歴史掲示板(渡来人研究会)


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無題 日本人のルーツ 投稿日: 2023年11月12日 16:00:23 No.347 【返信】

お久しぶりです。 なにかニュースありますか?


無題 歴史マニア 投稿日: 2023年10月28日 19:48:07 No.346 【返信】

日露戦争で日本が勝てたのはベトナムの方のおかげであるという話が舞台化されるそうです。
舞台「艦隊は動かず」
めっちゃ面白そうです。


新・邪馬台国ライン2 管理人 投稿日: 2023年10月27日 00:23:37 No.344 【返信】

先日は四国邪馬台国説に関わりそうなライン図を紹介してきましたが、瀬戸内海を挟んで対岸にあたる吉備から姫路周辺にも複数のラインが交差する地点があり、この周辺も邪馬台国時代に重要視されていた可能性がありそうです。

特に姫路の山戸4号墳は3世紀前半の纒向型前方後円墳として知られており、この古墳の竪穴式石槨の形状が讃岐のものと類似し、納められた大型の壺棺も讃岐で作られたとみられることから、讃岐地方との交流が予想されているようです。

そして、この古墳に関連するラインは図1のようになります。図2、3はその拡大図です。

具体的にはまず先日も指摘した西都原古墳群⇔石清尾山古墳群⇔荒神社(小豆島)⇔山戸4号墳⇔分校マエ山古墳⇔柳田布尾山古墳への東45度偏角のラインがあり、年代は3世紀代とされる纒向型前方後円墳の年代とみなしうるでしょう。このラインが先の讃岐との関わりをはっきりと示しています。

なお、その石清尾山古墳群については以前作成したように、堀之越古墳⇔八堂山遺跡⇔高屋神社付近⇔石清尾山古墳群(3世紀~)⇔布留神社への東30度偏角のラインがあり、弥生時代末期から布留遺跡の布留式土器に関する年代の造営と考えうるでしょう。

その分校マエ山古墳⇔柴崎蟹沢古墳への東西ラインがあり、また同じく柴崎蟹沢古墳⇔諏訪大社前宮北部⇔山戸4号墳への東20度偏角のラインがあります。

また、中山茶臼山古墳⇔山戸4号墳⇔鹿島神宮への東15度偏角のラインがありますが、このラインと中山茶臼山古墳⇔大剣神社への西75度偏角のラインが直交しています。

あと、山戸4号墳⇔布留遺跡⇔伊勢内宮への西10度偏角のラインも留意しておくべきでしょう。

さらに、大剣神社⇔山戸4号墳東部⇔太田南古墳群(魏年号銘鏡出土)への東65度偏角のラインがあり、をの太田南古墳群⇔安満宮山古墳(魏年号銘鏡出土)⇔三輪山への西60度偏角のラインがあります。

その安満宮山古墳⇔萩原墳墓群⇔大剣神社⇔西都原古墳群への東40度偏角のラインがあり、またその萩原墳墓群については、神原神社古墳(魏年号銘鏡出土)⇔楯築墳丘墓⇔萩原墳墓群への西40度偏角のラインもあります。

その他、中山茶臼山古墳⇔箸墓古墳⇔伊勢外宮への西5度偏角のライン、その箸墓古墳⇔荒神社(小豆島)への東西ライン、石清尾山古墳⇔三輪山⇔新宝院山古墳群への東8度偏角のラインの存在も三輪・伊勢方面の諸伝承との関わりを示すものでしょう。

このように山戸4号墳、大剣神社周辺は、ある時期の瀬戸内において、測量面でも領域支配でも重要拠点であった可能性がみえてくるのですが、山戸(ヤマト)の字名は、そのまま邪馬台国と関わるはずで、その意味では、ある時期の邪馬台国の拠点でもあったのでしょう。

天満山が近くにあり、天照信仰のそれを想起させますが、布留遺跡をへて伊勢へと至るラインと関わってくるかもしれません。

そこに、魏年号銘鏡出土古墳や纒向型前方後円墳が関わっていくのですが、これらのセット関係は、比較的時間的に近い年代に造営・埋葬されたことを示すはずですが、畿内へ入り伊勢方面へと展開していく直前期に、四国の剣山方面や、吉備の中山茶臼山古墳、播磨の山戸4号墳周辺に拠点をおいていた可能性がありそうです。

もう少し、その年代を10年単位くらいでライン面から識別出来てくると面白いのですが、またその辺については、後日改めて考えてみたいと思います。




続・邪馬台国ライン 管理人 投稿日: 2023年10月20日 00:59:16 No.343 【返信】

先日お知らせした伊予氷見・八堂山遺跡等を結ぶ方位ラインについて、さらに以前とりあげた同時代の方位ラインを追加してみたのが図1となります。

ここでは、まず今回追加したのは、魏年号銘鏡を出土した島根の神原神社古墳と富士山(白山岳)を結ぶ東西ラインがあります。

この東西ラインと平行して、分校マエ山古墳(纒向型前方後円墳)⇔浅間山古墳(纒向型前方後円墳)の東西ラインもあります。

そして籠神社⇔長田口遺跡(纒向型前方後円墳)への東西ライン、また椿井大塚山古墳⇔新宝院山古墳群への東西ラインも追加しています。

あと、先日も指摘した山田(北九州市)⇔伊予氷見南部⇔大剣神社への東西ラインの存在もあります。

その新宝院山古墳群⇔長田口遺跡⇔北山茶臼山古墳への東60度偏角のラインがあり、同じくそれと平行して、籠神社⇔大剣神社への東60度偏角のラインがあります。

また、西60度偏角のラインとしては、先日もお知らせした持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔平塚川添遺跡へのライン、籠神社⇔神宮皇后陵⇔布留遺跡へのライン、川柳将軍塚古墳⇔山中湖(長池・呉金印出土地)へのラインがあり、これらのラインと直交するのが、女山神籠石⇔川部・高森遺跡⇔川柳将軍塚古墳への東30度偏角のライン、大剣神社⇔神功皇后陵⇔北山茶臼山古墳への東30度偏角のライン、持田古墳群⇔月讀宮⇔富士山(白山岳)⇔山中湖(長池)への東30度偏角のラインとなります。

これらのラインは図のように長方形の区画を構成しており、その領域内がある時期の邪馬台国の領域だった可能性もあるでしょう。

年代的には、纒向型前方後円墳が造営され、かつ布留遺跡の布留式土器の年代でしょう。初期の三角縁神獣鏡の出土とも関わってきますが、中山茶臼山古墳や川柳将軍塚古墳は箸墓と同規格とされるので、その年代とも言えそうです。

それで、今回もう一つ加えたのが、能登半島の氷見市にある3世紀末の前方後方墳とされる柳田布尾山古墳で、中山茶臼山古墳⇔籠神社⇔柳田布尾山古墳への東40度偏角のライン、西都原古墳群⇔分校マエ山古墳⇔柳田布尾山古墳への東45度偏角のラインも確認できます。

また、神原神社古墳⇔中山茶臼山古墳⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)への西40度偏角のラインがあり、萩原墳墓群⇔川柳将軍塚古墳への東40度偏角のラインと線対称になりますが、このラインは、図のように、今日と南西部、琵琶湖東部にある複数のラインが交差する地点を通過していることからみても、総じて同時代の測量によるラインと考えうるでしょう。

その他、天岩戸神社⇔大剣神社⇔布留遺跡⇔長田口遺跡への東28度偏角のラインや、阿蘇山(中岳)⇔大剣神社⇔富士山(白山岳)への東20度偏角のラインもあり、大剣神社および剣山が、この時期に測量拠点や烽火等の通信拠点として重視されていたことをうかがわせるものです。

これらのラインが多く交差する地点に、情報の集約拠点、つまり首都的な機能をもった都市が存在していた可能性が高くなりますが、立地的には平地が多く飲料水を確保できるかといった要因も都づくりには欠かせません。

九州では持田古墳群・西都原古墳群のある日向地域や女山神籠石・山門周辺、平塚川添遺跡周辺、四国でいけば、伊予氷見・八堂山遺跡、徳島の萩原墳墓群・大麻比古神社周辺、布留遺跡周辺、規模方面だと中山茶臼山古墳・楯築墳丘墓周辺、東国では富士山・山中湖周辺、長野の川柳将軍塚古墳周辺、群馬北山茶臼山から浅間山古墳・柴崎蟹沢古墳周辺あたりが都市機能を有するのにふさわしい場所だったかもしれません。

東遷説に従えば、九州北部にあった初期の邪馬台国が、上記の四国北部・吉備方面を経由して、畿内へと拠点を構築しながら移動していく過程で、首都機能も移動していった可能性も考慮すべきですが、それが弥生末期から古墳初期・前半の年代となるはずで、その造営年代をライン分析を通して明らかにしていくべきと感じますが、このラインが西暦何年のものと断定していくには、もう少し時間が必用そうです。




伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 3 管理人 投稿日: 2023年10月15日 00:02:36 No.342 【返信】

昨晩お知らせした伊予氷見・八堂山遺跡に関係する方位ラインについて、さらに周辺のライン遺跡を加えて、作成しなおしてみたのが図1となります。

今回加えたのは、天岩戸神社⇔大剣神社⇔布留遺跡への東25度偏角のラインと、持田古墳群(魏年号銘鏡出土)⇔月讀宮(伊勢)⇔富士山(白山岳)⇔山中湖(長池)への東30度偏角のライン、中山茶臼山古墳(纒向型前方後円墳)⇔富士山への東10度偏角のラインがあります。

ここで見えてくる大剣神社がかなり古く、弥生末から邪馬台国時代でも重要拠点だったことを示している点に留意しておくべきでしょう。

ここに見えてくる天岩戸神社についてが、以前もこちらで分析した山田(西都市)の古墳状地形⇔川部・高森遺跡への南北ライン、山田(西都市)古墳状地形⇔女山神籠石⇔吉野ヶ里遺跡(北墳丘墓)⇔平原遺跡への西60度偏角のライン、平原遺跡⇔川部・高森遺跡への東西ラインで構成される直角三角形もあります。

あと籠神社⇔布留遺跡への西60度偏角のラインのライン上に、佐紀盾列古墳群のうち、日葉酢姫陵と神功皇后陵が載ることにも留意しておくべきでしょう。

そして図2は特に、先日から注目してきた伊予氷見・八堂山遺跡周辺の拡大図となりますが、こうみると、弥生末期の八堂山遺跡を通過する平塚川添遺跡⇔川部・高森遺跡⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)へのラインを除いて、それ以外の3つのライン(女山神籠石⇔布留遺跡⇔富士山⇔山中湖(長池)ライン、持田古墳群⇔中山茶臼山古墳ライン、山田(北九州市)⇔大剣神社ライン)は、その西南の伊予氷見南部の山岳地帯で交差していることがわかります。

その交差点を拡大したのが図3となりますが、綱付山西南から、中世の幻城の東方面がその3交差領域となります。

その幻城については、こちら(https://cmeg.jp/w/castles/8357)をご参照いただきたいのですが、南北2㎞の山城とあり、このあたりに女山神籠石のような山城がかつてあった可能性も考慮すべきかもしれません。

また、詳細はこちらのサイト(https://kotobank.jp/word/幻城跡-3093848)にあるように、大日川沿いにあり、下砦は大日の字名にあるとの点も重要で、おつぼ山神籠石にも大日の字名が残っているように、伊川の古墳状地形でも大日寺の字名が残り、日神信仰の拠点だった可能性を示すものでしょう。

こちらのサイト(https://ameblo.jp/girou88/entry-12684018916.html)に引用された下記の古文書記載にも大日の字名がみえます。


「幻城、上城・下城あり 上城は新屋敷村の辰巳村山字上城山にあり 暦応三年五月細川刑部大輔頼春当国へ乱入の時 岡若丸此城を守て戦死す 其後天文中黒河肥前守元春要害に構へ番待とす 下城は同村辰巳村山字大日にあり 暦応三年細川頼春乱入の時 岡弾正此の城にて討死す 其後黒河の時も上城と同じく要害城なり」


伊予氷見南部のこの幻城周辺が、弥生末期から古墳初期にかけて、九州から畿内へと勢力が東遷していく過程で重要な拠点だった可能性がありそうですが、この周辺地域についてもう少し調べてみたいところです。




伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 2 管理人 投稿日: 2023年10月13日 01:44:16 No.341 【返信】

先日、四国の伊予氷見とそこに隣接する八堂山遺跡に関連する方位ラインを示しましたが、さらにそのラインを進展させて図1のようなラインを作成してみました。

まず、新たに拠点として女山神籠石を加えてみると、女山神籠石⇔高森古墳群南部(宇佐)⇔中山茶臼山古墳北部(楯築墳丘墓南部)⇔気比神宮⇔川柳将軍塚古墳への東30度偏角のラインのラインがあることに気づきます。ここにみえてくる中山茶臼山古墳と川柳将軍塚古墳は、ともに箸墓と同時期・同規格の古墳として知られています。3世紀後半から末期あたりでしょうか。

同じく女山神籠石⇔伊予氷見⇔八堂山遺跡⇔布留遺跡北部(豊日神社)⇔山中湖(長池)への東20度偏角のラインもあります。その布留遺跡は布留式土器の年代で3世紀末前後となるでしょうか。山中湖(長池)周辺からは呉の金印が発見されたことで知られていることは以前も紹介したとおりです。

そして前回も指摘した平塚川添遺跡⇔伊予氷見⇔八堂山遺跡⇔萩原墳墓群への東14度偏角のラインがありますが、また今回新たに加えるのが、持田古墳群⇔大剣神社⇔萩原墳墓群⇔川柳将軍塚古墳への東40度偏角のラインで、それと並行して、高千穂神社⇔伊予氷見へのラインも見て取れます。このラインは図のように籠神社⇔布留遺跡への西60度偏角のラインと、先の女山神籠石⇔川柳将軍塚古墳への東60度偏角のラインの交点へと至ります。

また、持田古墳群⇔高千穂神社⇔山田(北九州市)への西70度偏角のラインがあり、このラインが先の女山神籠石⇔萩原墳丘墓群への東20度偏角のラインと直交しています。

その持田古墳群は、魏年号銘をもつ三角縁神獣鏡の出土地であり、邪馬台国と関連が強い拠点と言えるでしょう。

その持田古墳群⇔平塚川添遺跡への西60度偏角のラインも意図的な位置付けと言えますが、また持田古墳群⇔女山神籠石への西50度偏角のラインと先の持田古墳群⇔川柳将軍塚古墳への東40度偏角のラインとが直交しています。

その他、川柳将軍塚古墳⇔山中湖(長池)への西60度偏角のラインと、先の女山神籠石⇔川柳将軍塚古墳への東30度偏角のラインとが直交しています。

また、山田(北九州市)⇔伊予氷見⇔大剣神社への東西ラインもあり、総じて、これらのラインを見ていくと3世紀後半から末期あたりにかけての拠点が多く、特に伊予氷見の南部あたりを多くのラインが交差していることがあります。

先日も示した弥生時代末期の八堂山遺跡を通過するラインは、平塚川添遺跡⇔高森遺跡南部(宇佐)⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)であり、やや今回のラインより古い時期のものと考えうるでしょう。

その伊予氷見の南部の交差点を調べる必要がありますが、それはまたの機会に。




伊予氷見・八堂山遺跡と卑弥呼の都 管理人 投稿日: 2023年10月10日 02:09:42 No.340 【返信】

先日、徳島にいた母方の祖母の松浦姓について調べてみたことがありましたが、そこでまた四国邪馬台国について再考してみたいと思います。

まず、図1は以前お知らせした方位ラインですが、ここでは平塚川添遺跡⇔宇佐(宇佐高校庭遺跡と高森古墳群との中間あたり)⇔高尾神社(伊予氷見)⇔八堂山遺跡(高地性集落)⇔萩原墳墓群(纒向型前方後円墳)への東14度偏角のラインと、平塚川添遺跡⇔堀之越古墳の弥生末の南北ライン、そしてその堀之越古墳⇔八堂山遺跡⇔高屋神社付近⇔石清尾山古墳群(3世紀~)⇔布留神社への東30度偏角のラインがあることを指摘したとおりです。

そして最後のラインと、石清尾山古墳⇔楯築墳丘墓とが図のように直交しており、双方に双方中円墳があることから、初期の纒向型前方後円墳の前段階にこれらの古墳が造営されたことを指摘しましたが、つまるところ、これらのラインはその時代の造営となるはずです。

その時期は2世紀後半の高地性集落が瀬戸内・四国へ造営されていく段階、その後の3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の時代と重なり、九州の平塚川添遺跡方面から、畿内の纒向方面へと東遷していく過程で、これらの吉備から四国北部の遺跡が造営されていったのではないかと感じます。

そこで、卑弥呼がどこに都していたかについてですが、仮に四国説を考えるとするならば、やはり八堂山遺跡周辺が、図のように2つのラインの交点となる点でも有力でしょう。瀬戸内に張り巡らされた烽火による情報通信網をこのラインは意味してますが、その交差点が情報の集約地であり、都としてふさわしい場所となるのです。

なお、萩原墳墓群のそばには、後代の忌部氏の拠点の大麻比古神社もあり、古来からアマテラス信仰に関する主要な拠点であった可能性を示しています。伊勢方面へと彼ら忌部氏等は進出していったことは以前こちらでもお話したとおりです。

その八堂山遺跡の西方に、伊予氷見、つまり氷見町があり、その氷見≒卑弥呼とする見方があることは以前紹介したとおりです。

その氷見町の歴史については、こちらのサイト(http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history33.html)で詳しく考察されているのでよろしくご参照ください。

このサイトの考察に従うならば、かつて古代の氷見の領域は、現在の氷見町のそれより、東方へと広がっており、八堂山遺跡の対岸にあたる伊曽乃神社周辺の神戸(郷)まで含んでいた可能性がありそうです。その西隣の橘に関する字名も、5,6世紀ごろに屯倉経営で派遣された橘氏の祖の田道間守の末裔の三宅連等によって皇室の直轄領として重視されていた名残ではないでしょうか。

図2の7mの海進地図(https://flood.firetree.net/)、図3の地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を参照されれば、この地が、かつての四国で主要な港として機能していたこともあきらかでしょう。

その伊曽乃神社についてはウィキペディアによれば、天照大神の荒魂と、後代の武国凝別命(景行天皇の皇子)を祀っており、すでに大化年中(645年-650年)に「神野郡」とみえ、伊曽乃神社などにより既に神が祀られており、この地域が神の地(かみのち)と呼ばれていた事に由来するとの説があるように、かなり古い起源をもつと言えるでしょう。あえて天照大神の荒魂を祀っている点も、伊勢との兼ね合いで重要です。

その摂社の古茂理(こもり)神社 - 祭神:木花之佐久夜毘賣命も重要で、籠るの語と兼ね合わせると天岩戸を想起させます。

あと、地元の伝説によれば、その昔、伊曽乃の女神と石鎚山の男神が加茂川の畔で出会った。二人は恋仲となり、女神は結婚を迫った。しかし男神は、石鎚山で修行を続けなければならないために結婚はできないと断った・・・との話があり、その伊曽乃神が女神とされていることにも留意しておくべきでしょう。

仮にこの地に卑弥呼がいて、氷見の字名が残ったとするならば、その周辺に当然、魏志倭人伝に記された径百歩の卑弥呼の墓があるはずですが、図3の標高地図を見る限り、社地自体は台地状であり、古墳のようには見えないことがあります。

ただそばにある日明の字名は日神を示す点で重要で、その日明の南西に図3で示したような直径150m前後の円墳状地形があります。尾根を切り出したような形で、周囲に水濠を巡らせたようにも見えます。

図で示したように、八堂山遺跡⇔伊曽乃神社⇔円墳状地形への東30度偏角のラインがありますから、意図的に位置づけられていた可能性もありそうです。

この辺の四国邪馬台国説については、またもう少し考えてみましょう。




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