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新・元伊勢(内宮)移動と箸墓の築造年代
管理人
投稿日:2024年02月13日 16:46
No.373
先日、元伊勢のうち外宮を結んだラインに続き、箸墓古墳に関する拠点を結んだラインを作成し、特に箸墓が笠縫邑(笠山荒神宮)や三輪山や長谷山口坐神社、大和神社等の崇神朝の諸拠点が関わっていることを明らかにしましたが、今回はそれらの結果をもとにして、今度は元伊勢のうち内宮の移動拠点を結んだラインを作成しなおしてみました。
図1がそのライン図となりますが、以前も指摘したように、元伊勢籠神社の奥宮とされる若狭湾の冠島(弥生時代の海底神殿⇒701年の地震で沈む)を測量の起点として意識され続けていたことがわかります。
今回、その内宮の移動拠点(滞在年数)とその推定地の一覧は下記のとおりです。
■豊鍬入姫命巡歴
笠縫邑(33年):笠山荒神宮
太神官社:吉志部神社
笠縫邑(33年:笠山荒神宮
吉佐宮(4年):真名井神社(籠神社摂社)
伊豆加志本宮(8年):笠縫邑?あるいは長谷山口坐神社
奈久佐浜宮(3年):濱宮
名方浜宮(4年):濱宮
弥和乃御室嶺上宮(2年):三輪山
■倭姫命巡歴
宇多秋宮(4年):阿紀神社
佐佐波多宮:御杖神社
隠市守宮(2年):宇流冨志禰神社
穴穂宮(4年):神戸神社
敢都美恵宮(2年):敢國神社
甲可日雲宮(4年):日雲神社
坂田宮(2年):坂田神明宮
伊久良河宮(4年):宇波刀神社
中島宮:真清田神社境外末社
桑名野代宮(4年)尾野神社
奈其波志忍山宮:布気皇館太神社
阿野国(未詳)
阿佐加(4年):阿射加神社
飯野高宮(高丘宮)(4年):神戸神館神明社
佐佐牟江宮:竹佐々夫江神社
伊蘓宮:伊雑宮
大河之滝原之国:瀧原宮(皇大神宮別宮)
矢田宮:口矢田ノ森
家田々上宮:神宮神田南の忌鍬山山頂(西ノ森)
大土御祖神社(皇大神宮摂社)
奈尾之根宮:那自売神社(皇大神宮末社)
五十鈴宮:皇大神宮
ここで、宮中から崇神5年の疫病災害を経て、6年に内宮のアマテラス大神を笠縫邑へ豊鍬入姫に託して移動させたことに始まり、その豊鍬入姫巡行のルートとしては、笠縫邑(33年):笠山荒神宮に宮中から移動したのち33年は笠縫邑におり、その後、一時期だけ摂津の吉志部神社方面に移動して、ふたたび笠縫邑へと戻り33年そこに居座ったことになっています。
その後、吉佐宮(4年)へ移動することとなりますが、これは真名井神社(籠神社摂社)と推定し、その後、再び伊豆加志本宮(8年):笠縫邑方面へと戻りますが、先の箸墓ラインにも見えてきた長谷山口坐神社は、図のように冠島⇔笠山荒神社ラインの延長線上にあることにも留意しておくべきでしょう。
その後、紀伊の奈久佐浜宮(3年):濱宮に向かい、その後、名方浜宮(4年)へと向かいますが、双方紀伊の濱宮周辺と予想します。
この濱宮は、図のように籠神社の真南に位置しており、また濱宮⇔笠山荒神社⇔熱田神宮への東35度偏角のラインを考慮すると、まず池上曽根遺跡の真北にあたる冠島に最初の弥生時代後期の信仰拠点があり、そこから、その後のある時期に奈良の宮中や笠縫邑方面へと移動する契機があり、その後、元伊勢の籠神社・熱田神宮・濱宮の三拠点が形成され、最後に籠神社⇔吉志部神社への西70度偏角のラインとそれに直交する吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮への東20度偏角のラインとが造られていく過程で、日雲神社等、豊鍬入姫の巡行を受け継いだ倭姫の巡行拠点が見えてくることになります。
豊鍬入姫は崇神天皇と紀国造の荒河戸畔の娘の子であり、図のように紀伊が拠点としてみえてくることとも関係しそうですが、またそれを引き継いだ倭姫は次代の垂仁天皇の娘とされ、年代が異なってきます。
具体的には豊鍬入姫は、崇神(在位68年)のうち、概ね66年前後を笠縫邑方面で過ごしたことになり。その後、垂仁朝になり、4年を若狭湾の籠神社へ、また8年を笠縫邑で過ごした後、7年を紀伊方面で過ごし、晩年?の2年をまた三輪山山頂で過ごしたことになるでしょう。
その後、倭姫は三輪山で受け継いで、垂仁25年に伊勢内宮へ祀るまで各地を移動したことになっていますが、年数は垂仁25年よりもっと多く、雄略22年(478年頃)まで移動していたことになるでしょう。
その倭姫の移動経路をみていくと、図のように、まず先の冠島⇔笠山荒神社⇔長谷山口神社ラインの延長線上にある宇多秋宮(阿紀神社)へと向かい、その後、図のように、ひとつ東にずれた冠島⇔御杖神社ラインへの西60度偏角のラインへと移動し、そのライン上にあったであろう隠市守宮:宇流冨志禰神社を経て、さらに東の穴穂宮:神戸神社を経て、その東にある冠島⇔日雲神社(甲可日雲宮)⇔敢國神社(敢都美恵宮)への西55度偏角のライン上へと拠点を移動させていきます。
その後、図のように、長谷山口坐神社⇔日雲神社への東70度偏角ラインの延長線上にある滋賀の坂田神明社(坂田宮)へと北上していきますが、このラインと熱田神宮⇔坂田神明社への西20度偏角のラインとが直交しています。
この時期に何らかの契機で伊賀方面から滋賀・美濃方面へと拠点を移動させる必要があったようにおもわれますが、その際に重要となってくるのが、熱田神宮で、倭姫が伊勢で渡したとされるヤマトタケルの草薙剣が最終的に奉納されたのがその熱田神宮となる点に留意しておくべきでしょう。
その後、岐阜の宇波刀神社(伊久良河宮)を経て、真清田神社境外末社(中島宮)へと東遷していきますが、図のように、坂田明神宮⇔宇波刀神社が東西同緯度ラインとなり、また冠島⇔宇波刀神社⇔真清田神社への西20度偏角のラインも想定できそうです。
その後は、先の吉志部神社⇔日雲神社⇔熱田神宮ライン上にある尾張の熱田神宮の西の野志里神社(桑名野代宮)、その南の奈其波志忍山宮(布気皇館太神社)、阿野国(尾野神社?)を経て、三重・伊勢方面へと移動していったように見受けられます。
その布気皇館太神社については、冠島⇔布気皇館太神社への西45度偏角のラインと、濱宮⇔笠山荒神社⇔布気皇館太神社⇔熱田神宮への東35度偏角のライン上の拠点であるとともに、笠山荒神社⇔真清田神社への東45度偏角のラインと前者のラインとが直交しています。
そして、その後、三重・伊勢方面へと南下していきますが、図のように、まず阿射加神社(阿佐加)は、濱宮⇔御杖神社(佐佐波多宮)⇔阿射加神社への東20度偏角のライン上にあり、それに続く、神戸神館神明社(飯野高宮(高丘宮))と、次の竹佐々夫江神社(佐佐牟江宮)は、御杖神社⇔神戸神館神明社⇔竹佐々夫江神社への東10度偏角のラインを構成しています。
それに続く伊蘓宮は伊雑宮と見なし、その西の瀧原宮(大河之滝原之国)と考えると、図のように、先の真清田神社の真南に伊雑宮が位置し、その真西に瀧原宮が、その瀧原宮と熱田神宮を結ぶ東60度偏角のライン上に先の神戸神館神明社が位置してくることも判ります。
またその瀧原宮は、図のように、冠島⇔日雲神社⇔敢國神社⇔瀧原宮への西60度偏角のライン上に位置することからみても、伊勢方面へと移動していく際の重要拠点であったことは間違いないでしょう。
最終的に、冠島⇔伊雑宮への西50度偏角のライン上に、図のように伊勢外宮と伊勢内宮が位置してくるのですが、その前に矢田宮、家田々上宮神宮、大土御祖神社、奈尾之根宮等を経て、伊勢内宮へと落ちづいたようにも見受けられます。
倭姫が伊勢方面の竹佐々夫江神社へと移動するまでには、4-?(4)-2-4-2-4-2-4-?(2)-4-?(2)-?(4)-4-4-?(4)年かかっており、?の部分を()で推測したように、前半は繰り返されている2年と4年の周期に合わせて、後半は4年になったとすると、合計で50年ほどかかったことになるでしょう。
そこから、さらに年数のわからない伊蘓宮から7つの拠点を経ますが、ここも4年周期とすると28年かかったとして、倭姫の巡行は78年、つまり80年前後かかったことになるでしょうか。
先の豊鍬入姫の巡行が87年ですから、2人合計で165年移動し続けたことになります。
この内宮の巡行が開始された崇神6年を、以前予想したように、崇神没年干支から258年とするか、318年とするかで、それぞれ、423年もしくは、483年となるでしょう。
ここで、先日の元伊勢の外宮が伊勢へと落ち着いた年代が、雄略22年で478年頃となりますから、この年代と後者の483年とが近いことに気づきます。
仮に以前推理したように、内宮と外宮とがセットで近い位置に移動し続けたとすると、伊勢へと双方が最後に落ち着いた年代も双方近い年代となるはずで、その点で雄略22年が内宮の最後に落ち着いた年代とするならば、結果として、崇神朝は310年代とのことになりそうです。
そして、崇神朝の拠点と箸墓古墳とが先日の方位ライン分析にあるように、密接に接合していることを考慮すれば、箸墓の築造年代も、310年前後とのことになるかもしれません。
それに先行するであろう纒向遺跡や纏向古墳群(纒向型前方後円墳)の年代も、3世紀後半から末期にかけてである可能性が見えてきます。
その件については、図2の笠山荒神社⇔黒塚古墳の東西同緯度ラインの存在があり、すなわち、笠縫邑の位置決定において、奈良最古級の前方後円墳である黒塚古墳があったことを示しています。
その黒塚古墳については、図のように、黒塚古墳⇔大和神社⇔垂仁陵への西65度偏角のラインがあり、その垂仁陵は開化天皇の率川宮(率川神社)と東西同緯度ラインとなるので、崇神の前代の開化天皇陵であった可能性も出てくるでしょう。
その率川神社⇔大和神社⇔箸墓古墳への西85度偏角のラインの存在は以前もお知らせしたとおりですが、また垂仁陵⇔豊日神社⇔笠山荒神社への西50度偏角のラインもあり、このラインと、黒塚古墳⇔豊日神社⇔伊勢遺跡への東75度偏角のラインとが、豊日神社で交差していることにも気づきます。
このラインについては、以前お知らせした魏年号銘鏡を出土した古墳を結んだ図3のラインのように、纒向型前方後円墳である分校マエ山古墳⇔伊勢遺跡⇔豊日神社⇔黒塚古墳へのラインと同じです。
ここから、予想できることとして、魏年号銘鏡(初期の三角縁神獣鏡含む)の年号(235年ー240年)以降のある時期に、方墳(前方後方墳)を主体として図3のラインが構築され、その末期に三角縁神獣鏡の第Ⅲ期までの鏡を33枚出土した黒塚古墳が造営され、その前後で笠縫邑(笠山荒神社)が出現することとなったのでしょう。
その年代は、被葬者の死後に古墳が造営されたとすると、その魏年号銘の年代より、20年~後の260~70年代前後で、女王・台与の年代となるかもしれません。
その時期の末期、年代からいくと孝元天皇から開化天皇の時代にかけて纒向型前方後円墳や纒向遺跡が造営され、そのころの都であった滋賀の伊勢遺跡方面から、奈良の纒向方面へと南下していく勢力がいて、それが物部氏の祖・ニギハヤヒと妻トビ(トミ)≒豊・台与に象徴される集団にあたるでしょう。
その孝元・開化天皇の時代は、物部系の伊香色謎命(イカガシコメ)が妃として両方の天皇に嫁ぐ(略奪婚?)時代となり。先の開化天皇の率川宮やその西の垂仁陵(本来の開化陵か?)が造営されていったことになるでしょうか。
その後、崇神朝となり、南下して纒向・三輪方面へと向かうことになり、その崇神5年に疫病がおきて6年に今回の豊鍬入姫による笠縫邑への内宮移動が始まるわけです。
その年代を310年代とすると、前述の開化朝は270年~310年代となり、図2のように、滋賀から奈良、纒向へと都が移動していく過程にあったと言えるでしょう。
その後、310年代前後のある時期に箸墓古墳が造営され、それに続いて、西殿塚・桜井茶臼山古墳なども造営していったことになります。年代的には320~330年頃となるでしょうか。
その後、崇神朝から垂仁朝へと以降して、佐紀盾列古墳群が、奈良方面へと構築されていくのが、330年~360年前後ではないでしょうか。このころに、先日お知らせした現在の崇神陵⇔巣山古墳(馬見古墳群)ラインに見えるような古墳が構築されていき、最終的に4世紀後半から末期にかけて応神・仁徳陵といった河内王朝にみられるような巨大古墳を造営する集団の時代へと移行していきます。
その崇神朝を310年頃であることを証明するには、やはり崇神5年の疫病災害に注目する必要がありますが、人口の大半が失われる疫病となるので、隣国の朝鮮や中国でも同様な疫病記載が見えてくる可能性が高いでしょう。
そこで、まず朝鮮のその当時の疫病記載をみていくと、百済の比流王(在位:304年 - 344年)の9年に下記の記載があります。
九年,春二月,發使巡問百姓疾苦,其鰥寡孤獨不能自存者,賜穀人三石。夏四月,謁東明廟。拜解仇為兵官佐平。
313年頃の出来事となりますが、疾苦として疫病が流行り、とり残された寡婦や子供が多数いたことがわかります。高い死亡率の疫病災害とみてよいでしょう。
次にお隣の新羅についてみていくと、基臨尼師今(在位:298年 - 310年)の末年に下記の記載があります。
十三年,夏五月,王寢疾彌留,赦內外獄囚。六月,王薨。
310年頃に疾病で死去したことになりますが、国全体への疫病災害であったかどうかは不明です。
同じく高句麗についてみていくと、美川王(在位:300年 - 331年)の時代となり、313年に楽浪郡、314年に帯方郡が高句麗によって滅ぼされることとなります。疫病記載はないようです。
同じく中国では西晋の懐帝(307年1月11日 - 313年3月14日)、愍帝(313年6月7日 - 316年12月11日)あたりが該当しますが、疾病記載は見つからない感じですが、末期の混乱した時代となるので、細かい状況記載が漏れている可能性もありそうです。
そうすると、上記の百済の比流王9年つまり313年頃の疫病記載が、崇神5年(315年?)の疫病記載と重なりそうですが、なお十分な証明とは言えないので、疫病記載以外の他の検証も進めていく必要がありそうです。
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