投稿画像
投稿者:管理人
daizenさん、お知らせありがとうございます。 ご指摘の大善小学校についてGoogleの航空写真でみると、その西側に荒地が見えますね。 その由来については残念ながらこちらでも調べることはできませんでしたが、そばにある玉垂宮については、高良山に関わる玉垂命と関係して造営されたはずです。 そして、その玉垂宮と関係しそうなので、その東北の御塚古墳・権現塚古墳でしょう。 これらの古墳はこの地の支配者の水沼君と関係づけられているようですが、そうだとすると初期の天皇家の外戚である物部氏と関わるでしょう。 特にその御塚古墳については、5世紀代の横穴式石室を持つ1130m前後で3重の堀を持つ帆立貝式前方後円墳とされます。 ただ、この帆立貝式前方後円墳については、個人的には西都原古墳群の男狭穂塚のケースのように、もっと古い纒向型前方後円墳との関わりを考慮しておくべきではないかと感じます。つまり邪馬台国時代の古墳を、後代の豪族が再度自身の古墳として利用したケースです。 この御塚古墳については、図1のように、先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石を結ぶ東15度偏角のライン上にあり、図3の拡大図のように、このラインのそばに玉垂宮やご指摘あった大善小学校付近(赤の□)を通過していることがあります。 また御塚古墳⇔女山神籠石⇔宇土境目遺跡を結ぶ西75度偏角のラインと、先のラインが直交しており、また御塚古墳⇔雷山神籠石への西45度偏角のラインも人工的な位置付けと言えそうです。 そして、図2のように雷山神籠石⇔与止日女神社への西75度偏角のラインと先の高良山神籠石⇔御塚古墳⇔おつぼ山神籠石へのラインとが直交しています。 その与止日女(ヨトヒメ)神社については、邪馬台国の女王台与(トヨ)との関わりを以前こちらで予想したことがあります。 このようにみていくと、この御塚古墳の原型となった古墳は、これらの神籠石の造営年代、さらに言えば境目遺跡の弥生時代後半から末期にかけての時代に造営されていた可能性がみえてきます。 そして、そこに玉垂命=武内宿禰?のモデルとなる人物がこの地を支配しにやってきた可能性が見えてくるのですが、その年代は河内王朝の時代とも重なってくるでしょう。それ以前にこの地を支配していた物部系の水沼県主(三間君)等を取り込んでいったのではないでしょうか。その影響がこの周辺の地に残っており、そして荒地・霊地として何らかの伝承とともにも現在の姿になっている可能性を感じますね。 その玉垂命については、こちらのサイト(https://kouratamadare.com/高良玉垂命とは?)に下記のように記されていますので、よろしくご参照ください。 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。 高良大社麓高樹神社伝承 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。 高良大社麓高樹神社伝承
投稿記事
画像を拡大