日本語の起源 くまら掲示板


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スキタイ…ケルト …ドルイド …
荊の紀氏 投稿日:2024年05月13日 12:51 No.1129
ケルト人と謎の古代人スキタイ(1)https://note.com/yoshito0103/n/n1069f4729e31
…元々、スキタイ人とアラン人は中央アジアの大草原地帯の遊牧民でした。
全盛期には、現在のハンガリーから中国、甘粛省のあたりまで勢力を広げ、外貌は金髪碧眼、インド=イラン語派の言語を話し、
木槨墓に埋葬(首領は仏舎利塔の起源ともなるような埋葬塚)に葬り、多くの動物様式の金細工を残しました。
そして彼らの文化は基本的には遊牧経済で成り立っており、古代ヨーロッパ人との類似点が多く存在していました。
…絶対的な証拠とはなりませんが、Y染色体ハプログループでみると、R1A1はスキタイ時代の欧州東部(ポーランド、ロシア)から中央アジア、インド北部にかけて多く存在し、
インド=イラン語派やスラブ語派はR1a1系統と同等であるとされています。

神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出す…
ケルト人とはどんな民族なのか?:中央アジア・ドナウ川周辺の草原を故郷とする“鉄器・戦車”で武装した民族https://esdiscovery.jp/vision/es003/gods/kelt_myth001.html
…『ガリア人(ケルト人)はみんな深く宗教を信仰していて、神々に生贄を差し出す風習がある。治癒を願う重病人、戦争・危険に立ち向かう者は、神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出すという誓いを立て、僧侶がその犠牲の儀式を執り行う。』 『僧侶(ドルイド)が教える死生観は、霊魂の不滅を前提にしており、死によってこちらからあちらに霊魂が移るだけであるというものである。ガリア人たちはこの霊魂の不滅の信仰によって、死の恐怖を無視することができ、大いにガリア人の戦う勇気が鼓舞されることになるのである。』
治癒を願う重病人、戦争・危険に立ち向かう者は、神々に人間の生贄を差し出したり生贄を差し出すという誓いを立て、僧侶がその犠牲の儀式を執り行う。』 
『僧侶(ドルイド)が教える死生観は、霊魂の不滅を前提にしており、死によってこちらからあちらに霊魂が移るだけであるというものである。
ガリア人たちはこの霊魂の不滅の信仰によって、死の恐怖を無視することができ、大いにガリア人の戦う勇気が鼓舞されることになるのである。』

隼人に出自を持つ神武天皇とは、人肉食信仰を持つスキタイ人だったのか。https://note.com/millennium_k/n/n929322d768c9
これを見て、私は「吉野ヶ里遺跡」の写真ではないか、と思いました。
しかしこれは、英語版ウィキペディアの「スキタイ」のページに掲載されている写真なのです。
紀元前339年の、スキタイの防衛線の復元とのことですが、吉野ヶ里遺跡の復元物見櫓や城柵にそっくりだと感じます。

…スキタイに含まれる、サウロマタイの後継であるサルマタイ人の古墳の中に、注目すべき副葬品がありました。
サルマタイ人の2世紀~3世紀の古墳には、中国の「内行花文鏡」が副葬されていたというのです。
2世紀~3世紀の中国とは、後漢から魏の時代であり、日本の弥生時代晩期から古墳時代初期にあたります。
内行花文鏡は、日本の古墳にも副葬されており、中国製の物と日本製の物があるとされています。
そこで疑問に思うのが、スキタイ人は中国製の内行花文鏡を古墳に副葬していたのか、という点です。
そうではなく、スキタイが内行花文鏡の発祥地なのではないか、と感じました。
何故ならスキタイとは、ケルトなのではないかと考えられるからです。

…ケルト人とは、黒海沿岸部から馬と戦車を持ってヨーロッパに渡来したということです。
スキタイ人とは、クリミア半島を含む、黒海沿岸部から南ロシアにかけての地域にいた遊牧騎馬民族で、王族スキタイという戦士貴族に率いられていたということです。
このようにケルトとスキタイとは、黒海・馬・戦闘というキーワードで繋がります。
そしてスキタイの古墳に副葬されていた「内行花文鏡」の文様とは、ケルトの一年の車輪の文様なのではないかと私は考えます。

Wheel of the Yearは、現代のさまざまな異教徒によって観察されている季節の 祭りの年次サイクルで、その年の主な太陽の出来事 (夏至と春分) とそれらの中間点をマークします。
Wheel of the Year - WikipediaよりGoogle Translateによる日本語訳
内行花文鏡の文様がケルトの一年の車輪であるなら、ケルトであるスキタイが、内行花文鏡の発祥地である可能性が高いのではないでしょうか。

タウロイ(ギリシャ語:Ταῦροι)は、古代ギリシア時代にクリミア半島南部に住んでいたスキタイ系民族。
クリミア半島の古名であるタウリカ、タウリス、タヴリダはこの民族名に由来する。
タウロイは難破漂流した者や、黒海上で襲って捕らえたギリシア人を「処女神」の生贄とする。
まず、型のように浄祓を行った後、生贄の頭を棍棒で打つ。次に胴体を神殿の立っている断崖の上から突き落とし、首は棒に刺しておく。
という説もあるが、別の説では首については同様であるが、胴体は崖から落とすのではなく、地中に埋めるという。
タウロイ自身の言うところでは、生贄を供える女神はアガメムノンの娘イピゲネイアであるという[2]。
また、敵の捕虜については、捕らえた者が首を刎ねて家に持ち帰り、屋上(煙突の上)に長い棒に刺して高く掲げておく。
この首が守護者として屋敷全体を見張ってくれるように、高く掲げておくのだという。彼らは掠奪と戦争を生活の手段にしているのである。
— ヘロドトス『歴史』巻4-103

スキタイの中でマッサゲタイ人と呼ばれる人々が、太陽神のみを崇拝していたことが分かっています。
スキタイの中には、月神信仰と太陽神信仰の両方があったのです。
太陽神信仰…

ミトラ教の冬至祭(太陽信仰)
ケルトのドルイド教(自然と宇宙と自己を一体化する自然信仰)、ミトラ教の冬至祭(太陽信仰)やサトゥルナリア祭(農耕信仰における収穫祭)とキリスト教の信仰が合体したもの。
Christma(クリスマス)https://www.minthouse.org/christmas-5/

太陽神ミトラス…
ミトラ教またはミトラス教またはミスラス教(英語: Mithraism)は、古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。
古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラス(ミスラス)を主神とする密儀宗教である。https://ja.wikipedia.org/wiki/ミトラ教
ミトラス教は古代のインド・イランに共通するミスラ神(ミトラ)の信仰であったものが、ヘレニズムの文化交流によって地中海世界に入った後に形を変えたものと考えられることが多い。
紀元前1世紀には牡牛を屠るミトラス神が地中海世界に現れ、紀元後2世紀までにはミトラ教としてよく知られる密儀宗教となった。
ローマ帝国治下で1世紀より4世紀にかけて興隆したと考えられている。しかし、その起源や実体については不明な部分が多い。

三角型の冠帽の人物埴輪が出土した古墳~関連するキッパ、胡坐、ミトラ~https://shinnihon.hatenablog.com/entry/2024/05/07/000838
…千葉県・山倉1号墳出土の三角型の冠帽の女性
・群馬県伊勢崎市豊城町出土の三角型の冠帽の男性
・群馬と栃木から出土の丸い帽子を被る埴輪
・キッパ
・胡坐(こざ、あぐら)
・ユダヤ教における祭祀階級
・ミトラの宝冠と司教冠
・高崎市綿貫町の三人童女
 千葉県・山倉1号墳出土の三角型の冠帽の女性
千葉県市原市能満の山倉1号墳から女性の三角型の冠帽は大祭司階級を思わせる人物埴輪が出土している。注:本説はあくまで個人的見解です
千葉県、芝山古墳群の姫塚(6世紀後半)から出土の武人埴輪の帽子などとは異なる。

三角 帽子 埴輪の画像 https://www.bing.com/images/search?q=三角 帽子 埴輪&qpvt=三角 帽子 埴輪&form=IGRE&first=1

引用元:https://el.wikipedia.org ヒッタイト神 https://history-go.com/archives/13804
ヒッタイト帝国は、 紀元前16世紀~11世紀に現トルコの中央部に君臨し、古代エジプトと勢力を二分する大帝国 でした。https://worldclub.jp/turkish/hittite/
トルコ…
ミトラの主聖堂…
ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)…
アルメニア北部、Derjan地域(トルコ領東部)のBagaritch村にミトラ(またはミフル)の主聖堂が建てられました。http://mystery-hunter.net/?p=1529
…強大なミタンニ国(ミタンニはアルメニア台地の北に位置していた)の王Shativaza(生年不詳~紀元前1350年)と、ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)との間に結ばれた条約文に、ミトラの名前を見ることができます。そしてミトラ崇拝はペルシャの楔形文字碑文や紀元前4世紀のインドのヴェーダ文書で言及されています。
ヒッタイトの王シュッピルリウマ(紀元前1380年~紀元前1346年)との間に結ばれた条約文に、ミトラの名前を見ることができます。
そしてミトラ崇拝はペルシャの楔形文字碑文や紀元前4世紀のインドのヴェーダ文書で言及されています。
西暦395年のサーサーン朝ペルシャの王アルダシール2世の宗教革命の結果、ミトラやイランの女神アナーヒターのカルトがペルシャに持ち込まれ、ゾロアスター教と結び付きました。
紀元前1世紀にはミトラのカルトはローマへと進出し、西暦3世紀にこの宗教は国際的なものとなり、インドから黒海、バルカン半島からブリテン島やスペインにまで広がりました。
今では400以上のミトラ聖堂の廃墟がヨーロッパ中に残されています。
つまり最初は、紀元前4世紀にこのカルトがアルメニア台地から南ペルシアとインドに広まり、紀元前1世紀にヨーロッパ北西に広まったのです。

スキタイ人(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は、サイス人、古典的スキタイ人やポントスキタイ人とも呼ばれ、古代東イラン騎馬遊牧民https://ja.wikipedia.org/wiki/スキタイ
…キリスト教を受容する前の中世前期スラヴ人にも見られる火葬の習慣から、
農耕スキタイはプロト・スラヴ人(原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族)のうちの基幹的な集団であると推定される[29]。

ユダヤ教に紛れ込んだドルイド教徒の一部が、その後、日本にやってきて古神道という形でドルイド教を広めていった……https://rapt-neo.com/?p=33045

ケルトというよりドルイド教として残っているグループ、あるいはそうした人々とつながっている神々が、
日本の神々と深いかかわりを持っていて、古代から現代に至るまて神の仕組みを織り続けていることがわかってしまっては、もう笑ってばかりはいられなくなる。


荊の紀氏 投稿日:2024年05月13日 21:03 No.1130
我が国にも、太陽十字はあるのですが、これもドルイド教の影響なのでしょうか?
『RAPT 日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。』↓
http://rapt-neo.com/?p=32234

…「秦氏」といえば「ゾロアスター教」の神官であり、「ゾロアスター教の神官」はもともと「ドルイド教の僧侶」でした。
…アイルランドとウェールズに伝わる中世に文字化された伝説。特にアイルランドに伝わるものには、かつては神と信じられていたものが、
(「悪魔教」の汚名が着せられて徹底的な弾圧が行われて殲滅された、なんて事は起きずに)超自然的な力を持つ種族や人物に変わって伝承された名残が明確にある。
ローカルな神への信仰がローマ支配下でローマの神への信仰と混合した事を示す遺物(現在の英国のバースの、泉の神がローマのミネルヴァと同一視されたSulis-Minervaはその例)
ケルト人以外にも多くの地域に存在した季節毎のお祭りがケルト人の中にもあった事を示すカレンダーぐらいです。

…日本の神話とケルト神話には共通点が結構あります。例えば浦島太郎の話とアーサー王の行った不死の国アバロンの話やアイルランド古歌のティルナノーグに行く話は似通っています。
浦島太郎は武内宿禰との関連が言われていますので武内宿禰の系列はその可能性があると思います。
又、例えば魏志倭人伝には日本には文字はなく、縄を結んだり木を傷つけたりすると書いてありますが、これは線で表すルーン文字の様な物かも知れません。
ケルトには自然信仰があり、短詩がありますが、これは五言絶句等の体裁に似ています。
元々ケルト神話はペルシャのナルト神話から派生したと言う説もあり、ペルシャ民族との関連が研究されている様です。
日本にもササン朝ペルシャのガラスが見つかったりしており、古代の日本にもペルシャの人々は来ていたと言われて法隆寺の建設にも関与したと言われています。
丸十字はキリスト教グノーシス派の印でもあると思います。グノーシス派とマニ教は関連があるのでマニ教(古代ペルシャの宗教)にも関連していると思います。
つまりケルト直接なのかペルシャからなのかは分かりませんが関係はあると思います。
ケルト神話にはお釜(煮るための)が出てきて大事な役割を果たしますが、それと前方後円墳は何か関係あるかも知れないと個人的に思います。

マニ教自体ササン朝ペルシャでマニと言う人が始めてキリスト教とゾロアスター教とを取り入れているようです。
そして中国では摩爾教(漢字が違うかと思います)になり、空海が学んだ密教もマニ教の影響のあるものと言われる様です。マニ教を国教としたのは明で日本でも日月教の様な名前がついていたと思います。
マニ教を国教としたのは明で日本でも日月教の様な名前がついていたと思います。

ドルイド教は悪魔教ではなく、ヨーロッパに普遍していた土着宗教です。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11192653911
ドルイド教の存在はキリスト教にとって布教活動の妨げになったため、当時のキリスト教は「悪魔教」の汚名を着せて徹底的な弾圧を行い、これを殲滅しました。
また宗教対立を封じる目的から、殲滅過程においてキリスト教はドルイド教の4大祭典を教義上の祝日として取り込んでいます。
インボルグ→聖母マリア清めの日
ベルテーン→メーデー(5月祭)
ルーナサ→聖ペトロの鎖の祝日
サウィン→ハロウィン
他宗教を「邪教」と呼んでこれを殲滅する。
昔のキリスト教って「血の宗教」と呼ばれるくらい惨いものですよ。




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