投稿者:管理人
先日、元伊勢を結ぶ方位ラインを作成したおりに、崇神紀の伊勢関連伝承について触れましたが、特に邪馬台国畿内説でかつて卑弥呼の墓とみなされた箸墓古墳について、その関連拠点を結んでみると新たに明らかになってくることがありましたので、お知らせします。
まず、箸墓については、ヤマトトヒモモソヒメの墓とされており、三輪山の大物主との伝承がよく知られているところですが、図のように、箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社(磯城か?)への西10度偏角のラインがみてとれます。
この長谷山口坐神社については、垂仁朝に倭姫命を御杖として、「磯城厳樫の本」に約8年間天照大神を祀った時に随神としてこの地に手力雄神を、また北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座したとされます。
ここで、磯城厳樫の本とあるように、この地域を磯城として、アマテラスつまり内宮の拠点としていた可能性があるでしょう。特に箸墓と内宮との関係でいくと、以前お知らせした図3のように、浦間茶臼山古墳⇔箸墓⇔伊勢内宮へ西10度偏角のラインがあり、浦間茶臼山古墳は、図にみえる杵ガ森古墳等とともに、箸墓と同時代の築造との見方がなされています。
また、箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社への東25度偏角のラインがありますが、この笠山荒神社については、崇神天皇6年に、宮中に奉祀していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた笠縫邑の候補地として知られています。
その笠山荒神社については、初期の前方後円墳やその元となったであろう弥生時代末期の高地性集落(烽火台)ににた左右不均等な前方部をもつ墳丘が確認できます。
その際に、同時に宮中を出された倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、後に大和神社に祀ったとされますが、図のように、大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインがあることがわかります。
この西殿塚古墳は、箸墓に続く大型前方後円墳で、図のように箸墓⇔西殿塚古墳への東75度偏角のラインと、先の箸墓⇔三輪山⇔長谷山口坐神社へのラインとが直交しています。
そして、箸墓⇔桜井茶臼山古墳への西65度偏角のラインと、その箸墓⇔西殿塚古墳ラインは同距離となり、この西殿塚、桜井茶臼山の二つの古墳がセット関係で箸墓を起点として構築された可能性を示しています。
その桜井茶臼山⇔長谷山口坐神社への東25度偏角のラインは、箸墓⇔桜井茶臼山古墳ラインと直交しており、同時に先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社へのラインと平行になります。
桜井茶臼山古墳については、207mの前方後円墳で、やはり西殿塚同様に、箸墓に続く年代の古墳とされ、多数の三角縁神獣鏡され、神武天皇等の大王墓との見方もあるようですが、ここで図のように、この桜井茶臼山古墳⇔陶荒田神社との東西同緯度ライン上に位置していることに注目すべきでしょう。
この陶荒田神社は、崇神8年、崇神天皇により陶邑の大田の森に住む太田田根子が神主として選ばれ。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社とされています。
この太田田根子については、崇神朝の当時、大規模な疫病がはやり、国土が荒廃したある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げ、天皇が、茅渟県陶邑に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせたことによります。
なお、図2のように、陶荒田神社⇔孝霊天皇陵への東30度偏角のラインと、桜井茶臼山古墳⇔孝霊天皇陵への西30度偏角のラインとがあり、孝霊天皇陵を中点として、位置づけられていたこともわかります。
この孝霊天皇陵については、以前お知らせしたように、孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔纒向矢塚古墳⇔三輪山への西20度偏角のラインに見えるように、箸墓より古い纏向型前方後円墳との関わりがあるとともに、同じく以前お知らせしたように、欠史天皇陵が、この孝霊天皇陵を起点として構築されていったことを考慮しておく必要があるでしょう。
同様に、この孝霊天皇陵については、図のように、孝霊陵⇔片塩浮孔宮(安寧天皇宮)への西60度偏角のラインがあり、このラインと先の孝霊陵⇔陶荒田神社ラインとが直交しています。
同じく、以前、箸墓規格の巨大前方後円墳状地形を想定した桜ヶ丘銅鐸出土地⇔天王寺公園⇔孝霊陵⇔黒田庵戸宮(孝霊宮)⇔三輪山への西20度偏角のラインがあり、このラインと先の片塩浮穴宮⇔黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)⇔率川神社(開化天皇宮)への東70度偏角のラインとが直交しています。
その天王寺公園古墳状地形⇔大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社への西15度偏角のラインもあり、弥生時代後期に、播磨の桜ヶ丘銅鐸を残した吉備系集団が東遷して畿内にはいっていく過程で、この天王寺付近を経て、黒田庵戸宮(孝霊天皇宮)へと三輪山を目標にして進出していったことが予想できるでしょう。
そのことは孝霊天皇と息子の吉備津彦、その吉備の桃に関する伝承とが接点をもってくることもあり、吉備とその纒向遺跡にみえる桃のの種に関する大陸系の避邪観念、弧帯紋の流れ等とも関係してくるでしょう。
ただ、箸墓⇔纒向遺跡⇔大和神社⇔率川宮への西85度偏角のラインにみえるように、纒向遺跡は崇神朝以降のある時期の宮地だった可能性もありそうです。
関連して、欠史天皇陵である孝元天皇陵⇔三輪山⇔笠山荒神社への東45度偏角のラインもあり、概して欠史天皇陵や宮地が、実在のモデルを参考にしていることが明らかにしうるのです。
あと、大和神社⇔纒向山⇔長谷山口坐神社への西35度偏角のライン、同じく大和神社⇔崇神陵⇔穴師兵主神社⇔三輪山への西55度偏角のラインもあり、大和神社が重要拠点であったこともわかりますが、先の大和神社⇔西殿塚古墳⇔笠山荒神社ラインを考慮すると、西殿塚古墳の被葬者は、大和神社に関わる人物で、大和神社とかかわる渟名城入姫命だとすると、この渟名城入姫命は崇神天皇の子であるから、西殿塚古墳よりも古い箸墓等が、本来の崇神陵となってしまうでしょう。
ただ、箸墓は笠山荒神社方向へ古墳軸を向けており、先の箸墓⇔穴師兵主神社⇔笠山荒神社ラインにみえるように、笠山荒神社、つまり笠縫邑(最初の内宮遷宮地)の伝承と関わる人物が埋葬されている可能性があり、そうすると、アマテラス神とともに笠縫邑に向かった崇神の娘の豊鍬入姫命との関わりがまず想起しうるでしょう。
ただし、箸墓はヤマトトヒモモソヒメの墓とされていますが、ヤマト・トビ・モモソヒメは、以前の考察では、ニギハヤヒの妻トビ・トミに関連する存在で、後述する豊鍬入媛とも同一人物と思われます。
なお桜井茶臼山古墳については、図のように孝霊天皇陵と関わっており、また西の大田田根子と関わる陶荒田神社と関係する点で、大田田根子等との関わりも予想できますが、太田の字名が残っているのは、箸墓古墳の北隣の纒向遺跡周辺であり、この地にいた大田田根子等が、祭祀者として崇神朝に陶荒田神社方面へと移動させられた可能性もあるでしょう。
その箸墓古墳は箸中に位置しますが、その西隣りに豊前・豊田の字名が残っており、豊鍬入媛との関係をうかがわせます。
つまり、北隣の太田の大田田根子とともに、豊鍬入媛とが、崇神朝にこの周辺で祭祀を行っており、そこから笠縫邑や陶邑方面へと派遣された構造が浮かび上がってきます。
その崇神朝当時の宮地としては、現在比定されている崇神の磯城瑞籬宮跡地は、以前推定したように、箸墓サイズの巨大前方後円墳の後円部にあり、宮地であったところに、陵墓を造営した可能性、あるいは宮地は別に周辺に存在していたことも想定しておくべきでしょう。
その件は図1のように、箸墓⇔磯城瑞籬宮への西50度偏角のラインと、磯城瑞籬宮⇔三輪山への東40度偏角のラインとが直交していたり、穴師兵主神社⇔磯城瑞籬宮への東80度偏角のラインと、箸墓⇔三輪山ラインとが直交していること、磯城瑞籬宮⇔櫛山古墳⇔西殿塚古墳⇔石上神宮西部への西87度偏角のラインに見られるように、箸墓・西殿塚古墳と磯城瑞籬宮との関係性が浮かび上がってくる点で、箸墓とその被葬者は崇神朝の人物であった可能性が高まります。
次代の垂仁天皇の纒向珠城宮については、珠城宮古墳群(もともとは巨大古墳状地形)周辺となり、纒向遺跡東方となるので、纒向遺跡も垂仁の時代まで用いられていた可能性があるでしょう。
外戚・物部氏系の血が濃い崇神系統と、その後の垂仁系統には相違があり、垂仁天皇は九州・日向方面からの進出者(神武・オオヒコに象徴される)で、其れ以前のニギハヤヒに例えられる物部系の集団と区別する必要があります。
年代的には4世紀前半に畿内に進出した南方航海民の影響を受けた集団を想定しますが、其れ以前のニギハヤヒと妻トビ=ヤマト・トビ・モモソヒメとで勢力争いがあったはずです。
ニギハヤヒ・崇神系統は三輪山を中心として測量をしているのに対し、神武・垂仁系統は初瀬山を中心とした測量をしており、現在の崇神陵は、図3のように、4世紀末の巣山古墳⇔崇神陵の東西ライン、崇神陵⇔耳成山⇔神武陵への東50度偏角のライン、これと直交する耳成山⇔巣山古墳への西40度偏角のラインを考慮すると4世紀代の古墳と考えるべきで、先の箸墓や三輪山・磯城方面に関係する崇神の陵墓とは時代的にも考えにくく、むしろ垂仁天皇の陵墓のほうは自然でしょう。垂仁=神武との見方に従えばさらにその可能性が高まります。
また、その穴師兵主神社については、その東北に前述の左右不均等の前方部をもつ前方後円墳状地形があり、弥生末期のそれと考えると、穴師・兵主などにかかわる後漢末期の渡来系集団の影響を受けていたことも想定しうることで、纒向日代宮との関わりとともに、考えを進めていく必要がありそうです。
以上みてきたように、箸墓は崇神紀およびその記載にある各種祭祀拠点と密接に関係づけられており、このことは、崇神紀そのものの記載の信o性が高いことを示すとともに、実在した王朝をモデルとしてこれらの崇神紀の説話等が構成されていったと考えうるでしょう。
その崇神紀の年代が250年頃か、1干支降って310年頃なのかについては、なお断定できないのですが、箸墓が先のように女王台与(≒豊)の墓との見方ができるならば、その260年代以降、それほどくだらない時期の古墳と考えるべきでしょうから、崇神関連の上記拠点の多くは卑弥呼のいた247年頃までには、存在していたことになるでしょう。
ただ、台与が仮に箸墓の被葬者で周辺に都を構えていたとしても、その先代の卑弥呼もその周辺にいたとは限らず、なお九州や四国、滋賀、若狭方面にいた可能性もあるでしょうから、その件も明らかにしたいところです。