投稿者:管理人
先日の全国の城郭を結んだ方位ラインの件ですが、特に近江の長浜城に関するラインを調べてみました。図1のとおりです。
ここで、まず熊本城⇔高松城⇔長浜城⇔須賀川城⇔葛尾村夏湯への東30度偏角のラインがあります。
次に鶴丸城⇔高知城⇔長浜城⇔横山城⇔米沢城への東40度偏角のラインも確認できます。
この長浜城については、秀吉が1558年に構築したことになっていますが、その今浜が交通の要衝であったこととともに、これらの城郭ラインの交点に位置していたことも重視されていたのではないでしょうか。
なお現在の高松城は秀吉が1587年に四国制圧後に生駒氏に造らせてもので、また熊本城は1469年に菊池氏に一族が千葉城として築城され、加藤清正が1591年から中世城郭を取り込んで改築しています。
加えて高知城は1588年に長宗我部元親がここに構築しようとしたことがあり、その後、山内氏が1601年から築城しはじめます。
鹿児島の鶴丸城は1601年に島津氏によって築城されています。
長野の横山城については、1351年の足利氏の時代に山城があったようですが、ライン面ではややズレがあります。
山形の米沢城については、1238年に長井氏によって築城されたのが起源のようで、後に伊達氏の所領となります。
福島の須賀川城については、1399年に二階堂氏によって築城されています。
その他、葛尾村夏湯は、私の父方の祖父・先祖の地で南朝・田村氏と関わる領地のようです。
こうみると、西日本方面のラインは、秀吉との関わりがみえており、秀吉との協働関係にあった城郭・測量集団によるものではないでしょうか。以前秀吉と修験道等に関わる加茂・鴨氏との関わりを考えたことがありますが、その辺について追及していくべきかもしれません。
なお、秀吉に関わる地を結ぶラインとしては、以前も紹介した図2のラインがあり、秀吉が木下氏の時代から、鴨・加茂氏に関わる地と関係が深かったこともみてとれます。
同じく家康の先祖の加茂氏と岡崎城との関係もこれらのラインから見えてくることがあり、明智氏の祖と加茂氏との関係も含めて、当時の有力な戦国大名の背後には、鴨・加茂氏といった修験道・城郭・都市構築集団の存在があったことをうかがわせるものです。
その鴨・加茂氏については、全国を高屋を作って梯子をかけそれを上り下りした(つまり測量・櫓構築)を阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)を祖としており、役行角のような修験道者(測量・偵察)を主として集団へとそれらの技術が継承されていった結果として、戦国時代にはこれらの城郭を測量・構築する集団へと化していったのではないでしょうか。
そこから秀吉や家康、光秀等が現れてくるわけですが、彼らの奇抜な行軍や情報戦略の背景にはこれらの集団の先導があったことも想像しうるでしょう。正確に地理を把握し、素早い情報を得ているものが戦いを有利に進めることができるのは、昔も今も同じことです。