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087 【 侵擾北方 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 14:19:05 No.2334 【返信】

 
『 三國志 』卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八
 
初、恭病陰消、爲閹人。
劣弱不能治國。
太和二年淵、脅奪恭位。
明帝即位、拜淵揚烈將軍遼東太守。
淵、遣使南通孫權。
往來賂遺。
權、遣使張彌許晏等、齎金玉珍寶、立淵爲燕王。
淵、亦恐權遠不可恃。
且貪貨物、誘致其使、悉斬送彌晏等首。
明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公。
持節、領郡、如故。
使者至、淵設甲兵爲軍陳、出見使者。
又數對國中賓客、出惡言。
景初元年。
乃遣幽州刺史母丘儉等、齎璽 、書徴淵。
淵遂發兵逆於遼隧、與儉等戰。
儉等不利而還。
淵遂自立爲燕王、置百官有司。
遣使者持節、假鮮卑單于璽、封拜邊民。
誘呼鮮卑、侵擾北方。
二年春、遣太尉司馬宣王征淵。
六月軍至遼東。
淵遣將軍卑衍、楊祚等、歩騎數萬屯遼隧。
圍塹二十餘里。
宣王軍至。
令衍逆戰。
宣王遣將軍胡遵等、撃破之。
宣王令軍、穿圍、引兵東南向。
而、急東北、即趨襄平。
衍等恐襄平無守、夜走。
諸軍進至首山。
淵復遣衍等迎軍、殊死戰。
復撃、大破之。
遂進軍造城下、爲圍塹。
會霖雨三十餘日、遼水暴長、運船自遼口、徑至城下。
雨霽、起土山、脩櫓、爲發石連弩射城中。
淵、窘急。
糧盡、人相食、死者甚多。
將軍楊祚等、降。
八月丙寅夜大流星長數十丈、從首山東北、墜襄平城東南。
壬午、淵衆潰。
與其子脩將數百騎、突圍東南走。
大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。
城破。
斬相國以下首級以千數、傳淵首洛陽。
遼東帶方樂浪玄菟、悉平。
--------------------
【 淵、遣使南通孫權 】
 公孫淵は南の (呉) 孫權に手紙を遣わす
 
【 誘呼鮮卑、侵擾北方 】
 北方から進入して ( 魏の国内を ) 乱すように鮮卑を誘う。
 
公孫淵は北方 ( 隣国 ) の鮮卑、南方の呉と手を組み、魏を挟撃しようと計画します。
こうした時に、もし公孫淵を攻撃すれば、南の呉が北進してくる可能性があります。
 
苦境に立たされた魏にとって、倭人との盟約は欠くことのできない戦略となっています。
 
【 有倭人以時盟 】
 倭人は早急に盟約を結ぶだろうか
 
この心境がよく伝わってきます。
 
倭人の協力によって公孫淵を打ち破った魏が、【 親魏倭王 ( 魏の友邦倭王 )】の称号を与えたのも、使者の【 難升米 】を歓待した気持ちも理解できます。
 




086 【 邪靡堆 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 14:06:15 No.2333 【返信】

 
『 隋書 』
【 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 】
--------------------
三世紀の【 壹 】の音は【 dou4 】です。
** 中国の場合【 dou4 】の【 d 】の音は濁りがありません、したがって【 tou 】に聞こえます。
 
【 馬 】の音は【 ma3 ( マ )】です。
【 臺 ( 台 )】の音は【 tai1 】ですが、声符【 到 ( 至 )】の音は【 dao4 ( ト )】です。
【 靡 】の古同は【 糜 ( mei2 )】です、つまり声符は 【 米 】です。
 
日本では【 米 】の音読みは【 呉音: マイ、漢音: ベイ 】です。
中国や韓國では【 米 】の音は【 mi 】と聞こえますが、同じ漢字圏のベトナムでは日本語に近い【 m ( aとeの中間音 ) i 】音です。
【 堆 】の音は【 dui1 】です。
【 堆 】の声符は【 隹 】ですが音は【 zhui1 ( ツゥェィ )】です。
 
【 馬 】と【 靡 ( 米 )】の音、そして【 壹 】と【 臺 】と【 堆 】の音は良く似ています。
【 邪馬壹 】【 邪馬臺 】【 邪靡堆 】の読みは、全て【 ヤマト 】です。
 
ゆっくり聞けば違いがわかりますが、普通のスピードで聞いた場合ほとんど区別できないでしょう。
 




085 【 邪馬壹國 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 13:51:47 No.2332 【返信】

 
【 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 】
( 投馬國 ) から南へ、女王の邪馬壹國の邑 ( 所 )、都 ( つ ) に 水行十日 陸行一月で至る。
--------------------
郡の使者は【 水行十日 】の後で【 陸行一月 】を実行したと記載されています。
投馬國 ( 久留米 ) から【 水行十日 】で、筑後川流域を下り八女付近に向かったと思われます。
 
八女から南へ向かって【 陸行一月 】とありますが、なぜ移動手段を【 水行 】から【 陸行 】に変更したのでしょうか ?
答えは九州の地図を見て頂ければ一目瞭然です。
八女付近から南へ向かう河川は一本もありません。
 
八女⇒熊本までの河川は、全て東の山側から、西の有明海に向かって流れています。
したがって南へ向かうには、河川を横切って進む事になります。
 
そこで【 水行 】から【 陸行 】に変更しなければならなかったのです。
有明海を舟で進むことも考えられますが、この場合魏帝の贈物を邪馬壹國の人々に示す事ができません。
 




084 【 邪馬壹國 】の訳 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 13:10:14 No.2331 【返信】

 
魏志倭人伝に【 邪馬壹國 】は【 七萬餘戸 】と記載されています。
【 奴國 】は【 二萬餘戸 】その南の【 投馬國 】は【 五萬餘戸 】さらに、その南の【 邪馬壹國 】は【 七萬餘戸 】とあります。
--------------------
奴國・投馬國・邪馬壹國の人々は自給自足の生活を営んでいます。
一戸に 4~5人が生活していたとすれば、その消費カロリーから見て 70m×70m 程度の耕作面積を必要とします。
 
この仮定から【 奴國 】の【 二萬餘戸 】の耕作面積は約 100k㎡に達しますが、これは福岡平野と同じ面積です。
つまり奴國は福岡平野全域に比定しなくてはなりません。
 
また【 投馬國 ( 五萬餘戸 )】は、旧地名【 妻 ( 久留米~八女 )】に比定されます。
妻 ( 久留米~八女 )の更に南に在った【 邪馬壹國 ( 七萬餘戸 )】は、熊本平野に比定することになります。
 
( 70m×70m ) ×【 七萬餘戸 】=343k㎡
343k㎡ は熊本平野の面積と同等です。
福岡平野・筑後平野・熊本平野から出土する【 鐵鏃 】は、【 倭國亂 】で使用された物と見て間違いないでしょう。
 




083 【 邪馬 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 12:55:55 No.2330 【返信】

 
【 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 】
 ( 倭人は ) 中国人が化粧をするように、朱や丹をその身体に塗る
--------------------
【 朱 】とは水銀朱、そして【 丹 】とはベンガラ ( 二酸化鉄 ) を指します。
自然の水銀朱は希少で、とても多くの倭人が日常的に使用する事はできません。
十五万戸もの倭人が日常的に使用したのはベンガラと思われます。
--------------------
【 其山有丹 】
 その山に丹 ( ヘンガラ ) 有り
--------------------
中国の辞典に【 山 ( shan1 )】は【 地面形成的高聳的部分 ( 地面が高くそびえた部分 )】と記載されています。
【 山 】を倭では【 邪馬 】と書きますが、其餘の 21國に掲載されている【 邪馬國 】と思われます。
 
【 邪馬國 】の戸 ( 入り口 ) に在った所から【 邪馬壹 ( 山戸 ) 國 】となったと思われます。
そして【 都 ( つ )】とは、熊本県菊池郡大津と思われます。
 
大津から阿蘇へ向かうには、清正公道を進み阿蘇の外輪 ( 二重の峠 ) を越えて阿蘇盆地の赤水に入ります。
阿蘇赤水では、現在でもベンガラの材料となる大量の【 阿蘇黄土 】が得られます。
 
この【 阿蘇黄土 】を焼いて【 丹 】を作ります。
おそらく【 邪馬國 】とは、阿蘇赤水付近に在ったと思われます。
【 邪馬國 】の【 邪 】は、左側の【 牙 】が義符 ( 文字の意味を表す ) 、そして右側の【 卩 】が声符 ( 文字の読みを表す ) になっています。
 
【 牙 】は【 狼 】を表す文字です。
【 邪馬國 】の【 馬 】は【 間 ( エリア )】を表すと思われます。
つまり【 邪馬 】とは【 狼の住むエリア 】という意味になります。
 
たとえば【 斯馬國 】とありますが、中国語の【 斯 】には【 本体から離れた部分 】という意味があります。
おそらく【 斯馬國 】の【 斯馬 】とは、【 本体から離れたエリア ( 島 )】を指すと思われます。
 




082 【 七千餘里 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 10:39:52 No.2329 【返信】

【 海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 】
 海岸を航行し
 韓國を通り過ぎたら、突然南から東へ進路 を変更する
 其の北の狗邪韓國の海岸まで七千餘里
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帯方郡は、現在のソウル付近に在ったと思われます。
では韓國の狗邪 ( 後の伽耶 ) をどこに比定するかを考えて見ましょう。
釜山を狗邪に比定する説が有りますが誤りです。
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『 後漢書 』 弁辰伝
【 其涜盧國與倭接界 】
 涜盧國の其の域内で倭人と接す

** 【 界 】とは【 範囲内 ( 涜盧國内 )】という意味です。
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私は釜山を涜盧國に比定しています。
対馬から釜山へ渡るのは容易ですが、其の逆は2ノットの海流に逆らう事になり、手漕ぎの航海では困難です。
 
狗邪は泗川付近に在ったと思われます。
泗川は朝鮮半島の、南岸のほぼ中央付近に位置しますす。
この泗川の南に小さな島、勒島 ( ヌクト ) が在りますがこの島から、北九州独特の弥生式土器が出土しています。
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【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】
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この文章に【 又南渡一海千餘里 】とありますが【 又 】とは、前回の【 始度一海 千餘里至對馬國 】も【 又南渡一海 】となります。
つまり【 狗邪韓國⇒對馬國⇒一大國 】は一直線上に並んで存在した事になります。
 
壱岐と対馬下島の延長線上には【 泗川 】があります。
ソウル~泗川までの海岸線の長さは、963.87kmです。
従って ・・・
魏志倭人伝の一里は【 137m ( 963.87km÷七千餘里 )】になります。
 




081 【 至 】の意味 wajin128 投稿日: 2020年08月19日 10:29:13 No.2328 【返信】

 
【 東南至奴國百里 】
 ( 伊都國から ) 東の奴國まで百里
--------------------
奴國には二萬餘戸の家が在ると記載されています。
これ程の戸数が狭い場所に存在する事は有り得ません。
奴國まで【 百里 】の到着地点は、一点を指しています。
 
つまり【 至奴國 】の意味は二萬餘戸の全てでは無く、奴國の中心地に到着と言う意味です。
【 官 】名が記載されていますが【 奴國 】の中心に在る官邸に到着した事を物語っています。
 
これは【 魏志倭人伝 】を読む際の常識です。
この事は著者と読者の暗黙の了解であり、読者の良識( 存現文 )でもあります。
同様に【 至對馬國 】も【 至一大國 】も、両國の中心地に【 至 】と訳す事になります。
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【 始度一海 千餘里至對馬國 】
【 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 】
--------------------
上の文章は【 一海 】を渡って目的地に【 至 】と言う事です。
言い直せば、基点から到着点の間には【 一海 】が在ると言う事になります。
 
つまり【 對馬國まで 】【 一大國まで 】とは、両国の中心地に至ると言う意味ですから、古田氏の言う【 島半周説 】は実にバカげています。

 




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