日本語の起源 くまら掲示板


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2022/09/06 この掲示板は 鳩摩羅童子(くまらどうじ)のサイト
インド語・カンガルー  【副題】日本語の起源・インド弁検証
の掲示板です。「日本語の起源」全般の意見交換の場としてご利用下さい。
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36度線上に測量し設定されたレイ・ライン… 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月22日 03:55:54 No.1051 【返信】

聖なるラインの基点は阿見町の福田貝塚である…
オリエント史(ウバイド・シュメル)・ギリシァ史・インダス文明史・シナ(中国)史・朝鮮史の理解を深めることにより、
今後の史学の発展、日本の真の歴史、日本文化源流・語源・成立、 地名・神社の由来及び解明、 日本人の感情、表現の相互理解、
世界の平和繁栄等に少しでも貢献できればと思っています。
古墳 https://hikaru-naomoto.net/
 ≪茨城県稲敷郡阿見町福田≫
 殷以後の中国青銅器文明が、 結局はカリエン(カルデア人=スメル人)の 貨幣経済の副産物であり、
 それは茨城県の稲敷を経由して中国に渡り、 そのコースに2200kmのレイ・ラインを設定して、カルデア天文学の遺物として現在まで残した。

「青銅人面盉」(ワシントンのフリア美術館蔵)と全く同じ多数のアイテムをもつ「人面注口土器」(西宮の辰馬史料館蔵)が、 この福田貝塚から出土したからである。
 これは両者が同一の信仰と文化をもつ人々の手になるもので、
稲敷の<イナ>と殷の<イン>とが、同じ血、同じ言語、同じ信仰、同じ文化、同じ歴史をもつ人々のものであることの、動かぬ貴重な傍証であり、
 36度線上に測量し設定されたレイ・ラインが、https://matmkaneharajiji.exblog.jp/28422612/
 単なる偶然ではなく、当時はカルデア人以外には見られない
 天文学と航海測量学の、非常な高文化の遺跡であり、無形文化財の最たるものが、何びとでも自由に地図上で確認できる

アラム人やカルデア人…
新バビロニア https://ja.wikipedia.org/wiki/新バビロニア
新バビロニア帝国成立まで
…紀元前一千年紀初頭のバビロニアは、強力な中央権力が存在せず、多くの短命の王朝が興亡する、不安定な状況にあった。
バビロニアの政治的・神学的中心都市はバビロンであり、「バビロンの王」がバビロニア王とみなされたが、実際には、諸都市は独立した状態にあった。
さらに、元々遊牧民であったアラム人やカルデア人の諸部族がバビロニアに定住し、とくにカルデア人は政治的に重要な役割を果たすことになる。

先祖とされる アムル人 はバビロニアの文明からすれば野蛮人とされていた集団ですが、フェニキア人たちは技術の開発に熱心な人々であったようです。
フェニキア人とは?地中海交易の覇者について解説https://zatsugaku-circle.com/phoenicians/
…歴史家のヘロドトスによれば「フェニキア人は紅海から来た」とされています。
語学的な考古学的な予測では、フェニキア人の先祖はイラクやシリアなどのメソポタミア文明周辺地域にいた
アムル人(旧約聖書ではアモリ人やエモリ人として書かれる民族)ではないかと考えられています。
…フェニキア人は地中海東端に定住すると、すぐに地中海への航海に乗り出してその技術を高めます。
エジプトやバビロニアからの貨物を運び、ギリシャにもやって来ていたと伝わっています。
エジプトとバビロニアという巨大な国家のあいだに位置した土地で、両大国の文化や技術を吸収しながら
フェニキア人は都市国家を建て始めていくことになり、それが紀元前15世紀のことになります。
…フェニキア人はアフリカ大陸を西回りに一周している
紀元前600年頃にエジプトのファラオの命令により、フェニキア人たちは紅海から出発し
アフリカの喜望峰を超えて、そのまま北上、3年後にエジプトに戻ってきたとされています。

バベルの塔 (バール神 ベル神)…

ベル神殿(ベルしんでん、アラビア語: معبد بل‎、英語: Temple of Bel)は、シリアのパルミラに位置する古代の石造遺跡である。https://www.wikiwand.com/ja/ベル神殿#脚注
神殿は、パルミラにおいて崇拝されたセム人の神ベル(ベール、バアル、バール)に捧げられ、
パルミラの月神アグリボール(英語版)と太陽神ヤルヒボール(英語版)とともに三位神として、パルミラの信仰生活の中心に造られ、西暦紀元32年に奉献された。
…神殿は、紀元前3千年紀にさかのぼる人間の居住を示す地層の遺丘の上に築かれ、地下6メートルから青銅器時代中期(紀元前2200-1550年)初頭の痕跡が認められている。
紀元前3千年紀…

紀元前1万年から紀元前8000年…
ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。https://ja.wikipedia.org/wiki/ギョベクリ・テペ

紀元前7000年から紀元前2000年ごろにヨーロッパ各地で出土する縄目文土器…
彩文土器は紀元前5,000年ごろから突如世界中で出現する。なぜだろう。https://kz-pe.com/jomon-3/
…紀元前7000年から紀元前2000年ごろにヨーロッパ各地で出土する縄目文土器についても投稿した。
しかし、昨日シルクロード関連の本を読んでいたら彩文(さいもん)土器という言葉を目にした。初めて聞くのでびっくりした。
英語では、「painted pottery」と呼ぶようだ。
なんだかよく分からないので調べてみたら、紀元前5,000年々前ぐらいから4大文明のエリアから出土していた。これは一体どういうことなのだろう。
…河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5,000-3,300年)
中国文明の発生地は黄河とされるが、その黄河駐留全域に存在する新石器時代の文化を仰韶文化(ぎょうしょうぶんか:Yangshao culture)という。
黄河中流域に住みついた人びとは紀元前5,000年から紀元前4,000年ころに、豚・犬・鶏を家畜とし、アワなど雑穀を中心とする農耕文化を発達させた。
素焼きの淡紅色の土器面に赤・白・黒などで文様をほどこした彩文土器を使用していた。

ケルトのドルイド教、ハロウィン、ベルテーン。
カルタゴ脱出したフェニキア人。フリーメイソンの意味。https://ameblo.jp/uhauhaoasd1/entry-12259111701.html
何故、ケルトのドルイド教が「マルドゥク=バアル=モレク」(角邪神)(陪神:「イシュタル=アスタルト」)のシンボルマークである赤い六芒星を使ったのか。
それは、ケルトのドルイド教の神も「マルドゥク=バアル=モレク」そして「イシュタル=アスタルト」だからです。
…ベルテーンとは「ベルの火」という意味です。
ベルとは、カナン(フェニキア)人の信仰する最高神バアルの事です。
ユダヤ・キリスト教では悪魔とされ、ベルゼブブなどと呼ばれたりします。
角を持つその像を拝む儀式は、キリスト教徒からは悪魔の儀式に見えたでしょう。
古代ローマ人によると、南仏のプロヴァンス、ブルゴーニュ、北イタリアに、ベル神を祭る社があった。
なぜ、中東の神バアルが西欧まで祭られていたかと言うと、カナン人達が、ギリシア・ローマが栄える以前に、地中海全域に植民地を持っていたからです。
彼らはそこの土着民達に、バアルを信仰するように広めました。イギリスなどにも伝わったと思われる。
ベルテーン祭の、前夜の4/30から【ヴァルプルギスの夜】という前夜祭が行われます。
これは秋に行われるハロウィンと同じく、春に行われる魔女のお祭り(サバト)です。この夜は かがり火を焚き、一晩中(乱交など)乱痴気騒ぎをします。
この夜は かがり火を焚き、一晩中(乱交など)乱痴気騒ぎをします。
儀式の為に、子供をさらったり、それを殺して食らったりもしました。
印象悪いですが‥古代の習慣として、世界中に見られた事です。アステカ文明でも、生贄を捧げ、内臓を食らったりしていました。
アステカ文明でも、生贄を捧げ、内臓を食らったりしていました。
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月22日 11:13:52 No.1052
「蜂蜜」…聖書で「乳と蜜の流れる場所」…河南?  南の星座 三星碓?

三星堆にまつわる幾多の謎、解明はどこまで進んだのかhttps://www.afpbb.com/articles/-/3338914
方形文の帯飾りを付けていることから、神に通じる特別な能力を持った古蜀の「大祭司」ではないかと考えられている。

カナン、あるいはカナアン(ヘブライ語: כנען‎[1]クナーアン)とは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。
聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。
…カナン人を特徴づける「商人」や「紫紅染料(特産品)」とも関連付けられる。[4]

紀元前4400年頃には、ヨルダン渓谷東部にガスリアン(英語版)と呼ばれる文化が発生したとみられる。
様々な遺跡が発見されており[5]、銅産業が発展していたことがわかっている[6]。
青銅器時代前期には、レバント南部にエン・エスル(英語版)やメギドといった都市が形成され繁栄し、この住民が「原カナン人」とされる。
文献への初登場も諸説あるが、最も早いもので紀元前24世紀、最も遅いもので紀元前16世紀である[7][8][9][10]。
シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として見いだされる[注釈 1]。
紀元前2千年紀には古代エジプト王朝の州の名称として使われた。
その領域は、地中海を西の境界とし、北は南レバノンのハマトを経由し、東はヨルダン渓谷を、そして南は死海からガザまでを含む[注釈 2]。
カナン人は近東の広範な地域において、商人としての評判を獲得していた。メソポタミアの都市ヌジで発見された銘板では、紫紅染料を意味する "Kinahnu" の用語が使われ、これはカナン人の有名な輸出商品であったと言われている。また、「ツロの紫」で知られるフェニキア人とは同文化体であったと見られている。同様に、旧約聖書に時折例示されるように、「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。[4]
紫紅染料を意味する "Kinahnu" の用語が使われ、これはカナン人の有名な輸出商品であったと言われている。
また、「ツロの紫」で知られるフェニキア人とは同文化体であったと見られている。
同様に、旧約聖書に時折例示されるように、「カナン人」は商人の同義語として用いられ、カナン人を熟知した者によってその容貌が示唆されたものと思われる。[4]
考古学者や歴史家は一般的に、前1200年以前の青銅器時代のレバント諸民族をカナン人と呼び、
鉄器時代の末裔、特に沿岸部に住んでいた人々をフェニキア人と呼んでいる。
また、アラム人に支配されていなかったレバント内陸部の鉄器時代の二次国家、つまりペリシテ人や
イスラエル王国、ユダ王国を含む別個の近縁民族に支配されていた国家として使われることもある。[11][8]
旧約聖書の中では、カナン人とはイスラエル人により"聖絶"される7つの民の1つである(「申命記」)[12]。
また「民数記」では、カナン人は地中海沿岸付近に居住していったに過ぎないともされる[13]。
そのためイスラエル人は神の命令に背き、カナン人と混血するようにもなった。
ヘブライ語はカナン人から学んだものでもある(イスラエル王国を参照)ため、イスラエル人が全滅させることは不可能である。
現代の科学研究において、中東レバント地方(シリア、ヨルダン、イスラエルなどの地域)に住む
現代アラブ人とユダヤ人の大半は、DNAの半分以上が、カナン人ほかレバント、カフカス、イラン高原に住んでいた民族に由来することが判明している[14]。

言語
言語学上、カナン諸語はヘブライ語.フェニキア語を含み、アラム語やウガリト語と共にアフロ・アジア語族セム語派北西セム語に含まれる。
音素文字(原シナイ文字)を初めて用い、その文字体系はアルファベットの原型ともされるなど[15]、漢字文化圏を除く世界に伝播した。
学習し易い音素文字が普及した結果、古代オリエントの国際公用語がアッカド語(Akkadian cuneiform)からアラム語(アラム文字)に代わり、やがてアラビア語に取って代わられた。

聖書におけるカナン人
カナン人とは、広義ではノアの孫カナンから生じた民を指している。
「創世記」10章15-18節では、長男シドン、ヘト、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アキル人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人の
11の氏族を総称して「カナン人の諸氏族」と呼んでいる。イスラエル人とは区別されている。
イスラエル人とは区別されている。
神はアブラハムに対し、彼の子孫にカナンの地を所有させると約束しており、これの障害となる原住民のカナン人は排除(聖絶)すべき存在として記述されている。
「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない」―申命記 20 : 17
「万軍の主はこう仰せられる。『わたしはイスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。
今行ってアマレクを打ち、そのすべての者を聖絶せよ。
容赦してはならない。
男も女も、子供も、乳飲み子も、牛も、羊も、ラクダもロバも殺せ。』」―サムエル記 15 : 2, 3
アマレク…

アマレク人 は、古代 パレスチナ の 遊牧民 族。
後に ユダヤ人 に吸収されて消滅した。https://ja.wikipedia.org/wiki/アマレク人
旧約聖書に於けるアマレク人. 『創世記』第36章では「(ヤコブの兄) エサウ (エドム人の祖とされる人物)と
ヘト人出自の妻アダの息子エリパズが、テムナという側女との間に作った息子。 」
…基本的にイスラエル民族の敵とされており、聖絶の対象として女子供も含めて無慈悲に虐殺される場面も存在している。
『出エジプト記』17章8節ではエジプトから出てきたモーセ一行と最初に攻撃してきた相手とされており、これがアマレク人が主の怒りを受けた行為だったとしている[2]。
この時モーセが山に登ってアロンとフルに支えられて神に祈り、ヨシュアが兵士らと共に戦い、接戦の末、イスラエル軍が勝利した。

河南省(かなんしょう、中国語: 河南省、拼音: Hénán Shěng、英語: Henan Province)は、中華人民共和国の省の一つ。
地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。
古代の中原の中心地であり、中国のなかでも歴史のある地域とされている。https://ja.wikipedia.org/wiki/河南省
…古代
中国古代文明の発祥地の一つであり、先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡がある。
九州の中心である中原の地であり、中国8大古都のうち、殷の都安陽と鄭州、東周から長く都が置かれた洛陽、北宋の都開封の4大古都を有する。
鄭州…

邑と、音符奠 (テン)→ (テイ)とから成る。
「酋シュウ」<よく醸した酒つぼ> 「猶ユウ」 と 「奠テン」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/6924b8c7517b97d9f7eeb9a3db74a765
・・奠 テン・まつる
奠 テン・デン・まつる・さだめる  大部  
解字 篆文は「酋(かもされた酒つぼ)+丌(台)」の会意。
かもされた酒つぼを台の上に供えて祭る形。現代字は篆文の丌⇒大に変化した。
現代字は篆文の丌⇒大に変化した。
意味 (1)まつる(奠る)。神仏に酒食などを供える。「奠茶テンチャ」(茶を供える)「乞巧奠キコウデン」(七夕に供え物をして二星を祭り手芸がうまくなるよう祈る行事) 
  (2)そなえる。「香奠コウデン」(線香をそなえる。線香に代える金銭=香典) (3)さだめる(奠める)。位置をきめる。「奠都テント」(都をさだめる)
イメージ
 「かもされた酒つぼ」(奠)
丌(台)の上に供えて祭る…
丌…
「下基なり。 物を薦むるの丌なり」とあり、物を置く台のこと。 字形. 台の 象 形。https://dic.nicovideo.jp/a/丌
…金文では亓と書くものもある。
…部首
丌は〔説文〕や〔玉篇〕で部首である。〔説文〕は、ほかに䢋、典、顨、畀、巽、奠を収める。
異体字
〔集韻〕に基の異体字とある。

(太陽質量)のブラックホールを含む連星系と考えられている[18]。GX 339-4という名称は「天の川銀河内のX線源で銀経339°、銀緯−4°に位置するもの」という意味である[19]。
GX 339-4という名称は「天の川銀河内のX線源で銀経339°、銀緯−4°に位置するもの」という意味である[19]。
さいだん座:中国. 神話. 呼称と方言. 脚注. 注釈. 出典. 参考文献. さいだん座( さいだんざ 、 ラテン語: Ara )は、 現代の88星座 の1つで、 プトレマイオスの48星座 の1つ [3] 。
生贄を捧げる祭壇をモチーフとしている[4]。
さそり座の南にある小さな星座だが、4つの3等星と3つの4等星が比較的狭い領域に集まっており、容易に見つけることができる。
星座の北端が-45.5°と南天の深い位置にあるため、日本など北半球の中緯度地域から星座の全容を見ることは難しい。
隣接する星座
みなみのかんむり座
さそり座
じょうぎ座
みなみのさんかく座
ふうちょう座
くじゃく座
ぼうえんきょう座

…「天の他の星々が雲に隠れてかすみ、この星座が輝いて見えるようであれば、船の帆をたたんで激しい南風に備えるように」と伝えている[33]。
紀元前3世紀後期にアレクサンドリアで活動したエラトステネースや1世紀頃のヒュギーヌスは、さいだん座は4個の星で構成されるとした[34]。
2世紀に活動した古代ローマの天文学者プトレマイオスの天文書『ヘー・メガレー・スュンタクスィス・テース・アストロノミアース
(古希: ἡ Μεγάλη Σύνταξις τῆς Ἀστρονομίας)』、
いわゆる『アルマゲスト』では「7個の星で構成される」と記述されている[34]。
この祭壇は『アルマゲスト』以降の各時代の星図で、北側に本体、南側に炎という、北半球から見ると上下が逆転した姿で描かれていた[3]。
…神話
エラトステネースや1世紀古代ローマの詩人マルクス・マニリウスによると、大神ゼウス率いるオリュンポスの神々とクロノス率いる
巨神族ティーターンとの戦い「ティーターノマキアー」の際に、クロノスとティーターン族による
旧体制を打ち破ることをゼウスとその兄弟たちが誓った祭壇であるとされる[3][34]。
しかし、ティーターノマキアーの話を伝えるヘーシオドスの『神統記』やアポロドーロスの『ビブリオテーケー』、には神々の盟約を伝える記述がないことから、
エラトステネースの創作かあるいは散逸して現存しない資料を参考にしたものと見られる[34]。
またエラトステネースは、ケンタウロス族の賢人ケイローンが野獣を生贄として捧げる祭壇とも説明している[34][45][46]。
祭壇…

「亶タン」<厚くて平ら・ゆたか>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/e03a3e70d33f54bf729a531465f2e724
…[同注]は「本義は多榖と爲(な)すが、引伸インシン(転義)之(の)義は、厚(あつい)也、信(まこと)也、誠(まこと)也」とする。
また、センの発音は専セン(もっぱら)に通じ、もっぱら・ほしいままの意味を表す。
意味 (1)ゆたか。多穀。実りが多い。 (2)あつい(亶い)。厚い。あつみがある。 
(3)まことに(亶に)。まこと。「亶(まこと)に其れ然(しか)る乎(か)」(本当にそうであるなあ) 
 (4)ほしいまま(亶)。もっぱら。(=擅)
イメージ 
 「厚い(あつみ)」(亶・壇・氈)
 「ゆたか」(檀)
…羶 セン・なまぐさい  羊部
解字 甲骨文字は羊が三匹集まる形。
甲骨文字辞典は「羊を多く並べた形であり祭祀儀礼を表現したもの」とする。
金文は羊が二匹となり、篆文第一字は羊が三匹となった。
[説文解字]は「羊、臭(にお)う也(なり)」とし、羊の生肉がにおう意とする。第二字は「羊と亶センに从(したが)う」とし、同じ意味で亶センは発音を表した形声字。
第二字は「羊と亶センに从(したが)う」とし、同じ意味で亶センは発音を表した形声字。
意味 (1)なまぐさい(羶い)。羊のなま肉。「葷羶クンセン」(においの強い野菜と、生ぐさい肉)「羶血クンケツ」(生臭い血)「腥羶セイセン」(腥も羶も、生臭い意) 
(2)「羶行センコウ」とは、人にしたわれる言行。ありが羊の肉にしたい寄ってくるのを例えた言葉。
「亠(やね)+回(二重のかこい)」・・

エルサレムという名がこの両数形になっていることは,神の民が
二重の意味で,つまり霊的にも,また実際にも経験する平和を預言的に示すものとみなせるでしょう。https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1998764
…「二重の平和の所有[または土台]」となるよう実際に骨折って働きました。―エズラ 7:6。

羊が二匹となり、篆文第一字は羊が三匹となった…

シリウスはひとつではなく、連星です。
連星とは、別名双子星とも呼ばれ、近くに2つ星が寄り添っている状態を指します。
シリウスB. シリウスには、その周りを公転する伴星が存在します。http://www.nhao.jp/public/topic/SiriusB.html
. 2つ以上の恒星がお互いのまわりを公転している天体を連星と呼びます。
…シリウスは、地球から7番目に近い恒星になります(1番近い恒星は太陽、2番目は4.4光年に位置するケンタウルス座α星)。
ケンタウルス座α星…
略号はCen。南天の星座。ケンタウルス(ケンタウロス)は上半身が人間,下半身が馬の姿というギリシア神話に活躍する一族である。この星座の南縁,天の川の中にα,βの両輝星が並び輝く。その西隣に南十字星がある。
この星座の南縁,天の川の中にα,βの両輝星が並び輝く。
その西隣に南十字星がある。
天の川の中にα,βの両輝星が並び輝く…

天の川銀河内…
>(太陽質量)のブラックホールを含む連星系と考えられている[18]。…「天の川銀河内のX線源で銀経339°、銀緯−4°に位置するもの」

>丌(台)の上に供えて祭る…

生贄として捧げる祭壇…
>エラトステネースは、ケンタウロス族の賢人ケイローンが野獣を生贄として捧げる祭壇とも説明している

紀元前20世紀頃の中王国時代の木棺には、サフを表す三つ星とサフの妻セプデトを表すシリウスが描かれていた…
太陽信仰の謎。ご来光とは本来、シリウスを拝むことだったのか。https://note.com/millennium_k/n/nd4e479898743
…古代エジプトでは、シリウスは豊穣の女神ソプデト(古代ギリシア語: Σῶθις、Sothis)として知られていた。
シリウスは最も初期の天文記録にも記録されている。
エジプト中王国時代、エジプト人はシリウスのヒライアカル・ライジングを基にEgyptian calender(英語版)を作り上げた。
シリウスがヒライアカル・ライジングを起こす約70日後[31] に、夏至とナイル川の氾濫が起きるため、とても重視されていた[32]。

シャヘル (Shahar) は、カナン神話(英語版)(ウガリット神話)における曙(明けの明星)の神。
黄昏(宵の明星)の神シャレム(英語版)[注釈 1]とは対になる神とされる。
イザヤ書の「曙の子ルシフェル」という言葉は、聖書で唯一のルシフェルへの言及であるが、「ヘレル・ベン・サハル(輝ける曙の息子)」というヘブライ語の意訳である。
よって、シャヘルはルシフェルの父とも解釈できる[要出典]。
しかしバーバラ・ウォーカーの、シャヘルが太陽神に反逆して堕とされ、それがルシフェルの神への反逆の伝説の下敷きになったとする主張[1][注釈 2]が周知され、しばしば両者は同一視される。
シャヘルは日の出とともに、太陽が再生したことを宣言するとされていた。
古代のカナン地方では、シャヘル信仰のもとでシャハリート(英語版) (Shaharit) と呼ばれる礼拝が朝に行われていた[2]。

「日章旗」は太陽をモチーフにした旗だと多くの人が思っていますが、太陽を赤く描く民族は日本人だけです。
太陽は本来濃い黄色又は黄金色で表現され又その様に見えます。
この地球上を照らすのは太陽ですが、古代日本人はそれ以上に「この世をあまねく照らす天体」としてシリウスを位置付けていた事を物語ります。
何故ならば、古代の日本人は大きな『赤い星』のシリウス見ていました。
「日の丸」がそれを物語ります。日の丸は、太陽ではなく「シリウス(赤色の)」の象徴です。

…日本の仁徳天皇陵の地下の遺跡を皆様はご存知でしょうか?
その石室の壁に刻まれていた聖刻文字はヒエログリフの中に『△』という形のものがあります。
その『△』は、エジプトのヒエログリフにも同じものがあり、それを意味するのは『シリウス』です。
△は女神イシスの事でもあります。さらに『▽』という文字も存在しました。
これはオシリスを表します。
『△』と『▽』を重ね合わせる時、六芒星になります。それは、ヘキサグラムです。
これは、ユダヤの星でもあり、天照大御神を祀る伊勢神宮にも刻まれている模様です。
エジプトの聖刻文字は、ロゼッタ・ストーンの解読を皮切りに、現在全ての文字の意味が解明され、その文章は現代語に翻訳されています。

日本でのレイライン(ご来光の道)は、春分の日・秋分の日・夏至・冬至などに太陽が昇る方角と沈む方角に線が引かれていると考えられます。
このレイラインとは実は、あたかも太陽を従えて昇ってくる、「シリウス」を拝むためのご来光の道だったのではないでしょうか。
太陽神と言われてきた天照大神が、ソプデトというシリウスが神格化した神の起源とされているイシス神と同一であるとの説があり、さらに
古代エジプトのイシス神殿はシリウスの出没方向に合わせて設計されていたというのです。
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月22日 17:17:06 No.1054


蝦夷(エミシ)の正体とは 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月18日 22:56:33 No.1041 【返信】

東北から北部関東にかけて住んでいたとされるエミシは、遺伝子研究においてもかなり謎らしい。
一系統ではないのは想像のつくところだ。

まず、ベースとなったのは縄文人であり、この縄文人はY-D1a2の縄文人と1万年前に南九州に渡ってきた中国浙江エリア由来のY-O1a種族が混合していたと思われる。
これに4000年前頃に列島へ渡った遼河族の一派が加わり、その遼河族と同体化していた半島のY-C2の濊族も一緒に混合するることになったと思われる。
さらに、4000年前には、畑作を行う淮河北側のY-O1b2もすでに半島に渡っていて、この畑作Y-O1b2族もY-Nの遼河族の一派とともに列島へ進出していたと思われる。
これに加えて、もしかすれば、ヘブライの十支族の一派もいたと思われる。

これをまとめると、4000年前頃に遼河族、濊族、畑作Y-O1b2族が一団となって出雲から東北へと進み、合わせて中東由来のヘブライの十支族のんほJ族とともに、そこに住んでいたY-D1a2とY-O1aの縄文人と混合したということになる。
これが、エミシ(蝦夷)の遺伝子的な実態だと思われる。

このような複雑な遺伝子構造を持ったのがエミシ(蝦夷)と呼ばれた者たちだった、と見ることができそうだ。
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月20日 00:43:09 No.1042
このNo.1041「蝦夷(エミシ)の正体」は、No.1030の「『ズーズー弁』と出雲の神」に関連する投稿です。
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月21日 05:03:09 No.1045
言語が膠着語であるならば、その言語はC系統かD系統かE系統かG系統かH系統…
「ズーズー弁」と出雲の神 出雲といえば出雲大社、出雲大社といえば大国主命である。
神仏習合によれば大国主は大黒様であり大黒様の相棒といえば恵比寿様である。 恵比寿は則ち夷である。
夷をただ単に「外国」「海の向こう」などととらえる見方もあるようだが、夷とは本来異民族をいうのであり
東夷(あずまえびす)」の語で知られるごとく蝦夷を指すと考えるのが素直であろう。
出雲には恵比寿様(事代主)を祀る神社「美保神社」がある。
出雲神様である事代主神が「えびす」神として祀られること...
縄文人はズーズー弁を話していた -http://bunbun.ne.jp/drhnakai/sub1-29.html#:~:text=3.「ズーズー弁」と出雲の神 出雲といえば出雲大社、出雲大社といえば大国主命である。 神仏習合によれば大国主は大黒様であり大黒様の相棒といえば恵比寿様である。,恵比寿は則ち夷である。 夷をただ単に「外国」「海の向こう」などととらえる見方もあるようだが、夷とは本来異民族をいうのであり「東夷(あずまえびす)」の語で知られるごとく蝦夷を指すと考えるのが素直であろう。 出雲には恵比寿様(事代主)を祀る神社「美保神社」がある。 出雲神様である事代主神が「えびす」神として祀られることは注意すべきことで、素戔嗚尊も、「鬚が長く、乱暴である」という後世の人々が蝦夷に対していだいた性格がこの神様にあらわれている。
…富山や石川は栃木や茨城の一部と同様、中間型のズーズー弁ということになっている。
茨城の一部…

楯縫神社 (美浦村郷中)https://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫神社_(美浦村郷中)
…常陸国風土記の信太郡の条の普都神話[3]に描かれている、普都大神が楯を脱いだ地、すなわち
「楯脱(楯縫)」の聖地とされている。
木原の地名由来伝承には二説あるが、いずれも一帯が往古から豊かな森であったことを伝えている。
普都神話の聖地の結び付きから竹来阿彌神社と関係が深く、
往古は信太郡東西の総社として一宮二宮を称し、ともに永和元年(1375年)の円密院寺社供僧等言上状に「庄内第一之惣廟」と書かれた[4]。
は信太郡一宮として、旧郡域一帯では筆頭の格式にあった。普都主命の神輿を霞ヶ浦を介して阿彌神社に渡御する古式祭(鹿島神事)も行っていた[5]。

…新編常陸国誌は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、
この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、
この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)[9]」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
彦狭知命…

出雲手斧神社は、手置帆負命と彦狭知命…
島根県出雲市にある出雲手斧神社は、手置帆負命と彦狭知命、二柱の神様をお祀りする神社です。https://9109493333.amebaownd.com/posts/13846518/

信太郡…

葛の葉狐 (くずのはぎつね)、 信太妻 、 信田妻 (しのだづま)ともいうが、この人物に“葛の葉”と名がつけられるのは1699年の 歌舞伎 『しのだづま』以降のことである。
葛の葉(くずのは)は、室町時代に作られた安倍晴明出生説話の登場人物。https://ja.wikipedia.org/wiki/葛の葉
…葛の葉伝承は、被差別民階級の一つである声聞師(民間下級陰陽師)たちが生みだしたものだと考えられている。
安倍晴明…

賀茂氏 の門下生 https://www.bing.com/search?q=安倍晴明   忌部&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=安倍晴明   忌部&sc=5-9&sk=&cvid=AB77F60DC5974FA2BFD77DDE7FC21BC0&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=
賀茂氏…

葛城の賀茂氏|賀茂一族発祥の地、正体は出雲族だっ田https://blue32earth.blog.fc2.com/blog-entry-598.html

出雲ヤマト人を縄文人の末裔だと考えました…
ズーズー弁とされる出雲弁と東北弁の共通性などからも考えてみる必要がある、と指摘しています。 https://ameblo.jp/atom2460/entry-12607622221.html
海民の移動や移住とかかわって、興味深い研究があります。日本列島各地の人びとの遺伝子分析をおこなった人類学者の斎藤成也によれば、現代の島根県と東北地方の住民のあいだには、遺伝子的な共通性がみられるといいます。

日本語ユダヤ起源説⑭日向系と出雲系の争いは何だったのか https://ameblo.jp/prconsultant701938830/entry-12163604451.html
アマテラスのヘブライ語別名を「ヘフジバ」と言ったが、ここから日本一の山「富士山」や「富士宮」「富士見」などの地名が名付けられたと言われている。また、ユダ族の流れをくむ秦氏の日本列島での始祖とされる「弓月の君」の「ゆづき」はヘブライ語で「神は召集した」と意。さらに、弓月の君は、大陸各地にいるユダヤ人を集め、日本に呼び寄せる役割を担っていた可能性がある。八幡神社の「八幡(やはた)」はヘブライ語で「神はかき集めた」との意味で、日本の兵力を増強するためにアジア各地からかき集められたユダヤ人全体を指すという説もある。
また、ユダ族の流れをくむ秦氏の日本列島での始祖とされる「弓月の君」の「ゆづき」はヘブライ語で「神は召集した」と意。
さらに、弓月の君は、大陸各地にいるユダヤ人を集め、日本に呼び寄せる役割を担っていた可能性がある。
八幡神社の「八幡(やはた)」はヘブライ語で「神はかき集めた」との意味で、日本の兵力を増強するためにアジア各地からかき集められたユダヤ人全体を指すという説もある。
日向族は古代イスラエルのユダ族(「日向」も「ユダ(イェフダ)」が語源とされる)を中心とするユダヤ人であり、朝鮮半島または中国南部から船で渡来して博多付近に上陸し、原住民を征討しつつ南進して宮崎県に拠点を築いたとされる。
朝鮮半島または中国南部から船で渡来して博多付近に上陸し、原住民を征討しつつ南進して宮崎県に拠点を築いたとされる。
出雲族は、姓名としては賀茂氏、因幡氏、富(とみ)氏(エドムが転訛したものか)などが中心だったらしい。
…出雲系の賀茂氏の子孫に戦国時代の松平氏がおり、そこから出た徳川家康が日本を統一し、祖先の「エドム」に敬意を表して首都を「江戸」と命名したのではないかと言われる。
…紀元前15世紀頃、メソポタミアを統一し、大帝国を築いたヒッタイト人が出雲族になったというもの。
最初の鉄器文化を築いたとされる。
紀元前12世紀頃、「海の民」と呼ばれる民族に滅ぼされ、その後はちりぢりになったとされる。その後のユダヤ人たちからは尊敬され、またユダヤ人と結婚して混血した者もいた。
その後のユダヤ人たちからは尊敬され、またユダヤ人と結婚して混血した者もいた。
…秋田県の大湯ストーンサークルで出土した土器が、ヒッタイトで発掘された土器と酷似しており、
ヒッタイト人が古代日本に渡来したことを証明している。オックスフォード大学の考古学者セイヌ博士は「日本人の中に確かにヒッタイト人の血が入っている」と断言している。さらに、島根県ではタタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産してきたが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われ、タタラの語源はタタールである可能性が高い。ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
オックスフォード大学の考古学者セイヌ博士は「日本人の中に確かにヒッタイト人の血が入っている」と断言している。さらに、島根県ではタタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産してきたが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われ、タタラの語源はタタールである可能性が高い。ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
さらに、島根県ではタタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産してきたが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われ、タタラの語源はタタールである可能性が高い。ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われ、タタラの語源はタタールである可能性が高い。ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
ヒッタイト人は放浪後、モンゴル高原の遊牧民タタールになったとの有力な説があり、そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
そのヒッタイト人の血を引くタタール人が日本列島に渡来した可能性がある。
日本の古い民話「カチカチ山」で、兎が火打ち石で「カチカチ」と火を付けたのは、製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
三つ目の説は、日向族も出雲族も同じユダヤ民族であったが、日向族が分裂した「南のユダ王国」(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)の出身、
出雲族が北の王国」の出身(エフライム、ダン、ガドなどの十部族)であったというもの。
製鉄技術を持って渡来したタタール人のことを指しているとの説もある。
つまり南北分裂の対立が日本でも引き継がれたという考え方である。天皇家は初代神武から9代開化天皇までエフライム族だったが、10代崇神天皇からは系統が代わりユダ族になったとの説があるが、そうだとすると日向族による出雲族の征討、皇位奪還の史実と符号する。

タタール人 ~モンゴロイドではない?ロシア第2の民族の歴史と文化~https://www.hiroki-ru.work/entry/20201107/1604736032
…現代のタタール人は、ヨーロッパから中国に至るまでの様々な民族が混血し、中央ユーラシアで誕生したと考えられています。

クリムチャク人(Кърымчахлар)は、1世紀に黒海沿岸へ定住したと考えられるユダヤ人。https://www.wikiwand.com/ja/クリムチャク人

縄文人は、アメリカ先住民を含む東ユーラシア集団の中で最も古い時代に分岐したことがわかりました。
その一方で、縄文人はウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かったのです https://www.nig.ac.jp/nig/ja/2019/05/research-highlights_ja/pr20190516.html

縄文人。…https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010477_00000
DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した。 マンモスなど大型動物を狩猟して生きていた北方の人々が、日本人のルーツの一つだと分かってきたのである。
マンモスなど大型動物を狩猟して生きていた北方の人々が、日本人のルーツの一つだと分かってきたのである。

…歴史言語学における言語の音変化が基層言語によるものという考え(Substratum theory)は古くから存在する。
これは、征服などによってある地域に入り込んだ言語が、基層言語による影響を受けて変容するという仮説である。
有名なものとして、ゲルマン語の第二次子音推移は、ケルト民族が高地ゲルマン民族による征服を受けて基層言語であるケルト語の音声特徴を反映させたものとする見方がある(Fennell 2011)。
また、音の変化状態から、ケルト人の到来以前、ベルギー・オランダ・北西ドイツには特有の基層言語が存在していたと考えられている(河崎2002)。
また、古英語の発音は基層のケルト語の影響を受けているとされ(Schrijver 2009)、ラテン語の方言から派生した言語のうち
フランス語の発音は他のラテン系言語とは異なるものが多いが、そのうちいくらかは基層のケルト語の特徴が反映されていると考えられる(Pellegrini 1980, Craddock 1960: 18, Matasović 2007)。
「ズーズー弁」(裏日本方言)にも、その母音体系に基層言語が存在したという見方が複数提示されている。
方言の音声差異の起源を縄文時代まで求める説(小泉1997、2003)、日本海側の方言の発音は基層言語の残存であるとする見方(真田2002: 32、中井2003、2004a: 69、2004b: 218)、
遺伝子学の視点から中央日本語とは別の「東日本基層語」を想定する見方(崎谷2005: 159-160、2009b: 113-115)等がなされている。

…世界を見渡すと、舌の前後の母音調和を持つ言語はウラル語族とチュルク語族である(小泉1994、松本1998)。
すなわち、裏日本基層語はウラル語族またはチュルク語族に由来する可能性があるということになる。
ウラル語族またはチュルク語族…

日本語の起源と歴史に興味を持つすべての方へ
謎に包まれてきた日本語の起源 http://www.jojikanehira.com/archives/number1.html
…サモエード諸語は、フィンランド語やハンガリー語と類縁関係にある言語です。
フィンランド語とハンガリー語はヨーロッパの中では異色の存在で、北極地方の少数民族の言語と類縁関係を持っています。
フィンランド語、ハンガリー語、サモエード諸語などから成る言語群は、「ウラル語族」と呼ばれます。
言語学者が使う「語族」という用語について若干説明しておきます。
私たちが万葉集や源氏物語の言葉を見ると、「読みにくいな」と感じたり、「なにを言っているのかわからないな」と感じたりします。
言語は時代とともに少しずつ変化しています。
言語は単に変化するだけでなく、分化もします。
ある程度広い範囲で話されている言語には、地域差が生じてきます。
…これらの方言が地理的に隔たってさらに長い年数が経過すると、
最初は小さかった方言同士の差が大きくなっていき、やがて意思疎通ができないほどになります。

日本語とウラル語族
英語などが属するインド・ヨーロッパ語族は巨大な言語群ですが、
フィンランド語やハンガリー語が属するウラル語族はこじんまりとした言語群です。
ウラル語族の言語は、ロシアの北極地方から北欧・東欧にかけて分布しています。
地理的に遠く離れているので、ウラル語族の言語は一見したところ東アジアの言語、
特に日本語とはなんの関係もないように見えますが、実はここに大きな盲点があります。
日本語の歴史を考えるうえで大変重要になるので、ウラル語族の話を続けます。

…フィンランド語とハンガリー語だけを見ていた時は気づかなかったのですが、サモエード系の言語を介しながら
フィンランド語とハンガリー語を見てみると、やはりフィンランド語とハンガリー語にも日本語との共通語彙があります。
日本語の中にある、ウラル語族と共通している語彙、そしてウラル語族と共通していない語彙を見分けていくうちに、二つの疑問が頭に浮かんできました。
一つ目の疑問は、日本語の祖先とウラル語族の言語の祖先の接点は地理的にどの辺にあったのだろうという疑問です。
二つ目の疑問は、日本語の中にある、ウラル語族と共通していない語彙はどこから来たのだろうという疑問です。
日本語の中には、ウラル語族と共通している語彙も多いですが、共通していない語彙も多いのです。

…長江文明と遼河文明(りょうがぶんめい)…日本列島で縄文時代が進行する間に、大陸側はこのようになっていたのです。
黄河文明と長江文明に比べて、遼河文明は知名度が高くないかもしれません。
しかし、遼河文明は、日本語の歴史を解明するうえで重要な鍵を握っているようなのです。
…遼河文明が栄えていた頃の遼河流域では、当初はN系統が圧倒的に優勢だったが、
次第にO系統とC系統が増え(つまり他の地域から人々が流入してきたということ)、
N系統はめっきり少なくなってしまったようです。現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。
現在の日本、朝鮮半島、中国では、N系統はほんの少し見られる程度です(Shi 2013)。
対照的に、ウラル語族の言語が話されているロシアの北極地方からフィンランド方面にかけてN系統が非常に高い率で観察されています(Rootsi 2007)。

見え始めた日本語の正体…
…「ウラル語族との共通語彙」も多いですが、
「黄河文明の言語との共通語彙」と「長江文明の言語との共通語彙」も多く、この三者で漢語流入前の日本語の語彙の大部分を占めています。
「その他の語彙1」というのは、日本語が大陸にいた時に取り入れた語彙で、
「ウラル語族との共通語彙」にも、「黄河文明の言語との共通語彙」にも、「長江文明の言語との共通語彙」にも該当しないものです。

なぜフィンランド人(フィン人)はY染色体ハプログループNを持つか?〜ウラル語族〜https://oreranitsuite.com/2021/08/19/finns/
…Y染色体ハプログループIはY染色体ハプログループRに言語的には敗北した。
けれども、Y染色体ハプログループIの父兄は今まで残ってきた。
それに対して、フィンランド人は父系的にも言語的にもY染色体ハプログループNに完全に敗北してしまったように思える。
この状態はアメリカ大陸のモンゴロイド人種のY染色体ハプログループのほとんどがR系統であることに似ている。
直接的には、フィンランド人の先祖はY染色体ハプログループNによって強姦された可能性があるだろう。
ただし、もしY染色体ハプログループNがコーカサス人種の形質であったならば、上記の認識は成立しないだろう。

ウラル語族とアルタイ諸語
 ウラル語族(ウラルごぞく)は、シベリア(北アジア)中北部、北ヨーロッパ、東ヨーロッパに話者地域が分布する語族である。
かつてはアルタイ語族とあわせて、ウラル・アルタイ語族を構成するという説もあった[誰?]。
また、インド・ヨーロッパ語族と共にインド・ウラル語族を形成するという説も一部にある[誰?]。
ウラル語族に属する言語には次の特徴がある。
母音調和/膠着語/後置詞言語/双数/中舌母音[ɨ]。
言語学的知見からは、サモエド祖語とフィン・ウゴル祖語の分岐年代はおよそ紀元前4000年ごろと考えられている[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラル語族
… 一般的に、ウラル語族はY染色体ハプログループNに対応する。
しかし、ウラル語族は膠着語であり、屈折語でない。
この時、俺はモンゴル語やアルタイ諸語がウラル語族と同じ膠着語であることを連想した。
つまり、俺はアルタイ諸語はウラル語族は同じ先祖を持ち、
Y染色体ハプログループNは彼らの言語をY染色体ハプログループC2によって置換されたと憶測する。言語置換が生じた。
上記のウラル・アルタイ語族という仮説はそれほど間違いでないように感じる。
膠着語それ自体がモンゴル語的であるように感じる、もしある言語が膠着語であるならば、
その言語はC系統かD系統かE系統かG系統かH系統である。
言い換えると、Y染色体ハプログループC2とY染色体ハプログループNのどちらかは自己の言語系統を持っていない可能性がある。
個人的には、俺はY染色体ハプログループNがY染色体ハプログループCに敗北して、彼らは自己の言語を失った可能性もあったように感じる。


>東20度偏角のライン… 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月20日 11:16:32 No.1043 【返信】

>東20度偏角のライン…
>吉野ヶ里遺跡⇔加茂神社(菊間)⇔桜ヶ丘銅鐸出土地南部⇔芦屋神社⇔馬見岡綿向神社⇔伝名古屋城壕銅鐸出土地への
が見えてきます。https://rara.jp/toraijin/

福岡に残る人の痕跡は、今から3万年をさかのぼり、後期旧石器時代からたどることができます。https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/414/index.html

33.565472, 130.452806:板付遺跡(いたづけいせき)は、福岡県福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の複合遺跡。https://ja.wikipedia.org/wiki/板付遺跡#弥生時代

粟島台遺跡ー粟島台遺跡
距離 971.596528㎞
方位角 72.910385°(東北に 約 17.1°)

粟島台遺跡は、今から約5000年程前の縄文時代(前期・中期)を中心とした遺跡です…
銚子半島に人が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、
海上台地の密林を背景に三方を太平洋に臨むこの地では、数千年の間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれ[17]、
市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器や骨角器が出土している[18]。https://ja.wikipedia.org/wiki/銚子市
粟島台遺跡…
35.70723 経度: 140.742388 粟島台遺跡

日吉神社跡古墳ー 粟島台遺跡
距離 985.60676㎞
方位角 71.529048°(東北に 約 18.47°)

33.3291  130.385261日吉神社跡古墳 吉野ヶ里遺跡

35.01475, 136.261611:馬見岡綿向神社は、滋賀県蒲生郡日野町の東にそびえる綿向山の山頂に祀られている大嵩神社の里宮 https://ja.wikipedia.org/wiki/馬見岡綿向神社

馬見岡綿向神社ー 粟島台遺跡
距離 413.98004㎞
77.97784°(東北に 約 12°)

日の出 (方角・方位77.21度) 5時45分 日の入り・日没 (方角・方位283.26度)https://www.hinode-hinoiri.com/400009.html#:~:text=日の出 (方角・方位77.21度),5時45分 日の入り・日没 (方角・方位283.26度)
【福岡県 福岡市】(2024年04月20日00時06分更新)
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月21日 03:27:01 No.1044
粟島台遺跡   ←訂正…  板付遺跡ー粟島台遺跡


ツナ(綱)はどのような言葉か 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月15日 15:46:33 No.1029 【返信】

No.990より続く
弥生語の語彙の成り立ち

弥生語の語彙はどのようにして成り立ったのかを見ているが、このツナ(綱)はその成り立ちがよく分かる例だろう。
ツナ(綱)は英語のロープに相当する索条のことであるが、このツナに当てた漢字の綱(コウ)の語義を表す岡(コウ)の字は「丈夫で堅い太づな」の意とされているので、その綱の字を当てたツナの言葉が「太いロープ」を指していることははっきりしている。

そこで、そのツナ(綱)の言葉はどのような構成なのか見てみると、ツ+ナの構成であるとすることができる。
では、そのツナのナは、いかなる言葉なのか。

ツナ(綱)が太い索条を指す言葉であることからすると、ツナ(綱)のナはナワ(縄)のナであることが推測される。
そして、ナワ(縄)のナはナウ(綯う)のナと同義の言葉とすることができるので、そのナウ(綯う)とよく似た言葉を外国語に探せばナワ(縄)のナの言葉の語義を把握することが可能になる。
そこで、探り出すことができたのが、次の言葉だ。

ナウ(綯う)のナ
モンゴル語 nekhekh(ネへフ)=編む
フィンランド語 neulo(ネウロ)=編む

この三者は、かなり近い同系語彙とすることができそうだ。
モンゴル語とフィンランド語の語頭のne音が語幹であり、neが「編む」意を表していると見ることができる。
そうすると、これらのモンゴル語やフィンランド語の語彙が、日本語のナウ(綯う)のナが「糸やひもを一本に撚り合わせる」意を表しているのとほぼ同じであることが分かり、三者が同系語彙であることがよく理解されるのである。
おそらく、3万年前頃にアルタイ山脈あたりで、縄文祖語からフィンランド語の祖語である遼河祖語に語彙移動したものだろう。

こうして、ツナ(綱)、ナワ(縄)、ナウ(綯う)などのナの言葉が縄文祖語由来の言葉であり、その言葉の原義は「編む」であることが理解されたと思われる。

では、ツナ(綱)の語頭のツは、いかなる言葉なのかということになる。
ナの場合と同じ手法で、そのツを探して見ることにしよう。

ツナ(綱)のツ
ベトナム語 thung(ツン)=綱、ロープ

これを見ると、日本語のツナ(綱)のツとベトナム語のthung(ツン=綱、ロープ)は、発音と語義がほぼ同じであり、双方同系語彙とみなすことが可能だろう。
そして、これまでに見てきたように、ベトナム語を話すベトナム・キン族のY-O1b1のハプロと日本に水田稲作をもたらしたとみられているY-O1b2が親戚関係のハプロであり、古代中国の淮河下流域で隣接して住んでいた可能性があることから、ツナ(綱)のツは水田稲作を日本にもたらしたY-O1b2種族の言葉だったとすることが可能になる。

こうして、ツナ(綱)がいかなる言葉であり、弥生語としてその言葉が成立したのは弥生前期頃だと推測することができそうだ。
ツナ(綱)は、縄文語のナ(縄)に水田稲作をもたらしたY-O1b2語のツ(ロープ)が合わさった言葉だとすることができるのである。
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月15日 20:29:51 No.1030
『北陸』の語源と旧名称『越』の由来…
フィンランド語の起源http://www.kmatsum.info/suomi/finfo/um/juuret.html
…フィンランド語は,ヨーロッパの中で孤立した言語であるわけではありません。
フィンランド語は,フィン・ウゴル諸語と呼ばれる言語のグループに属しています。
このグループの言語は,スカンジナビア,西シベリア,ハンガリーを含む東ヨーロッパに分布しています。
フィン・ウゴル諸語は,さらにサモエード諸語と呼ばれる言語グループと親縁関係にあります。
サモエード諸語は,今世紀のはじめころは,北極海沿岸から,タイミル半島のツンドラ地帯,オビ川およびエニセイ川の流域,さらには
モンゴル国境のサヤン山脈地方にまで広がっていました。
フィン・ウゴル諸語とサモエード諸語を一緒にして,ウラル語族と呼びます。
ウラル語族…
…フィン・ウゴル諸民族は,北ロシアおよび中部ロシアのもっとも古くからの住民で,この地域が,
スラブ系(ロシア人,ウクライナ人など)やチュルク系(トルコ人,タタール人など)の人々に侵食され始めたのは,今から1000年ほど前のことに過ぎません。
フィン・ウゴル系の住民の一部は,後から来たスラブ系やチュルク系の人々に同化され,吸収されました。

…インド・ヨーロッパ諸語とウラル諸語の間にも類似性があり,これも2つの語族が共通の祖先にさかのぼるためと解釈されています。
しかし,インド・ヨーロッパ諸語とウラル諸語の間の関係は,アルタイ諸語やユカギル語とウラル諸語の間の関係よりさらに疎遠です。
最近は,ウラル諸語,アルタイ諸語,ドラビダ諸語(タミル語など)の間の古い親縁関係の可能性についても取りざたされています。
ここに触れた諸言語とウラル諸語との関係は,ウラル語族の言語の間の親縁関係よりずっと以前の時代を問題にしているものであり,
その類似性がどのような性格のものかは,まだ明らかにされていません。
すなわち,共通の祖先から分かれたことに由来するものなのか,あるいは,
ユーラシア大陸において何万年も以前に起こった民族接触の名残であるのか,どちらとも言い難いのです。
答は,霧につつまれた地平線の向こう側にあるわけです。

フィン・ウゴル系にN1a1、サモエード系にN1a2が多い。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループN_(Y染色体)
遼河文明 の遺跡人骨からもN1が60%以上の高頻度で見つかっており [14] [15] 、
かつては 東アジア 北部においても支配的であったと想定されるが、現在においては概ね10%程度の低頻度となっている。
…系統
・・・・
言語との関連
ハプログループNの系統樹とウラル語族の系統樹が一致しないことは、ウラル語族の櫛状分岐モデルを支持するものである。
ヤクートはもともとウラル系であったが、テュルク系に言語交替を起こしたようである。[独自研究?]
仮説段階の語族であるウラル・ユカギール語族やウラル・シベリア語族の担い手はハプログループNと考えられる[91]。また、ウラル語族とアルタイ諸語の言語的類似はハプログループN集団に依るとする見方がある[92]。
ヤクートはもともとウラル系であったが、テュルク系に言語交替を起こしたようである。[独自研究?]
崎谷満は、裏日本の言語(いわゆるズーズー弁)はハプログループN集団が担った基層言語の特徴の可能性がある、としている[93][94]。

縄文人は「ズーズー弁」を話していたhttp://bunbun.ne.jp/drhnakai/sub1-29.html
3.「ズーズー弁」と出雲の神
 出雲といえば出雲大社、出雲大社といえば大国主命である。
神仏習合によれば大国主は大黒様であり大黒様の相棒といえば恵比寿様である。
恵比寿は則ち夷である。夷をただ単に「外国」「海の向こう」などととらえる見方もあるようだが、夷とは本来異民族をいうのであり
「東夷(あずまえびす)」の語で知られるごとく蝦夷を指すと考えるのが素直であろう。出雲には恵比寿様(事代主)を祀る神社「美保神社」がある。出雲神様である事代主神が「えびす」神として祀られることは注意すべきことで、素戔嗚尊も、「鬚が長く、乱暴である」という後世の人々が蝦夷に対していだいた性格がこの神様にあらわれている。これは尊が高志(こし)の八岐大蛇を平げられた伝説とも相俟ってなにがしか示唆的である。高志は越で、越人は蝦夷である。
出雲には恵比寿様(事代主)を祀る神社「美保神社」がある。
出雲神様である事代主神が「えびす」神として祀られることは注意すべきことで、素戔嗚尊も、「鬚が長く、乱暴である」という後世の人々が蝦夷に対していだいた性格がこの神様にあらわれている。
これは尊が高志(こし)の八岐大蛇を平げられた伝説とも相俟ってなにがしか示唆的である。
高志は越で、越人は蝦夷である。
 しかも「出雲の国風土記」では大国主は越の国を従えたとされている。
また、『越中一ノ宮伝記』によると、昔、。
越の国に悪者が大勢住みついて人々を苦しめたので、大国主命が出雲からはるばる来て、越中国三津ケ峰に戦陣を張って悪者を撫育したという。
悪者とは蝦夷のことと思われるが、越の国は歴史時代に入っても蝦夷の国である。
東北地方は言うまでもなく蝦夷の国である。そしてそこにはズーズー弁が今なお話されているのである
東北地方は言うまでもなく蝦夷の国である。そしてそこにはズーズー弁が今なお話されているのである
4.「ズーズー弁」が出雲に残った訳
 素戔嗚尊、大国主命と出雲の支配者は代々蝦夷を従え、ついに蝦夷の首領となったのではないか。
そしてついに夷神として祀られるようになったのではないか。
そして越の国の蝦夷は大国主の配下として出雲に多く住んでいたのではないかと推測できる。
あるいは、大国主が縄文の系譜をひくと思われる「国津神」であることから、
弥生人の侵攻に最後まで抗した縄文の系譜をひく人たちが濃厚であった出雲にズーズー弁が残ったとも考えられる。
いずれにしても、筆者は、縄文人の末裔が多く住む地域に「ズーズー弁」が残ったのだと結論するものである。
越の国…

北陸地方の『北陸』の語源と旧名称『越』の由来を簡単解説!
…新潟県の旧名称は『越後』
富山県の旧名称は『越中』
福井県の旧名称は『越前』
越…

越は 楚 、 呉 など 長江文明 を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/越#:~:text=越は 楚 、 呉 など 長江文明 を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。 『,』をはじめとする諸書では、 夏 の 少康 の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている [注釈 1] 。
『 史記 』をはじめとする諸書では、 夏 の 少康 の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている [注釈 1] 。

夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族…
東アジア史に眠るユダヤの痕跡 https://www.historyjp.com/article/93/
九夷の原点は、前20世紀、東アジアの中国に突如として姿を現した、9つの部族からなる異国人の集団にあります。
九夷については畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と9部族の名前が具体的に挙げられるも、
抽象的な名称しか用いられていないことから、その実在は疑う声もあがっているようです。
しかしながら夏王朝と同時期、西アジアで勢力を持ちはじめたイスラエル12部族も、年の月や、個別の色に結びついてそれぞれの部族がシンボル化されていました。
ナフタリ族は1月の緑、ヨセフ族は2月の白、ベンジャミン族は3月の黒、ルベン族は4月の銀、シメオン族は5月の金、レビ族は6月の紫、
ユダ族は7月の茶、イッサカルは8月の黄、ゼブルン族は9月の桃、ダン族は10月の青、アシェル族は11月の赤、ガド族は12月の灰と、各部族には年の月と色が割り当てられていたのです。
つまり、古代社会において抽象的な名称が使用されることに何ら不思議はなく、むしろ
九夷が、黄、白、赤という同じ色彩のアイデンティティーをイスラエルと共有していることに、九夷とイスラエルの関連性を垣間見ることができます。
イスラエル12部族…

N1b 9.2%…
日本語ユダヤ起源説⑯ついに証明、日本人にはユダヤの血が流れているhttps://ameblo.jp/prconsultant701938830/entry-12442565810.html
…アシュケナジムのミトコンドリアDNAの解析では、はるかに多く、
母系の81%がヨーロッパ系(mt-DNAの H 20.5%、K 31.8%、N1b 9.2%、J6.3% など)、
中近東(ペルシャ、アナトリア) 8.3%、アジア1.1%であり、80%以上が(コーカサスではなく)ヨーロッパ人種であることを裏付けている。
(→ Nature Asia 、 Figure10  (2013 10))

ハプログループN ミトコンドリアN…
ハプログループN (mtDNA)(ハプログループN (ミトコンドリアDNA)、英: Haplogroup N (mtDNA))とは、分子人類学で用いられる、
人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、「L3」より分岐したものである。
「8701, 9540, 10398, 10873, 15301」の変異で定義づけられる。
ハプログループMとともに、出アフリカを果たし、子孫がユーラシア、オセアニア、アメリカ大陸に広がっていった[1]。
アフリカ外で見つかったものはすべてハプログループMに属しているため、ハプログループNへの分岐がアフリカ内で起きたかアフリカ外に起きたのかの議論がある。
ハプログループMは西ユーラシアには存在しないが、インドでは優勢であり、またハプログループNが欧米ユーラシアで大きな主流グループになっている。

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、
越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。日本の明治から昭和期には、かつて中国南部からベトナムにかけて存在した南越国から南越族とも表記された。
百越
…「越」の国を失い、次第に「越人」としてのアイデンティティーを失っていったものの、現在でも広東省一帯の方言である広東語を
「粤語」と呼び、広東省の車のナンバープレートには「粤」と記載され、南方のベトナムは漢字で「越南」と書き表す。https://ja.wikipedia.org/wiki/百越
…中国復旦大学・黄穎、李輝、高蒙河らは、百越はY染色体ハプログループO1aであるとしている[5]。これは台湾先住民に多いタイプである。
これは台湾先住民に多いタイプである。
崎谷満は、百越がY染色体ハプログループ旧O2(旧O3が現O2となり、旧O2は現O1のサブに置かれ現O1b。
これにより旧O2aは現O1b1、旧O2bは現O1b2)系統に属していたとしている[6][7]。
現O1b1/現O1b2は長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、現O1b1および一部の現O1b2は南下し百越と呼ばれ、
残りの現O1b2は西方及び北方へと渡り、山東省、日本列島、沖縄、朝鮮半島へ渡ったとされ[8]、
この現O1b2系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。
現O1b1系統はオーストロアジア語族と関連していることから、この説に則れば、百越はオーストロアジア語に近い言語(群)を話していたと考えられる。
現O1b1と姉妹関係の現O1b2系統(倭人)が日本に多く見られることは、日本語とオーストロアジア系カンボジア語の語彙類似性が高いとするデータ[9][10]とも符合する。[要検証 – ノート]

ハプログループO-M122 (Y染色体)(ハプログループO-M122 (Yせんしょくたい)、系統名称https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO2_(Y染色体)
ハプログループO2とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループの分類のうち、
ハプログループOのサブクレード(細分岐)の一つで、「M122」の子孫の系統である。
2015年11月にISOGG系統樹が改訂 される前はハプログループO3と呼ばれていた。
ハプログループO-M122 (Y染色体)…

N* (M231) 英語版 ハプログループ N-M231 を定義する M231 変異を表示するが、ハプログループ N1 を定義する CTS11499、L735、M2291 変異を表示しない Y 染色体は、パラグループ N-M231* に属している。
定義づけられる変異 M231 https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループN_(Y染色体)
高頻度民族・地域 北アジア、ヨーロッパ北東部。ウラル系民族、ユカギール人、ヤクート人に高頻度。

変異 M231 M122…

O1-F265起源于中原,却被N-M231和O2-M122冲散了 - 知乎

N-M231* は中国で低レベルで検出されている。https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループN_(Y染色体)
中国の 165人の漢族男性のサンプルのうち、2 人 (1.2%) が N* に属することが判明した ( Karafet et al. 2010 )。
ハプログループNに属す現存のY染色体は20,000年前~25,000年前[4]に東アジアにおいて分岐をし始めたと推定されており、
ユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げた[6]。
観察頻度はネネツ人に97%、 ガナサン人に92%、ヤクート人に88%[7]、 フィン人に63%[8]、
エヴェンキ族に20-60%[9]、チュクチ人に58%[10]、サーミ人に47%[11]、エストニア人に41%[8]、ユカギール人に31%[12]、ロシア人に20%[13]などである
。ウラル語族との関連が想定される。[独自研究?]フィン・ウゴル系にN1a1、サモエード系にN1a2が多い。
遼河文明の遺跡人骨からもN1が60%以上の高頻度で見つかっており[14][15]、
かつては東アジア北部においても支配的であったと想定されるが、現在においては概ね10%程度の低頻度となっている。
ハプログループ N-P43は北サモエド人、オブ・ウグリック語話者、北ハカス人の間で非常に頻繁に発見されており、
他のウラル語話者、テュルク人、モンゴル人、ツングース人の間でも低頻度から中程度の頻度で観察されている。
テュルク人…

古代のチュルク人は古代中国大陸の中原において狄と呼ばれ、日本人のルーツと言える殷人や羌族と混じって活動していた。
だから、日本語と関係があって当然であったhttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12521530825.html
…殷人の末裔の遊牧民(参考)の言語も変化しながらも残存しているはずで、これらとチュルク諸語などをまとめてウラル・アルタイ語族としていると考えられる。
の末裔の遊牧民(参考)の言語も変化しながらも残存しているはずで、これらとチュルク諸語などをまとめてウラル・アルタイ語族としていると考えられる。

殷人の末裔は滅びることなく日本列島に渡って来た
…日本列島の旧石器時代から縄文時代の民、すなわち縄文人は東アジアの大陸にも居住したが、
この民は漢字のルーツである甲骨文字を発明した殷民族であり、古代の日本語を喋っていた。
この殷民族の末裔の行方については分かっていなかった。実は、春秋戦国時代に漢民族の国々と相争った秦と同族の国々の民であった。
そして、後漢が滅んだ後、卑弥呼が朝貢した魏と、その後を継いだ西晋が殷民族の末裔の国であった。
その後の殷民族の末裔の行く末について、Y-DNAハプログループDの男性とパートナーのほぼ全員が日本列島に渡来(帰化)して来たことになる。
…「殷」という名称は、本来は彼らの商品である織物の一種だったようです。
今では「商人」は固有名詞ではなく、普通名詞になってしまいましたが、おそらく彼ら「商人」が中国語の原型を使っていたのでしょう。
殷を倒した周は殷の遺産を受け継ぎ、ここに漢民族が誕生します。
ところで、最近の研究により「殷民族」は元から中原に住んでいたのではなく、東夷の一派だったことがわかってきました。南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。
南蛮、北狄、西戎、東夷の東夷です。

②-1 殷の漢字(古代中国語)の読みを研究すると、漢字の訓読み(大和言葉)につながっていた(参考)https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12502836498.html
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月18日 20:23:39 No.1040
遼河系Y-Nによる縄文人への影響は、4000年前頃にあったようだ。
遼河地方から四散したY-N族の一派が縄文後期の日本に渡り、農耕が伝わった形跡がある。
そのときに、遼河語の言葉が縄文語の中に語彙移動したと思われるが、それよりももっと多くの語彙移動があったのは3万年前のアルタイ山脈南麓での縄文祖族と遼河祖族との接触のときだと思われる。

そのときの遼河祖族の後裔の一派が8000年前頃に分離して西方に向かい、今のフィンランド地方に到達したのがフィン人の祖先だとされている。
なので、このフィンランド語の語彙の中には遼河語の語彙が多数温存されており、そのフィンランド語の語彙と縄文祖族の末裔である日本人の言葉の中には明らかな同系語彙が少なからずみられるというわけである。

そういうわけで、遼河のY-N族と縄文族との接触は過去に2回あり、新旧あわせた遼河語の語彙が日本語の中に語彙移動していると見ることが可能だ。
その新しい時代の遼河族が4000年前頃に日本に渡った痕跡として挙げられているのが出雲地方や東北地方のズーズー弁で、その遼河族の語彙も当然その地方に温存されたと考えるのは自然だろう。


星神社古墳は風神山と八瓶山を結ぶ線上に位置していた… 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 19:38:16 No.1037 【返信】

>星神古墳 https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12748867267.html
星神社古墳は、富士山古墳を向いていると言っても良いかもしれません。
その意味では、中野富士山古墳と星神社古墳の埋葬者には深い関係が認められると考えることもできます。
しかし、その丘に登れば、軸上にあるらしい茨城県と栃木県境の八瓶山が見えるはずです。
前方部の延長上に、山の頂上があることが、多くの前方後円墳で確認できます。
地図上で著名な前方後円墳、後方墳を20ヶ所ほど調べてみましたが、ほぼ100%と言っても過言ではありません。
例えば、茨城県第一位の大きさの石岡市舟塚山古墳の前方部は奥多摩の雲取山を向いています。

星神社古墳探検記(常陸太田市小島町)https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12748867267.html
…前方部の先には中野富士山古墳の丘があって、遠くの山は見通せない感じでした。
わたしたちは、目視できることを重要視しています。
それは、古墳築造において主軸を決定する重要な要素だからです。
図面を書くときにはまず中心線を書かなければなりません。
これは機械工学科を出て、機械設計に携わっていた私がいうのですから間違いありません。🤣
円を描く時も重要なのは、中心点です。
中心点は、縦線と横線で決まります。
いわゆる座標です。
地球で言うなら、緯度と経度です。
中島みゆき的に言うなら、縦の糸はあなた、横の糸はわたしです😆
織物でもしかり。
星神社古墳は、富士山古墳を向いていると言っても良いかもしれません。
その意味では、中野富士山古墳と星神社古墳の埋葬者には深い関係が認められると考えることもできます。
しかし、その丘に登れば、軸上にあるらしい茨城県と栃木県境の八瓶山が見えるはずです。
前方部の延長上に、山の頂上があることが、多くの前方後円墳で確認できます。
地図上で著名な前方後円墳、後方墳を20ヶ所ほど調べてみましたが、ほぼ100%と言っても過言ではありません。
…例えば、茨城県第一位の大きさの石岡市舟塚山古墳の前方部は奥多摩の雲取山を向いています。
…群馬県高崎市市の保渡田古墳は、埼玉県の武甲山を向いています。
もちろん、前方部の方向です。
…つまり、星神社古墳は風神山と八瓶山を結ぶ線上に位置していたのです。

峯山や、梵天山古墳、中野富士山古墳もその線の付近に位置しています。
常陸国の神話がいろいろつながってきますね。
中野富士山古墳は、鷲子山を向いていました。
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 19:49:09 No.1039
星神社古墳は風神山と八瓶山を結ぶ線上に位置していた…
>星神古墳 https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12748867267.html
星神社古墳は、富士山古墳を向いていると言っても良いかもしれません。
その意味では、中野富士山古墳と星神社古墳の埋葬者には深い関係が認められると考えることもできます。
しかし、その丘に登れば、軸上にあるらしい茨城県と栃木県境の八瓶山が見えるはずです。
前方部の延長上に、山の頂上があることが、多くの前方後円墳で確認できます。
地図上で著名な前方後円墳、後方墳を20ヶ所ほど調べてみましたが、ほぼ100%と言っても過言ではありません。
例えば、茨城県第一位の大きさの石岡市舟塚山古墳の前方部は奥多摩の雲取山を向いています。

星神社古墳探検記(常陸太田市小島町)https://ameblo.jp/kappa1959/entry-12748867267.html
…前方部の先には中野富士山古墳の丘があって、遠くの山は見通せない感じでした。
わたしたちは、目視できることを重要視しています。
それは、古墳築造において主軸を決定する重要な要素だからです。
図面を書くときにはまず中心線を書かなければなりません。
これは機械工学科を出て、機械設計に携わっていた私がいうのですから間違いありません。🤣
円を描く時も重要なのは、中心点です。
中心点は、縦線と横線で決まります。
いわゆる座標です。
地球で言うなら、緯度と経度です。
中島みゆき的に言うなら、縦の糸はあなた、横の糸はわたしです😆
織物でもしかり。
星神社古墳は、富士山古墳を向いていると言っても良いかもしれません。
その意味では、中野富士山古墳と星神社古墳の埋葬者には深い関係が認められると考えることもできます。
しかし、その丘に登れば、軸上にあるらしい茨城県と栃木県境の八瓶山が見えるはずです。
前方部の延長上に、山の頂上があることが、多くの前方後円墳で確認できます。
地図上で著名な前方後円墳、後方墳を20ヶ所ほど調べてみましたが、ほぼ100%と言っても過言ではありません。
…例えば、茨城県第一位の大きさの石岡市舟塚山古墳の前方部は奥多摩の雲取山を向いています。
…群馬県高崎市市の保渡田古墳は、埼玉県の武甲山を向いています。
もちろん、前方部の方向です。
…つまり、星神社古墳は風神山と八瓶山を結ぶ線上に位置していたのです。

峯山や、梵天山古墳、中野富士山古墳もその線の付近に位置しています。
常陸国の神話がいろいろつながってきますね。
中野富士山古墳は、鷲子山を向いていました。


山の神… 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 07:58:43 No.1032 【返信】

愛宕山の神「愛宕大権現」
…八天狗の筆頭・太郎坊ゆかりの火伏せの神
愛宕大権現(あたごだいごんげん)とは、愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神さまです。
地蔵菩薩を本地仏とし、イザナミを垂迹神とします。
神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られました。
…社伝によれば役小角(えんのおづぬ)と泰澄(たいちょう)の開基と伝わっていますが、
今の愛宕神社につづく寺社の最初は、
天応元年(781年)、僧慶俊けいしゅんが阿多古社を愛宕山中に遷し、同年、
和気清麻呂わけのきよまろが白雲寺など五か寺を建立して愛宕大権現と称したとされる。
…「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えます。
愛宕山の修験者は「愛宕聖」や「清滝川聖」とも呼ばれ、江戸時代にかけて愛宕修験がますます盛んになると、
愛宕山白雲寺から勧請された愛宕社が全国に広まります。
武士からの軍神信仰が厚い
神仏習合の時代、当山の本殿には愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵、
現在の若宮社である奥の院には愛宕山の天狗太郎坊が祀られたといいます。
勝軍地蔵は地蔵という名でありながら馬に乗り、甲冑を身につけた特異な姿で、
もとは坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した際にこの世に現れたといわれます。

京都府愛宕郡鞍馬村…
弁慶物語 現代語訳5 義経 https://www.mikumano.net/setsuwa/benkei5.html
天狗が荒れて鞍馬(くらま。京都市左京区にある山。鞍馬山中腹に鞍馬寺がある。https://www.mikumano.net/setsuwa/benkei5.html
…愛宕山(あたごやま。京都市右京区嵯峨愛宕町にある山)の大天狗、
比叡山の小天狗なりともひとつ喧嘩をしよう」と、立ったり坐ったり、また起きたり寝たりして、夜になるのを待った。
…義朝の御子、牛若丸。
幼少の時より鞍馬の寺に登り、学問し、その後、鞍馬の奥、僧正が谷で天狗に会い、兵法の奥義を極めた私である」とお名乗りになる。
鞍馬山…

古代イスラエルと鞍馬寺~天狗は八角形の杉に変化する~https://www.hibi-spiritual.com/archives/822
…日本の国造りは元をたどれば古代イスラエルの祖先が信仰していた
ユダヤ教の前身、ヤーウェ(ヤハウェ)神への信仰です。
日本の国造りのお話は、そもそも母体となっているのがこのヤーウェ
(ヤハウェ)信仰ですから、そこから考えると天狗はキリスト教へ
移行していった時、ミカエルへと表現の形態が変わって行ったのではないかと思われます。

ヤハウェって元々暴風の神だとか雷の神だとかシナイ山の神だとか
シナイ山に限らず火山の神だとか諸説ありますけど、
元々シュメールの多神教で崇められていた神の一人らしいっすね。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10156152195

牛岳と山の神 山の神が農耕神と結びついていることは周知のとおりである。
牛岳もまたそこを源流とする川も多く、農耕に強く関わっている。
牛嶽神社の御神体 https://ameblo.jp/odatakeo/entry-12501326235.html
…牛に関わる石仏について大護八郎氏は(「牛」・日本石仏協会編『日本石仏図典』)では
「仏教では牛の守護仏として大日如来があてられているが、西国では牛を山に放牧することから
山の神や全能の仏大日如来をこれにあてたのであろうか」とされている。
牛に乗る大日如来としては、牛の守護仏として全国的に信仰されているが、大分県国東半島一帯に分布している。
富山県内でも飛越国境付近の富山市旧大沢野町、岐阜県神岡町に「牛守」の大日如来が多く展開している。
…牛岳が江戸時代中期の地書『越の下草』によると「豊饒を祷る山也」といい、山容で農耕を占い、
牛岳の別称鍬崎山の「鍬」は農耕用具など、山の神の宿る山のイメージが強い。
牛嶽社の祭神が、大己貴命(大国主命)とされ、また素戔嗚尊、牛頭天王などにされているが、
元来牛嶽信仰は、素朴な山の神、水源の神としてあったのであろうと思われ、その後、
大日如来を信仰する真言系修験などによって付与されたのであろう。

牛…牛若丸?

ヤハウェもエンリルも姿が見えない存在。
エンリルは姿は見えなかったが、人のような形をしていたと言われている。
そして、牛のツノのようなものを生やしていたという記録がある。https://blog.goo.ne.jp/takeakiliuze/e/5bb557101a38b5791db2419574beab81
牛のツノ…

ミトラ・バール神. ミトラは牛の角を持つ太陽神・大気神で、
インド・アーリア人の. 光明神・ミトラス神が源流である。https://ameblo.jp/rekishi33/entry-10786402735.html
ミトラ…

…ミトラは牛の角を持つ太陽神・大気神で、インド・アーリア人の光明神・ミトラス神が源流である。
ミトラとは味方・友人の意味で派生語のマイトリーは友情。
ペルシャ王朝の守護神ミスラ。
ゾロアスター本人はミスラ神を否定したが、彼の死後に復活。
ゾロアスター教の最高神・アフラ・マズダーと同格の冥界の神。
この神がヘレニズム世界からローマ帝国でも圧倒的人気で信仰されていた。
ローマのミトラ神話で、ミトラ神誕生の際には、羊飼いに崇められた。
ミトラ神は信奉者のために多数の善行を施した後、信奉者たちと最後の晩餐を囲んだ後に昇天。
ミトラ神はこの世の終わりに復活し、人類を裁くと信じられていた。
パウロの神イエス・キリストは、明らかにミトラ神話と習合した神話である。
ヘブル語の救世主がギリシャ語ではキリスト。サンスクリット語
サンスクリット語ではマイトレーヤ。
中国ではミレフと呼ばれ、日本では弥勒菩薩となった。

弥勒菩薩と言えば、秦氏の本拠地である京都・太秦・広隆寺の半迦思惟像が有名だが、
太秦(うずまさ)のウズは、ヘブル語で光・東・開花・文化の意であり、マサは貢物賜物の意。
アラム語のイエス・キリスト(アラム語でイシュ・メシャ)は、東方へ行く過程で
イズ・マシ、ユズ・マシ、ユズ・マサと転訛し、ウズマサになったと言われている。
広隆寺で毎年10月12日の牛追い祭りの際、牛の面をつけた摩陀羅(マダラ)神に対して祭文を読みあげる。
秦氏が日本に持ち込んだ「蘇民将来」という護符の蘇民とは牛の民の意味で、蘇とはシュメールを指す。
なおミトラ教最高祭司の称号「パテル・パトルム」は、教皇を意味するパパの語源である。
もっとも黒のものを白と言い張るキリスト教の司教たちは
「これは悪魔の仕業だ。古代ミトラ教の伝説は唯一の真の信仰を、悪魔が先取りして真似たものだ」と
伝説は唯一の真の信仰を、悪魔が先取りして真似たものだ」として、絶対に認めようとはしなかったけどね。

またキリスト教の復活祭は、フェニキアの愛と豊饒の女神・アスタルテの祝祭を受け継いだもの。
洗礼者ヨハネ祭は、古代ケルトの夏至祭り。
ケルトの夏至祭り。
クリスマスはミトラ神の誕生日と冬至の祝祭が組み合わされたものである。

ミトラ神は牛の角を持つと書いたが、源流はシュメール文明の天空神アンと、水の神(蛇の姿)キの間に生まれた息子
エン・リルにまで遡る。
エン・リルは、牛の角を持つ美男子だったという。
16弁菊花紋と六芒星はバール神の神紋である。16弁菊花紋は言うまでもなく
日本の皇室紋であり、六芒星は平安京、中臣(藤原)氏の紋である。

このシュメール3神は、「牛の民」と呼ばれたユダヤ民族の間ではエル神、アシェラ神、ハル神の
3神と呼ばれ、特に人間の守護神・ハルの人気が高かった。
ハルはバ(神)ハル=バールとなり、古代オリエント全域で信仰された。
12月24日は
バール神の冬至の大祭であり、バールは死後3日で復活する。
バールは7つの頭を持つ竜神ヤム(海神)と戦い、ヨハネ黙示録12章3では7つの頭の火竜と戦う。
ちなみにアーメンとは、天上の神バールにダビデ王が捧げた祈りの言葉である。

シュメールのエン・リルは、インドにおいてエン・リラからインディラ・インドラと転訛した。
日本では帝釈天と呼ばれる神である。
中国では斉天大聖・孫悟空。如意棒はバール神の武器である。
中国道教の元始三皇は、盤古と女禍、炎帝神農だが、炎帝神農は牛の角を生やした天候神で、韓国ではスサ(牛頭天王)。
炎帝神農は牛の角を生やした天候神で、韓国ではスサ(牛頭天王)。
日本に渡る前に新羅に降臨した神である。
これが日本でスサノオになったと言われる。
スサノオは出雲王朝の開祖でもある。
・・・・
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年04月18日 19:48:39 No.1038
天狗とユダヤ教

テング(天狗)の言葉の由来は、トルコ語のtanri(タンギ=神)か。
このタンギ(神)の発音によく似た中国語由来の天狗(テング)を被せたものと思われる。

トルコ語のtanri(タンギ=神)の言葉がどうして日本に入ったのか。
そのトルコ語話者は、太秦の秦氏だったと考えることができる。
秦氏がタリム盆地のホータンからやってきた口伝律法のユダヤ教徒だったとする考えからすると、秦氏が長くトルコ語の語彙を用いている理由を理解しやすい。

そうすると、このテング(天狗=山岳の神)の成立の背景には、シナイ山上でモーゼに十戒の石板と律法を授けた神のイメージが転写されている可能性も出でくる。
ただ、その秦氏の思惑と修験者たちの思惑とは、また別であったかも知れない。

秦氏は、河勝の時代には外来の宗教や新興宗教などを管掌する職についていたフシがあるので、新興宗教であった修験についても注意を払っていて、その修験の山岳の神に一定の理解を示していたということかも知れない。


>笠間市笠間市下郷… 南西に20㎞  南西に20°…水神? 荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 09:10:45 No.1033 【返信】

【八龍神はどんな神?】下郷の小原神社https://ibamemo.com/2022/03/22/hachiryu_obara/
ご祭神は高龗たかおかみ神、闇龗くらおかみ神、そして建速素盞嗚すさのお命です。
創建に「鹿島の神」とあるのに武甕槌命がいないのは不思議。
高龗神は貴船神社(京都)のご祭神として知られ、片倉(小美玉)の貴布禰神社でもご紹介したことがあります。
端的に説明すると雨乞いと雨止みが祈願される水神です。
…素盞嗚命の配祀は同神を祀っていた神社が字香取の小原神社(旧香取神社)に境内地と祭祀を引き継いだことによるのでしょう。
以来二社の小原神社が交代で祇園祭を執り行っています。
…この辺りは遥か昔に茨城うばらき郡の郡衙(役所)があったといわれています。
茨城郡の位置を示しているのは養老5年に成立した『常陸国風土記』。
同書では茨城郡の郡衙は現在の石岡市内にあったと書かれていますが、那珂郡の項には
「昔の茨城郡は今より広大でその頃の郡衙は那珂郡にあった」。
それで当地の「おばら」が「うばら」の由来になり「茨城」発祥の地という説があります。
その説で思い出したのは柳田國男の『阿遅摩佐の島』。
それによると沖縄では蒲葵の呼称が「コバ」から「クバ」に変化したとあります。母音「お→う」の変化は他にも数多く見られるのだとか。
母音「お→う」の変化は他にも数多く見られるのだとか。
こうした発音の変化は言いやすさから起きるのですが、言いやすさは時代によって異なるそう。
うばらはクバと同じ変化なので、風土記の記述は事実であって茨城発祥の地はここかもしれませんね。
緯度: 36.374388 経度: 140.312279 茨城県笠間市小原4021(?)

小原神社(笠間市下郷)ー佐志能神社(石岡市染谷)
距離 18.997937    (約 20㎞)
方位角 200.610809°(南西に約20°)
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 09:49:24 No.1034
水神?バアル …自然界の水を征する利水・治水の神…
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 09:50:17 No.1035
水神(すいじん、みずがみ)は、水(主に淡水)に関する神の総称である。https://ja.wikipedia.org/wiki/水神#関連項目

禹の姿は龍であったと先に触れたが、その龍は黄龍であった。http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nagai.html

禹(う)は中国最古の王朝といわれる夏王朝の開祖です。http://chugokugo-script.net/rekishi/u.html
一方で禹は治水の神としても崇拝されてきました。
禹は13年もの間家に帰ることもなく治水のために献身し、最後は半身不随の身になってしまいました。禹は日本でも治水の神として祀られています。
禹は日本でも治水の神として祀られています。
禹氏(ウシ雨氏?)…角…

「竜のような姿をしていて角が ある」とされている。また ... 『呉越春秋』では、
禹が 四瀆(長江、黄河、済水、淮水のこと)を巡行した際に伯益と共にその手伝いをしたとされている ...
…夔(き)は、中国神話における神、動物、人物、または妖怪のこと。夔牛(きぎゅう)ともいう。古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。
夔牛(きぎゅう)ともいう。https://ja.wikipedia.org/wiki/夔
古い伝承によれば一本足であり、音楽と深い関係にあるとされた。

水制工法「牛(うし)」の一種…
中聖牛http://www.yamashiro.npo-jp.net/sub-html/2022tyuseigyu/takejakago-tyuuseigyu.html
…中聖牛には4mの竹蛇籠を9本使っています。
(竹+龍)。「竹」の象形と「龍」の象形(「龍」の意味だが、
ここでは、「つめこむ」の意味)から、「土を詰め込む竹かご(もっこ)」を意味する「籠」という漢字が成り立ちました。

蛇籠: ① 中に 栗石 、 砕石 などを詰めた、粗く編んだ 長円形 の竹または 鉄線 製の籠。
    河川 の 護岸 工事で、 土砂 の防止、 水流 制御などに用いる。 その形が、大蛇の伏している姿に似ているところからいう。

圧力 - パスカル(Pa)、バール(bar)https://kunisan.jp/gomi/pressure_unit_conversion.html
河川 の 護岸 工事で、 土砂 の防止、 水流 制御などに用いる。 その形が、大蛇の伏している姿に似ているところからいう。

バアル…
嵐と慈雨の 神…自然界の水を征する利水・治水の神…
バアル ( 聖書ヘブライ語: בַּעַל 、 フェニキア語: 𐤁𐤏𐤋 ba‘al 、 ウガリット語: 𐎁𐎓𐎍 b‘l )は、 カナン 地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の 神 。
その名は セム語 で「主」 、または「主人」「地主」を意味する 。https://ja.wikipedia.org/wiki/バアル#:~:text=バアル ( 聖書ヘブライ語: בַּעַל 、 フェニキア語: 𐤁𐤏𐤋 ba‘al,地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の 神 。 その名は セム語 で「主」 、または「主人」「地主」を意味する 。
…彫像などでは、棍棒と槍(稲妻の象徴)とを握る戦士の姿で表される[2]。古代オリエント世界では一般的に嵐の神とみなされていたが、乾燥している地域では農業に携わる人々から豊穣神として崇められた。海神ヤム(ヤム・ナハル)や死の神モートは兄弟でありながら敵対者である[5]。ヤムとの戦いは彼が荒々しい自然界の水を征する利水・治水の神である
古代オリエント世界では一般的に嵐の神とみなされていたが、乾燥している地域では農業に携わる人々から豊穣神として崇められた。
海神ヤム(ヤム・ナハル)や死の神モートは兄弟でありながら敵対者である[5]。
ヤムとの戦いは彼が荒々しい自然界の水を征する利水・治水の神である
荊の紀氏 投稿日: 2024年04月18日 10:04:31 No.1036
桙 ウ・ボウ・ム・ほこ  木部
牟 ボウ・ム <ムの発音>…牛部…ムは矛ム・ボウ(ほこ)…一本足?
牟 ボウ・ム  牛部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/b7ab24d77ca1b11afafb4cdab6afd941
解字 「木(き)+牟(ム)」の形声。

[説文解字]にこの字なく字書の[集韻][類篇]は「杅ウに同じ」とし、皿状のうつわの意。しかし、日本では、鉾(ほこ)に通じ、同じ意味で用いる。
しかし、日本では、鉾(ほこ)に通じ、同じ意味で用いる。
意味 (1)湯や水を飲むための器。杅ウに同じ。 (2)ほこ(桙)。鉾に同じ。
禹 ウ・ム…私…

>私≒有…吾・我。台…≒禹 羽人…https://rara.jp/kumara/page359


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