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115 【 椿 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 22:34:01 No.2362 【返信】

私たち日本人は【 椿 】を【 つばき 】と読み【 椿の花 】を連想します。
いっぽう中国では【 椿 】の意味を【 落叶高木 ( 落葉樹 )】【 嫩枝叶有香味 ( 薫りのある若木 )】と認識しています。
 
日本、韓國、ベトナムは漢字系文化圏ですが、漢字文化圏ではありません。
中国で創られた漢字を、各国は利用しているだけです。
したがって中国で創られた本来の文字の意味や使い方とは、かなり異なったところがあります。
 
たとえば漢文は【 主語+述語 】【 主語+動詞+目的語 】の順に記載しなければなりませんが、日本語では【 活用 】があるために、漢文の書式に従っていません。
 
【 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國 】
 
 また南の一大國に一海を渡り千里余りで至る。
 一海の名を瀚海という。
 
この文章は、本来の書式にしたがっていません。
それは【 至一大國 】に【 出発地点 ( 基点 )】の記載がないからです。
原則に従うなら【 從對馬國至一大國 】と記載しなければなりません。
 
【 至一大國 】と記載しても書式違反とならない理由は【 存現文 】という、漢文のルールに従っているからです。
存現文のルールに従って、郡使は【 郡⇒狗邪韓國⇒對馬國 】に移動したと、読者も著者も認識しているからです。
 
したがって前節の位置あるいは時間、空間を次節が引き継いでいることを認識しなくてはいけないのです。
漢文を学ぶ際は【 文法 】はもちろんのこと【 存現文 】といった、暗黙の了解、いわゆる常識も学習する必要があります。

たとえば【 至 】には【 別の地から到達する 】という意味があります。
【 至 】は動詞ですから、漢文のルールに従えば、必ず主語が伴うはずです。
ところが古田氏、安本氏、あるいは岩波文庫の【 魏志倭人伝訳 】を見ても、主語の【 誰が 】の記載がありません。
 
彼らは漢文を学習した経験を持ち合わせていないのです。
漢文を学び【 魏志倭人伝 】を読めば、文法通りに記載されていることを、改めて認識できる事でしょう。
 
前後の文字を見れば、当該の文字が【 動詞 】か【 介詞 】か【 助詞 】か【 副詞 】かなど、簡単に認識できるようになっています。
 


114 【 徑百餘歩 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 16:58:35 No.2361 【返信】

【 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 】
 
 卑彌呼は死す
 以って周囲百餘歩の大きな冢を作る
--------------------
『 晋書 』 粛慎伝
【 以布作襜徑尺餘以蔽前後 】
 
丈は短かく、周囲は一尺余りの布で作り前後を覆い隠す。
 
中国の辞書に【 襜 】の意味は【 古代の人の丈の短い普段着 】とあります。
さらに【 蔽 】の意味は【 覆い隠す 】です。
したがって【 徑百餘歩 】の訳は【 周囲は百餘歩 (1歩は1.2m)】と訳します。
 




113 【 存現文 】とは wajin128 投稿日: 2020年08月25日 16:21:54 No.2360 【返信】

漢文には【 時間や空間的な位置 】を表現する際【 存現文 】を使用します。
 
【 又渡一海 千餘里至末盧國 】 

 また末盧國まで一海を渡り千餘里。
--------------------
この文章には、どこから末盧國にやって来たのか記載されていません。
しかし【 存現文 】のルールにしたがえば、出発地は【 一大國 】になります。
ではなぜ出発地を【 一大國 】と言えるのか、その理由を説明できますか ?
 
たぶん多くの人は、前節に【 至一大國 】と有るからと答えるでしょう。
では【 至末盧國 】と【 一大國の出発地 】とどういう関係があるのでしょう。
漢文は【 孤立語 】です、したがって日本語のように前後の文章のつながりはまったく有りません。
 
もし【 存現文 】のルールが無いとすれば、一々どこから来たのかを記載しなければならないことになります。
 
【 自郡至女王國萬二千餘里 】
 
この文章が良い例です。
この文章の【 自 】は出発地を【 郡 】に置き換えるためのものです。
つまり【 存現文 】によって【 郡⇒邪馬壹國の都 】まで続いてきた移動文を、これによって断ち切っています。
 
【 存現文 】のルールを知らない人物は【 水行十日 陸行一月 】の出発地を【 郡 】にしたり、伊都國から先は【 放射移動 】などと勝手な訳を行っています。
 
【 東南陸行五百里 到伊都國 】
 
 東南へ陸行五百里で伊都國に到る。
 
この文章の前に、幾つかの文章が挟まっています。
 
【 有四千餘戸 】
【 濱山海居 草木茂盛行不見前人 】
【 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之 】
 
私たちは【 末盧國 】についての文章と理解しますが、中国語は【 孤立語 】ですから、上の文章もすべて断ち切られてしまいます。
使者が【 存現文 】のルールによって【 末盧國 】にとどまったとしなければ、どの國についての記述かわからなくなってしまいます。
 
そこで【 存現文 】のルールが必要になるのです。
もし【 存現文 】のルールが無ければ、出発地を表す【 自 】を加えて【 自末盧國東南陸行五百里 到伊都國 】などと記載しなければなりません。
 
つまり存現文の【 至末盧國 】によって、使者はこの地にとどまっていることになります。
中国語が【 孤立語 】であること、そのために【 存現文 】のルールが必要になることを、理解していただけたでしょうか。
少し変わった【 存現文 】の断ち切り方も紹介しましょう。
 
【 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 】
 
 女王國の東、海を渡って千餘里のところに、復國が有る。
 
【 去女王四千餘里 】

 女王のところからは四千餘里。

【 又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至 】
 
 また裸國 黒齒國という國が有る。
 女王國からは東南に船で向かって一年はかかる。

出発地を【 女王國 】と明示した上で【 復國有り 】と記載されています。
次の【 侏儒國 】は【 その南に在る 】となっていて【 女王國⇒倭種國⇒侏儒國 】と連続した文章になっています。
【 存現文 】のルールにしたがえば、今【 侏儒國 】の位置にいます。
 
ここで【 復在其東南 】の【 復 】の文字は【 存現文 】を断ち切る働きを行っています。
たとえば【 往復 】の【 復 】は出発地に戻るという意味ですが、同じく【 復在其東南 】の【 復 】も【 女王國に戻る 】という意味になります。
 
したがって【 復在其東南 】とは【 女王國に戻って、其の東南に在る 】と訳します。
などとえらそうに述べてきましたが、多くは放送大学の【 宮本准教授 】からの受け売りです。
 
あしからず ・・・
 




112 【 匝 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 14:43:02 No.2359 【返信】

中国の辞書に【 匝 】の意味は【 周 】とあります。
また【 周 】も【 週 】も同意と記載されています。
【 匝 】の使用例は次の通りです。
 
【 匝道 】の訳は【 周回する道 】
【 匝地 】の訳は【 地を覆う 】
【 匝月 】の訳は【 満1か月 】
 
たとえば【 一週間 】は【 月曜から日曜までの一連 】をいいます。
また【 円周 】は【 円の周囲 】をいいます。
これらの【 周 ( 週 )】の意味は【 連なった状態 】を示す形容詞です。
 
これに対して【 旋 】は【 回る 】という意味の動詞です。
【 周旋可五千餘里 】を文法上で分析すれば【 周 ( 主語 )】+【 旋 ( 動詞 )】+【 五千餘里 ( 目的語 )】になります。
 
中国語の基本【 S主語 】+【 V動詞 】+【 O目的語 】に従った語順になっています。
なお【 可 】は【 確定 】を表す【 強調 】に使用されています。
【 可五千餘里 】を現代文に訳せば【 五千餘里に違いない 】といった意味になります。
 
ではどこを【 周旋 】した結果【 可五千餘里 】になったかといえば、以下の21國です。
 
【 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 】
 
 女王國 ( 都 ) 以北についてはその戸數や道里を概ね記載した。
 その餘の ( 21國 ) は遠く、その他の國 ( 狗奴國 ) とは絶交状態にあり詳細は不明。
 
そして【 絶 】の理由を【 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 】と述べています。
中国の辞書によれば【 旁 】の意味は【 其他 ( その他 )】あるいは【 左右両側 】とあります。
 
【 遠絶 】の國が【 左右両側 】に在るでは、意味不明な日本語になります。
そこで【 遠絶 】の訳は【 遠 】と【 絶 】に分けて訳します。
 
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
 
これら 21國を列記した後で【 此女王境界所盡 ( ここで女王の支配領域は尽きる )】とあります。
これら 21國は全てに【 次有 】と記載されています。
 
存現文にしたがえば使者は今【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】によって【 邪馬壹國の都 】に立っていることになります。
したがって【 邪馬壹國の都 】の北側には【 對馬國と一大國 】を除く 6國が在り、南には狗奴國が在ると認識します。
 
すると【 其餘の 21國 】は【 邪馬壹國の都 】の東と西に存在したことになります。
【 邪馬壹國の都 】を中心に東西に並ぶ【 其餘の 21國 】の向こう側には【 女王の支配する領域は無い ( 此女王境界所盡 )】という意味になります。
 
【 次有奴國 】を【 此女王境界所盡 】と訳すと、まるで 21國が南北一列に並んだ光景になってしまいます。
後漢書には次のように記載されています。
 
【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】
 
 建武中元二年 ( 57年 )
 倭 ( 実際は委 ) 奴國の使者、自称大夫が貢物を奉げて朝廷の参賀に訪れた。
 倭奴國は倭國の極南界也という。
 
また伊都國のところでは【 世有王 皆統屬女王國 ( 代々王が居てすべての王は女王國に属す )】とあります。
つまり代々【 女王が王位に就く以前 】から伊都國の王は【 邪馬壹國の都 】に住む王に属していたとあります。
 
伊都國の王は一度も【 狗奴國の男子の王 】に従ったことは無いということになります。
漢代の倭の【 極南界 】の地にあった【 倭奴國 】とは、つまり邪馬壹國の女王の住まう【 都 】ということになります。
 
もし【 次有奴國 】が女王國の南【 極南界 】に在ったとすれば、後漢書も魏志倭人伝もデタラメということになります。
おそらく 21國は女王の住まう【 都 】を中心に大分県 ( 東 ) 側、そして長崎県・佐賀県 ( 西 ) 側に在ったと考えて間違いないでしょう。
 
そして【 狗奴國 】は漢代以降に建設された國と見なされます。
おそらく女王との戦い ( 倭國亂 ) に敗れて南に落ち延び、人吉平野に亡命政権を樹立した國と想像します。
 
この戦いで使用された鉄鏃が、福岡平野・筑後川流域・熊本平野で大量に出土しています。
後漢書では【 倭國大亂 】と記載されていますが、鉄鏃はそれを物語っています。
 




111 【 鮮卑 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 14:03:33 No.2358 【返信】

【 三國志 】卷三十 魏書三十 鮮卑
 
檀石槐既立 乃爲庭於高柳北三百餘里彈汗山啜仇水上 東西部大人皆歸焉 兵馬甚盛 南鈔漢邊 北拒丁令 東卻夫餘 西撃烏孫 盡據匈奴故地 東西萬二千餘里 南北七千餘里 罔羅山川 水澤 鹽池甚廣 漢患之 桓帝時使匈奴中郎將張奐征之 不克 乃更遣使者齎印綬 即封檀石槐爲王 欲與和親 檀石槐拒不肯受 寇鈔滋甚 乃分其地爲中東西三部 從右北平以東至遼 東接夫餘シ歳 貊爲東部 二十餘邑 其大人曰彌加 闕機 素利 槐頭 從右北平以西至上谷爲中部 十餘邑 其大人曰柯最 闕居 慕容等 爲大帥 從上谷以西至燉煌 西接烏孫爲西部 二十餘邑 其大人曰置 鞬落羅 日律推演 宴茘游等 皆爲大帥
--------------------
[ 現代語訳 ]
鮮卑は檀石槐が治めている。
高柳から北へ三百餘里の彈汗山の麓の水上までを庭とする。
東西部の大人は皆、盛んに兵馬を養う。
南の鈔漢付近の北では命令を拒む。
東の夫餘は西の烏孫を攻撃する。
かつて匈奴の地を引き継ぐ 東西萬二千餘里、南北の七千餘里。
あらゆる山や川沼沢地を覆う。
塩を多く含むこれらの地は漢を患わす。
桓帝の時に中郎將張奐を使者として鮮卑に送り。
漢に従うよう求めたが従わなかった。
更に使いを遣わし檀石槐を王と為し印綬をもたらして盟約を結ぶことを伝えた
檀石槐はこれを拒む。
檀石槐は鮮卑を中東西の三部に分けて統治している。
右北平以東から遼の東で夫餘やシ歳貊と接するまでを東部為す。
二十餘の邑の大人を彌加 闕機 素利 槐頭という。
右北平以西から上谷までを中部と為す。
十餘の邑の大人を 柯最 闕居 慕容等 を大帥と為す。
上谷以西から燉煌の西で烏孫と接するまでを西部と為す。
二十餘の邑の大人を置 鞬落羅 日律推演 宴茘游等 を皆大帥と為す。
--------------------
檀石槐が支配する【 東西萬二千餘里 】は【 遼の東で夫餘に接する ( 現在の北朝鮮の西北 )】から【 燉煌の西で烏孫と接する ( 現在の敦厚の西のタクラマカン砂漠の西端 )】までということになります。
 
この間の直線距離は、約【 2,800km 】です。
一方、洛陽から帯方郡までは【 四千餘里 】とありますが、この間の直線距離は約【 1,000km 】ですから、古代中国の測量技術の高さがしのばれます。
 




110 【 船行一年可至 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 13:34:17 No.2357 【返信】

【 又有裸國 黒齒國復在其東南 船行一年可至 】
 
 女王國の東に 裸國 黒齒國 が在る。
 船行一年で至る。
 
郡の使者は 裸國 黒齒國 に【 船行一年 】で到着したと記載されています。
 
【 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 】
【 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 】
 
【 皆倭種 】あるいは【 侏儒國 】の文章には【 至 】の記述が有りません。
したがって両國は 裸 (ら) 國 黒齒 (かち) 國 に向かう途中にある、通過國と思われます。
 
【 船行一年 】で到着したのは、現在の奈良と河内と思われます。
郡使の役目は【 贈物 】を倭人に示すことですから、 裸國 黒齒國 には倭人が居てその人々に【 贈物 】を示したものと思われます。
 




109 【 接 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月25日 08:16:18 No.2356 【返信】

【 接 】の意味を知る貴重な文章が有りますので、ご紹介しましょう。
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『 南斉書 』 加羅國伝
弁辰與辰韓雜居 亦有城郭 衣服居處與辰韓同 言語法俗相似 祠祭鬼神有異 施竈皆在戸西 其涜盧國與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大 衣服絜清 長髮 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
 
【 其涜盧國與倭接界 】
 涜盧國の其の界で倭と接す
--------------------
中国語の辞書に【 界 】の意味は【 範囲 】とあります。
つまり【 涜盧國の其の範囲で倭と接す 】ということになります。
 
たとえば【 視界 】とは【 見える範囲 】をいいます。
【 見える範囲 ( 界 )】と【 見えない範囲 ( 界 )】を分ける線が【 境 】です。
--------------------
『 三国志魏書 』 馬韓伝
韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
--------------------
古田氏は【 南與倭接 】を【 南で倭と境 ( 界 ) を接す 】と訳しています。
そこで彼は、韓と倭は【 陸地でつながっている 】と説明しています。
古田氏のこの訳は【 デタラメ 】です。
 
【 涜盧國の其の範囲で倭と接す 】とは【 涜盧國の領内で倭と接す 】というのですから、【 倭 】は【 倭人 】でなくてはなりません。
國と國とが【 領内 】で接することはできません。
 
【 接 】とは【 出合う 】という意味です。
たとえば中国語で【 電話で会話する 】は【 接電話 】と記載します。
--------------------
【 三國志 】卷三十 魏書三十 鮮卑
①、【 從右北平以東至遼 東接夫餘シ歳貊爲東部 】
 
 右北平以東より遼の東で夫餘 シ歳貊と出合うまでを東部と為す。

②、【 從右北平以西至上谷爲中部 】
 
 右北平以西より上谷までを中部と為す。
 
③、【 從上谷以西至燉煌 西接烏孫爲西部 】
 
 上谷以西より燉煌の西で烏孫と出合うまでを西部と為す。
 




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