投稿者:wajin128
【 興死、弟武立 】
【 自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 】
【 順帝昇明二年 ( 478年 )】
【 遣使上表曰 】
【 封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處 】
【 東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰 】
もと「 倭 」と書いたが、元明天皇 ( 在位期間:707年8月18日 - 715年10月3日 ) の時、「倭」と通じるとして「 和 」の字に「 大 」を付け加えて「 大和 」と書くよう定めたと有ります。
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興が死に弟の武が王位を継承し順帝に使者を遣わして【 都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 】の称号を賜ったとあります。
この【 武 】の住まいは九州と考えられます。
しかし考古学の研究により、すでに畿内大和に巨大勢力が存在していたことは明白です。
その畿内勢力も【 倭 】を名乗っています。
『 隋書 』 東夷傳 倭國
【 又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也 】
【 又經十餘國、達於海岸 】
【 自竹斯國以東、皆附庸於倭 】
倭、原本では【 イ妥 ( tai )】
608年に文林郎裴世清は倭國 ( 畿内大和 ) を訪問しています。
つまり 478年には、九州と畿内大和に在った二つの【 倭 】が、608年には一つに統合されています。
継体天皇 ( 崩御 531年3月10日 ) の時に、二つの倭が統合されたものと思われます。
継体天皇の【 継体 】の意味は、二つの倭を一つに【 つなぐ天皇 】という意味と想像します。