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123 【 侏儒 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 07:55:19 No.2369 【返信】

【 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 】
 
 また侏儒國がその東南に有る。
 その人の背丈は1メートル前後。
 女王國から四千餘里。
--------------------
【 侏儒國 】の【 侏儒 】は、中国語では【 小人 ( こびと )】韓国語では【 一寸法師 】という意味があります。
 
熟語【 侏儒 】の意味を、倭人は知っていたことになります。
つまり倭人は【 文字 】の意味を熟知したうえで、各國の名称を付けたと思われます。
 




122 【 倭 】と【 和 】について wajin128 投稿日: 2020年08月26日 06:35:07 No.2368 【返信】

【 興死、弟武立 】
【 自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 】
【 順帝昇明二年 ( 478年 )】
【 遣使上表曰 】
【 封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處 】
【 東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰 】
 
もと「 倭 」と書いたが、元明天皇 ( 在位期間:707年8月18日 - 715年10月3日 ) の時、「倭」と通じるとして「 和 」の字に「 大 」を付け加えて「 大和 」と書くよう定めたと有ります。
--------------------
興が死に弟の武が王位を継承し順帝に使者を遣わして【 都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 】の称号を賜ったとあります。
この【 武 】の住まいは九州と考えられます。
 
しかし考古学の研究により、すでに畿内大和に巨大勢力が存在していたことは明白です。
その畿内勢力も【 倭 】を名乗っています。
 
『 隋書 』 東夷傳 倭國
【 又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也 】
【 又經十餘國、達於海岸 】
【 自竹斯國以東、皆附庸於倭 】
 
倭、原本では【 イ妥 ( tai )】
608年に文林郎裴世清は倭國 ( 畿内大和 ) を訪問しています。
つまり 478年には、九州と畿内大和に在った二つの【 倭 】が、608年には一つに統合されています。
 
継体天皇 ( 崩御 531年3月10日 ) の時に、二つの倭が統合されたものと思われます。
継体天皇の【 継体 】の意味は、二つの倭を一つに【 つなぐ天皇 】という意味と想像します。
 




121 【 録受 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 06:10:21 No.2367 【返信】

【 皆裝封付難升米 牛利還到録受 】
 
 すべて包装して封を施す
 写しを難升米 牛利に持たせて帰還させる
 両名が帰り到らば受領せよ
 
【 皆 】は【 すべて 】と訳します。
【 裝 】は【 包装 】と訳します。
【 封 】は【 封泥 】のことです。
【 還到 】は【 帰り到る 】と訳します。
【 録 】は【 写し (コピー)】あるいは【 抄 ( 一部の抜書き )】と訳します。
【 受 】は【 受領 】あるいは【 受取る 】と訳します。
 
以上は中国の辞書からの引用です。
【 録受 】の訳は【 写しを受領 】と訳します。
魏帝からの贈物を受取る際は【 賜 】の文字が使用されます。
 
したがって【 受 】の文字を使用することは決して有りません。
つまり【 録受 】と記載したのは【 現物では無く、詔書の一部を写し取った書類 ( 目録 )】と考えられます。
 




120 【 糧盡人相食 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 05:47:40 No.2366 【返信】

『 三國志 』 卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八
 
初、恭病陰消、爲閹人。
劣弱不能治國。
太和二年淵、脅奪恭位。
明帝即位、拜淵揚烈將軍遼東太守。
淵、遣使南通孫權。
往來賂遺。
權、遣使張彌許晏等、齎金玉珍寶、立淵爲燕王。
淵、亦恐權遠不可恃。
且貪貨物、誘致其使、悉斬送彌晏等首。
明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公。
持節、領郡、如故。使者至、
淵設甲兵爲軍陳、出見使者。
又數對國中賓客、出惡言。
景初元年。
乃遣幽州刺史母丘儉等、齎璽 、書徴淵。
淵遂發兵逆於遼隧、與儉等戰。
儉等不利而還。
淵遂自立爲燕王、置百官有司。
遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拜邊民。
誘呼鮮卑、侵擾北方。
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。
六月軍至遼東。淵遣將軍卑衍、楊祚等、歩騎數萬屯遼隧。
圍塹二十餘里。宣王軍至。令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等、撃破之。
宣王令軍、穿圍、引兵東南向。
而、急東北、即趨襄平。衍等恐襄平無守、
夜走。諸軍進至首山。淵復遣衍等迎軍、殊死戰。
復撃、大破之。遂進軍造城下、爲圍塹。
會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口、徑至城下。
雨霽、起土山、脩櫓、爲發石連弩射城中。
淵、窘急。
糧盡、人相食、死者甚多。
將軍楊祚等、降。
八月丙寅夜大流星長數十丈、從首山東北、墜襄平城東南。
壬午、淵衆潰。
與其子脩將數百騎、突圍東南走。
大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。
城破。斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽。
遼東帶方樂浪玄菟、悉平。
--------------------
太和二 ( 228 ) 年に公孫淵は即位しています。
また明帝の即位に公孫淵は拜淵遼東太守として將軍たちを列席させています。
 
【 景初元年 】
【 乃遣幽州刺史母丘儉等、齎璽 書徴淵 】
【 淵遂發兵逆於遼隧、與儉等戰 】
【 儉等不利而還 】
 
景初元 ( 237 ) 年に公孫淵は兵を送り、刺史の母丘儉と交戦して勝っています。
景初二 ( 238 ) 年六月に司馬懿は帯方郡に到着します。
その二ヵ月後の8月に公孫淵は殺されますが【 糧盡、人相食、死者甚多 ( 食料が尽きて多くの死者が出た、そして人肉を食べる )】とあります。
 
わずか2ヶ月の篭城で、公孫軍の食料が尽きるなど有り得ない事です。
つまり戦闘は6月以前から始まっていて、公孫淵は長期に渡って篭城していたのでしょう。
 
一年前の母丘儉戦には勝利しているのですから、信じがたい敗北です。
おそらく篭城に追いやったのは【 副 】の任務を担った倭軍によるものと思われます。
 




118 【 副 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月26日 01:00:24 No.2365 【返信】

『 三國志 』 魏書 明帝紀
人非金石、遠慮詳備、誠宜有副。
今北邊諸將及懿所督、皆為僚屬、名位不殊、素無定分、卒有變急、不相鎮攝。
存不忘亡、聖達所戒、宜選大臣名將威重宿著者、盛其禮秩。
遣詣懿軍、進同謀略、退為副佐。

 [ 現代語訳 ]
 現在北方には祖先の賢い教えを守る、立派な大臣や将軍たちがいる。
 彼らは公孫氏に従属しているが、不満を持ち我々が事を起こすなら協力すると言っている。
 そこで将軍に使いを遣わし【 副 】として行動を共にしようと呼びかけることにする。
--------------------
【 官曰卑狗 副曰卑奴母離 】

 官を卑狗 副を卑奴母離という。

【 副 】は【 主 ( 官 )】を補佐する役目を担っています。
魏が述べる北方に住む立派な将軍とは、倭の将軍【 難升米 】を指していることは明白です。

【 太守劉夏遣吏將送詣京都 】

 帯方太守劉夏は官吏を遣わし、
 将軍 ( 難升米 ) を京都に送り詣す。

つまり魏は難升米を【 副 】として採用し、公孫氏を討伐する計画を立てたことになります。

『 晉書 』 四夷傳(東夷条)
【 宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶 】
 
 宣帝は公孫氏を平定す。
 其女王は帶方に使いを遣し、朝見す。
 その後も友邦として、貢物を奉げての朝見は続いた。
 
この文章に【 聘 】と有りますが、この意味は【 古代友邦 ( 同盟國 ) の使者を迎えること 】と有ります。
なぜ女王の使者が【 友邦 】として歓迎されたのかは、上の文章を読めば明白でしょう。
 




117 【 浮屠 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 23:54:59 No.2364 【返信】

『 三国志魏書 』 馬韓伝
信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。
又諸國各有別邑。
名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。
諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。
其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善惡有異。
 
 [ 現代語訳 ]
 人々は祖先の霊魂( 鬼 )の存在を信じている。
 各國や邑では天神を祭る。
 天神を祭る一人の司祭者を共立する。
 この人物を天君という。
 
 祖先の霊魂を鎮める為に大きな立ち木に鈴や太鼓を吊るす。
 これを蘇塗といい、各國や邑によって特色が有る。
 亡命は罪となるが、罪を犯しても人々は蘇塗の中に逃げ込むが、
 帰還した者はいない。
 
 所によって善悪の基準は異なる。
 蘇塗の教えは仏陀 ( お釈迦さま ) に似ている。
--------------------
【 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 】
 
 卑彌呼は鬼道を生業としている。
 既に高齢に達するが夫はいない。
 
お釈迦様は【 天竺 ( ネパール )】の王子ですから、蘇塗の教義も南方にあると見られます。
 




116 【 乍南乍東 】と孤立語 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 23:10:25 No.2363 【返信】

日本語では【 次々 】あるいは【 続々 】【 右往左往 】といった文章は【 反復文 】と認識されます。
しかし漢文は【 孤立語 】ですから【 反復文 】の場合は、明確にその事を記す必要があります。
 
たとえば【 乍南乍東 】の意味は、行為【 乍南 】の後で行為【 乍東 】が行われた事になります。
もし【 乍南乍東 】を反復文にするなら【 重複乍南乍東 】または【 乍南環東 】と記述する必要があります。
 
日本語で【 私は彼を愛している ( 現在進行形 )】と【 私は彼を愛していた ( 過去形 )】の違いは【 る 】と【 た 】の違いだけです。
つまり日本語には【 活用 】があります。
ところが中国語には【 活用 】がありません。
 
そこで現在進行形では【 我愛他 ( 他とは彼といういみです )】と記述し、過去形では【 我以前愛他 】と記述します。
日本語では【 私は彼を愛している 】も【 彼を私は愛している 】も同じ意味ですが、漢文では文字の順序が変わると【 我愛他 ( 私は彼を愛している )】【 他愛我 ( 彼は私を愛している )】のように、全く逆の意味になってしまいます。
 
したがって漢文では【 文字の順序 】が極めて重要になります。
【 乍南乍東 】は【 乍南 】の後で【 乍東 】の、一度だけの行動と訳さなければなりません。
同様に【 水行十日陸行一月 】の訳も【 水行十日 】の後で【 陸行一月 】それ
を何度も繰り返した、と訳さなければなりません。
 




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