日本語の起源 くまら掲示板


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2022/09/06 この掲示板は 鳩摩羅童子(くまらどうじ)のサイト
インド語・カンガルー  【副題】日本語の起源・インド弁検証
の掲示板です。「日本語の起源」全般の意見交換の場としてご利用下さい。
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始者…私…禹… 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月16日 01:39:09 No.1137 【返信】

じが【爾雅】. 中国の字書。. 十三経の一つ。. 漢の学者たちが諸経書、特に詩経の伝注を集録したものといわれる
釋詁:https://ctext.org/er-ya/shi-gu/zh?searchu=卬,吾,台,予,朕,身,甫,余,言,我也
卬,吾,台,予,朕,身,甫,余,言,我也。

魚:われ。 第一人称。 部首は 魚 (さかな,うおへん,うお,さかなへん)この漢字は名前に使えます。https://mnamae.jp/c/9b5a.html
古代の中国、唐代では、「魚」は官吏が腰につける飾りを意味することもありました。
その形状が「さかな」に似ていたことから、この漢字が使われました。さらに、「魚」は「われ」という意味も持つ独特な漢字です。
これは「われ」が元々「私」や「我」などの一人称を指す言葉であることから、漢字で表されるとき「魚」が用いられることがあります。例えば、古文や和歌で、「われ」を「魚」と表記することもよく見られます。このように、見た目や語感だけでなく、その背後にある歴史や文化からも「魚」という漢字は多くの意味を秘めており、その大きな範囲と奥深さが感じられます。
例えば、古文や和歌で、「われ」を「魚」と表記することもよく見られます。
このように、見た目や語感だけでなく、その背後にある歴史や文化からも「魚」という漢字は多くの意味を秘めており、その大きな範囲と奥深さが感じられます。

ぎょ‐ふ【魚符】 読み方:ぎょふ 木製 または 銅製 の、 魚 の形をした 割符 (わりふ)。 中国 の 隋・唐の時代 に、 役人 が 宮中 に 出入りする ときの 証拠品 とした。https://www.weblio.jp/content/魚符#:~:text=ぎょ‐ふ【魚符】 読み方:ぎょふ 木製 または 銅製 の、 魚 の形をした,役人 が 宮中 に 出入りする ときの 証拠品 とした。
魚 の形をした 割符…
キリストを表す象徴として、また迫害下において信者同士が互いを識別する符号としても用いられ…。
魚に隠されたイエス・キリスト「イクテュス」/秘教シンボル事典
…〈イクテュス〉とはキリスト自身であるとともに、またキリストの神秘それ自体を意味する象徴でもあるというのだ。https://web-mu.jp/spiritual/24867/#:~:text=2匹の魚がキリストと信徒を意味し、錨が教会を象徴する。,ギリシアのエピグラフィカル博物館蔵。 〈イクテュス〉とはギリシア語で「魚」を意味する言葉であり、2本の交差する弧によって構成される魚を模した図形もまた〈イクテュス〉と呼ばれる。
現に初期キリスト教においては、〈イクテュス〉のシンボルは十字架や生命の樹とともにキリストを表す象徴として、また迫害下において信者同士が互いを識別する符号としても用いられた。

禹(う yu3 ユィ)中国の歴史はここから始まった.https://prometheusblog.net/2017/04/24/post-4024/
禹は姓を姒(じ)、名を文命、字を密と言います。
…禹の治水工事
禹は即座に益和と后稷とともに百姓の前で協力を求めるとともに、河を視察して鯀が失敗した原因について検討しました。
禹は父親の失敗を教訓とし、河の水の流れをよくして水の通りを良くする方法を採用して九つのバイパスとなる河を作り水の流れを分散させました。
治水の期間中、禹は手に測量器を持ち山々を越えて河の測量を行いました。
また、禹は治水工事に携わる人々をと共に各地へ赴き山を開いて堤を作り、水をうまく海まで流せるように各所に適切な工事を施していきました。
この治水工事に禹は休まずに全身全霊で打ち込みました。
禹は自分に協力してくれている民百姓たちと共に食事を食べ共に野営をしました。
自宅に行っても様子を見るだけで家には入らず、毎日泥まみれになりながら水の通りを良くするための工事を行いました。
工事が完了したのは開始から13年後でした。
この治水工事により黄河の氾濫による中原一帯への水害は取り除かれました。
この治水工事により人々は禹に感謝の意を込めて大禹と尊称するようになりました。

「厶」という字は「私」「我」…禹…禸ジュウ(けものの足跡)https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/306202167ea215dbe8a0e210b72e9a7f
解字 金文の禺は禹ウと似ている。禹の金文第一字は、二匹の虫をタテとヨコに組み合わせた形。オスとメスなので頭のかたちが異なっている。
金文第二字でタテの虫が頭の大きい蛇のような形になり、ヨコの虫が手(又)のような形に変化し、篆文で少し変形してから禹になった。
虫は蛇とされるが竜とする説もある。もと水神としてまつられ、転じて、中国古代の聖王の名となった。
 一方、禺グは、金文では頭が田になっているが、あとは禹の金文第二字と似ている。
この両字の相似を指摘したのは白川静氏で「禺は禹と字形が近く、蛇形のものが相交わる形であったと考えられ、おそらく竜頭の神であろう」(字通)としている。
私も伝説または神話上の二匹の蛇形の動物が相交わる形だと思う。
なぜなら、こう考えることにより、禺の音符を解くイメージが出てくるからである。
まず、禺は相交わる形なので「対になる」、蛇形の動物なので、丘や山の「くぼんだところ」に棲むイメージがでてくる。
なお、後漢の[説文解字]が解釈した「頭の大きなサル」は、その後作られた新しい漢字のイメージに用いられる。
意味 (1)おながざる。頭の大きなさる。(2)すみ。(=隅)
イメージ 禺は「蛇型のものが相交わる」形で、相交わるので「対になる」、蛇形のものが棲むのは丘や山の「くぼんだところ」、後の解釈である「頭の大きなサル」
  「蛇型のものが相交わる」 (禺)
  相交わるので 「対になる」 (偶・遇・耦・藕・寓)
  蛇形のものが棲むのは丘や山の 「くぼんだところ」 (隅・嵎)
  後の解釈である 「頭の大きなサル」 (愚)
音の変化  グ:禺・愚  グウ:偶・遇・耦・藕・寓・隅・嵎

戎禹…我…
「戎ジュウ」 <武装した兵士> と 「絨ジュウ」「賊ゾク」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa
えびす(戎)。①エミシ(蝦夷)の転じた言葉。夷とも書く。蝦夷えぞ(古代の奥羽から北海道に住み大和朝廷に服属しなかった人々)に同じ。
②都から離れた開けぬ土地の人民。
③荒々しい武士。京都人が東国武士をさした言葉。「戎姿えびすすがた」(よろいをつけた姿)
④日本の民間信仰。七福神のひとつ。「戎えびす神社」(夷神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社などとも表記。外からきた寄神信仰が中心。
海上・漁業神。商売繁盛の神)「戎橋えびすばし」(大阪市の道頓堀に架かる橋。今宮戎神社への参道にあったから)
「十日戎とおかえびす」(正月十日に行われる戎を祭る神社のお祭り。=十日恵比寿)

じゅう(十・たくさん)の武器(戈)を持つえびす(戎)…

『ジュー(ユダヤ人)』https://note.com/zion_bridge/n/n26039cc375d4

えびす神、海から来訪する福の神https://rekishi-memo.net/japan_column/ebisu.html

名前からわかる安曇氏のイスラエル出自!https://www.historyjp.com/article/454/

2700年前に姿を消した「ユダヤ人」たち ディアスポラ@南アジア(ブネイ・メナシェ編)https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20210422/pol/00m/010/012000c
イスラエルの失われた10支族――。約2700年前、イスラエルから忽然(こつぜん)と姿を消したとされるユダヤ人の部族のことだ。
自分たちをその末裔(まつえい)だと信じる人々が、遠く離れたインド北東部に住んでいる。
日本人のような顔つきの彼らは、ユダヤ教の教えを守って暮らし、悲願であるイスラエルへの「帰還」も進む。
…「失われた10支族」を調査するユダヤ人の間では、科学的な根拠はないが、日本人も「失われた10支族」の末裔だとする「日ユ同祖論」が信じられている。
ブネイ・メナシェの人々もこの影響を受けて「日本人もユダヤ人の末裔」だと考えており、私が取材していた時も「日本人はなぜイスラエルに帰還しないのか」と聞かれることが度々あった。

えびす・戎神・恵比寿神|海からやってくる福の神. 全国各地に商売繁盛の神として祀られ、七福神の一人として有名な「えびす」。.
日本人で知らない人はいないであろう超メジャーな神なのだが、この神、実は記紀には登場しない。
えびす・戎神・恵比寿神|海からやってくる福の神https://spiritualjapan.net/10191/
…古事記では、伊邪那岐命と伊邪那美命の最初の子。不具の子であったがために、葦で作った船に乗せられ海に流された。かわいそうな神。
不具の子であったがために、葦で作った船に乗せられ海に流された。かわいそうな神。
この蛭子命が漂着したという伝承が各地にある。

対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明https://www.historyjp.com/article/225/
…ユダヤ系の秦氏であるが故、「ワタツミ」がヘブライ語であったとしても、決して不思議ではありません。
…「磯良恵比須」は、上記の説明を否定することなく、その言葉の意味をヘブライ語で理解できます。
磯良(イソラ)または磯良江(イソラエ)その言葉どおり、イスラエルを意味し、「イソラ」という読みはその略称です。
恵比須(エビス)はヘブライ語で「砦の島」、「要塞の島」を意味します。
「エ」はヘブライ語でi,イー(i、イー)と書き、「島」の意です。
「ビス」はbitsur、ビツー(bitsur、ビツー)となり、要塞、砦を指します。
その「エ」と「ビツー」を合わせると、「砦の島」の意味になり、そこにイスラエルを足して「イスラエル・エビツー」となり、それが多少訛って「イスラエビス」になったと考えられます。
その言葉の意味は「イスラエル島砦」です。大和の国は、イスラエルが目指した新しいエルサレムが興される約束の島、砦の島として「イスラエビス」と呼ばれたのです。
大和の国は、イスラエルが目指した新しいエルサレムが興される約束の島、砦の島として「イスラエビス」と呼ばれたのです。

鼎+戎 (じゅう)。 金文 にはその 字形 に作る。
賊(漢字)とは?https://kotobank.jp/word/賊(漢字)-2788664
鼎…
鼎 (かなえ)は鍋釜に相当する古代中国の三本足の金属器具で祭器としても利用された。. https://ja.wikipedia.org/wiki/九鼎
伝説 によれば 夏 の始祖 禹 が 九州 (中国全土)に命じて集めさせた 青銅 をもって鋳造したものという(『 史記 』封禅書)。
夏 の始祖 禹…

禹は中国の古い時代に多大なる貢献をした偉大な人物として語り継がれています。
最も大きな功績は治水工事の異業ですが、この他にも当時はそれぞれの部落ごとに分かれていた社会を束ねて国家という形態を作り出したことにもあります。
禹の夏王朝成立後は中国の歴史は帝王とその国家を中心に語られていくことになります。

禹(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。
姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。
夏王朝創始後、氏を夏后とした。
黄河の治水を成功させたという伝説上の人物である。https://ameblo.jp/mtada99/entry-12597116814.html

夏王朝は470年ほど続き、帝も17代続いたとされている。
最後の王である桀(けつ)は武力政治を実施した暴君であった。
このため、人心が離れ、遂には臣下だった天乙(てんいつ。B.C.1600頃の人)に滅ぼされてしまう。
天乙は夏王朝から与えられた地である商(しょう)の諸侯の出身である。
商の始祖・契(せつ)は、舜の時代に、禹の治水を助けた功績があるといわれ、商に封ぜられたとされている。
商は夏王朝の配下となり、侯位にあがった子孫は代々夏王朝に仕えてきた。
天乙のときに武力で帝位を奪取し、天乙は湯王(とうおう)となった。
のち商は大邑商(だいゆうしょう)として王都となり、ここに実在できる最古の王朝・殷(いん。B.C.1600?-B.C.1046?。
中国では"商"と呼ばれる)が誕生した。
以前の禅譲とはちがい、王朝交替において武力で簒奪することを放伐(ほうばつ)という。
禅譲や放伐は、有徳者が天命を受けて天子になる、つまり、"王朝の姓名が易わり(替わり)、天の命が革る(改まる)"とされ、これを
「易姓革命(えきせいかくめい)」といい、のちの儒家・孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289?)によって政治学説とされた。

大邑商は現在の河南省安陽(あんよう)県小屯(しょうとん)村にあたる。
大邑商はB.C.1300年頃、盤庚(ばんこう。19代王)が定めた都で、それ以降滅亡までの300年間、遷都を行わなかったため、後世の調査によって、多くの遺物が発見された。
1899年に発見された亀甲や獣骨には、占いの内容が記された文字が刻まれている。
これが甲骨文字(こうこつもじ。卜辞。ぼくじ)で、漢字の原型とされるものである。
また、1928年より発掘調査が大規模に行われ、人畜を殉葬した王墓、住居跡、青銅器、白陶などが次々と発見された。
小屯村で発見された大邑商の遺跡を殷墟(いんきょ)と呼ばれるが、殷墟には城壁が発見されなかったため、大邑商は都と言うよりも王の墓陵ではないかという見方もある。
甲骨文字(こうこつもじ。卜辞。ぼくじ)で、漢字の原型…

厶部は「厶」を筆画として持つ漢字を分類している。
単独の「厶」という字は「私」の略体または「牟」の略体である。
片仮名の「ム」は「厶」に似ているが、片仮名の「ム」は「厶」を筆画に持つ「牟」という漢字から造られたためである(ただし「牟」は牛部に属しているので注意が必要)。
「牟」という漢字…

[参考]「牟」の二画目までが片仮名の「ム」になった。…
うし…禹氏?
牟 とは? 部首・画数・読み方・意味. ブックマークへ登録. 解説. 牟の解説 - 日本漢字能力検定協会 漢字ペディア. 部首. 牛 (うし・うしへん)https://dictionary.goo.ne.jp/word/kanji/牟/
牛 (うし・うしへん)…
牟 ボウ・ム  牛部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/b7ab24d77ca1b11afafb4cdab6afd941

ム…△…

禹(ウ)の三角形https://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/75/column1.html
夏の大三角(禹?)https://ja.wikipedia.org/wiki/夏の大三角#来歴
…ドイツ語で「大きな三角形」の意)と記述されており、トーマスはまた1934年には "Sommerliches Dreieck" (ドイツ語で「夏の三角形」の意)と記述していた。
夏…
禹 (う)とは中国古代伝説の中の帝王であり、 夏王朝 の創始者とされています。http://chugokugo-script.net/rekishi/u.html

· 古代中国で、紫微星 (しびせい) を囲んで守る上台・中台・下台の三つの星。三台。https://dictionary.goo.ne.jp/word/三台星/

太陽と並ぶ統括の星ですが、紫微星は「エンペラー」というより「プリンス」。.
つまり、王様ではなく、どちらかと言うと「皇太子様」というイメージが似合います。https://hoshiyomi.systems/description/shibi/main

太一 禹余糧…太一…北極星の神格化されたものhttps://kotobank.jp/word/太一-90789
余分の食糧?…王様ではなく、どちらかと言うと「皇太子様」?

三台星…夏の大三角…細長い大きな三角形をしたアステリズムである 。https://ja.wikipedia.org/wiki/夏の大三角
はくちょう座α星 デネブ
わし座α星 アルタイル
こと座α星 ベガ
の3つの星を結んで描かれる、細長い大きな三角形をしたアステリズムである[1]。3星のうちベガとアルタイルは、七夕の伝説における「おりひめ(織姫)」と「ひこぼし(彦星)」である。
…南半球では冬期間の低空にひっくり返って見え、「北の三角形」と呼ぶにふさわしいものとなる。
…ベガとデネブを軸にしてこの三角形を反転させると、アルタイルと線対称の位置からほど近いところにポラリス(現在の北極星)を見つけることができる。
ベガとアルタイルを軸にすると、デネブと線対称の位置付近にへびつかい座のα星(2等星)がある。
デネブとアルタイルを軸にすると、ベガと線対称の位置付近にペガスス座のε星(2等星)がある。
ポラリス(現在の北極星)を見つけることができる…
北極星…
北斗七星(ほくとしちせい、英語: Big Dipper, Plough)は、おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星で象られる星列のこと。
北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/北斗七星

私たちがよく知っている北斗七星は、このおおぐま座の一部なんですね。
柄杓の水を汲むところの一辺を5倍に伸ばしたところにあるのが北極星「ポラリス」。
北極星「ポラリス」は、沈むことなく、私たちに北の方角を教えてくれる星。. そのポラリスは、 こぐま座 のしっぽに当たる星です。https://sucky33.com/galileo-callisto/
熊に変えられてしまったカリスト・・・・
熊…ム…

うしかい座を見つけるための目印は、おおぐま座の北斗七星です。
北斗七星は、ひしゃくのような形をしていますね。
このひしゃくの、柄のカーブの曲線角度をそのままに視点を移していくと、東の空に明るい星が見つかります。
黄色っぽい色のアルクトゥールス。 うしかい座の一等星です。
アルクトゥールスから北の方向に、ネクタイの様な形で並んでいるのがうしかい座です。
うしかい座…

牛の上に一を加えた形…
△⇨ムに変化し牟になった…
解字 戦国期(秦)は牛の上に一を加えた形。意味は不明。篆文は牛の上がムの原字に変った。[説文解字]は「牛鳴也」とし牛の鳴き声とする。
隷書は上部が△になり、現代字で△⇨ムに変化し牟になった。発音は漢音がボウ、呉音がム。意味はボウ・ムの発音を利用した音訳や同音代替である。
日本でも牟ムの上部を取り出し、発音だけを表すカタカナの「ム」を作った。
意味 (1)梵語の音訳字に用いる。「牟尼ムニ」(梵語muni・寂黙・聖者の意で、修行する者)「釈迦牟尼シャカムニ」(釈尊。仏教の開祖)
(2)牛が鳴く声。「牟然ボウゼン」( 牛の鳴く声)(3)暴の代替。「牟利ボウリ」(不当な利益。=暴利)「牟食ボウショク」(=暴食)
(4)ひとみ。「牟子ボウシ」(=眸子) (5)多い。大きい。
イメージ 
 「ボウ・ムの音」(牟・眸・鉾)
音の変化  ボウ・ム:牟・眸・鉾
ム⇨台…台イ・われの意味が出た…
「台ダイ・タイ」と「胎タイ」「怠タイ」「始シ」「治チ」「冶ヤ」https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/40334e1d50763cb0661e877626a8b32b
台イ・タイ・ダイは金文から出現した。甲骨文の、人が物を携えた形の略体である「もたらされた物」に口がついた形である。この字はどんな意味をもつのか? 
まず台の字は、イ・タイ・ダイの3つの発音をもつ。イの発音は上部の以イの発音なので形声字として続いている。さらにタイ・ダイの発音が生まれたことになる。
イの発音である台イには、どんな意味があるのか
 [字統]によると、台イの金文は後期の列国期から、もって(台って)の意味があるとする。
すると、もって(以って)と同じであり、当初は台イと以イは同じ意味で用いられていた。
また[説文解字]は「說(よろこぶ)也。口に従い㠯イ声。発音はイ。
(與之切)」とする(㠯イの正確な字は上の口⇒コで左が空くがパソコンで出ないので㠯イを用いる)。
[字統]は、戦国期以後に怡イ(よろこぶ)と一人称の台イ・われの意味が出たとする。
タイの発音
 タイの発音では星の名に当てる。おおぐま座は、北斗・文昌・三台に分かれ、三台サンタイは、熊のそれぞれのつまさきの星2つを結んで「三台」という星座になっている。
熊のそれぞれのつまさきの星2つを結んで「三台」という星座に…

われ(台)…
台 タイ・イ    口部   
意味 (1)よろこぶ。「虞舜グシュン不台フイ(よろこばず)」(虞と舜はよろこばなかった。史記・太史公自序)(=怡イ) (
2)われ(台)。「以輔台徳」(以(もっ)て台(わが)徳(とく)を輔(たす)く」(書経・説命) (3)星の名。「三台星サンタイセイ」(=三公。中国で最高の位にある三つの官職)
台[臺] ダイ・タイ  口部    
解字 篆文は臺ダイ・タイで「高の変形の上部(高い)+至(いたる)」の会意。高い建物に至る、即ち、丘の上のうてな・高殿の意。新字体は、この字を発音が同じ「台」に置き換えた。
意味 (1)うてな。高い建物。「灯台トウダイ」「楼台ロウダイ」(たかどの) (2)高く平らな土地「台地ダイチ」「高台たかだい」 
(3)物を乗せる道具。「鏡台キョウダイ」「寝台シンダイ」「舞台ブタイ」 (4)仕事などのもとになるもの。「台帳ダイチョウ」「台本ダイホン」 (5)すげ。草の名。 
(6)地名。「台湾タイワン」(旧字は臺灣)
イメージ  臺の意味である「うてな・高殿」、以イの甲骨文から続く意味である「もたらす」、その他に「会意形声字」がある。
 「うてな・高殿」(台[臺]・擡[抬]・薹)
 「もたらす」(胎・苔・颱・殆・怡・貽)
 「会意形声字」(怠・駘・冶・飴・始・治)
音の変化  ダイ・タイ:台  タイ:擡・薹・胎・殆・怠・駘・苔・颱  イ:怡・貽・飴  シ:始  チ・ジ:治  ヤ:冶 

厶部(しぶ)は、主に字形から文字を整理するために設けられた部首であり、「厶」の形を構成にした字が属します。https://kanji.jitenon.jp/cat/bushu02017.html

部首「む」【厶】の漢字 https://kanjijoho.com/cat/busyu222.html

「厶」という漢字https://okjiten.jp/kanji2833.html
「厶」という漢字
漢字の意味・成り立ち・読み方・画数等を調べてみました。
(「厶」は常用漢字外です。「厶」は部首です。)
成り立ち、読み方、画数・部首解説
意味
①「わたくし」(「私」の古字)
 ア:「自分」、「自己」
 イ:「個人」(反意語:公)
 ウ:「不公平」
 エ:「正しくない事」、「不正で悪い事」
 オ:「自分の利益だけを追求しようとする欲望」
 キ:「一人でいる事」
 ク:「人に知られたくない行い」、「隠し事」、「秘密」
※古字とは、特に古い起源を持つ漢字で、現在では廃れ使われ なくなった漢字の事を言います。
②「某(なにがし)」
③「腕」(「肱(コウ)」の古字)
日本のみで用いられる意味
④「ござる(「ある」の丁寧語)」
部首解説:
部首としての「厶」には一定の意味がない。「廣⇒広」や「佛⇒仏」
のように、複雑の漢字の略字として「厶」を用いる場合がある。

仏 私  厶部(しぶ)
簡略字体の構成要素としての「厶」https://www.weblio.jp/wkpja/content/厶部_概要
日本の新字体において「厶」の字形を使うことがあり「佛」・「拂」は「弗」を「厶」に簡略化して「仏」・「払」に、「廣」は「黃」を「厶」に簡略化して「広」に簡略化された。
廣」は「黃」を「厶」に簡略化して「広」…
「黃」…
中国において徳の高い色と言えば黄色、これは皇帝しか使うことが許されていない色でした。https://note.com/lilian_chinese/n/ne6efd65f7305
上記の「土=黄=中」、大地のシンボルカラーは黄色、中央を示すというところから、国土の中心で統治する人が身につけるべき色が黄色となり、皇帝が使う色となりました。
中国人の祖は黄帝、中国文化の根源は黄土高原と黄河と言われるように、中国文化において黄色は中国人自身のことを示すような、根源的な意味があります。
また「黄」は中国で非常にメジャー苗字の一つでもあります。
というわけで、皇帝を象徴し、中国の根源を示す尊い色なのです。

   ムロ…われ 五口…吾…「わたしは,有って有る者」https://www.churchofjesuschrist.org/study/liahona/2018/12/i-am-that-i-am-symbols-of-jesus-christ-in-the-old-testament?lang=jpn


>スサ:海カモメ、素早い、2輪戦車 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月14日 00:01:22 No.1131 【返信】

>スサ:海カモメ、素早い、2輪戦車 https://www.historyjp.com/dictionary/
2輪戦車…
前14世紀中頃、ヒッタイト王国のシュッピルリウマ1世は戦車の利用などの軍備強化を図り、小アジア各地に遠征して領土を拡げ、さらにふたたびシリア方面に進出した。
ヒッタイト/ヒッタイト王国 https://www.y-history.net/appendix/wh0101-023.html

出雲に製鉄を伝えたのはヒッタイト人だった? https://keiryusai.com/archives/11735
…ヒッタイト人の生き残りは、森林を求めて東進し、やがて東アジアではタタール(韃靼=だったん)人と呼ばれるようになり、彼らの製鉄技術が4~5世紀に日本にもたらされたというのです。
…タタールの名前を取って「たたら製鉄」という言葉ができたという説もあります。

カモメ…
…やかましく鳴くところから、「やかましい」「かまびすしい」の「かま(囂)」が変化して「カモ」になったとする説など、諸説あり定かではない。
地方 によっては「カモ」を「カモメ」と呼び、「カモメ」を「カモ」と呼ぶ地方もある。https://gogen-yurai.jp/kamo/#:~:text=やかましく鳴くところから、「やかましい」「かまびすしい」の「かま(囂)」が変化して「カモ」になったとする説など、諸説あり定かではない。 地方 によっては「カモ」を「カモメ」と呼び、「カモメ」を「カモ」と呼ぶ地方もある。,このことから、古くは「カモ」と「カモメ」の区別が 曖昧 であったとの見方もあり、「カモメ」と同源で「かま(囂)」とも考えられる。

スサノオは朝鮮半島から来た!?三韓と出雲の連合構想とはhttps://hajimete-sangokushi.com/2018/09/10/スサノオ朝鮮渡来/

スサノオは京都の祇園祭などで「牛頭天王」とされます。https://nihonsinwa.com/page/807.html
これを朝鮮半島の牛頭山にちなんでいるととする説がありますが、牛頭天王は仏教の神で、朝鮮の山もこれにちなんだものと思われます。

紀元前2世紀の朝鮮半島と満州にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道溟州にいた「東濊」は前漢代の中国東北部にいた濊と同じ民族とされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/濊貊
「貊」(はく)…
倭人以前の先住民【濊貊】https://note.com/ai_auwa/n/nb4cfc89a75f0
秦以前にシルクロードや中国大陸を支配していたのはテュルク系民族、ツングース系民族などの先住民だというお話をしましたが、テュルク系民族の中には濊貊(わいはく)という民族が含まれています。
濊貊は濊族と貊族から成る古代民族のことを言いますが、この民族はウラルトゥ王国を構成していた民族の一つです。
そして[古事記][日本書紀]のいう神武天皇のルーツはこの濊伯という民族である可能性が高いので、今回は濊伯について詳しく見ていこうと思います。
神武天皇のルーツはこの濊伯という民族である可能性が高い…

『イエス・キリストと神武天皇』 ヒンドゥー教の経典「ギータ」に、世俗内禁欲の道がある(世界の歴史)https://note.com/inootanaka/n/n23ea2cb66a9f
ミトラ神がゾロアスター教、仏教の新種である弥勒信仰に影響したことはもちろん、ローマがササン朝ペルシアとの戦争で
キリスト教にミトラ信仰が取り込まれ、キリストを太陽神として捉えることでローマに浸透していったなど、切り口が宗教だけでなく、当時の情勢から複合的に考察した切り口が面白い。

弥勒教の定義 東方ミトラ教が中国化して生まれた宗教のこと。 2.名称 弥勒教または弥勒教会。 3.別名 別名を明教、白蓮教という。http://mithra.world.coocan.jp/HP_Mithraism_Myth_Milejiao.html

日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神)https://note.com/morfo/n/nd71a636a2a55
秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。
秦氏は、一般に、新羅からの渡来人とされますが、もともとは中央アジアの弓月国が故郷のようです。
弥勒信仰…
「白蓮教」という語彙は 邪教 としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した 民間宗教 結社をまとめて白蓮教と呼んだ [3] 。https://ja.wikipedia.org/wiki/白蓮教
…教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。

古代の朝鮮半島や中国北東地方には、 貊(はく)族 と言われる人々が居住していた。https://manapedia.jp/text/2539
彼らは、狩猟や牧畜を糧に生活し、のちに夫余や高句麗といった国を建国した。
…夫余が建国された同時期、貊族の別部族が中国東北地方南部の鴨緑江流域に高句麗(紀元前1世紀~668)を建国した。
※ 鴨緑江 は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。https://www.wikiwand.com/ja/鴨緑江

曹操も朝鮮半島までは統治しませんでした何か理由でもあったのか、それとも脅威に感じてなかったから ...https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1341153933
…曹操:楽浪郡(北部)と韓・濊の地(南部)は、帶方郡を通じて公孫氏が支配しており、それをそのまま追認。
司馬懿に滅ぼされて直轄地。
曹操は間接支配していました。

前漢の元朔元年(前128年)当時、濊や沃沮は皆衛氏朝鮮に属していたが、薉(濊)君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて遼東郡に服属した。
武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した[注釈 1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/濊貊
武帝は元封3年(前108年)に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分け漢四郡(真番郡、臨屯郡、楽浪郡、玄菟郡)を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の始元5年(前82)臨屯と真番を廃止し楽浪郡、玄菟郡に併せた。
昭帝の始元5年(前82)臨屯と真番を廃止し楽浪郡、玄菟郡に併せた。
紀元前75年、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。
また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として
嶺東七県(東暆県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭昧県,前莫県,沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は濊(東濊)の民が務めた。

鴨蝦夷 https://ja.wikipedia.org/wiki/鴨蝦夷#:~:text=鴨 蝦夷 (かも の えみし)は、 飛鳥時代 の人物。 氏は,賀茂 とも書く。 姓 は 君 のち 朝臣 。

鴨・葛城の神社(高鴨・葛木御歳・鴨都波)と出雲のオオクニヌシ
…鴨都波神社は、弥生時代から古墳時代までつづいた「鴨都波遺跡」の上に鎮座していて、西暦2000年の発掘調査では、4世紀前半の鴨氏の首長墓とみられる
「鴨都波一号墳」が見つかっているが、これが実に興味深いお墓だったりする。
というのも、鴨都波一号墳は南北20m、東西16mのごく小規模な「方墳」に過ぎないんだが、なぜか副葬品だけはメッチャ豪華で、
4面の三角縁神獣鏡を含むそれは「全長50〜100メートルの前方後円墳に匹敵する内容」なんだそうだ(河上邦彦)。

古代出雲王国の繁栄は黄巾の乱と関係があった!https://hajimete-sangokushi.com/2018/09/09/出雲王国黄巾の乱/
…3世紀に入った中国では、
曹操そうそう、劉備りゅうびや諸葛孔明しょかつこうめい、孫権そんけんなどが名を轟かせた『三国志』の前段階の時代に入ります。
その時代と古代出雲王国の繁栄が重なると考えられるのです。
魏の武帝(曹操)そうそう…「魚+喿(ソウ)」…?…、

鴨氏と賀茂氏は同じカモ!?-役行者・鴨長明ets-https://www.jalan.net/travel-journal/000052050/
日本書紀などでは『賀茂建角身命は、神武天皇が東征されたとき三本足の八咫烏となり導いた功により山城国の北部一帯を賜わった。』とあり、
山城風土記では『賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日向(奈良・葛城?)に天孫降臨し、大和国葛城から山城岡田(京都木津川)さらに北上し
現在の賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)あたりにたどり着き定住した』としている。
ちなみに、平安遷都時には皇室は賀茂・秦に話を通したらしい。
皇族より古い「海部家系図@国宝」を持ち、皇族にも繋がりがある「籠神社」の海部氏では『籠神社の主祭神は天孫降臨をしたニニギの兄「彦火明命」で、
極秘伝に上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」と同神であり、御祖「下鴨大神」を併せ祭祀する。』との記述がある。
つまり、海部氏=賀茂氏には繋がりがあるということか?そして鴨氏は葛城氏と一時代を過ごしたのか?そして、鴨(賀茂)の祭神は出雲とも係わりがある。
葛城&出雲@オオクニヌシ&コトシロヌシ=賀茂&鴨&海部と繋がりがあり、裏切りなどがあったということかもしれません。
裏切りなどがあった…

頭から湯気を立てて怒号…
囂 ゴウ・キョウ・かまびすしい  口部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ebd28d4506e66120026e35a7e0388f12
解字 「頁(あたま)+㗊(かまびすしい)」 の会意。頁ケツは人のあたまを強調した字。
それに㗊(かまびすしい)をつけた囂ゴウは、頭(顔)をアップさせて周囲に口を四つ描いた劇画的手法の字。
後漢の[説文解字]は、「語気が頭上から出る」と説明しており、さしずめ頭から湯気を立てて怒号を発しているさまであろう。
怒ってかまびすしいさま。
意味 かまびすしい(囂しい)。やかましい。大声でさわぐ。
「囂々ゴウゴウ」(①声のやかましいさま。②怒りの声)「喧々囂々ケンケンゴウゴウ」(やかましいさま)
「非難囂々ヒナンゴウゴウ」(非難する怒号)「囂塵ゴウジン」(かまびすしくよごれたさま。猥雑な繁華街や俗世間をいう)

ハジロ属 (ハジロぞく、 Aythya )は、 鳥綱 カモ目 カモ科 に属する属。https://ja.wikipedia.org/wiki/ハジロ属#:~:text=ハジロ属 (ハジロぞく、 Aythya )は、 鳥綱,カモ目 カモ科 に属する属。 別名 スズガモ属 。

喿ソウを參と改め鰺の字形になった…「魚+喿(ソウ)」…水中に突入して魚を捕食する…
鰺[鯵] ソウ・あじ  魚部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 正字(篆文)は鱢ソウで、「魚+喿(ソウ)」の形声。ソウという名の魚。[字通]によると、魏の武帝(曹操)の名を避けて、喿ソウを參と改め鰺の字形になったという。
本来は魚の臭いをいう字であった。日本でアジの意となる。現在の中国ではshēnの発音で日本のあじ(鰺)と同じ意味で用いている。鯵は俗字だが、よく使われる。
意味 (1)あじ(鰺)。スズキ目アジ亜科の海魚。マアジ・ムロアジ・シマアジなど。温帯から熱帯の沿岸域に広く分布する。
「鰺刺あじさし」(カモメ科の鳥。水中に突入して魚を捕食する)
(2)アジの語源。[大言海]には「和訓栞、あぢ。新撰字鏡に鰺を訓ぜり。萬葉集に「味」と書けり、味の佳なるを称するなるべし」とする。 
(3)覚え方。味(アジ)くらべ魚の参加は鯵ばかり
味の佳…
佳…
佳 カ・よい  イ部
解字 「人(ひと)+圭(すっきりと形がよい)」 の会意形声。人が美しく善良なさま。人以外にも用いる。 
意味 (1)よい(佳い)。美しい。「佳人カジン」「佳麗カレイ」(佳も麗も、美しい意) 
  (2)すぐれている。「佳作カサク」 (3)めでたい。「佳日カジツ」「佳節カセツ」

上空から水中に飛び込んでとらえるもの(鰺刺の名はこの餌のとらえ方に由来している)と,水面すれすれまで下がって,餌をつまみとるものがいる。
鰺刺 https://ja.wikipedia.org/wiki/アジサシ

古い訳の聖書(七十訳,ウル訳)もこの鳥を,遠洋のカモメを指すと理解していました。https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001781
獲物をあさる,あるいは腐肉を食べる鳥の一種。イスラエル人に与えられた神の律法では,この種の鳥を食用にすることは禁じられていました。―レビ 11:13,16; 申 14:12,15。
ジェームズ王欽定訳聖書は,この鳥のヘブライ語名を「かっこう」と訳していますが,この訳し方は一般に退けられ,ウミカモメと訳すほうがよいとされています。

かもめ…
聖書に対する洞察,第1巻https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001781
…シャハフというヘブライ語名は,この概して騒々しい鳥の出す甲高い鳴き声を模倣したものである,と考えている人もいます。
古い訳の聖書(七十訳,ウル訳)もこの鳥を,遠洋のカモメを指すと理解していました。
ヘブライ語シャハフは,カモメに似た,水かき足のある海鳥の総称と理解してよいでしょう。
このたぐいの鳥の中には,典型的なカモメ,アジサシ,ハサミアジサシ,トウゾクカモメなどが含まれています。

カモメは貪欲なまでに腐肉をあさりますが,その習性は他に例を見ないほど清潔です。
腐肉…

『記紀』の時代、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられた。肉食が農事を穢すというのである。
天武天皇四年(六七五)の有名な肉食禁止令は、牛と馬と犬と猿と鶏を食べることを禁止したが、毎年四月から九月までの農耕期間に限った。
 しかも、これら動物以上によく食べられた鹿や猪は含まれていない。
鹿や猪は、肉食という以上に普通の食べものだったからか。「しし」とは食用の肉を意味する。
 飛鳥時代に仏教が伝来すると、仏教を国家鎮護の法として国づくりを図る天皇たちは、仏教の教えである殺生を固く禁じた。
仏教の説く輪廻転生は、自分がいま、食べようとしている、たとえば牛が自分の親族の生まれ変わりである可能性をいうし、そう思うと、口に入れられなくなる。
しかし、それから何度も禁止令が出ているところを見ると、やっぱり食べられていたのである。

…「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想
 それだけではない。縄文人は「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想を持っていた。
イヤナギの子のカグツチ神の血と死体からの神々の誕生神話、イヤナギの体についた黄泉の汚れた垢や持物・衣服からのアマテラスなどの神々の誕生神話、
スサノオが殺したオオゲツ比売の死体からの米などの五穀の誕生、アマテラスの玉やスサノオの剣からの子の誕生など、記紀神話は人間の死体や物から人や穀類などが生まれる、
人が物、物が人に変身する、という考えが古くからあったことを示している。

6.神使(しんし:みさき)について
 動物を神の使いとして祀り、大事にする次のような例が見られる。その全てはスサノオ・大国主の一族を神としている神社である。
春日大社だけは藤原氏の氏神を祭っているが、この地にはそれ以前に「春日氏」の祭祀が行われており、
「あ須賀」と同じ「か須賀」のスサノオ一族の祭祀が藤原一族によって受け継がれ、鹿を神使としたと考えられる。

 …わが国の歴史・伝統からみて、これらの動物は天上から山上に降り立った祖先の霊(ひ)を山上から里の神社に迎え、再びに山上に運ぶ神使(しんし:みさき)であり、
さらに古く、壱岐・対馬をルーツとする海人(あま=天)族のスサノオ・大国主にとっては、海蛇が海底から祖先霊(神)を迎え、送り返す神使であった。

…動物神名について
 大国主を国譲りさせた天日名鳥命(建比良鳥命・天夷鳥命・武日照命:子孫が祀らないと祟るという霊(ひ)の法則からみて、私は大国主の筑紫でもうけた御子の子と考える)、
大国主の子のアジスキタカヒコネ(阿治須岐高日子根)命の別名の迦毛大御神(鴨氏の祀る高鴨神社の祭神)、
3代目の鳥鳴海神(母は鳥耳神)、8代目の布忍富鳥鳴海神など、大国主命一族には鳥を人名とする王が見られる。
また、神功皇后によって滅ぼされた羽白熊鷲(筆者説:朝倉市の旧甘木市の杷木(はき)=羽城(はしろ)の王で、大国主命の子孫の九州王朝の王)にも
鳥名が使われている。
 天皇家では、11代垂仁天皇の子・ホムツワケ(品牟都和気)が大国主の祟りで言葉を話すことができず、鵠(くぐい、白鳥)の声を聞いて、
初めて言葉(『あれは何だろう』)を発したとされ、12代景行天皇の子・ヤマトタケル(倭建)は死んで白鳥になって河内の志幾まで飛んだとされている。
 さらに、16代仁徳天皇の生前の名前は「大雀(おほさざき)命」、弟には根鳥命、早総(はやぶさ)別命があり、25代武烈天皇の生前名は小長谷若雀命である。
 鳥は死者の霊(ひ)を天に運ぶとされ、環濠城(き)や神社の入り口の鳥居や建物の棟飾りとして用いられ、
古墳上に葬送儀式を模した埴輪列として飾られ、天日名鳥命の別名が出雲祝神であることから見ても、鳥は死者の霊(ひ)を運ぶ神聖な動物とみなされていたことが明らかである。

…動物の霊(ひ)を断つ弓矢と槍の達人の猟師が、人の霊(ひ)を断つ兵士となり、そのうちの薩摩半島の山人(やまと)族の傭兵部隊が豊前、筑紫、安芸、吉備と転々とし、
最後に、奈良盆地に入って傭兵となり、その10代目の御真木入日子(御間城入彦)がスサノオ一族の美和(三輪)国の大物主の権力を奪って建国したのが「山人」天皇家の歴史である。
…⑥ 霊(ひ)を断つと、子孫に祀られない祖先霊(怨霊)が祟るという宗教思想の存在は、アマテラスと大物主(スサノオの子の大年)を宮中に祀って祟られたとすることを記した
崇神天皇の古事記・日本書紀により、古代天皇制への見方を根本から変えるものである。>スサ:海カモメ、素早い、2輪戦車 https://www.historyjp.com/dictionary/
2輪戦車…
前14世紀中頃、ヒッタイト王国のシュッピルリウマ1世は戦車の利用などの軍備強化を図り、小アジア各地に遠征して領土を拡げ、さらにふたたびシリア方面に進出した。
ヒッタイト/ヒッタイト王国 https://www.y-history.net/appendix/wh0101-023.html

出雲に製鉄を伝えたのはヒッタイト人だった? https://keiryusai.com/archives/11735
…ヒッタイト人の生き残りは、森林を求めて東進し、やがて東アジアではタタール(韃靼=だったん)人と呼ばれるようになり、彼らの製鉄技術が4~5世紀に日本にもたらされたというのです。
…タタールの名前を取って「たたら製鉄」という言葉ができたという説もあります。

カモメ…
…やかましく鳴くところから、「やかましい」「かまびすしい」の「かま(囂)」が変化して「カモ」になったとする説など、諸説あり定かではない。
地方 によっては「カモ」を「カモメ」と呼び、「カモメ」を「カモ」と呼ぶ地方もある。https://gogen-yurai.jp/kamo/#:~:text=やかましく鳴くところから、「やかましい」「かまびすしい」の「かま(囂)」が変化して「カモ」になったとする説など、諸説あり定かではない。 地方 によっては「カモ」を「カモメ」と呼び、「カモメ」を「カモ」と呼ぶ地方もある。,このことから、古くは「カモ」と「カモメ」の区別が 曖昧 であったとの見方もあり、「カモメ」と同源で「かま(囂)」とも考えられる。

スサノオは朝鮮半島から来た!?三韓と出雲の連合構想とはhttps://hajimete-sangokushi.com/2018/09/10/スサノオ朝鮮渡来/

スサノオは京都の祇園祭などで「牛頭天王」とされます。https://nihonsinwa.com/page/807.html
これを朝鮮半島の牛頭山にちなんでいるととする説がありますが、牛頭天王は仏教の神で、朝鮮の山もこれにちなんだものと思われます。

紀元前2世紀の朝鮮半島と満州にいた「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であり、現在の韓国江原道溟州にいた「東濊」は前漢代の中国東北部にいた濊と同じ民族とされる。https://ja.wikipedia.org/wiki/濊貊
「貊」(はく)…
倭人以前の先住民【濊貊】https://note.com/ai_auwa/n/nb4cfc89a75f0
秦以前にシルクロードや中国大陸を支配していたのはテュルク系民族、ツングース系民族などの先住民だというお話をしましたが、テュルク系民族の中には濊貊(わいはく)という民族が含まれています。
濊貊は濊族と貊族から成る古代民族のことを言いますが、この民族はウラルトゥ王国を構成していた民族の一つです。
そして[古事記][日本書紀]のいう神武天皇のルーツはこの濊伯という民族である可能性が高いので、今回は濊伯について詳しく見ていこうと思います。
神武天皇のルーツはこの濊伯という民族である可能性が高い…

『イエス・キリストと神武天皇』 ヒンドゥー教の経典「ギータ」に、世俗内禁欲の道がある(世界の歴史)https://note.com/inootanaka/n/n23ea2cb66a9f
ミトラ神がゾロアスター教、仏教の新種である弥勒信仰に影響したことはもちろん、ローマがササン朝ペルシアとの戦争で
キリスト教にミトラ信仰が取り込まれ、キリストを太陽神として捉えることでローマに浸透していったなど、切り口が宗教だけでなく、当時の情勢から複合的に考察した切り口が面白い。

弥勒教の定義 東方ミトラ教が中国化して生まれた宗教のこと。 2.名称 弥勒教または弥勒教会。 3.別名 別名を明教、白蓮教という。http://mithra.world.coocan.jp/HP_Mithraism_Myth_Milejiao.html

日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神)https://note.com/morfo/n/nd71a636a2a55
秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。
秦氏は、一般に、新羅からの渡来人とされますが、もともとは中央アジアの弓月国が故郷のようです。
弥勒信仰…
「白蓮教」という語彙は 邪教 としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した 民間宗教 結社をまとめて白蓮教と呼んだ [3] 。https://ja.wikipedia.org/wiki/白蓮教
…教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。

古代の朝鮮半島や中国北東地方には、 貊(はく)族 と言われる人々が居住していた。https://manapedia.jp/text/2539
彼らは、狩猟や牧畜を糧に生活し、のちに夫余や高句麗といった国を建国した。
…夫余が建国された同時期、貊族の別部族が中国東北地方南部の鴨緑江流域に高句麗(紀元前1世紀~668)を建国した。
※ 鴨緑江 は、中華人民共和国(中国)東北部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国境となっている川である。白頭山(中国名:長白山)に源を発し黄海に注ぐ。https://www.wikiwand.com/ja/鴨緑江

曹操も朝鮮半島までは統治しませんでした何か理由でもあったのか、それとも脅威に感じてなかったから ...https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1341153933
…曹操:楽浪郡(北部)と韓・濊の地(南部)は、帶方郡を通じて公孫氏が支配しており、それをそのまま追認。
司馬懿に滅ぼされて直轄地。
曹操は間接支配していました。

前漢の元朔元年(前128年)当時、濊や沃沮は皆衛氏朝鮮に属していたが、薉(濊)君の南閭らは右渠に背き、28万人を率いて遼東郡に服属した。
武帝はこの地を蒼海郡としたが、数年で廃止した[注釈 1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/濊貊
武帝は元封3年(前108年)に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分け漢四郡(真番郡、臨屯郡、楽浪郡、玄菟郡)を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の始元5年(前82)臨屯と真番を廃止し楽浪郡、玄菟郡に併せた。
昭帝の始元5年(前82)臨屯と真番を廃止し楽浪郡、玄菟郡に併せた。
紀元前75年、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。
また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として
嶺東七県(東暆県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭昧県,前莫県,沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は濊(東濊)の民が務めた。

鴨蝦夷 https://ja.wikipedia.org/wiki/鴨蝦夷#:~:text=鴨 蝦夷 (かも の えみし)は、 飛鳥時代 の人物。 氏は,賀茂 とも書く。 姓 は 君 のち 朝臣 。

鴨・葛城の神社(高鴨・葛木御歳・鴨都波)と出雲のオオクニヌシ
…鴨都波神社は、弥生時代から古墳時代までつづいた「鴨都波遺跡」の上に鎮座していて、西暦2000年の発掘調査では、4世紀前半の鴨氏の首長墓とみられる
「鴨都波一号墳」が見つかっているが、これが実に興味深いお墓だったりする。
というのも、鴨都波一号墳は南北20m、東西16mのごく小規模な「方墳」に過ぎないんだが、なぜか副葬品だけはメッチャ豪華で、
4面の三角縁神獣鏡を含むそれは「全長50〜100メートルの前方後円墳に匹敵する内容」なんだそうだ(河上邦彦)。

古代出雲王国の繁栄は黄巾の乱と関係があった!https://hajimete-sangokushi.com/2018/09/09/出雲王国黄巾の乱/
…3世紀に入った中国では、
曹操そうそう、劉備りゅうびや諸葛孔明しょかつこうめい、孫権そんけんなどが名を轟かせた『三国志』の前段階の時代に入ります。
その時代と古代出雲王国の繁栄が重なると考えられるのです。
魏の武帝(曹操)そうそう…「魚+喿(ソウ)」…?…、

鴨氏と賀茂氏は同じカモ!?-役行者・鴨長明ets-https://www.jalan.net/travel-journal/000052050/
日本書紀などでは『賀茂建角身命は、神武天皇が東征されたとき三本足の八咫烏となり導いた功により山城国の北部一帯を賜わった。』とあり、
山城風土記では『賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日向(奈良・葛城?)に天孫降臨し、大和国葛城から山城岡田(京都木津川)さらに北上し
現在の賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)あたりにたどり着き定住した』としている。
ちなみに、平安遷都時には皇室は賀茂・秦に話を通したらしい。
皇族より古い「海部家系図@国宝」を持ち、皇族にも繋がりがある「籠神社」の海部氏では『籠神社の主祭神は天孫降臨をしたニニギの兄「彦火明命」で、
極秘伝に上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」と同神であり、御祖「下鴨大神」を併せ祭祀する。』との記述がある。
つまり、海部氏=賀茂氏には繋がりがあるということか?そして鴨氏は葛城氏と一時代を過ごしたのか?そして、鴨(賀茂)の祭神は出雲とも係わりがある。
葛城&出雲@オオクニヌシ&コトシロヌシ=賀茂&鴨&海部と繋がりがあり、裏切りなどがあったということかもしれません。
裏切りなどがあった…

頭から湯気を立てて怒号…
囂 ゴウ・キョウ・かまびすしい  口部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/ebd28d4506e66120026e35a7e0388f12
解字 「頁(あたま)+㗊(かまびすしい)」 の会意。頁ケツは人のあたまを強調した字。
それに㗊(かまびすしい)をつけた囂ゴウは、頭(顔)をアップさせて周囲に口を四つ描いた劇画的手法の字。
後漢の[説文解字]は、「語気が頭上から出る」と説明しており、さしずめ頭から湯気を立てて怒号を発しているさまであろう。
怒ってかまびすしいさま。
意味 かまびすしい(囂しい)。やかましい。大声でさわぐ。
「囂々ゴウゴウ」(①声のやかましいさま。②怒りの声)「喧々囂々ケンケンゴウゴウ」(やかましいさま)
「非難囂々ヒナンゴウゴウ」(非難する怒号)「囂塵ゴウジン」(かまびすしくよごれたさま。猥雑な繁華街や俗世間をいう)

ハジロ属 (ハジロぞく、 Aythya )は、 鳥綱 カモ目 カモ科 に属する属。https://ja.wikipedia.org/wiki/ハジロ属#:~:text=ハジロ属 (ハジロぞく、 Aythya )は、 鳥綱,カモ目 カモ科 に属する属。 別名 スズガモ属 。

喿ソウを參と改め鰺の字形になった…「魚+喿(ソウ)」…水中に突入して魚を捕食する…
鰺[鯵] ソウ・あじ  魚部 https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 正字(篆文)は鱢ソウで、「魚+喿(ソウ)」の形声。ソウという名の魚。[字通]によると、魏の武帝(曹操)の名を避けて、喿ソウを參と改め鰺の字形になったという。
本来は魚の臭いをいう字であった。日本でアジの意となる。現在の中国ではshēnの発音で日本のあじ(鰺)と同じ意味で用いている。鯵は俗字だが、よく使われる。
意味 (1)あじ(鰺)。スズキ目アジ亜科の海魚。マアジ・ムロアジ・シマアジなど。温帯から熱帯の沿岸域に広く分布する。
「鰺刺あじさし」(カモメ科の鳥。水中に突入して魚を捕食する)
(2)アジの語源。[大言海]には「和訓栞、あぢ。新撰字鏡に鰺を訓ぜり。萬葉集に「味」と書けり、味の佳なるを称するなるべし」とする。 
(3)覚え方。味(アジ)くらべ魚の参加は鯵ばかり
味の佳…
佳…
佳 カ・よい  イ部
解字 「人(ひと)+圭(すっきりと形がよい)」 の会意形声。人が美しく善良なさま。人以外にも用いる。 
意味 (1)よい(佳い)。美しい。「佳人カジン」「佳麗カレイ」(佳も麗も、美しい意) 
  (2)すぐれている。「佳作カサク」 (3)めでたい。「佳日カジツ」「佳節カセツ」

上空から水中に飛び込んでとらえるもの(鰺刺の名はこの餌のとらえ方に由来している)と,水面すれすれまで下がって,餌をつまみとるものがいる。
鰺刺 https://ja.wikipedia.org/wiki/アジサシ

古い訳の聖書(七十訳,ウル訳)もこの鳥を,遠洋のカモメを指すと理解していました。https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001781
獲物をあさる,あるいは腐肉を食べる鳥の一種。イスラエル人に与えられた神の律法では,この種の鳥を食用にすることは禁じられていました。―レビ 11:13,16; 申 14:12,15。
ジェームズ王欽定訳聖書は,この鳥のヘブライ語名を「かっこう」と訳していますが,この訳し方は一般に退けられ,ウミカモメと訳すほうがよいとされています。

かもめ…
聖書に対する洞察,第1巻https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200001781
…シャハフというヘブライ語名は,この概して騒々しい鳥の出す甲高い鳴き声を模倣したものである,と考えている人もいます。
古い訳の聖書(七十訳,ウル訳)もこの鳥を,遠洋のカモメを指すと理解していました。
ヘブライ語シャハフは,カモメに似た,水かき足のある海鳥の総称と理解してよいでしょう。
このたぐいの鳥の中には,典型的なカモメ,アジサシ,ハサミアジサシ,トウゾクカモメなどが含まれています。

カモメは貪欲なまでに腐肉をあさりますが,その習性は他に例を見ないほど清潔です。
腐肉…

『記紀』の時代、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられた。肉食が農事を穢すというのである。
天武天皇四年(六七五)の有名な肉食禁止令は、牛と馬と犬と猿と鶏を食べることを禁止したが、毎年四月から九月までの農耕期間に限った。
 しかも、これら動物以上によく食べられた鹿や猪は含まれていない。
鹿や猪は、肉食という以上に普通の食べものだったからか。「しし」とは食用の肉を意味する。
 飛鳥時代に仏教が伝来すると、仏教を国家鎮護の法として国づくりを図る天皇たちは、仏教の教えである殺生を固く禁じた。
仏教の説く輪廻転生は、自分がいま、食べようとしている、たとえば牛が自分の親族の生まれ変わりである可能性をいうし、そう思うと、口に入れられなくなる。
しかし、それから何度も禁止令が出ているところを見ると、やっぱり食べられていたのである。

…「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想
 それだけではない。縄文人は「生物みな兄弟」の黄泉帰り思想を持っていた。
イヤナギの子のカグツチ神の血と死体からの神々の誕生神話、イヤナギの体についた黄泉の汚れた垢や持物・衣服からのアマテラスなどの神々の誕生神話、
スサノオが殺したオオゲツ比売の死体からの米などの五穀の誕生、アマテラスの玉やスサノオの剣からの子の誕生など、記紀神話は人間の死体や物から人や穀類などが生まれる、
人が物、物が人に変身する、という考えが古くからあったことを示している。

6.神使(しんし:みさき)について
 動物を神の使いとして祀り、大事にする次のような例が見られる。その全てはスサノオ・大国主の一族を神としている神社である。
春日大社だけは藤原氏の氏神を祭っているが、この地にはそれ以前に「春日氏」の祭祀が行われており、
「あ須賀」と同じ「か須賀」のスサノオ一族の祭祀が藤原一族によって受け継がれ、鹿を神使としたと考えられる。

 …わが国の歴史・伝統からみて、これらの動物は天上から山上に降り立った祖先の霊(ひ)を山上から里の神社に迎え、再びに山上に運ぶ神使(しんし:みさき)であり、
さらに古く、壱岐・対馬をルーツとする海人(あま=天)族のスサノオ・大国主にとっては、海蛇が海底から祖先霊(神)を迎え、送り返す神使であった。

…動物神名について
 大国主を国譲りさせた天日名鳥命(建比良鳥命・天夷鳥命・武日照命:子孫が祀らないと祟るという霊(ひ)の法則からみて、私は大国主の筑紫でもうけた御子の子と考える)、
大国主の子のアジスキタカヒコネ(阿治須岐高日子根)命の別名の迦毛大御神(鴨氏の祀る高鴨神社の祭神)、
3代目の鳥鳴海神(母は鳥耳神)、8代目の布忍富鳥鳴海神など、大国主命一族には鳥を人名とする王が見られる。
また、神功皇后によって滅ぼされた羽白熊鷲(筆者説:朝倉市の旧甘木市の杷木(はき)=羽城(はしろ)の王で、大国主命の子孫の九州王朝の王)にも
鳥名が使われている。
 天皇家では、11代垂仁天皇の子・ホムツワケ(品牟都和気)が大国主の祟りで言葉を話すことができず、鵠(くぐい、白鳥)の声を聞いて、
初めて言葉(『あれは何だろう』)を発したとされ、12代景行天皇の子・ヤマトタケル(倭建)は死んで白鳥になって河内の志幾まで飛んだとされている。
 さらに、16代仁徳天皇の生前の名前は「大雀(おほさざき)命」、弟には根鳥命、早総(はやぶさ)別命があり、25代武烈天皇の生前名は小長谷若雀命である。
 鳥は死者の霊(ひ)を天に運ぶとされ、環濠城(き)や神社の入り口の鳥居や建物の棟飾りとして用いられ、
古墳上に葬送儀式を模した埴輪列として飾られ、天日名鳥命の別名が出雲祝神であることから見ても、鳥は死者の霊(ひ)を運ぶ神聖な動物とみなされていたことが明らかである。

…動物の霊(ひ)を断つ弓矢と槍の達人の猟師が、人の霊(ひ)を断つ兵士となり、そのうちの薩摩半島の山人(やまと)族の傭兵部隊が豊前、筑紫、安芸、吉備と転々とし、
最後に、奈良盆地に入って傭兵となり、その10代目の御真木入日子(御間城入彦)がスサノオ一族の美和(三輪)国の大物主の権力を奪って建国したのが「山人」天皇家の歴史である。
…⑥ 霊(ひ)を断つと、子孫に祀られない祖先霊(怨霊)が祟るという宗教思想の存在は、アマテラスと大物主(スサノオの子の大年)を宮中に祀って祟られたとすることを記した
崇神天皇の古事記・日本書紀により、古代天皇制への見方を根本から変えるものである。
この記載は、崇神天皇がアマテラス・大物主と血の繋がった直系の子孫ではないことを示しており、アマテラス・大物主一族から天皇家には「霊(ひ)継ぎ」が行われていないことを示している。

この記載は、崇神天皇がアマテラス・大物主と血の繋がった直系の子孫ではないことを示しており、アマテラス・大物主一族から天皇家には「霊(ひ)継ぎ」が行われていないことを示している。


スキタイ…ケルト …ドルイド … 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 12:51:46 No.1129 【返信】

ケルト人と謎の古代人スキタイ(1)https://note.com/yoshito0103/n/n1069f4729e31
…元々、スキタイ人とアラン人は中央アジアの大草原地帯の遊牧民でした。
全盛期には、現在のハンガリーから中国、甘粛省のあたりまで勢力を広げ、外貌は金髪碧眼、インド=イラン語派の言語を話し、
木槨墓に埋葬(首領は仏舎利塔の起源ともなるような埋葬塚)に葬り、多くの動物様式の金細工を残しました。
そして彼らの文化は基本的には遊牧経済で成り立っており、古代ヨーロッパ人との類似点が多く存在していました。
…絶対的な証拠とはなりませんが、Y染色体ハプログループでみると、R1A1はスキタイ時代の欧州東部(ポーランド、ロシア)から中央アジア、インド北部にかけて多く存在し、
インド=イラン語派やスラブ語派はR1a1系統と同等であるとされています。

神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出す…
ケルト人とはどんな民族なのか?:中央アジア・ドナウ川周辺の草原を故郷とする“鉄器・戦車”で武装した民族https://esdiscovery.jp/vision/es003/gods/kelt_myth001.html
…『ガリア人(ケルト人)はみんな深く宗教を信仰していて、神々に生贄を差し出す風習がある。治癒を願う重病人、戦争・危険に立ち向かう者は、神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出すという誓いを立て、僧侶がその犠牲の儀式を執り行う。』 『僧侶(ドルイド)が教える死生観は、霊魂の不滅を前提にしており、死によってこちらからあちらに霊魂が移るだけであるというものである。ガリア人たちはこの霊魂の不滅の信仰によって、死の恐怖を無視することができ、大いにガリア人の戦う勇気が鼓舞されることになるのである。』
治癒を願う重病人、戦争・危険に立ち向かう者は、神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出すという誓いを立て、僧侶がその犠牲の儀式を執り行う。』 
『僧侶(ドルイド)が教える死生観は、霊魂の不滅を前提にしており、死によってこちらからあちらに霊魂が移るだけであるというものである。
ガリア人たちはこの霊魂の不滅の信仰によって、死の恐怖を無視することができ、大いにガリア人の戦う勇気が鼓舞されることになるのである。』

隼人に出自を持つ神武天皇とは、人肉食信仰を持つスキタイ人だったのか。https://note.com/millennium_k/n/n929322d768c9
これを見て、私は「吉野ヶ里遺跡」の写真ではないか、と思いました。
しかしこれは、英語版ウィキペディアの「スキタイ」のページに掲載されている写真なのです。
紀元前339年の、スキタイの防衛線の復元とのことですが、吉野ヶ里遺跡の復元物見櫓や城柵にそっくりだと感じます。

…スキタイに含まれる、サウロマタイの後継であるサルマタイ人の古墳の中に、注目すべき副葬品がありました。
サルマタイ人の2世紀~3世紀の古墳には、中国の「内行花文鏡」が副葬されていたというのです。
2世紀~3世紀の中国とは、後漢から魏の時代であり、日本の弥生時代晩期から古墳時代初期にあたります。
内行花文鏡は、日本の古墳にも副葬されており、中国製の物と日本製の物があるとされています。
そこで疑問に思うのが、スキタイ人は中国製の内行花文鏡を古墳に副葬していたのか、という点です。
そうではなく、スキタイが内行花文鏡の発祥地なのではないか、と感じました。
何故ならスキタイとは、ケルトなのではないかと考えられるからです。

…ケルト人とは、黒海沿岸部から馬と戦車を持ってヨーロッパに渡来したということです。
スキタイ人とは、クリミア半島を含む、黒海沿岸部から南ロシアにかけての地域にいた遊牧騎馬民族で、王族スキタイという戦士貴族に率いられていたということです。
このようにケルトとスキタイとは、黒海・馬・戦闘というキーワードで繋がります。
そしてスキタイの古墳に副葬されていた「内行花文鏡」の文様とは、ケルトの一年の車輪の文様なのではないかと私は考えます。

Wheel of the Yearは、現代のさまざまな異教徒によって観察されている季節の 祭りの年次サイクルで、その年の主な太陽の出来事 (夏至と春分) とそれらの中間点をマークします。
Wheel of the Year - WikipediaよりGoogle Translateによる日本語訳
内行花文鏡の文様がケルトの一年の車輪であるなら、ケルトであるスキタイが、内行花文鏡の発祥地である可能性が高いのではないでしょうか。

タウロイ(ギリシャ語:Ταῦροι)は、古代ギリシア時代にクリミア半島南部に住んでいたスキタイ系民族。
クリミア半島の古名であるタウリカ、タウリス、タヴリダはこの民族名に由来する。
タウロイは難破漂流した者や、黒海上で襲って捕らえたギリシア人を「処女神」の生贄とする。
まず、型のように浄祓を行った後、生贄の頭を棍棒で打つ。次に胴体を神殿の立っている断崖の上から突き落とし、首は棒に刺しておく。
という説もあるが、別の説では首については同様であるが、胴体は崖から落とすのではなく、地中に埋めるという。
タウロイ自身の言うところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイアであるという[2]。
また、敵の捕虜については、捕らえた者が首を刎ねて家に持ち帰り、屋上(煙突の上)に長い棒に刺して高く掲げておく。
この首が守護者として屋敷全体を見張ってくれるように、高く掲げておくのだという。彼らは掠奪と戦争を生活の手段にしているのである。
— ヘロドトス『歴史』巻4-103

スキタイの中でマッサゲタイ人と呼ばれる人々が、太陽神のみを崇拝していたことが分かっています。
スキタイの中には、月神信仰と太陽神信仰の両方があったのです。
太陽神信仰…

ミトラ教の冬至祭(太陽信仰)
ケルトのドルイド教(自然と宇宙と自己を一体化する自然信仰)、ミトラ教の冬至祭(太陽信仰)やサトゥルナリア祭(農耕信仰における収穫祭)とキリスト教の信仰が合体したもの。
Christma(クリスマス)https://www.minthouse.org/christmas-5/

太陽神ミトラス…
ミトラ教またはミトラス教またはミスラス教(英語: Mithraism)は、古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。https://ja.wikipedia.org/wiki/ミトラ教
ミトラス教は古代のインド・イランに共通するミスラ神(ミトラ)の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変えたものと考えられることが多い。
紀元前1世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。
ローマ帝国治下で1世紀より4世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。

三角型の冠帽の人物埴輪が出土した古墳~関連するキッパ、胡坐、ミトラ~https://shinnihon.hatenablog.com/entry/2024/05/07/000838
…千葉県・山倉1号墳出土の三角型の冠帽の女性
・群馬県伊勢崎市豊城町出土の三角型の冠帽の男性
・群馬と栃木から出土の丸い帽子を被る埴輪
・キッパ
・胡坐(こざ、あぐら)
・ユダヤ教における祭祀階級
・ミトラの宝冠と司教冠
・高崎市綿貫町の三人童女
 千葉県・山倉1号墳出土の三角型の冠帽の女性
千葉県市原市能満の山倉1号墳から女性の三角型の冠帽は大祭司階級を思わせる人物埴輪が出土している。注:本説はあくまで個人的見解です
千葉県、芝山古墳群の姫塚(6世紀後半)から出土の武人埴輪の帽子などとは異なる。

三角 帽子 埴輪の画像 https://www.bing.com/images/search?q=三角 帽子 埴輪&qpvt=三角 帽子 埴輪&form=IGRE&first=1

引用元:https://el.wikipedia.org ヒッタイト神 https://history-go.com/archives/13804
ヒッタイト帝国は、 紀元前16世紀~11世紀に現トルコの中央部に君臨し、古代エジプトと勢力を二分する大帝国 でした。https://worldclub.jp/turkish/hittite/
トルコ…
ミトラの主聖堂…
ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)…
アルメニア北部、Derjan地域(トルコ領東部)のBagaritch村にミトラ(またはミフル)の主聖堂が建てられました。http://mystery-hunter.net/?p=1529
…強大なミタンニ国(ミタンニはアルメニア台地の北に位置していた)の王Shativaza(生年不詳~紀元前1350年)と、ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)との間に結ばれた条約文に、ミトラの名前を見ることができます。そしてミトラ崇拝はペルシャの楔形文字碑文や紀元前4世紀のインドのヴェーダ文書で言及されています。
ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)との間に結ばれた条約文に、ミトラの名前を見ることができます。
そしてミトラ崇拝はペルシャの楔形文字碑文や紀元前4世紀のインドのヴェーダ文書で言及されています。
西暦395年のサーサーン朝ペルシャの王アルダシール2世の宗教革命の結果、ミトラやイランの女神アナーヒターのカルトがペルシャに持ち込まれ、ゾロアスター教と結び付きました。
紀元前1世紀にはミトラのカルトはローマへと進出し、西暦3世紀にこの宗教は国際的なものとなり、インドから黒海、バルカン半島からブリテン島やスペインにまで広がりました。
今では400以上のミトラ聖堂の廃墟がヨーロッパ中に残されています。
つまり最初は、紀元前4世紀にこのカルトがアルメニア台地から南ペルシアとインドに広まり、紀元前1世紀にヨーロッパ北西に広まったのです。

スキタイ人(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は、サイス人、古典的スキタイ人やポントスキタイ人とも呼ばれ、古代東イラン騎馬遊牧民https://ja.wikipedia.org/wiki/スキタイ
…キリスト教を受容する前の中世前期スラヴ人にも見られる火葬の習慣から、
農耕スキタイはプロト・スラヴ人(原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族)のうちの基幹的な集団であると推定される[29]。

ユダヤ教に紛れ込んだドルイド教徒の一部が、その後、日本にやってきて古神道という形でドルイド教を広めていった……https://rapt-neo.com/?p=33045

ケルトというよりドルイド教として残っているグループ、あるいはそうした人々とつながっている神々が、
日本の神々と深いかかわりを持っていて、古代から現代に至るまて神の仕組みを織り続けていることがわかってしまっては、もう笑ってばかりはいられなくなる。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 21:03:58 No.1130
我が国にも、太陽十字はあるのですが、これもドルイド教の影響なのでしょうか?
『RAPT 日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。』↓
http://rapt-neo.com/?p=32234

…「秦氏」といえば「ゾロアスター教」の神官であり、「ゾロアスター教の神官」はもともと「ドルイド教の僧侶」でした。
…アイルランドとウェールズに伝わる中世に文字化された伝説。特にアイルランドに伝わるものには、かつては神と信じられていたものが、
(「悪魔教」の汚名が着せられて徹底的な弾圧が行われて殲滅された、なんて事は起きずに)超自然的な力を持つ種族や人物に変わって伝承された名残が明確にある。
ローカルな神への信仰がローマ支配下でローマの神への信仰と混合した事を示す遺物(現在の英国のバースの、泉の神がローマのミネルヴァと同一視されたSulis-Minervaはその例)
ケルト人以外にも多くの地域に存在した季節毎のお祭りがケルト人の中にもあった事を示すカレンダーぐらいです。

…日本の神話とケルト神話には共通点が結構あります。例えば浦島太郎の話とアーサー王の行った不死の国アバロンの話やアイルランド古歌のティルナノーグに行く話は似通っています。
浦島太郎は武内宿禰との関連が言われていますので武内宿禰の系列はその可能性があると思います。
又、例えば魏志倭人伝には日本には文字はなく、縄を結んだり木を傷つけたりすると書いてありますが、これは線で表すルーン文字の様な物かも知れません。
ケルトには自然信仰があり、短詩がありますが、これは五言絶句等の体裁に似ています。
元々ケルト神話はペルシャのナルト神話から派生したと言う説もあり、ペルシャ民族との関連が研究されている様です。
日本にもササン朝ペルシャのガラスが見つかったりしており、古代の日本にもペルシャの人々は来ていたと言われて法隆寺の建設にも関与したと言われています。
丸十字はキリスト教グノーシス派の印でもあると思います。グノーシス派とマニ教は関連があるのでマニ教(古代ペルシャの宗教)にも関連していると思います。
つまりケルト直接なのかペルシャからなのかは分かりませんが関係はあると思います。
ケルト神話にはお釜(煮るための)が出てきて大事な役割を果たしますが、それと前方後円墳は何か関係あるかも知れないと個人的に思います。

マニ教自体ササン朝ペルシャでマニと言う人が始めてキリスト教とゾロアスター教とを取り入れているようです。
そして中国では摩爾教(漢字が違うかと思います)になり、空海が学んだ密教もマニ教の影響のあるものと言われる様です。マニ教を国教としたのは明で日本でも日月教の様な名前がついていたと思います。
マニ教を国教としたのは明で日本でも日月教の様な名前がついていたと思います。

ドルイド教は悪魔教ではなく、ヨーロッパに普遍していた土着宗教です。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192653911
ドルイド教の存在はキリスト教にとって布教活動の妨げになったため、当時のキリスト教は「悪魔教」の汚名を着せて徹底的な弾圧を行い、これを殲滅しました。
また宗教対立を封じる目的から、殲滅過程においてキリスト教はドルイド教の4大祭典を教義上の祝日として取り込んでいます。
インボルグ→聖母マリア清めの日
ベルテーン→メーデー(5月祭)
ルーナサ→聖ペトロの鎖の祝日
サウィン→ハロウィン
他宗教を「邪教」と呼んでこれを殲滅する。
昔のキリスト教って「血の宗教」と呼ばれるくらい惨いものですよ。


八ヶ岳の元々の呼び名 天上のワオギツネ 投稿日: 2024年05月11日 18:28:55 No.1114 【返信】

No.1103より続く
さらなるもう一つの可能性

イスラエルの10支族の一派のヘブライ語の痕跡は、浅間山周辺と猪苗代湖周辺に集中しているが、浅間山周辺では浅間山、榛名山、赤城山にそれが見られる。
そこで、元々の山名がヘブライ語の可能性があるものをさらにもう一つ挙げてみることにしたい。
それは、八ヶ岳(やつがたけ)である。
八ヶ岳は、諏訪湖の南東にある茅野市の東方で南北に長く連なる火山連峰となっている。

この八ヶ岳の名であるが、現在の語義は「八つの峰」である。
日本百名山では、この連峰のうちの南の部分の「南八ヶ岳」のうちの八つの峰を指すとされているようだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/八ヶ岳
実際には、峰は11峰あるという。
さらに、これに「北八ヶ岳」の11連峰も加えると、全体では実に22峰にもなるという。

そうすると、八ヶ岳の「八つ」とは、元々は「多い」を表す「八=や」ではなかったのかという気もしてくる。
つまり、八ヶ岳の元々の呼び名は、八岳(やたけ=たくさんの峰)だったかも知れないのである。
22もの峰が高く連なるその壮観からすると、その可能性はゼロではないだろう。

このように、「八ヶ岳」が22連峰のうちの「8つの秀峰」を指すというのは比較的新しい認識である可能性が出てくる。
このように見ると、では、この22連峰のそもそもの呼称は何だったのかとなってくる。
そこで、この付近にイスラエルの10支族の一派のヘブライ語の語彙の痕跡が集中することから、「八ヶ岳」と発音、語義がよく似たヘブライ語の語彙を探してみると、次の語彙が浮かんでくる。

八ヶ岳(やつがたけ)のヤガ(八ヶ)
ヘブライ語 ygr(ヤカァ)=高い

イスラエルの10支族の一派が信濃に入って諏訪湖の南を通って今の茅野市あたりまで来たとき、東方の空高くに多数の峰が南北に連なり、あたかも壁のように立ちふさがっていたというシーンを想像すれば、彼らが口をあんぐり開けて「ヤカァ(高い)」と叫んだとしても不思議ではない。
これが周りの縄文人たちに取り入れられ、その連峰は「ヤカ」と呼ばれるようになり、これがのちに「ヤカ岳」と名を変え、さらにはそれが8つの秀峰を表すと認識されるようになって「八ヶ岳(やつがたけ」の名が生まれたと想像してみると面白い。

この南北に連なる八ヶ岳の峰々の間には、北から大河原峠、麦草峠、夏沢峠の三つの峠があり、地図で見ると、麦草峠が比較的通りやすいように見える。
10支族の一派は、この麦草峠を越えて東へ出たのではないだろうか。
そうすると、その次にヘブライ語の痕跡がみられるのが浅間山なので、彼らは出雲から若狭に進み、そこから信濃に向かい、諏訪湖の南から八ヶ岳を超えて、その麓を北上して浅間山の南に出たあと東へ進んで前橋の赤城山の麓へと達した、というかなり詳細な移動ルートを想定することが可能になるのである。

この八ヶ岳(やつがたけ)の名の由来は、イスラエルの10支族の一派のヘブライ語のygr(ヤカァ=高い)であった可能性は、決して低くないと思われる。



 
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月11日 20:00:01 No.1115
ヤト: 「神」を意味する当て字 https://www.historyjp.com/dictionary/

磁頭・神頭・矢頭の用語解説
じん‐どう【神頭】https://kotobank.jp/word/神頭-538567#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8
〘名〙 的矢(まとや)の鏃(やじり)の一種。
多くは木で作った小形の目無鏑(めなしかぶら)で、漆で黒く塗ったもの。挟物(はさみもの)、草鹿(くさじし)、丸物などを射るのに用いる。
また、鉄製のものを金神頭(かなじんどう)という。磁頭。
※十訓抄(1252)七「昨日の仰に、鶯やるなと候しかば、いふかひなくにがし候ば、弓箭とる身に心憂くて、じんどうをはげて、射落して侍る」

神頭の用語解説 - 的矢まとやの鏃やじりの一。https://kotobank.jp/word/神頭-538567
鏑矢かぶらやに似て、先を平らに切り、的を傷つけないようにしたもの。長さ5~6センチで、多くは木製、黒漆塗り

モリヤ(洩矢)神を長(おさ)とする先住民族…
…モレヤ(モリヤ/洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。
また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)を、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)(=境界の神)とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神さまです。
塞の神(サイノカミ)(=境界の神)とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神さまです。
現在、ミシャグジ神は、諏訪大社上社(かみしゃ)に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。
大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。
ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。
全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。
諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。
東京の練馬区に石神井(しゃくじい)という地名がありますが、「シャクジ」「シャクチ」という名前が入っている土地にはミシャグジが祀られていた場所が多いそうです。
このミシャグジ(ミシャグチ/ミサクチ)という神さまを理解するためには、記紀の国譲り神話や、同じ諏訪の土着神である洩矢(モリヤ)神、守矢氏、物部氏などについて知識が必要になります。
…諏訪氏=神氏(みわし)

縄文時代の墓…
…守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。
「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。
このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。

…旧約聖書イサク=ミシャグジ?
古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地がありました(現エルサレム)。
「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない
10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

…諏訪大社神社のミシャグジ降ろしの祭祀の過程で、人身御供(ひとみごくう)の慣例があったとの見方を紹介しましたが、
生贄の慣習は日本にはなかったとされていることを考えると、ミシャグジと古代イスラエルとのつながりもあながち絵空事とは言えないかもしれません…
古代イスラエル…

モレク (Molech)は古代の中東で崇拝された 神 の名。 男性神。 元来は モロク (Moloch)という。https://wikippe.e-do-match.com/index.php?title=モレク#:~:text=モレク (Molech)は古代の中東で崇拝された 神 の名。 男性神。 元来は モロク (Moloch)という。,元来は「王」の意。 また、「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。 パレスチナ にもモレクの祭儀は伝わった。 古代イスラエル では、ヘブライ語で恥を意味するボシェト (bosheth) と同じ母音をあて、モレクと呼ぶのが一般的であった。
ヘブライ語では מלך  (mlk)。 元来は「王」の意。 また、「涙の国の君主」、「母親の涙と子供達の血に塗れた魔王」とも呼ばれており、人身供犠が行われたことで知られる。
パレスチナ にもモレクの祭儀は伝わった。 古代イスラエル では、ヘブライ語で恥を意味するボシェト (bosheth) と同じ母音をあて、モレクと呼ぶのが一般的であった。

フェニキア人がモレク信仰しててわが子長男長女を生きたまま火にくべて生贄するのでギリシャ人やローマ人からものすごく嫌われてたのです。
ユダヤ教って生贄の儀式とかするんですか?!https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11212885426
諏訪大社はユダヤ人が作ったそうですが、ユダヤ人は生きたカエルを串刺しにして火あぶりにしてユダヤの神に捧げるのでしょうか?!
諏訪大社には贄掛けの欅があって昔はユダヤの神への捧げ物として生贄を木に吊るしていたそうです↓
https://www.youtube.com/playlist?list=PLR73saKoyDR-ZmRcwtJLwkNpVFuhqK7Ki
https://youtu.be/xDlhLH-z1as

…フェニキア人が支配すると幼児生贄をやりだすのです。カルタゴでも。
また中東のあちこちに子供を生贄にささげる台が残ってるという。
フェニキア人…

フェニキア人はケルト人の祖先であって、アブラハムの 教えを元にドルイド教という宗教を創始したのであります。
従って、ドルイド教は原始キリスト教そのものです。
イギリスの石の伝説 http://densetsu-uk.com/custom3.html

>No.1085…  No.1096 【返信】…
>広い地域でキリスト教に取って代わられた…
古代ケルト信仰ドルイド教を史上初めて公認、英国 https://www.afpbb.com/articles/-/2763458
【10月3日 AFP】古代ケルト民族が創始した宗教で、数千年にわたり異端視されてきたドルイド教を、英政府が史上初めて公認した。
 英チャリティ委員会(Charity Commission)が2日、英国内のドルイドの代表組織にあたるドルイド・ネットワーク(Druid Network)について
「公益のために宗教を広めるという慈善的目的に特化して創設された」と認め、慈善団体資格を付与したと発表した。
主流といわれるほかの宗教と肩を並べる存在となり、税制上の優遇措置も受けられるようになった。
 ドルイド教は古代アイルランドから古代ブリテン周辺に登場し、鉄器時代にはさらに広がって現在のフランスにまで渡ったが、その後は欧州の広い地域でキリスト教に取って代わられた。
近年、エコロジー意識が高まるなか、すべての自然に神が宿るとするドルイド教の汎神論的な面に関心が集まっている。(c)AFP

ローマ教皇、カナダ先住民に「深くおわび」 同化政策の寄宿学校は「悲惨な誤ち」https://www.bbc.com/japanese/62302763

1960年代にカナダで大量虐殺!エリザベス女王とローマ法王の悪事。
1960年代から1970年迄バチカンと英国王室がカナダの先住民モホーク族の子供達にキリスト教の教育を施すために作った全寮制の教会学校で大量虐殺を行なっていました。
殺された子供達の大量の骨が寄宿舎周辺から見つかっています。
7歳になると、強制的に寄宿舎に入れられ子どもたちを天然痘にわざと感染させワクチン開発のための人体実験を行ったり食事を満足に与えなかったり精神的、肉体的に苦痛を伴う拷問。
性的虐待。
そして、実際に子供達を殺害していました。
殺し方が残忍で、子供達は機械で手足を引きちぎられていたそうで実際に、体を引き裂く器具も発見されています。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月11日 20:17:17 No.1116
>モリヤ(洩矢)神を長(おさ)とする先住民族…
曳 エイ <ひく>https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/55da67215fccee9feb3b0f28d5ea8688
曳 エイ  曰部  
解字 臾ユから分かれた字。臾は人が他人から両手でつかまれ束縛される形で、束縛の意になるのに対し、曳エイは束縛して「ひっぱる・ひく」意となる。
形も臾のなかの、人⇒「右はらい+ノ」の形に、両手((逆向きのヨ+ヨ)⇒日に変化した。
意味 ひく(曳く)。ひっぱる。ひきずる。「曳航エイコウ」(船が他の船を曳いて航行する)「曳光弾エイコウダン」(

光を曳きながら飛ぶ弾丸。弾道や着弾点がわかるようにした弾)…モリヤ(洩矢)?
イメージ 
 「ひく」(曳・洩)
音の変化  エイ:曳・洩

毛利元就の「三本の矢」は聖書にも書いてあります。https://christianpress.jp/y211227/
伝道者の書 4章12節
一人なら打ち負かされても、
二人なら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
毛利…

毛利と島津. 明治維新 (1868年) 古代ユダヤ問題国家日本. 波多野「ハタノ」という苗字は日本みたいに思うんだけども「バスクで一番多い苗字」だそうです。
そのバスクの苗字つまり、バスクに隠れ住んでいる古代ユダヤ人の苗字となんで同じ苗字が日本にたくさんあるのか驚いていた …
大東亜戦争の黒幕④ 日本と古代ユダヤhttps://www.jul22.net/kuromaku/hebrew.html
古代ユダヤ問題国家日本
波多野「ハタノ」という苗字は日本みたいに思うんだけども「バスクで一番多い苗字」だそうです。
そのバスクの苗字つまり、バスクに隠れ住んでいる古代ユダヤ人の苗字となんで同じ苗字が日本にたくさんあるのか驚いていたそうです。
日本には遥か昔イスラエルという国を失った多くの古代ヤダヤ人たち来ている。
日本の一番南の鹿児島を治めた島津氏も秦です。四国を治めた長宗我部氏も秦、古代ユダヤ人、「正真正銘のオリジナルのユダヤ人です」源氏の源頼朝も秦、ほんとうのユダヤ人です。
だから「藤原の貴族社会を」ひっくりかえしたのです。
縄文時代にたくさんの民族の中に古代ユダヤ人がいた、だから日本は多民族国家なのです。
その縄文の時代が長いこと続いて次弥生時代になるわけですが。私たちは学校の教科書で縄文、弥生と教えられましたが嘘です。
どのように嘘かというと縄文の人々がいたのではなくって多民族国家日本が縄文時代だったのです。そこに弥生人「中国の華中」から稲作と鉄製の武器を持って日本に渡来してきた。
そこに弥生人「中国の華中」から稲作と鉄製の武器を持って日本に渡来してきた。
最初九州に上陸してどんどん日本列島を征服していきました。
そして日本を一つにまとめて中央集権国家を作ろうとした弥生人というのは中国人なのです。
どのようにして日本を治めたらいいのかと彼らは考えました。
たくさんの小さな国々の中で、一番大きく見える国「ユダヤ国家」の長をやがて日本を作る中央集権国家の長に据えることに決めたのですが、その長が天皇なのです。
・・・・

「渡来人・秦氏と2つの謎!」八幡はヤハウェ?秦氏はユダヤ人?https://sengoku-jidai-kassen.com/shinwa/20171028/
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月11日 20:42:07 No.1117
>諏訪氏=神氏(みわし)
みわ…巳倭?

最も小さな国宝「金印」には可愛い蛇がとぐろを巻い ている…https://serai.jp/hobby/267988

金でできていて蛇の形のつまみの印を贈られた「委」(古い日本の呼び名)の「奴国王」は、後漢王朝から見て南方の異民族の国王と位置付けられていたとわかります。 https://museum.city.fukuoka.jp/gold/#:~:text=金でできていて蛇の形のつまみの印を贈られた「委」(古い日本の呼び名)の「奴国王」は、後漢王朝から見て南方の異民族の国王と位置付けられていたとわかります。,つまり金印は、1世紀頃(弥生時代後期)の日本の外交交渉の様子や東アジアでの立場を示す極めて貴重な資料であり、日本の歴史を語る上でたいへん重要な資料なのです。
つまり金印は、1世紀頃(弥生時代後期)の日本の外交交渉の様子や東アジアでの立場を示す極めて貴重な資料であり、日本の歴史を語る上でたいへん重要な資料なのです。

諏訪…

スサ: 海カモメ、素早い、2輪戦車 https://www.historyjp.com/dictionary/
スサ…
高句麗時代の朝鮮半島では「スサ」と呼ばれていた…
[史記]の三皇本紀には人身牛首であった炎帝神農(姜姓)が登場しますが、火徳の王 炎帝は、鋤や鍬の使用法を万人にしめして、はじめて耕作を教えたため号を神農氏という、と記されています。
人身牛首の炎帝神農は高句麗時代の朝鮮半島では「スサ」と呼ばれていたため、
炎帝神農(中国)、スサ(高句麗)、須佐之男命(日本)は人身牛首(中国)、牛首山(韓国)、牛頭天王(日本)であることがわかります。

エジプト神話 に登場する 不死鳥 。. https://ja.wikipedia.org/wiki/ベンヌ#:~:text=主に長い嘴をした黄金色に輝く 青鷺 で、他に 爪長鶺鴒 、赤と金の羽がある 鷲 とも言う。 稀なケースでは、鷺の頭をした人間の姿で表された。,イシェドの木 (ギリシアでは、ペルセア)にとまる聖鳥。 アトゥム 、 ラー 、 オシリス の魂であるとも考えられている。
別名 ベヌウ 、ベヌとも。. 名前の由来は「ウェベン(自ら立ち上がるもの)」。. イシェドの木にとまる聖なる鳥。. 或いはエジプト九柱の神々の筆頭格 …
主に長い嘴をした黄金色に輝く 青鷺 で、他に 爪長鶺鴒 、赤と金の羽がある 鷲 とも言う。 稀なケースでは、鷺の頭をした人間の姿で表された。
太陽信仰と関連付けられた イシェドの木 (ギリシアでは、ペルセア)にとまる聖鳥。 アトゥム 、 ラー 、 オシリス の魂であるとも考えられている。
…ホルス及びギリシアのフェニックスのモデルとも言われる。
フェニックス…

フェニックス Phoenix 古代フェニキアの護国の鳥「フェニキアクス」…
永遠の時を生きるという伝説上の鳥である。
中国では昔から鳳凰と呼ばれ世界各地の伝承では、その涙は、癒しをもたらし血を口にすると不老不死の命を授かると云われている。
元はエジプト神話の霊鳥ベンヌであるとされる。
また、古代フェニキアの護国の鳥「フェニキアクス」が発祥とも言われ数百年に一度、自ら香木を積み重ねて
火をつけた中に飛び込んで焼死し、その灰の中から再び幼鳥となって現れるという、伝説上の鳥であり
「不死鳥」または伝承から「火の鳥」といわれる。
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年05月12日 03:26:00 No.1118
No.1116 バスクのハタノ姓

こんなサイトがあった。
https://hontoka.ina-ka.com/666/index-666yuda-nippon-hatano-yuda.html

バスクでハタノ姓は、実際、見当たらんらしい。
摩訶不思議な話のようだ。
ソースはどこなんだろうか。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月12日 05:07:55 No.1119
司教「パトリアーク」…パトリ…羽鳥?機織り? 服部?…
ラテン語 で、古代ローマにおける貴族階級を意味する パトリキ (patricii) に由来する …https://ja.wikipedia.org/wiki/パトリシア

patrouiller 「見回りや警護をするために巡回する」という意味で、もともとは「泥を踏みしめて歩く」という兵士の俗語です。
これはおそらく古フランス語の patouiller 「水でパドルする」が語源で、パドルするという意味が「足や手でかく」という動作から来ています。
「patrouiller(巡回する)? https://www.bing.com/search?q=パトロール 語源&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&sm=csrmain&pq=パトロール 語源&sc=11-8&sk=&cvid=CEED9CEE86564F3893BCD5549C48A6E4&ghsh=0&ghacc=0&ghpl=

山鉾(やまぼこ)の巡行 https://kyoto-note.com/yamahokojunkou/

…祇園祭は、イスラエルに戻っていくお祭りであり、いわゆるイスラエルの中心エルサレムへの聖地巡礼を意味する祭りかもしれません。
秦氏がつくった作った都である京都の三大祭りの一つ、祇園祭にもユダヤとの関りが指摘されています。…
秦氏とは、記紀によると応神天皇の時代に日本にやってきた渡来系氏族だといわれています。
古代日本に機織りの技術や酒造りの技術、土木治水の技術などを伝えたとされる古代日本最大級の勢力を誇ったとされる氏族です。
【古代史の禁忌】謎の渡来人秦氏とユダヤの秘密https://note.com/key_history_ch/n/n32fb4effcb46

「秦=ハタ」と「太秦=ウズマサ」の謎を解くhttps://ameblo.jp/lightanjel/entry-10467434648.html
…ギリシャ語で、教会の司教のことを「パトリアーク(パトリアケス/Patriaches)」という。
もともと、「族長」という意味から派生した言葉であった。
中国の景教では、これを漢訳し、「波多力」と記載する。
この波多力が、ギリシャ語でいう司教「パトリアーク」である。
「新撰姓氏録」において、秦=ハタ氏である由来を記載した部分に、仁徳天皇から秦氏が姓を賜る記述がなされている。
そこで賜ったハタという姓は「波多」という字であった。
「秦」とい字ではなかったのである。
つまり、「秦氏」= 波多(はた)または波多力 = ハタ = 教会の司教(族長)が読み方の秘密であったのだ。

…「ウズマサ」を・・・「ウズ」と「マサ」に分解し、ヘブライ語の意味を見てみると
「ウズ」=ヘブライ語で「光、東、文化、開花」である。
「マサ」=ヘブライ語で「貢物、賜物」である。
古代ローマ帝国を意味した大秦寺の「大秦~太秦」に、「光の賜物」を意味する「ウズマサ」という意味を当てたのが、
秦一族の首長の読み方の秘密であったのだ。
天上のワオギツネ 投稿日: 2024年05月12日 15:41:48 No.1122
No.1119
ウズ・マサ

伏見深草の秦氏が5世紀後半頃には今の太秦(うずまさ)の地に進出し、太秦から嵐山を経て亀岡につながる街道を開いたフシがある。
このときに、すでにウズマサの名はあったと思われる。

景教が中国に現れるのは7世紀前半の唐太宗のときとされ、その宗廟は大秦寺と書かれたという。https://ja.wikipedia.org/wiki/ネストリウス派

ヘブライ語は口語としては2世紀頃に消滅しており、ウズマサが開かれた5世紀後半頃にはヘブライ語の口語が秦氏によって話されていたとは考えにくい。
なので、ウズマサの語義をヘブライ語で解釈するのは、いささか無理がある。
ハタ氏はタリム盆地のオアシス都市のホータンがらやってきた改宗ユダヤ教徒で、口伝律法を教義として用いていたと考えられる。
4世紀後半頃にはホータンはトルコ語が主体となっていたようで、口伝はトルコ語によるものだったと見なすことが可能だ。

そういう経緯から、秦氏はトルコ語話者であったとすることができるので、ウズマサはトルコ語で解釈するのがよいと思われる。
ウズマサはウズ・マサの構成であり、これをトルコ語で解釈すると「三つの机」の語義となる。
「三つの机」はユダヤ教の聖所である幕屋の祭事に必須の「三つの祭壇」を指す言葉とすることができ、秦氏はウズマサの地を「幕屋を置く所」と定め、日本におけるユダヤ教の神祭りの聖地と定めたのだと思われる。

このトルコ語のウズマサに「太秦」の字を被せたのは、中国でローマ帝国を表す呼称として「大秦」の字が用いられたことと関係していると思われる。
「大秦」の語義は「大きな国」であることから、秦氏が用いた「太秦」の字は必ずしもローマ帝国を表したと考えなくてもよい。
ユダヤ教徒にとって「大きな国」とは、カナンのダビデのイスラエルを指した可能性も考える必要がある。
この太秦の秦の字を取ってハタの氏名(うじな)に被せたのが秦(ハタ)氏と考えることができる。
そして、この秦氏の名が成立したあとに、秦の字にちなみ氏族のルーツを秦の始皇帝の血脈に仮託したと思われる。

要するに、4世紀後半頃に渡来した秦氏はヘブライ語を話しておらず、話していたのはトルコ語だったということである。
秦氏の事績をヘブライ語でもって解釈することは、多くの誤りをもたらすと思われる。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月12日 20:11:14 No.1123
トルコ…
テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurks、ロシア語: Тюрки、トルコ語: Türk halkları)とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団である[1]。
ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心に[2]シベリア、中央アジアおよび西アジア、東欧などに広く分布する[1]。
トルコ系諸民族、テュルク系諸族などとも[1]。https://ja.wikipedia.org/wiki/テュルク系民族
…台湾、中国など中国語圏では、狭義のトルコを「土耳其」(トルコ)、広義のトルコを「突厥」(とっけつ)と呼んでいる。
…「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる
突厥、鉄勒、回紇、葛邏禄、抜悉蜜、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[3]。
人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。
…歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも
「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥、鉄勒、回紇、葛邏禄、抜悉蜜、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[3]。
人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、
人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。
トルコを「突厥」(とっけつ)と呼んでいる…

モンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民。https://www.y-history.net/appendix/wh0302-076.html
. 552年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設。. 西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であった。. …
…突厥帝国の保護を受けて、東西交易にあたったのがソグド人の商人であった。

秦大津父と欽明天皇 
『日本書紀』には秦酒公(はたのさけのきみ)の1~2世代後と思われる欽明天皇のエピソードに秦大津父(ハタノオオツフ)という人物が登場します。
欽明天皇といえば6世紀半ばに即位した大王であり、越の国から即位した第26代継体天皇の子供にあたる人物です。

552年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設。
. 西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であった。https://www.y-history.net/appendix/wh0302-076.html
…突厥は6世紀のユーラシア東西にわたる大遊牧帝国を建設したトルコ系民族として重要。
現在の小アジアのトルコ共和国を構成している民族の遠い源流がモンゴル高原にあり、東では隋・唐、西ではエフタル、ササン朝、ビザンツ帝国と関わりを持っていた。
この世界史学習のスケールの大きさを味わってほしい。また、突厥は北方アジア民族(トルコ系)として最初の独自の文字として突厥文字をもったことも重要。現代のトルコにおいても、トルコの建国は突厥建国の552年とされており、トルコ民族史の栄光の時代とされている。

中国王朝との関係 突厥が自立し、急速に台頭した6世紀の中ごろは、中国では南北朝の動乱期で、華北では北魏が東西に分裂(534年)した後だった。
伊利可汗は中国北朝の西魏に使節を派遣して通婚している。
さらに華北では東魏・西魏の対立から北斉・北周への争いへと続くなか、漁夫の利を占める形で突厥は勢力を伸ばした。北斉・北周はいずれも突厥に対し、臣従の礼を取るほどであった。
西方でエフタルを滅ぼす  伊利可汗は、弟のディザブロスを西方に派遣すると、ディサブロスはササン朝ペルシアと接触した。
当時、ササン朝はエフタルの侵攻に悩んでいたので、ホスロー1世はその背後にある突厥の勢力と結ぶことにし、両者で挟撃してエフタルを滅ぼした(559年ごろ)。
 ディザブロスは西面可汗として中央アジアを支配して、その勢力はカスピ海方面まで及んだ。
彼はササン朝に中国の絹の市場を開こうとしたが、拒否されたためビザンツ帝国(ユスティニアヌス帝の時代)と結び、中国の絹を直接売り込むのに成功した。
突厥帝国の保護を受けて、東西交易にあたったのがソグド人の商人であった。
ソグド人…

突厥に仕えたソグド人たちは可汗が草原世界の覇者になることを「七州を支 配し、国民を養う」と表現していたことがわかる。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/139201/1/lit50_1.pdf

遊牧史は[匈奴 → 柔然&鮮卑 → 突厥 → ウイグル → 契丹 → モンゴル帝国]の流れをおさえると、すっきり理解できます。
遊牧民の歴史③ ─ 突厥の成立 https://rikizoamaya.com/nomad/
…中央アジアでウイグルがキルギスに倒されたあと、モンゴル高原で勢力をのばしたのが、契丹(キタイ)でした。
かれらはモンゴル系部族で、中国名では「遼」として耶律阿保機によって建国されました。

遼 趙

始皇帝とは. 始皇帝 (しこうてい…BC.259~BC.210)は、本名を嬴政(えいせい)または趙政、中国 戦国時代 末期に 秦 の35代荘襄王の子として趙の都・邯鄲で生まれました …
趙の都・邯鄲で生まれました…

趙匡胤 が宋を建国…
遼・北宋・西夏. 960年 に 後周 の部将であった 趙匡胤 が宋を建国、
宋/北宋 https://www.y-history.net/appendix/wh0303-032.html

宋の国の寿命を20年延ばした南宋の丞相・秦檜. 2022年4月14日 2022年4月15日. 中国歴史上において、 佞臣 ねいしん と呼ばれる者たちはかなりいます。 …
秦檜は佞臣の代表格?宋の国の寿命を20年延ばした南宋の丞相・秦檜https://hajimete-sangokushi.com/2022/04/14/qin-hui/
南宋の丞相・秦檜…

秦檜夫妻の後始末. 神韻の演目「追い払われた宰相」に登場した悪玉の話. 秦檜(しんかい)と妻の王氏は、宋の時代の最も憎まれた夫婦といえる。.
中国史でも最高とされる勇猛な将軍・ 岳飛 を、外敵の金(きん)と組んで陥れたことで悪名高い。https://ja.shenyunperformingarts.org/blog/view/article/e/AeJfFj_5ESA/秦檜夫妻の後始末.html
秦檜の妻…王氏…

王氏(おうし、わんし)はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/王氏
中国などにおける氏族の一つ。新を建てた王莽の一族の他、前漢から後漢末~三国時代の貴族・琅邪王氏[1]と太原王氏[2]、高麗の王族(開城王氏)などが特に知られる。
1392年に高麗の有力兵士である李成桂が高麗を滅ぼし、李氏朝鮮を建国以降、旧王族関係者だとして朝鮮半島内で撲滅対象にされていた。
日本における王氏は諸王の集団であり、令制では二世から四世まで(後に五世)までの皇族を範囲としていた。
…起源
姫姓王氏
琅邪王氏、太原王氏などの始祖は東周霊王の太子・姫晋とされる。[8]姫晋は王位継承前に死去(『春秋左氏伝』)、あるいは廃され(『新唐書』)[9]、王位は弟の姫貴(景王)が継承した。
姫晋の子孫の家は「王家」と呼ばれ、その呼称が氏になったと伝える。この系統が最も著名であるが、別に周の文王の第十五子畢公高や、戦国時代の信陵君の末裔も王家の末裔であるから王氏を称したと言う。[10]
子姓王氏
殷の王族の一門である。汲郡の王氏は比干の末裔だという。[11]
嬀姓王氏
舜の子孫である。北海王氏・陳留王氏がこれであるという。[12]

魏晋南北朝時代以降に漢化した異民族出身者が名乗り始めた例も多く、完顔氏からの改姓の例などが知られている。
琅邪王氏
秦の将軍王離の長子の王元の末裔といわれる王吉を祖とし琅邪郡臨沂県を本貫とする。太原王氏は同族にあたると伝わる[13]。
秦の将軍王離の長子の王元…

秦 は中国の西の辺境地帯にあり、中原の国々からは「西の野蛮国」と蔑まれていました。.http://chugokugo-script.net/rekishi/shin.html
…BC.900の頃、西周の孝王に召し抱えられた非子(ひし)という男が、馬の繁殖に成功したことで「嬴」(えい)という姓を賜ります。これが秦建国の起源です。
西周が滅んだ時、秦の初代・襄公(じょうこう)は東周に移った平王を守護したことで、周の旧地である「岐」(き)に封建(ほうけん…諸侯が王より領地を与えられ、
その後その地を統治すること)され、東周の諸侯(しょこう…日本でいうなら「大名」)となりました。
東周…

東周の戦国時代末期…
秦氏は徐福の末裔なのでしょうか? https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14284309459
古代史を見て見ますと、東周の戦国時代末期から秦・前漢時代初頭に、中国中原にあった韓国の地域を中心とした人々が戦乱を逃れて朝鮮半島の中部から南部に植民都市を建設しています。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14284309459
朝鮮…
渡来人秦氏. 京古代の朝鮮半島には、三韓時代 (辰韓・弁韓・馬韓)がありました。http://kyotokanko.co.jp/hata/hatashi7.html
…秦氏と言われる人たちはこの新羅の国から日本に渡来してきた人たちと言われています。
氏名の由来として、「ハタ」の語源は、新羅語であり、新羅語で「ハタ」は、海を意味し、朝鮮半島から海を渡ってきた人、ハタビト=海人こそが、源義であるという説があります。

秦氏…
『新撰姓氏録』では、秦氏の系譜を記載し、太秦公宿禰(ウズマサノキミノスクネ)は秦の始皇帝の子孫であるとしています。
太秦公宿禰(ウズマサノキミノスクネ)とは、秦氏の本宗家ともいえる家柄です。
『新撰姓氏録』では、その出自を秦の始皇帝の子孫であるとし、そして「弓月王」の一名をもつ融通王が応神天皇14年に127県の百姓を率いて帰化したのが秦氏のはじまりとしています。
≪系図≫
秦の始皇帝―〇-〇-考武王-功満王-融通王(一名弓月王)
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月12日 20:58:54 No.1124
突厥の歴史 ─ エフタル・突厥文字・突厥碑文・人種・製鉄技術・西突厥/東突厥【世界史】https://rikizoamaya.com/turks/
…突厥は、すぐれた製鉄技術をもっており、鉄製の農具を活かし、生産活動をおこなっていました。
また一連の鉄製品は「草原の道」とよばれた交易ネットワークに乗り、商品として売買されます。
それにより突厥は、莫大な利益を獲得し、政治面でもよりいっそう勢力をのばすことになります。
強い経済力を背景に領土を広げる突厥は木汗可汗(ぼくかん かがん)のときになると、それまでつかえていた柔然をついに滅亡させます。
つづけて、ササン朝ペルシアと手をくみ、同じ遊牧国家であるエフタルを滅ぼします。
さらに、
・東部 → 契丹を追放
・北部 → キルギスを併合
といったかたちで、まわりのエリアをつぎつぎおさめていきます。
最終的には、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を形成することになります。

「トルコ人」遺伝子https://ja.wikipedia.org/wiki/トルコ人
アナトリアは古来より文明の十字路として多種多様な系統の人々が移り住んできたため、遺伝子は多様である。
トルコ人のY染色体ハプログループの上位6種の割合[87]を示す。
J2=24%
R1b=14.7%
G=10.9%
E1b1b=10.7%
J1=9%
R1a=6.9%
トルコ語はモンゴロイド系言語であるアルタイ諸語に属すが、モンゴル系C2系統の割合は非常に少なく、他のモンゴロイド系遺伝子の割合も非常に少ない。
Bülent İplikçioğluによるとトルコ人は今のモンゴルを領土とし、モンゴル人を統治したが、元々人種はモンゴル人とは違って
古代からコーカソイド系の遊牧民とモンゴル人とは異なるアジア系の遊牧民の集団であり、人種的にはむしろコーカソイドに属する[88]。

ハプログループ J…
ユダヤ教の世襲祭司職 (神主)である コーヘン (Cohen)家のY染色体は、 ハプログループJ1a1b1b1a2a1a1a4b1a (J-L147.1*, subclade-Z18271)である (注1)。
アシュケナジイユダヤ人のハプロタイプhttps://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12146761873.html

ハプログループ E
日ユ同祖論が、うぜーので、念のため、ハプログループについて調べました。 ハプログループE (Y染色体) - Wikipedia …https://note.com/kyokannazuki21/n/n6bf1370c507c
はい、Eグループでーっす。
E1b1b1a1a V1477  チュニジア・ユダヤ人
E1b1b1b2c V42 ユダヤ人、アラブ人

ハプロDNA  E ユダヤ…
ハプログループDE…
ハプログループDEはYAPという変異で定義される。
YAP (ヤップ、Y-chromosome Alu Polymorphism)とは、Y染色体の長腕部「DYS287 Yq11」上にある約300塩基からなるAlu配列(Alu sequence)の挿入多型。
この古代に起きた「M1」と定義される変異の痕跡(SNP)をY染色体上に持つのは、
本来ならばtRNA、rRNAなどの核内低分子RNAに転写されるべきものが、何らかの要因によって
Y染色体上のDNA配列に挿入されてしまったもので、生体内での働きについては未解明である。
Alu配列とは蛋白質をコードする配列を全く含まず、制限酵素Aluで認識されるためこの名がつけられた。
YAP変異をもつ系統はハプログループEとハプログループDに限られる[6]。
…ハプログループDの子系統のうち、ハプログループD2はアフリカに留まり、ハプログループD1が出アフリカを果たした。
アフリカに留まりアフリカ大陸全土や一部は地中海地域やヨーロッパなどに父系を通じて広がった集団がハプログループEとハプログループD2であり、
分岐後出アフリカを経て東方に向かい、チベット・アンダマン諸島・ヤオ族・フィリピンのマクタン島・グアム島・
日本列島[8] などに父系を通じて広がったのがハプログループD1である。
またDEの子型でD系統にもE系統にも属さないパラグループDE*がチベット人[9]、ナイジェリア[10]、ギニアビサウ[11] でごくわずかに発見されているが、このうち
ナイジェリアのサンプルについてはハプログループD0(後にD2に名称変更)であることが判明し[3]、上述のように
ハプログループDが既にアフリカにおいて発生していたことが示された。
D1a1 (F6251/Z27276)  チベット、モンゴル、中央アジア等
D1a2 (Z3660)
D1a2a (M64.1/Page44.1, M55)   日本(大和民族、アイヌ、琉球民族)
D1a2b (Y34637) アンダマン諸島(オンゲ族、ジャラワ族)
D1b (L1378)   フィリピン(マクタン島、ルソン島)[13]
D2 (A5580.2)  ナイジェリア、サウジアラビア、シリア
E アフリカで多い。
E1b1a アフリカ中~南部。ニジェール・コンゴ語族と関連。
E1b1b アフリカ北東部・北部、中東、南ヨーロッパなど。アフロ・アジア語族と関連。

…日ユ同祖論というものがあります。日本人は元々ユダヤ人だったというものです。
しかしながら、遺伝的に見るとこの両者の隔たりは大きく、日本人にはEの遺伝子が見られません。
おそらくは、弥生時代に中国等を通してその文化だけが入って来たのだろうと思われます。
ちなみに、D(日本人)とO(他のアジア人)の遺伝子の間には7万年ほどの開きがあり、両者は似て異なる民族であることがわかります。
A〜Eまでは「古代血統種」と呼ばれています。これに対してヨーロッパに住むアーリア系の人種がR以降と、もっとも若い民族となっています。
これに対してヨーロッパに住むアーリア系の人種がR以降と、もっとも若い民族となっています。
Dの遺伝子は特に縄文系に多く見られる
日本人の中でもDの遺伝子を持っているのは、沖縄、南九州、関東、東北、北海道(アイヌ)に多く見られ、縄文人から受け継がれてきていることがわかります。
縄文人から受け継がれてきていることがわかります。
縄文人は日本において1万年以上の長きに渡って繁栄してきたことがわかっていますが、
D遺伝子が分岐したのは、8万年〜6万年前と考えられていますので、
実際はもっともっと昔から日本に住んでいたのだろうと思われます。

フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、
一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多い。https://enkieden.exblog.jp/23742661/
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 08:07:39 No.1126
バスク人(バスクじん、スペイン語: vascos, バスク語: euskaldunak)とは、ビスケー湾岸でピレネー山脈西端部にある族。
 伝統的にバスク地方として知られる地域に元来居住している系統不明の民 https://ja.wikipedia.org/wiki/バスク人
古代ローマ時代にバスク人は自治を許され、中世から近世にはバスク人の王(イニゴ・アリスタ)の末裔達がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った。
バスク人は中世より漁師として大西洋へタラ漁や捕鯨に繰り出し、大航海時代には多数の航海者やコンキスタドールを輩出し、南北アメリカ大陸に多くの移民を送り出した。

…スペインのバスク人居住地域は同国で最も所得水準の高い地域でもあるが、スペイン内戦で多くのバスク人民族分離主義者が共和国側についたことやフランコ政権の弾圧に抵抗していた歴史があり、中でも
急進的な組織である「バスク祖国と自由(ETA)」は数々のテロ事件を起こし、かねてからスペインとその周辺、関係国の政治問題となっている。

遺伝学的特徴
2015年に発表された研究では、バスク人は、ヨーロッパに農耕をもたらした集団と先住の狩猟採集民が混合した集団を起源とし、その後周囲の集団と隔てられたことが示された[15]。

(ワープ飛びます)… なぜか似ている日本とイギリスの遺跡たち https://www.webchikuma.jp/articles/-/647
…「ケルト」と「縄文」の正体を、相互に比較しながらはっきりとさせることである。
縄文は、近年では列島「文明」のルーツなどともてはやされ、現代日本の歴史的アイデンティティの生成にとって大きな役割を与えられている。
いっぽう、ケルトもまたよく似た扱いを受けてはいるが、縄文と異なって、イギリス一国ではなく、ヨーロッパ全体の歴史的アイデンティティ形成に利用されてきた。
ケルトと縄文のこのような差異がなぜ生じたのかという問題のなかには、イギリスと日本の両地域がたどった歴史の相違点が潜んでいるにちがいない。
それを浮き彫りにすることによって両地域の歴史の個性に光を当てることができるようになるだろう。

イギリスの古墳(羨道墳、Passage grave)などヨーロッパやインドなどでも普遍的に見られる墳丘墓の内部施設 
羨道墳(せんどうふん、えんどうふん) https://ja.wikipedia.org/wiki/羨道墳
…特殊な形としては、十字形の羨道墳、分かれていない通路のもの、広い前庭入口を備えたもの、主要な埋葬室から離れて通じている副室を備えたものなどがある。

(戻ります)…バスク人のY染色体はハプログループR1bが9割の高頻度を占める[17]。
非印欧系であるにも関わらず印欧系ハプログループR1bが高頻度である理由について、
「印欧語を話す男系征服者集団が原住バスク人女性に多くの子を生ませたが、その子供は父親の印欧語ではなく母親のバスク語で育てられたため、
父系のみR1bの印欧系ながら、言語はバスク語を保った」という仮説がある[18]。
(ただし、バスク人は小サイズ集団のため遺伝的浮動を経ており、高頻度のR1bは瓶首効果による可能性もある。)ハプログループR1b(S116)は青銅器時代にバスク地方にもたらされたとされる[19]。
またバスク人は表現型で最大35%、遺伝型で60%がRh-型の血液である[20]。
形質人類学的特徴
人類学的には、バスク人は「鼻の長い中頭、額はこめかみの部分が広く下あごに向かって狭くなる(少し長めの逆二等辺三角形)」とされる[14]。
(少し長めの逆二等辺三角形)…

中条遺跡から出土した土偶Aは頭部に正立三角形が刻まれているのだが,
茅野市(かやのし)で出土した仮面の女神(ヘッダー写真)は顔部が逆三角形をしている。
魔除けのシンボルとされる
籠目の構成要素である正立三角形(陽)と逆三角形(陰)に別けて見れば,仮面の女神は女性性(陰)を示しており、
中条遺跡 土偶Aは男性性(陽)を示したものと受け取れる。
…顔部が逆三角形の土偶は他の著名な土偶でも複数見られるし、数多く出土している三角土版も、基本的に逆三角形であり、
縄文時代の遺物で正立三角形の部位を持つものは記憶に少ない。
個人的に思い浮かぶものは以下の3点しかなかった。

…この三角トウ形土製品の正三角形の面に2本の平行線で枠取りがされており、
三角形の中に何か紋が刻まれているのだが、それらを無視したように大きな円形の穴が開けられている。

うずまきの幾何(梅原雅顕) なります.例えば,蚊取線香のつくる模様はこのうずまき線に近い形です.
ろくろで平らな粘土板を回転させて,真ん中から棒で一定の速さ …
[PDF]うずまきの幾何 https://www.mathsoc.jp/publication/tushin/0404/umehara4-4.pdf
3.「うずまきの正負と曲率円」
数学では,左回り(反時計回り)をもって正の回転と呼びます.左回り は人間にとって自然な回転方向のようでして,
スケートリンクなどでも左 回りが普通のようです.
正のうずまき,負のうずまきの呼び名は,このこ とに由来します.-
一方,日時計の針(=影)は,北側を通って,西から東 に移動します.
時計については,このなごりで右回りですが,私たちはあ まりに見慣れているため,
逆向きに回る時計を見ると,何かとても奇異に 感じてしまうことでしょう.
そんなわけで,別に正のうずまきの方が由緒 正しいということはないかもしれません.
けれども,北半球では台風は正 のうず去きを描きますし,
かたつむりも正のうずまきを描くものが大部分 のようです.

…「うずまき線の作図法」
…この方法でうずまき線を作図すると, ほぐれた糸の長さが,
ちょうど曲率半 径となり,糸の根元が曲率円の中心に なることが知られております.
数学用 語では,曲率円の中心の軌跡を縮閉線 とよびますが,
この作図法では,あて 板の曲線は,描かれたうずまき線の縮 図7:円からできるうずまき線 問線になります.

古墳の墳丘は、円・三角・方の各種幾何学的図形、ならびに水平面および一定の角度に保たれた斜面を組み合わせたものです。
古墳の設計 https://www.mozu-furuichi.jp/jp/learn/feature02.html
…埴輪とは、古墳の表面を飾るために用いられた焼き物であり、筒状の円筒埴輪とモノや生き物を象った形象埴輪の2種があります。
圧倒的多数を占めるのは円筒埴輪で、古墳築造のたびに膨大な量が設置されました。
特に巨大な仁徳天皇陵古墳や応神天皇陵古墳の場合、円筒埴輪が2万本以上焼かれ、墳丘上をおごそかに飾ったと考えられています。

>図7:l円からできるうずまき線  https://www.mathsoc.jp/publication/tushin/0404/umehara4-4.pdf

レ イ ・ラ イ ン二古 代 信 仰 の 方位 線 に つ い て 山 田俊:雄 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jve1986/1988/21/1988_21_17/_pdf/-char/ja
…図20益 田岩船を中心 とした山の神社 と古墳の展開図

人形塚古墳の地割り線から推定した前方後円墳の築造設計ー円と三角形の築造企画 https://yuikodaishi.hatenablog.com/entry/9332430
…地割り線の延長が三角形を描き出すことだけをとりあげて、前方後円墳の築造は三角形を使って設計された、と結論づけるのはまだはやすぎます。
…❶ 墳丘は円と三角形の合体形
〔図〕のように、人形塚の地割線を墳丘図の上に乗せてみると、前方部両側線、またはその地割線の延長は後円部側で交わります。
この角度は30度。
つまり、頂角30度の二等辺三角形を形成するのです。
これは、築造時、実際に前方後円墳を築く際の、前方部墳丘の形状の基点となった可能性を示していると想像しました。
❷ ❶ の二等辺三角形の頂点となる角度を2等分すると、後円部中心点・前方部中央を通る古墳の中軸線と重なります。
人形塚の前方部が、左右対称の基本設計で造られていることを示唆しているのです。
左右対称の基本設計は、頂角30度の二等辺三角形を使えば容易に求められるということです。
❸ 同じ頂角30度の二等辺三角形を、後円部地割線で描き出された後円部上段の裾の上がわ、中軸線上の交点から前方部に延ばすと、前方部上段の裾の側線と重なります。
つまり前方部上段の設計は、頂角30度の二等辺三角形を使えば容易に求められるわけです。
❹ 同じ頂角30度の二等辺三角形を、後円部地割線で描き出された後円部の中心点、あるいはその少し上の上段墳頂の傾斜が緩やかになる辺りを頂点として前方部側に延ばすと、地割線と重なります。
三角形の頂点の位置は、石室の埋葬領域と関係している可能性も考えられるのです。
❺ 後円部から前方部へ延びている渡り土手のラインは、円の中心から15度か22度の二等辺三角 形の側線と重なります。
❻ 後円部中心点を頂点として頂角45度の二等辺三角形を引くと、前方部両隅で、周濠を頂点とする ❶ の、頂角30度の二等辺三角形と交わります。
同様に、頂角90度の直角二等辺三角形を前方部両隅に合わせると、中軸上の前方部の最高地点で頂角を形成します。
この線は、前方部の側線と底辺ラインの両隅の角を形成している可能性が考えられます。
もう一枚の図をごらんください。これはもっと上空からの俯瞰図で、発掘報告書の図に上の図同様の、地割り線から推定した三角形を書き加えたものです。
❼ 墳丘図では、墳丘の底辺ラインがゆるいカーブを描いているように見えます。
このカーブは 後円部中心点から円を描くと、底辺のゆるいカーブにぴったりと合うように見えます。
こうしたゆるいカーブを描く前方部の底辺ラインは、他に、箸墓と鳥屋ミサンザイ古墳(現宣化 天皇陵)にみることができます。
箸墓の場合は後述しますが、後円部の裾ラインの中軸線上との交点、
すなわち墳丘平面図のいちばん上の地点にコンパスの中心を当てて円を描くと、
前方部墳丘前面のラインに合うということです。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 09:57:03 No.1127
バスク人(バスクじん、スペイン語: vascos, バスク語: euskaldunak)とは、ビスケー湾岸でピレネー山脈西端部にある族。
 伝統的にバスク地方として知られる地域に元来居住している系統不明の民 https://ja.wikipedia.org/wiki/バスク人
古代ローマ時代にバスク人は自治を許され、中世から近世にはバスク人の王(イニゴ・アリスタ)の末裔達がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った。
バスク人は中世より漁師として大西洋へタラ漁や捕鯨に繰り出し、大航海時代には多数の航海者やコンキスタドールを輩出し、南北アメリカ大陸に多くの移民を送り出した。

…スペインのバスク人居住地域は同国で最も所得水準の高い地域でもあるが、スペイン内戦で多くのバスク人民族分離主義者が共和国側についたことやフランコ政権の弾圧に抵抗していた歴史があり、中でも
急進的な組織である「バスク祖国と自由(ETA)」は数々のテロ事件を起こし、かねてからスペインとその周辺、関係国の政治問題となっている。

遺伝学的特徴
2015年に発表された研究では、バスク人は、ヨーロッパに農耕をもたらした集団と先住の狩猟採集民が混合した集団を起源とし、その後周囲の集団と隔てられたことが示された[15]。

(ワープ飛びます)… なぜか似ている日本とイギリスの遺跡たち https://www.webchikuma.jp/articles/-/647
…「ケルト」と「縄文」の正体を、相互に比較しながらはっきりとさせることである。
縄文は、近年では列島「文明」のルーツなどともてはやされ、現代日本の歴史的アイデンティティの生成にとって大きな役割を与えられている。
いっぽう、ケルトもまたよく似た扱いを受けてはいるが、縄文と異なって、イギリス一国ではなく、ヨーロッパ全体の歴史的アイデンティティ形成に利用されてきた。
ケルトと縄文のこのような差異がなぜ生じたのかという問題のなかには、イギリスと日本の両地域がたどった歴史の相違点が潜んでいるにちがいない。
それを浮き彫りにすることによって両地域の歴史の個性に光を当てることができるようになるだろう。

イギリスの古墳(羨道墳、Passage grave)などヨーロッパやインドなどでも普遍的に見られる墳丘墓の内部施設 
羨道墳(せんどうふん、えんどうふん) https://ja.wikipedia.org/wiki/羨道墳
…特殊な形としては、十字形の羨道墳、分かれていない通路のもの、広い前庭入口を備えたもの、主要な埋葬室から離れて通じている副室を備えたものなどがある。

(戻ります)…バスク人のY染色体はハプログループR1bが9割の高頻度を占める[17]。
非印欧系であるにも関わらず印欧系ハプログループR1bが高頻度である理由について、
「印欧語を話す男系征服者集団が原住バスク人女性に多くの子を生ませたが、その子供は父親の印欧語ではなく母親のバスク語で育てられたため、
父系のみR1bの印欧系ながら、言語はバスク語を保った」という仮説がある[18]。
(ただし、バスク人は小サイズ集団のため遺伝的浮動を経ており、高頻度のR1bは瓶首効果による可能性もある。)ハプログループR1b(S116)は青銅器時代にバスク地方にもたらされたとされる[19]。
またバスク人は表現型で最大35%、遺伝型で60%がRh-型の血液である[20]。
形質人類学的特徴
人類学的には、バスク人は「鼻の長い中頭、額はこめかみの部分が広く下あごに向かって狭くなる(少し長めの逆二等辺三角形)」とされる[14]。
(少し長めの逆二等辺三角形)…

中条遺跡から出土した土偶Aは頭部に正立三角形が刻まれているのだが,
茅野市(かやのし)で出土した仮面の女神(ヘッダー写真)は顔部が逆三角形をしている。
魔除けのシンボルとされる
籠目の構成要素である正立三角形(陽)と逆三角形(陰)に別けて見れば,仮面の女神は女性性(陰)を示しており、
中条遺跡 土偶Aは男性性(陽)を示したものと受け取れる。
…顔部が逆三角形の土偶は他の著名な土偶でも複数見られるし、数多く出土している三角土版も、基本的に逆三角形であり、
縄文時代の遺物で正立三角形の部位を持つものは記憶に少ない。
個人的に思い浮かぶものは以下の3点しかなかった。

…この三角トウ形土製品の正三角形の面に2本の平行線で枠取りがされており、
三角形の中に何か紋が刻まれているのだが、それらを無視したように大きな円形の穴が開けられている。

うずまきの幾何(梅原雅顕) なります.例えば,蚊取線香のつくる模様はこのうずまき線に近い形です.
ろくろで平らな粘土板を回転させて,真ん中から棒で一定の速さ …
[PDF]うずまきの幾何 https://www.mathsoc.jp/publication/tushin/0404/umehara4-4.pdf
3.「うずまきの正負と曲率円」
数学では,左回り(反時計回り)をもって正の回転と呼びます.左回り は人間にとって自然な回転方向のようでして,
スケートリンクなどでも左 回りが普通のようです.
正のうずまき,負のうずまきの呼び名は,このこ とに由来します.-
一方,日時計の針(=影)は,北側を通って,西から東 に移動します.
時計については,このなごりで右回りですが,私たちはあ まりに見慣れているため,
逆向きに回る時計を見ると,何かとても奇異に 感じてしまうことでしょう.
そんなわけで,別に正のうずまきの方が由緒 正しいということはないかもしれません.
けれども,北半球では台風は正 のうず去きを描きますし,
かたつむりも正のうずまきを描くものが大部分 のようです.

…「うずまき線の作図法」
…この方法でうずまき線を作図すると, ほぐれた糸の長さが,
ちょうど曲率半 径となり,糸の根元が曲率円の中心に なることが知られております.
数学用 語では,曲率円の中心の軌跡を縮閉線 とよびますが,
この作図法では,あて 板の曲線は,描かれたうずまき線の縮 図7:円からできるうずまき線 問線になります.

古墳の墳丘は、円・三角・方の各種幾何学的図形、ならびに水平面および一定の角度に保たれた斜面を組み合わせたものです。
古墳の設計 https://www.mozu-furuichi.jp/jp/learn/feature02.html
…埴輪とは、古墳の表面を飾るために用いられた焼き物であり、筒状の円筒埴輪とモノや生き物を象った形象埴輪の2種があります。
圧倒的多数を占めるのは円筒埴輪で、古墳築造のたびに膨大な量が設置されました。
特に巨大な仁徳天皇陵古墳や応神天皇陵古墳の場合、円筒埴輪が2万本以上焼かれ、墳丘上をおごそかに飾ったと考えられています。

>図7:l円からできるうずまき線  https://www.mathsoc.jp/publication/tushin/0404/umehara4-4.pdf

レ イ ・ラ イ ン二古 代 信 仰 の 方位 線 に つ い て 山 田俊:雄 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jve1986/1988/21/1988_21_17/_pdf/-char/ja
…図20益 田岩船を中心 とした山の神社 と古墳の展開図

人形塚古墳の地割り線から推定した前方後円墳の築造設計ー円と三角形の築造企画 https://yuikodaishi.hatenablog.com/entry/9332430
…地割り線の延長が三角形を描き出すことだけをとりあげて、前方後円墳の築造は三角形を使って設計された、と結論づけるのはまだはやすぎます。
…❶ 墳丘は円と三角形の合体形
〔図〕のように、人形塚の地割線を墳丘図の上に乗せてみると、前方部両側線、またはその地割線の延長は後円部側で交わります。
この角度は30度。
つまり、頂角30度の二等辺三角形を形成するのです。
これは、築造時、実際に前方後円墳を築く際の、前方部墳丘の形状の基点となった可能性を示していると想像しました。
❷ ❶ の二等辺三角形の頂点となる角度を2等分すると、後円部中心点・前方部中央を通る古墳の中軸線と重なります。
人形塚の前方部が、左右対称の基本設計で造られていることを示唆しているのです。
左右対称の基本設計は、頂角30度の二等辺三角形を使えば容易に求められるということです。
❸ 同じ頂角30度の二等辺三角形を、後円部地割線で描き出された後円部上段の裾の上がわ、中軸線上の交点から前方部に延ばすと、前方部上段の裾の側線と重なります。
つまり前方部上段の設計は、頂角30度の二等辺三角形を使えば容易に求められるわけです。
❹ 同じ頂角30度の二等辺三角形を、後円部地割線で描き出された後円部の中心点、あるいはその少し上の上段墳頂の傾斜が緩やかになる辺りを頂点として前方部側に延ばすと、地割線と重なります。
三角形の頂点の位置は、石室の埋葬領域と関係している可能性も考えられるのです。
❺ 後円部から前方部へ延びている渡り土手のラインは、円の中心から15度か22度の二等辺三角 形の側線と重なります。
❻ 後円部中心点を頂点として頂角45度の二等辺三角形を引くと、前方部両隅で、周濠を頂点とする ❶ の、頂角30度の二等辺三角形と交わります。
同様に、頂角90度の直角二等辺三角形を前方部両隅に合わせると、中軸上の前方部の最高地点で頂角を形成します。
この線は、前方部の側線と底辺ラインの両隅の角を形成している可能性が考えられます。
もう一枚の図をごらんください。これはもっと上空からの俯瞰図で、発掘報告書の図に上の図同様の、地割り線から推定した三角形を書き加えたものです。
❼ 墳丘図では、墳丘の底辺ラインがゆるいカーブを描いているように見えます。
このカーブは 後円部中心点から円を描くと、底辺のゆるいカーブにぴったりと合うように見えます。
こうしたゆるいカーブを描く前方部の底辺ラインは、他に、箸墓と鳥屋ミサンザイ古墳(現宣化 天皇陵)にみることができます。
箸墓の場合は後述しますが、後円部の裾ラインの中軸線上との交点、
すなわち墳丘平面図のいちばん上の地点にコンパスの中心を当てて円を描くと、
前方部墳丘前面のラインに合うということです。

トルコ語起源のスラヴ人…
ヨーロッパにはラテン系、ゲルマン系、スラブ系、ケルト系、バスク人など、さまざまな人種がいますが、これだけ長い年月をかけてるのに、混ざらないのですか?https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1284675242
スラブ系…
東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)
西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)
南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。
…捕鯨は、ポモール、オボトリート族、ラーン人などの北スラブの部族の間で開発された。

トルコの世界遺産「ゴルディオン」とは?https://worldheritage-mania.com/heritage-gordion/
ゴルディオンは、フリギア王国の文化と政治の中心地であり、フリギアの文献は碑文などもほとんど残っておらず、フリギアの文明はほぼ不明という状況のなか、
ここはフリギアの全体像を知るためには考古学的にも重要な場所であるという点。
フリギア…
フリジア帽は赤い三角帽である [2] 。. この帽子は元来 フリギア (フリジア)に起源するとされているが、古代ローマにおいては、自由身分の解放された 奴隷 が被るものとして採用された [1] 。https://ja.wikipedia.org/wiki/フリジア帽

フリギア帽を被り、闇を晴らし光を齎す松明を持っていた。彼は名をミトラスと言った。https://note.com/holotelesmatika/n/n490013fb1d53

異教時代の神々:古代スラヴ人は誰に祈ったか?
スヴァローグ ( ウクライナ語: Сварог 、Svarog)とは スラヴ神話 における 太陽神 であり、 火 の 精霊 または 神 でもある。https://www.wikiwand.com/ja/スヴァローグ
…古スラヴ神話では、スヴァローグは火に介在する生殖や性的な力をもって鍛冶の神としても信仰されていた。
いくつかの神話では、スヴァローグは自身の口を鋤代わりに使って耕し、人間に恵みを与えたという。さらにスヴァローグは深い溝を作り、あの世とこの世を切り離す事も出来るという。
さらにスヴァローグは深い溝を作り、あの世とこの世を切り離す事も出来るという。
また、スヴァローグは聖コスマスと聖ダミアヌス、聖ミカエルとも同一視された。この場合、聖人を動物表現で表すことが多い。
同一視された聖人の姿は黄金の角を持った牛、雄豚、馬、Varagnaという名のハヤブサで表されている
黄金の角を持った牛…

牛頭天王信仰とその周辺 https://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/fac44f95407bdec280090df01c3b431f
…日本においては、角が生えていると、「鬼」と思われて「悪者」「異常」といった観念を抱いてしまいがちですが、角は「力強さ」「勇気」「正義」の証と考えた方が「正常」なのです。その証拠に、日本の戦国時代の武将の兜(かぶと)には角のようなものをのばしている場合がありますし、同様にヨーロッパの戦士の兜にも角を生やしたものが目立ちます。
角は「力強さ」「勇気」「正義」の証と考えた方が「正常」なのです。その証拠に、日本の戦国時代の武将の兜(かぶと)には角のようなものをのばしている場合がありますし、同様に
ヨーロッパの戦士の兜にも角を生やしたものが目立ちます。
 古代中国において、角のはえている「神農」様が「英雄」であり「慈悲深い神様」であり崇拝の的であったことは十二分に想像できることです。
この「神農」様が日本に伝わったと想像することもできます。地獄には亡者を取り締まる「牛頭馬頭(ごずめず)」なる者もいるようです。
農業で活躍する牛を守る「牛神」様もいます。「神農」様、「牛頭馬頭」様、「牛神」様・・・・・・。
ビャクダン(牛頭栴檀)の森の神様はいろいろな神様と混ざり合って、牛頭天王様になっていったとも考えることもできます。

角を持ち、角の形は鹿角が代表的だが牛角である事もある。https://dic.pixiv.net/a/ケルヌンノス
ケルヌンノスとはケルト神話の有角神である。 概要ケルトにおける狩猟と動物たちの神で、死神の側面もある。

ケルヌンノス(Cernunnos または Kernunnos)は、https://ja.wikipedia.org/wiki/ケルヌンノス
ケルト神話の狩猟の神にして冥府神。獣王・動物王であったと推定されている。また、多産と豊作に関係があったと考えられている。
ケルヌンノスという名称はパリで出土した「船乗りの柱」に見られる(ただし不完全で、冒頭の1文字が欠けている)。
彼の姿は、デンマークで発見され、紀元前1世紀まで遡るとされる銀製のグンデストルップの大釜(Gundestrup Cauldron)にも描かれている。ここでは、
彼は胡坐をかいており、頭に二本の角、手には山羊(もしくは雄羊)頭の蛇を持っている。これは角のある神としての一般的な描写である。
地母神を妻としたが、この女神は後に破壊神エススについた。

ウラジーミル・プーチン https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラジーミル・プーチン#暗殺未遂事件

プーチン大統領がこだわる「キエフ・ルーシ」とは? https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/qa/2022/06/17/22839.html
…キエフ・ルーシは9世紀末から13世紀にかけて、今のウクライナやロシアなどにまたがる地域にあった国です。

ウラジミール大公は988年に、ロシアの源流であるキエフ大公国にビザンチン帝国(東ローマ帝国)から正教を導入したが、それ以前はといえば、
スラヴ人は何世紀にもわたり、スヴァローグ、ペルーンなどの古代の神々を崇めていた。https://jp.rbth.com/history/79183-kodai-kami

…1202年に書かれた『言語母論』においては、ペルーンは「ジュピター」という名前で訳されている[3]。
こうした点から、19世紀以降、研究者はペルーンを、ギリシア神話で稲妻を用いるゼウスや北欧神話で鎚を振るうトールと同様の雷神とみなすことが多い[9]。
またアーサー・コットレルは、882年にヴァイキングのオーレクがキエフを攻略し支配したことによって、
トール信仰がペルーンなどスラヴの雷神信仰に影響を与え、ペルーンがトールと似た性質を備えるようになったと考えている[8]。
ゼウス 雷神 角…
大陸ケルト(ガリア)の神ケルヌンノスの名前は「角が生えたもの」という意味である。https://www.karakusamon.com/greece/zeus.html
フランスのパリで発見された石柱には、この神が名前と共に鹿の角が生えた姿で彫刻されており、動物の守護神であったと考えられている。
モーセの角
ヘルメスの帽子
ユピテル/ゼウス
蛇であるゼウス ゼウスはヘーラーの実の母レアーと交わりペルセポネーを産ませた。
そして、蛇に化けてペルセポネーに近づき、跡継ぎとしてザグレウスを産ませた(ザグレウスは単にデーメーテールとの間に産まれた子という説もある)。 (→死と再生の神(wikipedia)
「ゼウス=アモン」…

Au 中王国、彼の重要性は高まり、ミン・ホルスの形でホルスとさらに密接に関係するようになりました。 話す 新しい王国、とも合併されました。
アモン カムテフ(「母の雄牛」、つまり自分の母との間に自分を生み出す神)である蛇イルタでもあるミナ・アムンの姿をしている。
独立神としてのミンもカムテフであった。https://www.marcus-parve.com/ja/分生殖の神/

「神々の王」であるアムン・ラーになる前、アムンはテーベの地元の豊穣の神と対をなす単なる存在でした。https://jacyou.com/society/tory/amun-god-ancient-egypt/
アムンミン: 母の雄牛

ヴァイキングは角つき兜を被った姿として描かれることが多いのですが、あれは史実なのですか?

「角のついた兜をかぶった北欧の海賊」というイメージで語られてきたヴァイキング。 実際には兜に角はなく、平時には商人であり農民だった。 https://books.j-cast.com/2020/01/12010615.html#:~:text=「角のついた兜をかぶった北欧の海賊」というイメージで語られてきたヴァイキング。,実際には兜に角はなく、平時には商人であり農民だった。 そもそも「ヴィーキング(ヴァイキング)」という言葉の語源は、海賊ではなく、商業地を点々としながら活動する商人そのものを意味しているのだという。
そもそも「ヴィーキング(ヴァイキング)」という言葉の語源は、海賊ではなく、商業地を点々としながら活動する商人そのものを意味しているのだという。
…ヴァイキングはおおむね800年ごろから1050年ごろ活躍した。日本で言えば平安時代だ。その活動の起点とされているのは793年6月8日、ブリテン島のノーサンバランド地方(イングランド北東部)の修道院襲撃だ。実際にはそれ以前から活動していたとみられている。
その活動の起点とされているのは793年6月8日、ブリテン島のノーサンバランド地方(イングランド北東部)の修道院襲撃だ。実際にはそれ以前から活動していたとみられている。
ロシアなどにはむしろ「招かれた」のだという。
彼らは風貌から「ルーシ」(赤毛)と呼ばれていた。
「ロシア」という名はその「ルーシ」に由来しているのだという。

東スラブの諸族は、彼らを恐れなかっただけでなく、ヴァイキングを(東スラブではヴァリャーグと呼ばれたが)、招きさえした。https://jp.rbth.com/history/79256-youhei
ヴァルキリーはオーディンの乙女や娘と呼ばれています。https://no-value.jp/column/43268/

ルーン魔術 (ルーンまじゅつ、Runic magic)とは、 ルーン文字 を用いて行われる、 北欧 由来の 魔術 である。
北欧神話 にも登場する( オーディン など)https://ja.wikipedia.org/wiki/ルーン魔術

ヴァイキングが崇めた神々https://note.com/renmatsuki/n/n242c8cae6047

「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。https://ja.wikipedia.org/wiki/クルガン
クルガン(ロシア語: кургáн、英語: ,kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土あるいは積石のマウンドを伴う墳墓である。
墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。
分布
クルガン型の墳墓は、青銅器時代のステップで活動した遊牧民の墳墓であって、
アルタイ 地方から コーカサス、ルーマニアにまでまたがる範囲に分布している。このような墳丘墓は、内部構造として玄室をもつような複雑な構造のものもみられる。クルガンの中央部にある玄室には、被葬者が支配階級の人々の場合には数多くの副葬品や捧げ物とともに葬られ、時折その副葬品には、馬や(馬に引かせる構造の)戦車などもみられる。
このような墳丘墓は、内部構造として玄室をもつような複雑な構造のものもみられる。
クルガンの中央部にある玄室には、被葬者が支配階級の人々の場合には数多くの副葬品や捧げ物とともに葬られ、
時折その副葬品には、馬や(馬に引かせる構造の)戦車などもみられる。

ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近…
年代については、発掘担当者は紀元前5世紀と考えたが、紀元前3、同2世紀のものと考える研究者もいて論争があり…
パジリク古墳群(パジリクこふんぐん)、または、パジリク遺跡(パジリクいせき)とは、https://ja.wikipedia.org/wiki/パジリク古墳群
ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓(クルガン)群。
荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 11:36:15 No.1128
遊牧民族とオアシス国家の盛衰(スキタイ、匈奴、突厥、ウイグル、カラ=ハン朝など)https://manapedia.jp/text/2576

ロシアとカザフスタンの境にあるアルタイ山脈の一角を成す、カトゥン山地に属する山。アルタイ山脈の最高峰である。
ユネスコの世界遺産「アルタイの黄金山地」の一部として登録されている[1]。
ベルーハ山(ロシア語: Белуха、南アルタイ語: Ӱч-Сӱмер)またはムズタウ山(カザフ語: Мұзтау Шыңы)https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルーハ山
アルタイの黄金山地…

アルタイの黄金山地(アルタイのおうごんさんち)は、ロシアの世界遺産のひとつである。
中国やモンゴルにもまたがるアルタイ山脈のうち、ロシア領内にある
アルタイ自然保護区(英語版)、カトゥン自然保護区(英語版)、テレツコイェ湖、ベルーハ山、ウコク高原を含む地域が対象になっている。
…「アルタイ」それ自体が、中央アジアの遊牧民の言葉で「金の山」に由来する。
かつては金の鉱脈で知られたことに因むものである。https://ja.wikipedia.org/wiki/アルタイの黄金山地

突厥・ウイグルとソグド人 https://sekainorekisi.com/world_history/突厥・ウイグルとソグド人/
内陸アジアの歴史は、軍事力、機動力に優れた遊牧民と、経済力と先進的文化の担い手たるオアシス民の、相互補完的な共生・共存関係によって織りなされる。
両者がたがいの長所を利用し合う共存関係が円滑に成立したとき、内陸アジアには強大な帝国が形成される。
6〜7世紀における突厥とソグド人、13世紀におけるモンゴルとウイグル人(天山ウイグル)の関係などはその典型的な例である。

原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族…
スキタイの金属加工の歴史…
スキタイ人(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は、
サイス人、古典的スキタイ人やポントスキタイ人とも呼ばれ、古代東イラン騎馬遊牧民で、
主に現在のウクライナと南ロシアに相当する地域に住み、前7世紀頃から前3世紀頃までポントス草原の領土(彼らの名をとってスキシアまたはスキティカと呼ばれる)を支配していた。
スキタイ人は、王族スキタイ人と呼ばれる戦士貴族に率いられていた。
…スキタイ人は、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網であるシルクロードで重要な役割を果たし、おそらくこれらの文明の繁栄に貢献したとされる[11]。
定住していた金属加工職人はスキタイ人のために携帯用の装飾品を作り、スキタイの金属加工の歴史を形成していた。
これらのオブジェは主に金属製で残っており、スキタイ独特の芸術を形成している[12]。

…農耕スキタイはプロト・スラヴ人(原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族)のうちの基幹的な集団であると推定される[29]。

…宗教
スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティアー(かまどの女神)で、ついでゼウスとゲー(大地の女神)で、スキタイはゲーをゼウスの妻としている。
さらにアポローン、ウーラニアー・アプロディーテー(天上のアプロディーテー)、ヘーラクレース、アレースがある。
これらはスキタイ全民族が祀る神であるが、王族スキタイはさらにポセイドーン(海の神)にも犠牲を供える。これは王族スキタイがアゾフ海沿岸に住んでいるためだと思われる。

…犠牲式
どの犠牲式でもその祭式の作法は同じで、犠牲獣が前足を縛られて立つと、犠牲を執行する者が獣の背後に立って綱の端を引いて獣を転がす。
獣が倒れると、犠牲をささげる神の名を唱えた後、獣の首に紐を巻き付け、それに棒をはさんでぐるぐると回して絞め殺す。
その際、火も燃やさず、お祓いもせず、灌奠(かんてん:獣の頭から酒をかける)も行わない。
獣を絞殺した後は皮を剥いで煮て、肉が煮上がると犠牲の執行人はその一部を初穂として取り、前方へ投げる。犠牲獣はさまざまであるが馬が多い。
また、アレスに対する犠牲式は次のように行われる。スキタイの諸王国内の各地区には、それぞれアレスの聖所が設けられている。
アレスの聖所は縦横3スタディオン、高さは3スタディオンいかないくらいで薪の束が積み重ねられ、その上に四角の台が設けてあり、三方は切り立って一方だけが登れるようになっている。
そこへアレスの御神体として古い鉄製の短剣がのせてあり、毎年スキタイがこの御神体に家畜を生贄として捧げるのである。
また、戦争で生け捕った捕虜の中から100人に1人の割合で生贄を選び、その者の頭に酒をかけてから喉を切り裂いて血を器に注ぎ、その血を御神体である短剣にかける。
一方で、殺された男たちの右腕を肩から切り落として空中に投げ、儀式が終わるとその場を立ち去り、右腕と胴体は別々の場所に放置される。 [38]

戦争
スキタイは最初に倒した敵の血を飲む。また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、[41]その数に応じて褒美がもらえる。
首は頭蓋骨から皮をきれいに剥ぎ取って手巾とし、馬勒にかけて勲章とする。またある者は敵兵の皮をつなぎ合わせて衣服にしたり、矢筒にしたりする。
頭蓋骨は最も憎い敵に限り、髑髏杯として用いる。年に一度、戦争で手柄のあった者はその地区の長官から一杯から二杯の酒がもらえる。
逆に手柄のないものは酒がもらえず、恥辱をしのんで離れた席に座る。 [42]

占い師
スキュティアには多数の占い師がおり、多数の柳の枝を使って占いをする。
まず、占い師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一本並べながら呪文を唱える。
そして呪文を唱え続けながら再び棒を束ね、一本ずつ並べてゆく。
この卜占術はスキタイ伝統のものであるが、エナレスにおいては菩提樹の樹皮を3つに切り、それを指に巻きつけたりほどいたりして占う。 [43]

死刑
たいていの場合は斬首だが、誤った占いをした者は後ろ手に縛られ、足掛けと猿轡をされ薪の中に押し込まれ、その薪を満載した車を牛にひかせた上、火を放って牛を走らせる。
牛は一緒に焼死するか、火傷を負って焼死を免れるものもある。
死刑人の子供も容赦なく殺されるが、女子の場合は殺されない。 [44]

葬制
スキタイ王陵はゲッロイの国土内にある。
スキタイの王が死ぬと、この土地に四角形の大きい穴を掘り、穴の用意ができると遺骸を取り上げる。
遺体は腹を裂いて内臓を取り出し、つぶしたキュペロン(かやつり草)、香料、パセリの種子、アニスなどをいっぱいに詰めて縫い合わせ、全身に蝋が塗られる。
取り上げられた遺骸は車で別の国へ運ばれ、その国で耳の一部を切り取り、頭髪を丸く剃り落とし、両腕に切り傷をつけ、額と鼻を掻きむしり、左手を矢で貫くといった作業をする。
その後も遺体はスキタイのすべての属国をめぐり、最後に王陵のあるゲッロイの国に到着する。
遺体を墓の中の畳の床に安置し、その両側に槍をつき立てて上に木をわたし、むしろをかぶせる。
墓中の広く空いている部分には故王の妾を一人絞殺して陪葬し、酌小姓,料理番、馬丁、侍従、取次役、馬も陪葬し、副葬品として万般の品々から選び出した一部と、黄金の盃を一緒に埋める。
その後は全員で巨大な塚を盛り上げるが、なるべく大きな塚にしようとわれがちに懸命になって築く。
一年後、今度は故王の最も親しく仕えた者50人、最も優良な馬50頭を絞殺して内臓を取り除き、中にもみ殻を詰めて縫い合わせる。
その死体たちを杭で固定して騎乗の状態にさせ、王墓の周りに配置する。以上が王の葬式である。
一般人の葬式では遺体を車に乗せて知人の家を廻り、馳走を受けながら40日間これを繰り返して埋葬される。 [45]

儀式
スキタイ人の風習に女神に仕える去勢男性たちがおり、彼らはエナレスと呼ばれた。 また女性達の地位も高かったと言われ、男装した女性戦士も存在した。
また女性達の地位も高かったと言われ、男装した女性戦士も存在した。

古墳
紀元前7世紀‐3世紀のウクライナにおけるスキタイの遺跡(橘色)。
スキタイ文化の分布は広範囲にわたり、西はウクライナから東は中央アジアまで及んでいるが、それを示すものとして存在するのが古墳である。
スキタイ…

キタイ…
契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qìdān、英:Khitan)は、現在のモンゴル、中国東北部、極東ロシアに相当する地域に4世紀頃から居住していた北東アジアの歴史上の民族である。https://ja.wikipedia.org/wiki/契丹
1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。
このほか、中国の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。
現在、中国東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である[4]。

モンゴル系民族 > ダウール族 https://ja.wikipedia.org/wiki/ダウール族
清朝時代には、エヴェンキ族、オロチョン族、ホーチン・バルグ(陳バルグ)などとともにソロン八旗に含まれ、
言語、文化などの面で、他のモンゴル系諸集団とはかなりことなる独自性を有しつつ、伝統的に自らを「モンゴルの一部」と認識してきた。

奇書「契丹古伝」が語る日本人のルーツ「辰国」の謎/古銀剛 https://web-mu.jp/history/39181/
…言語学・考古学・遺伝学の3分野のデータをもとに学際的に検証・分析したところ、
初期新石器時代にあたる約9000年前の中国・遼河りょうが(中国東北部の南部を流れる川)の流域で雑穀のキビやアワを栽培していた農耕民の言語がトランスユーラシア語族の起源であることが、明らかになった。そしてその後、この農耕民が東と西に移動したことで、トランスユーラシア語族の拡大がはじまった。
雑穀のキビやアワを栽培していた農耕民の言語がトランスユーラシア語族の起源であることが、明らかになった。そしてその後、この農耕民が東と西に移動したことで、トランスユーラシア語族の拡大がはじまった。
そしてその後、この農耕民が東と西に移動したことで、トランスユーラシア語族の拡大がはじまった。
 東への伝播でんぱに注目すると、彼らの一部は数千年かけて朝鮮半島に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散させ、韓国語の原形が形成された。
朝鮮半島では農作物にイネやネギも加わり、今から約3000年前には海を渡った移住者によって日本列島へ水田稲作が伝えられ、言語としては「日琉にちりゅう語族」が形成された。
日本列島にはこの新たな言語が先住者である縄文人じょうもんじんの言語に置き換わって広まってゆき、これを機に弥生やよい時代へと移っていった。

…「この古書はどうやっても解読できないのですが、もしや日本や朝鮮の古語でもまじっているのでしょうか」
 聞けば、その古書はもとはどこかの古墳に秘匿されていたものだったが、兵禍へいかにかかることを恐れて寺院に預けられたのだという。

…浜名の解読によれば、この古書はかつて中国東北部にあった遼という王朝が編纂へんさんした史書であった。
彼は題名すら不明なこの書を仮に「神頌叙伝しんしょうじょでん」と名づけたが、後世この奇書は「契丹古伝きったんこでん」が通称となったので、以下、本記事ではこの呼び名を用いたい。
「契丹」とはモンゴル系民族のひとつの称で、彼ら契丹族は古くから遼河流域を本拠としていた。
そして10世紀には新王朝として遼(大遼、大契丹ともいう)を興し、盛時には満州全体とモンゴリア(蒙古もうこ)の大部分を支配して、中国本土の王朝をもおびやかした。
しかし、12世紀はじめには女真じょしん族の金きん(のちの清朝のルーツ)に攻められて滅亡している。
 要するに、浜名が奉天で入手した謎の古文献『契丹古伝』の正体とは、遼河流域を本拠とした契丹族の神話と古伝承をまとめたものであった。

…『契丹古伝』は最新の学術的研究を先取りしていた
 結局、浜名の解読によれば、『契丹古伝』は日本人と日本語のルーツが中国東北部にあることを実証するものであった。
 ここまでくれば、この浜名の論が、今回、最新の学術的研究によって提唱された「日本語遼河流域発祥説」と完全に合致するものであることがおわかりいただけるだろう。
 いや、『契丹古伝』の記述と浜名の読解が正しかったことが、2021年になってようやく実証されたともいえようか。

遼(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した
契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝である。916年から1125年まで続いた。https://ja.wikipedia.org/wiki/遼
…現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。
…太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
…日本との関係
中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある[2]。
また日本側の『中右記』によれば寛治6年(1092年)9月13日の記事として、
明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている[3]。
続いて、嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。
発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された[4]。
なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。
『将門記』によれば、939年の承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣・藤原忠平の四男の藤原師氏に当てた奏状には
「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」
去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」との一文がある[5]。

東夷と北狄は、黄帝族の後裔に変身する…
中国の東北工程に影響された歴史学界…4つの新しい認識枠https://www.donga.com/jp/article/all/20070731/299974/1
…蛮夷の再認識
中華史観の影響で朝鮮時代から蛮夷と見下されたモンゴル、満洲、日本を、東夷というより拡大した文明共同体として見始めた。
これは過去、中原の漢族のほかの異民族を東夷、西戎、南蛮、北狄と差別化した中国が、徐々にこれらを中華文明の主役に変身させることに対抗する過程で、自然に成立した。
遼河文明論は、中華民族の起源を、△中原の華族、△東南沿海岸の夏族、△東北の黄帝族集団に三分する。
ここで、東夷と北狄は、黄帝族の後裔に変身する。これに対抗して国内学界では、東夷族を遼河文明(古朝鮮)から出発した同一系統として見る必要性を提起する。
これに対抗して国内学界では、東夷族を遼河文明(古朝鮮)から出発した同一系統として見る必要性を提起する。
中国史の解体
東夷族に対するこのような統合的な観点は、自ずと中国史の解体につながる。
同じ東夷系列の契丹族が建てた遼、女真族が建てた金と清、モンゴル族が建てた元などの帝国の歴史をすべて中国史の範疇に入れる場合、高句麗と渤海の歴史の独自性を主張することと相反する。
これら東夷族の系統では、言語(アルタイ語系)と神話(卵生神話、熊崇拝、弓術神話)、文化(太陽崇拝、祭天文化、ソッテ文化、シャーマニズム、シルム文化)の特徴を共有する。
愼饁廈(シン・ヨンハ)梨花(イファ)学術院教授は、このような共通点を匈奴やウィグルなどの北戎はもとより、
トルコ、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、エストニアにつながる「古朝鮮文明圏」に拡大して見ることを主張する。
 「忘れられた輪」夫餘の再発見
東北工程が韓国古代史全体を狙ったことが明らかになり、韓中歴史論争は徐々に高句麗史から夫餘史に移動している。
愼饁廈教授は、夫餘族の一部が、西方へはバルカン半島に、東方へは日本列島に移住した可能性を提起した。
伝統文化学校の李ドハク教授は、高句麗と百済が始祖王として仕えた東明が、高句麗を建国した鄒牟(東明聖王)ではなく、夫餘の建国始祖の東明王である可能性を提起した。
説話内容がほぼ同じという点で、同一系統の神話の後代合成の可能性が高いということだ。
東洋大学の金ウンフェ教授は、夫餘の仇台王が南方へ移動して百済の古爾王になり、
百済の近肖古王が日本に渡って応神天皇になった可能性が高いとし、これを大陸夫餘—半島夫餘—列島夫餘の成立過程と説明する。


「ヤマトゥ」が「やまと」に… 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月13日 07:03:43 No.1125 【返信】

「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、
1~2世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、
中国語でクンユエといわれる。 クンユエには「ヤマトゥ」(「神の民」の意)という地名があり、
「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。
【古代史の禁忌】謎の渡来人秦氏とユダヤの秘密https://note.com/key_history_ch/n/n32fb4effcb46
…秦氏は、百済や新羅などの朝鮮半島に来る前に、中央アジアに存在した弓月国にいたのではないか?という説があります。
…弓月国は、もともと紀元前 8 世紀に北イスラエル王国から
アッシリア人に連れ去られた十部族 の中からガド族、ルベン族、マナセ族などが建てた国であると言われています。
そして431年エフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教(景教)が拠点としていたといわれています。
ヤハタの神…

ユダ族の神…?
ヤヒッド : 一人の、たったひとつの
ヤフダ : ユダ族 南ユダ王国の民 https://www.historyjp.com/dictionary/

(ハ)ミ(ヴァ)ミ: 有力者
"ハヤタ: そうなる、おこる、存在する、そうなれ"

秦氏研究の権威であった佐伯好郎(さえきよしろう)教授によると、
(秦氏は)弓月(クンユエ)国という中央アジアのバルハシ湖の南にある国の出身ではないかという。
この弓月国は1世紀から2世紀に存在した国で、キリスト教国の小国だったようだ。
弓月国には「ヤマトゥ」という地名がある。
イスラエルから日本に渡り、京都の護王神社の見習いまでして日本の文化を研究したユダヤ人、ヨセフ・アイデルバーグ氏によると、
ヘブライ語で「ヤマトゥ」の「ヤ」は神を、「マトゥ」は民族を表す。つまり
「ヤマトゥ」は「神の民」を意味すという。https://nihonjintoseisho.com/blog001/2016/12/05/japanese-and-jews-15/
アイデルバーグ氏によると、これが「やまと」の言葉の語源になったのではないかという。(本からの抜粋は以上です。)


縄文人がメーソン(石工)であるというのは周知の事実… 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月12日 07:37:54 No.1121 【返信】

>No.1116 バスクのハタノ姓
こんなサイトがあった。
https://hontoka.ina-ka.com/666/index-666yuda-nippon-hatano-yuda.html
【次】 バスク、ユダヤ、ハタノ(バスク顔)▶【次次】 日本、ユダヤ、高天原▶【次次次】 高天原は、中国南部にあった?
高天原は、中国南部にあった?https://hontoka.ina-ka.com/666/index-666yuda-nippon-takamagahar-gaikok.html
…新井白石は、言葉の音訓から日神が立たれた土地は日立国で常陸という表記になり、高天原の高は旧事紀で高国と記述あり、即ち常陸国多珂郡であるという。
(古史通)、ゆう風に、書いてて、つまり、朝鮮と違って、茨城県、ゆう感じに、ゆってる見たいだが、、、。
だが、しかし、上だと「或る人の説として」、ゆう感じで、書いてるから、つまり、新井白石が、本で、誰だか朝鮮、ゆう風に、ゆってたが、違うけどな、、ゆう感じに、書いてるんかな??)
中国南部説、ゆうんは、呉?
ウィキ、見ると、この中で、海外説の代表的なものは中国南部説である。、
ゆう風に、あるが、調べると、面白いのは、或る一説によると「日本神話における天照大神は、呉の太伯の子孫である」という中国に伝わる伝説があり、これは、
中国の歴史書、「魏略」(魏志倭人伝の元書とされる)、「晋書」などにも記されているようである。
(日本周遊紀行(190)大山  「伯耆の国」 )、ゆうんが、あった。つまり、天皇家の始祖が、呉の太伯、ゆう人、やったら、つまり、高天原は呉だろ??、ゆう話し。
呉、ゆう事だと、高天原は、呉の都、蘇州、ゆう風に、思われ。

…日本では、南北朝時代の禅僧の中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じたといわれている[7]。https://ja.wikipedia.org/wiki/太伯・虞仲
…大森志郎は、「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす[12]。
千々和実は、綿密な考証を経て、3世紀の倭人の部落が対内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人太伯に結びつけたと指摘し、「倭人自称説」を肯定している[13]。
なお、林羅山・鵞峰父子の編纂した『本朝通鑑』に、日本の始祖が太伯の末裔である、という記述があるのを見て憤慨した
徳川光圀が『大日本史』を編纂させた、とする伝説があるが、これは事実ではない[14][15]。
漢民族…

鮮卑は漢化した…
【北魏・南北朝時代】 戦国時代に突入すると上記通り北方の遊牧民だった鮮卑が侵入してきます。
鮮卑は漢化して北魏を建て、南北朝の争いを演じました。 ところが鮮卑は漢化したのでいつの間にか民族ごと消滅し、漢民族と同化して消えました。
【随】 漢民族主体です。 【唐】 漢民族主体です。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10155760990
…元が、蒙古系モンゴル国だということしか知らないのです。
…異民族王朝という事ですと、
元のモンゴル族。中央平原)
金の満州族、(中国北東部とシベリア)
清の女真族(北朝鮮の上)
遼の契丹族(北朝鮮の隣)
帝が異民族(の末裔)である、
あるいはその疑いがある、という例は
隋 楊氏=普六茹という別姓がある。鮮卑族(現在の中国北東から中央平原、ロシア南部にまたがる広大な地域)
宋 趙氏=突厥人の末裔と言われる(中央平原のトルコ系遊牧民。匈奴。有名な割にわかっている事がほとんどない。ヒッタイトの鉄奴の末裔という説、西ローマを滅ぼす遠因となったフン族の事だという説もある)
(中央平原のトルコ系遊牧民。匈奴。有名な割にわかっている事がほとんどない。ヒッタイトの鉄奴の末裔という説、西ローマを滅ぼす遠因となったフン族の事だという説もある)
金の満州族、(中国北東部とシベリア)…

中国 東方の異民族…
東夷 (とうい)は、 周代 及びその後の 中国 東方の異民族の総称で、 四夷 の一つである。.
夷 (い)。. なお、「夷」という漢字は矢に縄を巻き付けたさまを象る 象形文字 で、これを異民族を指す単語に当てるのは 仮借 による。

古代中国に東夷族と呼ばれる人々がいました。
彼らは日本海、東シナ海周辺に共通の文化圏を構築した海洋交易民であり、
後期旧石器時代に日本列島で発展した石器加工技術、優れた航海技術を背景に交易ネットワークを大陸沿岸部へと拡大させていきます。https://ameblo.jp/starless43/entry-12616777562.html
前漢末期、王莽が政権を掌握していた一世紀初頭、東夷王は海を渡って漢を訪れました。
東夷族は中国東北地方、東シナ海沿岸部に広く分布していましたが、その“王”は海の向こう(私たち日本人から見たらこちら側)にいたのです。
…中国の史書はっきりと記しています❗
中国には海を渡って行く航海技術は存在しない、
(航海技術のある倭人が)海を渡って来て中国沿岸部で交易をしていく。
彼らの特産品は“布”である、と。
殷(商)王朝の時代、
中国では産出しない
硬玉(ヒスイ)は珍重され、
やはり中国(東シナ海)沿岸部では採集できない宝貝が通貨として使用されたと考えられています。
中国に玉製品や宝貝を供給すると共に、倭人(東夷)は中国沿岸部、中国東北部に進出していました。
およそ2万年前頃から日本列島には大規模な石器の加工施設が現れています。

…東シナ海沿岸部の東夷族は夏王朝を興し、後裔は越【えつ、こし】と呼ばれ、越南【ヴィエトナム】を拠点に南シナ海~インド洋へと海洋交易ルートを広げていきます。
南インドのタミル・ナードゥ州のカーンチープラムは、漢字で黄支、香至【こうし】と書きますが、漢書王莽伝には倭、越に加え黄支からも使者が来たと記しています。
倭人、越人と黄支の使者が中国を訪れたことを王莽は瑞兆であるとアピールしたかったようですが、
倭人と越人、黄支は関連性が強く(中国にはない)海洋交易ネットワークを共有した族であるという認識があったようです。
倭人、越人、タミル人の海洋交易ネットワークはインド洋を経てローマへと繋がっていました。
越【こし】、黄支【こうし】は、日本の北陸地方の湊まで入港していましたが、彼らが交易の目当てとしていたのは糸魚川産の翡翠や長野県の黒曜石でした。
倭、越、黄支は共同で朝鮮半島南部に産鉄拠点を築き中国などへの輸出で利益を上げています。
※半島南部の倭人国家であった金官加羅にインドのサータヴァーハナ朝から王女が嫁いだのはこうした理由による。
ローマへと輸出された東洋のシルク(漢は絹を門外不出としていた)は、奄美琉球産であるという説が出ていますが、
蚕と桑の野生原種が奄美琉球地方がルーツであるという研究も報告され南九州を拠点としたウガヤフキアエズ朝がシルク貿易で莫大な利益を上げていたとする説が現実味を帯びてきました。
フェニキア人と縄文人が共に利用していた東南アジア原産の貝紫も、同じ海洋交易ネットワークで流通していたのです。

日本語タミル語起源説、
日ユ同祖論(一説にユダヤ人はフェニキア人の後裔であるとされる)を唱える人もいますが…
縄文時代から海洋交易ネットワークで繋がっていたのだから何も不思議な話しではないのです。
秦の始皇帝(嬴姓趙氏)
徐福(嬴姓徐氏=徐夷)

始皇帝が祖先の地である日本列島に遠い親戚(分家したのは始皇帝の時代を約二千年遡る❗)の徐福を派遣したのも辻褄が合う話なのです。
…秦王家と同じ嬴姓を持つ徐氏が徐夷、つまり東夷族であると史書は記すのだから、秦王家のルーツも東夷であり縄文人であることはバレバレなのです。
同時に史書は東シナ海沿岸部の諸夷を諸夏と記し、夏の後裔を越としていますから、夏王朝を興したのは東夷=縄文人であることを明白にしています。
中国の歴代史家は大きな声では言っていませんが、わかる人にはわかるように堂々と書いています。
一方、中国東北部に進出した東夷族が興したのは殷(商)王朝で、こちらも殷の一族である萊族(子姓)は萊夷として史書に登場しており、殷の王族も東夷であることを暗に示しています。
周王室は姫姓ですが、倭国の異名が東海姫氏国とされるように、周王室も倭人と同族であることが示唆されています。

わかりやすくまとめていうと、
炎帝神農氏(BC3000頃)~秦(嬴姓趙氏、BC200頃)までの中国王朝は大陸に進出した縄文人の王朝ということになります❗
諸夏東夷は漢代以降、漢民族に同化していきます(とはいえ六朝時代を担ったのは諸夏東夷の豪族で現代も客家として繁栄しています)が、
東北部の遼河文明~殷王朝を担った東夷、東胡といった東族はモンゴル(鮮卑、柔然、契丹、蒙古)、
ツングース(粛慎、靺鞨、女真、満州)、扶余朝鮮(扶余、高句麗、新羅、加羅、百済、勃海)と分化していき、
北魏、北周、北斉、隋、唐、遼、金、元、清は東夷族の王朝です。
中国を統一した歴代王朝のうち漢民族が興したのは漢代と明代しかない❗と云われますが、
炎帝、小昊、夏、殷、周、秦、隋、唐、元、清は縄文人の末裔である東夷族の王朝なのです。
宋はテュルク系突厥の王朝ですが、テュルク系民族のトルコなどが今も日本人と兄弟と唱えるように、
テュルク系民族もまた縄文人の末裔です。
テュルク系といえば匈奴=フン。
ヨーロッパの王族は大抵、フン族の王アッティラの血を引いているとされますが、
陰謀論者に人気のハザールもテュルク系❗
そもそも縄文人がメーソン(石工)であるというのは周知の事実です。


的矢(まとや)…「 やまと 」「矢的」… 荊の紀氏 投稿日: 2024年05月12日 06:47:28 No.1120 【返信】

的矢(まとや)さんの由来と分布https://name-power.net/fn/的矢.html
福井県・岐阜県・東京都。三重県志摩市磯部町的矢発祥。南北朝時代に「的屋御厨」と呼称した地名。
福井県南条郡南越前町鯖波に分布あり。
越前町鯖波…

越前縄文人は、交易や集団社会生活を営むに不可欠な言語でコミニュケーションし、原始的な文字も存在していた。 
その様なことは、根拠とする史料・史実や有形の遺跡・遺物が無くとも、海外の古代文明等でも明らかな通り、人類学・比較文明学・言語学的に充分類推できる。
 地名はある特定の土地につけられた固有の名である。https://www.echizen-history.com/post/古地名、鯖江、鯖波の地名学言語学的考察
すなわち地名は,(1)ある特定の地域が,(2)他の人に必要な固有の内容をもって伝える為に命名されたとの定説がある<世界百科事典>。
縄文語は文法も語彙も現在の日本語とほとんど同じとする説も多い。
言語学者小泉保氏が著書「縄文語の発見1998」で「日本語の祖語が縄文語であり、今も継承されている。」と発表した専門的学説がある。
「各国の言語には、同じ語族の源流(祖語という)が存在する。但し、日本語が属する祖語は、世界で発見されていない。
従い、日本語の源流は弥生時代をはるかに超えて、縄文中期よりも前に遡るということになる。」とする主張もあり頷ける。
又、古代語源研究家の今井欣一氏の著作「地名が語る縄文文明」で明らかにした「縄文海進時に海に面していた可能性が高い地域に「鼻、崎、岬、島」が付いた地名が分布する特徴がある。」との研究成果がある。
「縄文海進時に海に面していた可能性が高い地域に「鼻、崎、岬、島」が付いた地名が分布する特徴がある。」との研究成果がある。

…「サバ読み」の語源は東日本では、昔「魚を扱う商人」を「五十集(いさば)」と呼んだと。鯖は大量に捕れるが鮮度の低下も早い。五十集は、数量を目分量でざっと見積もって、早口で目にもとまらぬ速さで数を読み伝え取引をした為、これを「五十集(イサバ)読み」と呼び、略して「サバ読み」と呼ばれるようになったとか、もっと単純に、大量のサバは、数を数えず目分量で取引した事を指す等の説もある。 
サバ…
sabat…
中英語の sabat は、古英語の sabat 「ユダヤ暦の週の第7日、土曜日」や、ユダヤ人によって俗世の仕事を休み、
宗教的な観察のために守られる日から来ています。 これは古フランス語の sabat とラテン語の sabbatum 、ギリシャ語の sabbaton 、さらには
ヘブライ語の shabbath からも引かれており、「休息の日」を意味し、 shabath 「彼は労を休んだ」(から)由来しています。

フランス語で「サバ」とはÇa va サヴァと書きます。 https://monpetitcahier.com/archives/3301.html
そして、実は様々な意味が含まれているんですよね。

フランス語ではSabbat(サバ)…
ヘブライ語において安息日を意味するシャバットの語源となる意味https://information-station.xyz/16209.html
ヘブライ語におけるšabbāthという単語は、もともとは、「休む」あるいは「止める」といった意味を持つ言葉であったと考えられることになります。
そして、
そうした「休む」「止める」といった意味を表す言葉を語源とするヘブライ語におけるšabbāthという単語が、天地創造の物語における七日目の神の安息の日や、
預言者モーセが十戒と呼ばれる神が定めたとされる掟のなかで、人々が仕事を休んで神への感謝の祈りを捧げる日として位置づけている聖なる日のことを意味する言葉としても用いられていくことによって、
こうした一週間の七日目にあたる日が人々が仕事を休んで礼拝を行う聖なる日として位置づけられていく安息日と呼ばれる概念が形づくられていくことになっていったと考えられることになるのです。

…安息日は「出エジプト」という脱出劇と比べてもよいくらいにドラマティックなメッセージを含んでいると思います。https://www.christian-center.jp/chapelhour/2010/wed_imade/0126.html
「出エジプト」という出来事が、ある意味でイスラエルがエジプトという空間に束縛され、束縛された場から自由な地へと解放されていくような空間的な脱出劇であったとするならば、安息日の呼びかけというのは、時間的な解放を呼びかけていると言ってよいと思います。聖書は、私たちがある特定の場所に縛られることから解放されるという空間的な解放と同時に、時間によって縛られてしまうことの不自由さ、それによって自分の居場所を失ってしまうことの問題を指摘しています。そして「安息日」は、そういう束縛から解放する時間的な解放という重要な側面をもっていると言ってよいでしょう。私たちはその意味で「出エジプト」と並んで、この「安息日」の重要性を味わっていく歴史的な素材を、ここに見いだすことができます。

「矢的」の読み方 については、一般的に「 やまと 」とよみます。https://enamae.net/list/名字分布/矢的/#:~:text=「矢的」という名字 (苗字)の読み方や人口数・人口分布について 電話帳に掲載されている情報によると、「 矢的 」という名字(苗字)の人は全国に 約60人程,おり、全国で「 44,163番目 」に多い名字となっています。 「矢的」の読み方 については、一般的に「 やまと 」とよみます。

大和 姓…【名字の由来解説】https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=大和
①長州藩の士族は桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)季衝流がある。
②ほか現奈良県である大和国造。
③大和真人。
④大和朝臣。
⑤大和宿禰。
などにもみられる。
語源は、山に囲まれた地形や大和朝廷が大和地域に発祥したため、山に神が宿るとされた、など様々な説がある。
山に神が宿る…

天の岩戸(あめのいわと、あまのいわと) は、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。https://ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸
天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと) ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。

淡路島最古の神社 岩屋神社 https://miyadaiku.net/iwaya/
岩屋神社は、淡路島岩屋の氏神さまで、天地大明神と言われて町の人から非常に崇敬があついです。
岩屋神社は、第10代崇神天皇(紀元前93年~30年)時代には三対山(城山)に鎮座されていました。
古事記や日本書紀でも語られてる『神功皇后の三韓征伐』の際には風や波を避けるために垂水の浜から岩屋に渡られて岩屋神社で戦勝祈願をされました。
その時に「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」と神功皇后が歌うと波風が穏やかになったと言われています。
戦に勝利して朝鮮半島から戻られた神功皇后には、再び岩屋神社に詣られたと伝わっています。

大和時代に朝鮮への進出! 任那の日本府とは? 神功皇后ってどんな人?https://wakariyasuku-rekishi.com/archives/679

最初に朝鮮半島に兵を送るのは、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后である神功皇后(じんぐうこうごう)であった…
大和王権の成立と朝鮮半島への進出. 朝鮮半島は4つの国へ. 仲哀天皇の崩御と神功皇后の朝鮮出兵伝説 https://kusanomido.com/study/history/japan/asuka/83643/
…日本は弥生時代後半には、邪馬台国やヤマト王権といった形で統一政権が生まれた。
…豪族の中で近畿地区を中心に勢力を広げたのがヤマト王権であった。
…九州南部における熊襲(くまそ)は反抗勢力として残っていたが、ヤマト王権は西日本一帯を制した勢いから、朝鮮半島にまで勢力拡大を進めていったのである。

所在地広島県尾道市西久保町2−1祭 神応神天皇・仲哀天皇・神功皇后由 緒社記によると
応神天皇が淡路・播磨・小豆島を経て尾道に巡幸された際、海辺で玉 子に似たひかり輝く石を御覧になったという。
そして亀の形をした小さな丘で休息したそうです。その後、里人はその地に祠を建て、聖地として崇敬したそうです。
平安時代、この亀の形をした聖地は京から宇佐八幡宮へ勅使を派遣する際の参詣および宿泊地になったという。
そして京都・男山八幡宮(石清水八幡宮)と併せ宇佐神宮の御分霊を勧請し亀山八幡宮になったそうです。
亀山八幡宮(久保八幡神社)の御朱印|尾道石工の石造物がいっぱい(広島県尾道市)https://goshuin.138shinsekai.com/2024/01/17/kameyama8man-onomichi-hiroshima/
…尾道石工による鳥居・常夜燈・水盤・狛犬などの石造物は、尾道水道から船で運ばれ、北九州や瀬戸内海沿岸にかけて分布。
さらに北前船によって山陰・北陸・佐渡島・北海道などにも運ばれていったんだって。

摂津国の石工・福島村雲と藤原徳栄が尾道に移住し、尾道の石工連中に石工の祖先・石作大連公建眞利根命をお祀りすることを発議。
石作大連公建眞利根命…

石作大連公は建眞利根命の子孫である。石作氏一族は石作りを業とし、各地で活動する大氏族となり、祖先をお祀りする石作神社を創建した。
式内社が尾張地方に4社もあることは石作氏一族の繁栄を示している。
石棺などを作っていた一族が創建~石作神社(岐阜県羽島郡岐南町)
…垂仁天皇の皇后比婆須比賣命(ひばすいひめのみこと)が崩じられた時、石棺作と埴輪を製作する土師部(はじべ)を定められたことを言うものである。
果たしてこの時に石棺作の職業部が設けられたか否かは、この記事だけでは信じられぬとしても、先に述べた通り、
石棺製作の職業的工人の存在したことが遺物の上から考えられるのとあわせて、古くから石棺作の技術労働者の品部(ともべ)のあったことは事実である。
 『新撰姓氏録』の石作連(いしづくりのむらじ)の条に、垂仁天皇御世に皇后日葉酢媛命のために石棺を作って献じたことによって、
石作連公の姓を賜ったことを記すのも同じ古い伝えによるもので、この石棺作の職業的品部を石作部と称し、石作連はその首長的な家であったと思われる。
…『播磨風土記』には宍禾郡に石作里を記し、本名伊和郷を石作首などが此村に居ったので石作里と名づけたとし、その地は明かでないが、今の穴粟郡で、穴粟川の上流地方であったらしい。
 やがて時代は進んで飛鳥時代になると、大陸から仏教文化が伝えられ、仏寺建築の石壇や礎石、さては石塔などの製作が石作部の工人たちの新しい活動分野となったのである。
仏教文化の移入は、石材史の上に従来にない大きい飛躍を見せるのであるが、その工作の根底に古くから我国で育てられて来た工人たちの技術の流れのあったことを忘れてはならない。

播州弁 https://ja.wikipedia.org/wiki/播州弁
播州弁は中国方言に属する但馬弁・岡山弁・因州弁、京都的な丹波弁、大阪的な摂津弁と接している。
…播州は明石海峡を挟んで淡路島と接しているが、淡路弁は紀州弁や阿波弁との共通点もあって播州弁とは違っている[5]。

油谷(ユダニ)古茂江(コモエ)小路谷(オロダニ)
由良(ユラ)諭鶴羽(ユズルハ)……等々、
淡路島にはヘブライ語を想起する地名が散見されます。https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/941861f52c102c5b1e51819bae509ae4
由良湊神社に伝わる「ねり子祭り」では、 数え年三歳を迎えた子ども(ねり子)の額や頬に、 ユダヤの風習を思わせる赤い十字を描くのだそうです。
その昔、淡路島が大干ばつに見舞われ、島内にある溜め池が干上がった際には、水面下から六芒星の形をした石組みが現れたという話もあるのだとか。
仮に、剣山や瀬戸内地方を中心に、多数存在するこれらのため池が、古代イスラエル部族の遺産だとすれば、ため池という人工池の成り立ちと、ユダヤ人との関連も気になるところです。

淡路島のパワースポット 岩上神社. 岩上神社・巨石信仰・神籬石(ひもろぎいし)https://www.awaji-web.com/index.php?sightseeing_iwagami-jinjya
岩上神社本殿. 神籬 石は、高さ約12メートル、周囲約16メートル、鶏卵に似た形で滑らかな岩肌、神の降臨にふさわしい 巨石(磐座:いわくら) です。

岩屋山?
ヤマト 【矢的】 レベル3. 約60人 日本姓氏語源辞典. 広島県 、 兵庫県 。
大和 姓あり。 広島県 尾道市 手崎町に分布あり。https://name-power.net/fn/矢的.html

尾道「岩屋山の巨石群」は謎多きミステリースポット!https://www.travel.co.jp/guide/article/21062/
岩屋山の標高はわずか102m。麓から登ったとしてもそれほど時間がかかるわけでもありません。
その山頂付近に巨石群があり、そこへいたるまでの道中も大きな石が度々目につきます。
…山頂付近は広場のようになっていて、そこかしこに巨石が!
周囲はちょっと異様なほどに巨石たちが転がっており、ここがミステリーゾーンだといわれるのがよく理解できるのではないでしょうか。
そしてその巨石をうまく利用した祠もあり、ここが古代の巨石信仰の聖地であったということを象徴しているかのようです。
山頂の部分にはお堂があり、そのすぐ傍にも巨大な石があります。まるで龍の頭のような迫力ある巨石。
尾道を代表する寺院、尾道三山と呼ばれる千光寺、西國寺、浄土寺はこの岩屋山に向かって建てられているとされ、この山が重要な位置付けであったことを物語っています。

尾道三山の寺は、岩屋を中心に30度ずつずれたところにあるという。
しまなみ海道を尾道方面に向かっていると、左手に見える岩屋山の巨岩に目がくぎ付けになる。 何のために築いたのか。
謎解きに出かけよう。https://www.jb-honshi.co.jp/kanko/seto_mare/se_travel/se_travel40_01/index.html
…岩屋山は古代太陽信仰の聖地といわれ、巨石は太陽の周期に合わせて人の手によって配置されている。
岩屋は冬至の朝日の方向を向いていて、冬至の朝は奥まで日が差し込む。
裏手に回ると真っ二つに割れた巨石があり、夏至の太陽はその割れ目の東側から昇り、冬至の太陽は割れ目の西側に沈む。
天文学も近代的な土木技術も発達していないはるか昔に、こんなふうに太陽の動きを把握し、山の上の狭い場所で巨石を動かすなんて、ミステリアス。だから今も人を引きつけるのだろう。
さらに山を上がると、尾道の全景を一望できるビューポイントに着いた。
尾道三山にある千光寺、西國寺、浄土寺は、この岩屋山に向けて建てられているという。
次の機会に尾道に行って確かめなければ。岩屋山のミステリーにまだまだ興味は尽きない。


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