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投稿者:管理人
先日、Facebookグループ「新邪馬台国探求会」経由で、福知山の元伊勢内宮皇大神社についての情報をいただいたことがあり、さっそく、関連しそうな遺跡を探して方位ライン図を作成してみました。 まず、図1のように、その元伊勢内宮皇大神社のすぐ南にある外宮豊受大神社に関して、外宮豊受大神社⇔出雲大社⇔息長陵への東西同緯度ラインがあることがわかりました。 この息長陵については、石棺・出土埴輪より5世紀中葉-後半頃の築造、6世紀中ごろの敏達天皇妃の広姫の墓とされますが、年代が合わないので、息長氏との関連が指摘されてます。墳長100m以上、後円部径55m以上、前方部長53m以上の前方後円墳との見方もあり、埴輪・葺石を備え、埴輪は古市古墳群との関係が強いとの指摘もあるようです。詳細はこちら参照(https://kofun.dosugoi.net/e1077964.html)その古市古墳群(応神陵)とのつながりは次のラインからも伺えます。 すなわち図2のように、その外宮豊受大神社⇔伊勢内宮への西35度偏角のラインがあり、これと直交して、息長陵⇔荒神山古墳⇔新開古墳群⇔応神陵への東55度偏角のラインがあることに気づきます。 その荒神山古墳については、4世紀末築造の全長124mの前方後円墳ですが、葺石で覆い、埴輪を巡らせるなど、大和中枢部のそれと同一の様式を持つことから、大和との強いつながりが指摘されてます。 またその新開古墳群(1号墳)からは、北燕(馮素弗墓)とのつながりが予想される馬具や甲冑が出土するなど、渡来系集団(新漢氏?)の影響を強く受けています。 このように、以上の拠点は、出雲大社、本伊勢、伊勢神宮といったアマテラス・豊受神に関する信仰を持つ集団との関わりが予想されると同時に、応神陵に代表される河内王朝の進出とも関わっているように見受けられますが、年代的には4世紀後半~6世紀前半にかけてで、その河内王朝の巨大古墳造営の背後には当時渡来してきた中国系渡来人(漢人等)の製鉄技術等の影響も大きかったはずです。 特に琵琶湖沿岸は、後代まで渡来系集団の拠点でしたが、また先の息長氏についても、応神の母・息長帯比売(神功皇后)を出すなど、5世紀の河内王朝、その後の6世紀前半の継体朝とも関わりが深かったことが予想されます。 継体朝擁立の背景には、古事記に近江から継体天皇が出てきたことが記載されているように、その周辺地域にいた渡来系集団(新漢氏)等のバックボーンがあったはずで、本来の継体陵とされる今城塚古墳自体にも中国系の土木技術が応用されているような事例にも見受けられます。 その上で、なぜ、出雲大社、(元)伊勢神宮といった信仰拠点がこのライン上にみえてくるのかが課題となりますが、元伊勢に関しては、その外宮と内宮の移動の歴史があり、その拠点を結んだ方位ラインを以前作成したことがありますが、それは図3のようになります。 上図が内宮の移動地点、下図が外宮の移動地点を結んだもので、双方冠島が起点となりますが、ただ外宮のラインについては、今回の福知山の元伊勢外宮の件もあるので、再度作成しなおしたものを、後日その考察とともにお知らせしたいと思います。
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