歴史掲示板(渡来人研究会)


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忌部ライン
管理人 投稿日:2023年05月09日 15:28 No.252
先日、剣山(剣神社)と魏年号銘鏡出土地等を結ぶラインを作成しましたが、その剣山について後代の伝承を調べていくと、特に忌部との関わりが重要になってきそうです。

以前、各地の忌部神社を結んだ方位ラインを作成したことがありますが、再考してみたのが図1です。図2,3はその拡大図。

具体的には、伊勢外宮⇔国見山⇔岩橋千塚古墳群(南部・将軍塚付近)⇔忌部神社(山川)⇔宇佐神宮⇔平塚川添遺跡⇔与止日女神社への東12度偏角のラインが確認できます。

ここで、伊勢外宮の豊受(トヨウケ)神と、女王台与(トヨ)との関係を予想した与止日女神社がライン上にみえ、平塚川添遺跡とともに邪馬台国時代、特に台与(トヨ)の名残をこの忌部が引き継いでいた可能性がでてきます。

なお、岩橋千塚北西部には紀伊忌部の拠点があったことにも留意しておくべきでしょう。

そして図3のように、忌部神社(山川)の南方の忌部山古墳群をラインが通過していることがあります。

年代的には、岩橋千塚と同様6世紀中葉あたりに、忌部氏が蘇我氏のもとで全国展開していった際にこれらの古墳群が造営させていったのでしょう。

また図2のように、忌部神社(豊中)⇔大剣神社への西40度偏角のラインと、大剣神社⇔忌部神社(山川)への東50度偏角のラインとが直交しています。

ここでは、忌部神社(山川)と剣山を起点にして、忌部神社(豊中)を造営したことも伺えます。

なお、忌部氏の展開については、『古語拾遺』のほうに、下記の記載等(https://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.html から引用)があるので、よろしくご参照ください。


天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。] 手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち始めて山の材木を採取し、 正殿を建てた。[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、 高天原に届くほど高く御殿を造られた。]その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ) の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、 殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。
また、天富命は斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(ミホギタマ)[古くは美保伎玉(ミホギタマ)と言い意味は祈祷である。]造る。 その末裔は今は出雲の国に居る。年毎に調物とその玉を天日鷲命の孫が造る木綿・麻・織布[古くは阿良多倍と言う。]と共に進貢した。
天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地を求め、阿波の国に遣わして穀・麻種を植えた。 その末裔は今は彼の国に居る。大嘗の年に木綿・麻布・種々の蓑を貢ぎ奉った。 故に郡の名を麻殖(アサウエ)としたのは是が元である。
天富命は更に肥沃な土地を求めて阿波の斎部を分けて東の国に率いて往き麻・穀を播き殖、 良い麻が生育した。故にこの国を總国(フサノクニ)と言う。穀・木の生育したところは、 是を結城郡(ユフキノコオリ)と言う。[古くは麻を總と言う。 今の上總・下總のに国がこれである。] 阿波の忌部が居るところを安房郡(アワノコオリ)[今の安房の国がこれである。]と言う。
天富命はやがてその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(アワノヤシロ)と言う。 その神戸(カムベ)に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を作る。 その末裔は、今別れて讃岐の国に居る。年毎に調庸の他に八百竿を奉る。是はその事のしるしである。


ここで、讃岐忌部氏がみえてきますが、これは図3の忌部神社(豊中)を拠点とした集団で、手置帆負命を祖として、祭具の矛竿を献上していたとの記載があります。詳細は下記(http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1510.htmlから引用)のとおりです。この手置帆負命の件は後日、改めて説明したいと思います。


古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。

讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐文(さぶみ、麻分の意味)、同町佐股(麻またの意味) などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。




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