上に、日向の持田古墳群(魏記念銘鏡出土)が西60度偏角で位置しています。

その他、平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交し、また平塚川添遺跡⇔伊川・大日寺の古墳状地形への南北ライン、伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることも先日指摘したとおりです。

こうみていくと、先日から注目してきた祇園山古墳については、高良山神籠石、女山神籠石、平塚川添遺跡や平原遺跡のみならず、吉田・辺田ノ上遺跡や八女津媛神社とも関わる人物の墓だったことも明らかにしうるでしょう。

また八女津媛神社自身も北部九州のライン構成上で重要な起点となっており、そして朝倉市山田の長田大塚古墳も平塚川添遺跡と関わりの深い人物の墳墓であった可能性がみえてきます。

そこに山田の字名がかかわってくることは、やはり邪馬台国との関連、その領域との兼ね合いでとらえるべきこともわかります。

これらの弥生時代後期から古墳時代初期にかけての古墳や遺跡は計画的に配置されていったことが明らかになるのですが、その構築年代の相違と編年をいかに整理していくかが今後の課題でしょう。

今回の場合だと、平原遺跡がみえてきていますが、それ以前の時代の拠点はそのやや東南の三雲小路南遺跡の王墓だったこともあきらかです。つまり弥生末期に平原遺跡の墳丘墓は構築され、それ以前は後者の支配によっていたはずですから、ここで権力交替があった可能性も伺えます。

同様に、今回は小迫辻原遺跡が拠点としてみえてきましたが、その北部の日田市山田を用いていた時期もあったはずで、前者の時代のライン上に山田(朝倉市)と長田大塚古墳が構築されたことも伺えます。

そして、女山神籠石⇔八女津媛神社への東西ラインと、八女津媛神社⇔杷木神籠石への南北ラインが東に1度傾いており、これも測量方式等の相違や時代による測量集団に変化によって相違が生じていった可能性も考慮すべきでしょう。

ただ、概ね、60度、30度、15度、45度、75度、90度と、円の3分割による三角測量を繰り返す測量集団であったことは間違いないでしょう。

これらが狼煙台による通信目的であると仮定すると、当然、そのラインの中心域が首都となり、そこに各地の情報が集積されていき、また発信されていったであろうことも確かでしょうから、やはり平塚川添遺跡はその中心地として相応しい位置にあったことは疑いないところです。

そこで卑弥呼の墓についてですが、卑弥呼の墓自体は、情報発信の中心に位置している必要はないわけで、あくまで血縁関係や生年に過ごしていた拠点(都)等との関係で位置付けられていたことでしょう。

つまり、弥生時代からの狼煙や鏡光による情報通信のそれとダイレクトに関わっていない可能性が高く、その意味では、祇園山古墳等は恣意的な位置付けである点でも興味深いところです。

そして狼煙台としての機能を持つ場合は、高さも高く、その高さを維持するためのマウンド半径も大きくなるでしょうし、高地性集落のように見晴らしのよい場所を選んでいったことも予想しうるところですが、王墓としての機能だけなら、そこまで大きいサイズ、高い位置である必要もないはずです。

このように、合理性と恣意性の双方の観点から、被葬者や都市を特定していくことも重要になってくるかもしれません。




山田ライン03 管理人 投稿日: 2023年04月18日 02:07:00 No.241 【返信】

先日お知らせした九州各地の山田・山門等の字名と古墳状地形や弥生遺跡を結んだラインについて、追加で補足しておきたいと思います。

具体的には伊都国に位置する三雲小路南遺跡に関するライン、纒向型前方後円墳の那珂八幡古墳に関するライン、卑弥呼の墓ともされる祇園山古墳に関するラインです。

この3つの拠点を先日のライン図に加えたものが図1となりますが、まず、山田(北九州市)⇔名島4号墳(纒向型前方後円墳)東部⇔三雲小路南遺跡への東30度偏角のラインがあることがわかります。

また、このラインと直交して三雲小路南遺跡⇔吉野ヶ里遺跡北部⇔女山神籠石への西60度偏角のラインがあり、その女山神籠石⇔山田(日田市)⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインがあることは先日述べたとおりです。

あと、以前から指摘している三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔須玖・岡本遺跡⇔大野城⇔川部・高森遺跡への東西ラインがあること、また大野城⇔女山神籠石への南北ラインの存在もあります。

次に那珂八幡古墳についてですが、三雲小路南遺跡⇔那珂八幡古墳⇔赤村の古墳状地形への東12度偏角のラインがあり、また平塚川添遺跡⇔那珂八幡古墳⇔志賀島(潮見公園)への西45度偏角のラインがあり、このラインと先日指摘した高良大社⇔平塚川添遺跡⇔鎌田原遺跡南部⇔赤村の古墳状地形⇔石塚山古墳への東55度偏角のラインとが直交しています。

ここで志賀島が関わってくることは、その金印の件も考慮すると、外交・役所との関わりであり、平塚川添遺跡との重要拠点へと情報を伝達するルートとして存在していたことを示すものでしょう。

そして、またその平塚川添⇔石塚山古墳の石塚山古墳が、畿内の初期古墳の構造に近いとされることも、先日お知らせした図2の石塚山古墳を経由して石塚山古墳⇔奥3号墳⇔黒塚古墳への東10度偏角のラインや石塚山古墳⇔竹島御家老屋敷古墳(年号銘鏡出土)⇔蟹沢古墳(年号銘鏡出土)への東20度偏角のラインの存在を考慮すると、この石塚山古墳が九州から畿内、四国への情報や交易をおこなう起点として位置づけられていたことと関係するでしょう。その畿内方面へと進出していった年代はその魏年号の少し後となるはずです。

最後に祇園山古墳に関するラインですが、図3のように、特に伊川・大日寺の古墳状地形⇔祇園山古墳⇔女山神籠石への東75度偏角のラインがあることに気づきます。このラインと祇園山古墳⇔高良大社へのラインが直交するようです。

また、伊都平原遺跡⇔祇園山古墳への西40度偏角のラインが、祇園山古墳⇔平塚川添遺跡への東50度偏角のラインと直交していることもわかります。

したがって祇園山古墳の主は、そばの高良大社(神籠石)はもとより、女山神籠石と、伊川・大日寺の古墳状地形、そして平原遺跡、そして平塚川添遺跡とに関わる重要人物であったことが伺えます。

すでに平原遺跡と祇園山古墳の出土遺物との相関性は指摘されてますが、平塚川添遺跡というこの時期の最大拠点とも位置付けられていることは、この祇園山古墳に葬られた人物がこの地域を支配する首長としての位置付けにあった可能性を示す点で興味深いところです。

殉葬者らしき遺体が周囲に数十人見えるとの指摘からみても、この祇園山古墳はかなりの有力者であったことは疑いないでしょう。




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