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投稿者:管理人
先日お知らせした平塚川添遺跡、津久見島、持田古墳群等を結んだ方位ラインについてですが、特に持田古墳群から魏年号銘鏡が出土していることに注目して、瀬戸内・畿内の年号銘を出土した古墳とを方位ラインで結んでみたところ図1のようになりました。 ここで、津久見島とは別に神集島が測量の起点となっていたことがわかりました。 具体的には、まず神集島⇔三雲小路南遺跡⇔吉武高木遺跡⇔岡本遺跡⇔大野城(大城山)⇔川部・高森遺跡への東西ラインがあります。 また神集島⇔平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡⇔下綾垣遺跡⇔津久見島への西15度偏角のラインがあることは先日もお知らせしたとおりです。 そして、神集島⇔竹島御家老屋敷古墳(魏年号銘鏡出土)⇔楯築墳丘墓への東20度偏角のラインがあり、その楯築墳丘墓については、楯築墳丘墓⇔川部・高森遺跡⇔小迫辻原遺跡西部(日田市山田)⇔女山神籠石への東30度偏角のライン、神原神社古墳⇔楯築墳丘墓⇔萩原2号墳への西40度偏角のラインがあることにも気づきます。 加えて、天岩戸神社⇔津久見島⇔楯築墳丘墓⇔太田南5号墳(魏年号銘鏡出土)への東42度偏角のラインもみてとれます。 あと、西都原古墳群(男狭穂塚)⇔萩原2号墳⇔安満宮山古墳(魏年号銘鏡出土)への東38度偏角のラインもあったようにみえます。 このラインと平行となるのが、神集島⇔神原神社古墳への東38度偏角のライン、庄内町阿蘇野⇔楯築墳丘墓への東38度偏角のラインとなり、前者と直交するのが、神集島⇔山田(西都市)への西52度偏角のラインとなります。これらのラインで、図のように長方形の方形区画を九州から瀬戸内方面に構成していたことも伺えます。 加えて、平塚川添遺跡⇔八女津媛神社⇔持田古墳群(魏年号銘鏡出土)への西60度偏角のラインがあり、それと平行して、山田(西都市・古墳状地形)⇔女山神籠石⇔三雲小路南遺跡への西60度偏角のラインが存在します。 さらに西都原古墳群⇔津久見島⇔神原神社古墳への東70度偏角のラインも確認でき、そのほか、川部・高森遺跡⇔天岩戸神社⇔山田(西都市)への南北ライン等は先日もお知らせしたとおりです。 こうみていくと、神集島⇔平塚川添遺跡⇔津久見島ラインを弥生時代中期までには把握していた集団がおり、その2島を測量起点として、弥生後期に、神集島⇔三雲小路南遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ライン、および川部・高森遺跡⇔山田(西都市)への南北ライン等を作成し、さらにその後、女山神籠石⇔小迫辻原遺跡⇔川部・高森遺跡への東30度偏角のラインを造営し、弥生末から古墳初期にかけて、その延長線上に楯築墳丘墓等を拠点として造営しながら、魏年号銘鏡を出土した瀬戸内・畿内の拠点を構築しながら東方展開していったのではないでしょうか?
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