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投稿者:管理人
青面さん、弓張月さん、わかちあいありがとうございます。ご指摘の蘇我氏については、秦氏と祭祀面や屯倉運営でつながりがあることが知られていますが、まずは秦氏の拠点と先日から注目している伊勢外宮との関わりについて、ライン面から分析してみたところ図1のようなラインが明らかになりましたのでお知らせします。 その秦氏の氏神・松尾大社について注目していくと、まず宇佐八幡宮(長船町服部)⇔大避神社⇔松尾大社⇔宇佐八幡宮(大津市)への東12度偏角のラインがあります。宇佐八幡宮は言わずと知れた豊前秦氏の本拠ですが、またその大避神社については、7世紀代の秦河勝の伝承があり、またその大闢(避)は中国語でダビデを意味するため、秦氏はユダヤ人と主張する説があることは先日も紹介したとおりです。 その宇佐八幡宮のある長船町服部周辺の邑久郡については、周囲に秦氏関連の地名が残っていることが知られており、服部(はとり)も秦氏関連地名と考えるべきでしょう。 次に伊勢外宮⇔服部町(伊賀)⇔松尾大社⇔大年神社(夜久野町畑)への西30度偏角のラインがありますが、その服部町(伊賀)は、後世の服部半蔵の出身地とみなしうることがあります。 その大年神社の夜久野町畑の畑も秦氏関連地名と考えるべきですが、古事記記載の大年神系譜では、その大年神の子として、韓神や曾富理神(そふり=朝鮮語か)、竈神のように、朝鮮・中国を想起させる神名があり、同じく大山〈上〉咋神については別名を山末之大主神とし、日枝山(比叡山)におり葛野の松尾の鳴り鏑を持つ神であると記しています。 つまり、ここで秦氏の松尾大社の由来が大年神との関連で記されているのですが、またそれは図2の松尾大社⇔下鴨神社⇔比叡山(大比叡)への東30度偏角のラインとも関係してくるでしょう。 もうひとつ松尾大社に関するラインとしては、籠神社⇔松尾大社⇔加茂八幡宮への西55度偏角のラインがあり、その加茂八幡宮は、大避神社⇔服部天神宮⇔加茂八幡宮⇔服部町(伊賀市)への東西同緯度(34度45分55秒)ライン上に位置しています。 次に大避神社に関するラインとして、大避神社⇔大年神社(夜久野町畑)⇔籠神社への東50度偏角のラインがあり、このラインと直交するのが、籠神社⇔伊勢外宮への西40度偏角のラインとなります。 そして大避神社⇔服部(斑鳩町)⇔額安寺⇔伊勢外宮への西10度偏角のラインにも注目すべきでしょう。 その服部(斑鳩町)は法隆寺の南にあり、額安寺は推古神社など額田部氏の所領となりますから、推古天皇・聖徳太子と秦氏との関わりを想起させるラインと言えそうです。 なお、京都付近における秦氏の拠点を結ぶラインについては図2のラインがあります。 まず前述した松尾大社⇔下鴨神社⇔比叡山への東30度偏角のラインがあり、また松尾大社⇔広隆寺⇔平野神社への東40度偏角のラインがあります。 また、伏見稲荷に関しては、先の下鴨神社⇔伏見稲荷への南北ライン、伏見稲荷⇔平野神社への西60度偏角のラインにも留意しておくべきでしょう。 あと、広隆寺⇔蚕の社への東西ラインもあります。 その他、松尾大社の南に摂社・月読神社があり、月神との関わりが予想できますが、先の松尾大社の主神である大年神系譜では、その大年神の子の大山〈上〉咋神について、その子の羽山戶神が、大氣都比賣(オオゲツヒメ)神を娶っていることが記されており、このオオゲツヒメが月神なので共通性を持ちます。 この大気都比売については、スサノオが空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えるものの、それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していたので、須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまう。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収したとの話があります。 ここで、秦氏の養蚕に関わる蚕がそのオオゲツヒメから産まれている点にも留意しておくべきですが、『日本書紀』では同様の話が月読(ツクヨミ)がウケモチを斬り殺す話として出てきます。 書紀・第五段第十一の一書では、天照大神から保食神(うけもち)と対面するよう命令を受けた月夜見尊が降って保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、月夜見尊は「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神は月夜見尊の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったとの話があります。 ここで、伊勢外宮で祀られているトヨウケビメについて考える必要がありますが、豊宇気毘売神(豊受気媛神、等由気太神等)のウケは、上記の保食神のウケと同意で、『古事記』では伊邪那美命から生まれた和久産巣日神の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相に鎮座したと記されています。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神であり、後に、他の食物神の大気都比売神・保食神などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになります。 ここで伊勢外宮のトヨウケ神と、伏見稲荷の稲荷神が見えてきますが、今回の図1のラインでも伊勢外宮が秦氏の諸拠点とラインで接合していること、また図2のライン面で秦氏の氏社の松尾社と、カモ氏の下鴨神社との関連から伏見稲荷が見えてくることがあります。 その秦氏とカモ氏との関係については、先の松尾社に関して、大山咋神が鎮座するとの『古事記』の伝承、宗像の中部大神(中津島姫命)が鎮座するとの『秦氏本系帳』の伝承、秦氏に加えて賀茂氏も創立に関与したとする『秦氏本系帳』の別伝承があり、さらに、松尾社の摂社の月読社に関しては、『日本書紀』では顕宗天皇3年条に創建伝承が記載され、壱岐県主(壱岐氏)が奉斎したと見えています。 壱岐・宗像方面とのつながりもみえてくるのですが、また図2の松尾大社⇔広隆寺⇔平野神社へのライン上にみえる平野社については、元々は桓武天皇生母の高野新笠の祖神として平城京に祀られた神祠とされ、渡来系で百済・部寧王の子孫とされる和氏から伝わる今木皇大神、久度大神、古開大神、比売大神が祀られており、その今木は新漢人等にみえるような今来(イマキ)=新しく来るの意味を持つ神となり、久度大神、古開大神は朝鮮系の竈神との関連が指摘されているところです。 それとは別に摂社の縣神社には、天穂日が祀られており、土師氏の氏社としての性格も有しています。 その土師氏については、先日もお知らせした図3の銅鐸出土地と伊勢外宮、そしてカモ・土師氏関連の拠点を結ぶラインとの関係を想起させますが、何らかの形である時期に、秦氏とカモ・土師氏の祖先とが接点を持っており、そこに伊勢外宮およびトヨウケ神信仰とが融合していったことを予想します。 その過程で、図3のライン上にみえる天穂日の子・建夷鳥を祀る鷺宮神社⇔阿伎留神社⇔比奈多乃神社へのラインがあり、その阿伎留神社や伊勢・出雲神宮には日文や阿比留草文字と呼ばれる仮名文字の起源ともされる文字が残っており、その形がアラム・古ヘブライ文字と類似することも以前お話したとおりです。 その日文が残る神社として鎌倉の鶴岡八幡宮がありますが、図3のように、比奈多乃神社⇔芝山古墳(ユダヤ人風の埴輪を出土)へのラインがこの鶴岡八幡宮の北部を通過することから、後代源氏の氏社となる以前から、すでに秦氏と関わる八幡神を祀っていた可能性があり、その影響でこの八幡宮にも上記に日文が残っているのではないでしょうか。 もっとも、その源氏と平氏は先の土師氏の平野社を氏神としており、ここでも源氏と土師氏とのつながりが見えてくるのも偶然ではないでしょう。 ともあれ、前述のように秦氏と大年神の子孫や(トヨ)ウケ神、それにかかわる諸儀式については、松尾大社の摂社の月読社と、そこに関わる壱岐氏等との関わりも考慮しておく必要がありますが、その年神へ備える鏡餅の風習や、餅に関わる山城秦氏の稲荷伝承、そこにみえてくる白鳥・白猪・白馬および、その復活伝承などについても考察をする必要があります。その件についてはまた後日改めてお話したいと思います。
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