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投稿者:wajin128
中国の辞書に【 匝 】の意味は【 周 】とあります。 また【 周 】も【 週 】も同意と記載されています。 【 匝 】の使用例は次の通りです。   【 匝道 】の訳は【 周回する道 】 【 匝地 】の訳は【 地を覆う 】 【 匝月 】の訳は【 満1か月 】   たとえば【 一週間 】は【 月曜から日曜までの一連 】をいいます。 また【 円周 】は【 円の周囲 】をいいます。 これらの【 周 ( 週 )】の意味は【 連なった状態 】を示す形容詞です。   これに対して【 旋 】は【 回る 】という意味の動詞です。 【 周旋可五千餘里 】を文法上で分析すれば【 周 ( 主語 )】+【 旋 ( 動詞 )】+【 五千餘里 ( 目的語 )】になります。   中国語の基本【 S主語 】+【 V動詞 】+【 O目的語 】に従った語順になっています。 なお【 可 】は【 確定 】を表す【 強調 】に使用されています。 【 可五千餘里 】を現代文に訳せば【 五千餘里に違いない 】といった意味になります。   ではどこを【 周旋 】した結果【 可五千餘里 】になったかといえば、以下の21國です。   【 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 】    女王國 ( 都 ) 以北についてはその戸數や道里を概ね記載した。  その餘の ( 21國 ) は遠く、その他の國 ( 狗奴國 ) とは絶交状態にあり詳細は不明。   そして【 絶 】の理由を【 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 】と述べています。 中国の辞書によれば【 旁 】の意味は【 其他 ( その他 )】あるいは【 左右両側 】とあります。   【 遠絶 】の國が【 左右両側 】に在るでは、意味不明な日本語になります。 そこで【 遠絶 】の訳は【 遠 】と【 絶 】に分けて訳します。   次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國   これら 21國を列記した後で【 此女王境界所盡 ( ここで女王の支配領域は尽きる )】とあります。 これら 21國は全てに【 次有 】と記載されています。   存現文にしたがえば使者は今【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】によって【 邪馬壹國の都 】に立っていることになります。 したがって【 邪馬壹國の都 】の北側には【 對馬國と一大國 】を除く 6國が在り、南には狗奴國が在ると認識します。   すると【 其餘の 21國 】は【 邪馬壹國の都 】の東と西に存在したことになります。 【 邪馬壹國の都 】を中心に東西に並ぶ【 其餘の 21國 】の向こう側には【 女王の支配する領域は無い ( 此女王境界所盡 )】という意味になります。   【 次有奴國 】を【 此女王境界所盡 】と訳すと、まるで 21國が南北一列に並んだ光景になってしまいます。 後漢書には次のように記載されています。   【 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 】    建武中元二年 ( 57年 )  倭 ( 実際は委 ) 奴國の使者、自称大夫が貢物を奉げて朝廷の参賀に訪れた。  倭奴國は倭國の極南界也という。   また伊都國のところでは【 世有王 皆統屬女王國 ( 代々王が居てすべての王は女王國に属す )】とあります。 つまり代々【 女王が王位に就く以前 】から伊都國の王は【 邪馬壹國の都 】に住む王に属していたとあります。   伊都國の王は一度も【 狗奴國の男子の王 】に従ったことは無いということになります。 漢代の倭の【 極南界 】の地にあった【 倭奴國 】とは、つまり邪馬壹國の女王の住まう【 都 】ということになります。   もし【 次有奴國 】が女王國の南【 極南界 】に在ったとすれば、後漢書も魏志倭人伝もデタラメということになります。 おそらく 21國は女王の住まう【 都 】を中心に大分県 ( 東 ) 側、そして長崎県・佐賀県 ( 西 ) 側に在ったと考えて間違いないでしょう。   そして【 狗奴國 】は漢代以降に建設された國と見なされます。 おそらく女王との戦い ( 倭國亂 ) に敗れて南に落ち延び、人吉平野に亡命政権を樹立した國と想像します。   この戦いで使用された鉄鏃が、福岡平野・筑後川流域・熊本平野で大量に出土しています。 後漢書では【 倭國大亂 】と記載されていますが、鉄鏃はそれを物語っています。  
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