帰ってきた栃木県の中世城郭


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城の縄張りに関する情報があれば、お寄せください。もうしわけありませんが、それ以外は、当方あまり興味がありません。また、当ホームページに不適切な内容は、管理人判断で削除させていただきます。よろしくお願いします。
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情報提供を少々 フェニェクーティ 投稿日: 2024年03月09日 07:21:49 No.68 【返信】

お久しぶりでございます。
2018年(...でしたよね?)に常陸国の雨引山でお会いして以来でしょうか。
小生の山城歩き/探しの趣味はその後も変わらず続いております。
CS立体図候補地の内のいくつかについて、僭越ながら、情報を提供させていただきます。

・佐久山城の横
雨引山で昼食時にお会いした山川千博氏の「栃木県大田原市城館分布調査報告③佐久山城とその周辺」に
"佐久山城跡東端の遺構"・"招霊山の遺構"として紹介されています。
この冊子は「那須文化研究」 第37号の掲載物を抜刷したもののようなので、
どちらでも読めそうですが、両方とも電子化はされていないようです。

・黒田
こちらも雨引山でご一緒させていただいたアオレンジャー氏のHP「北緯36度付近の中世城郭」
https://yaminabe36.tuzigiri.com/index.htm
"矢又館"として紹介されています。更に南側に"矢又南館"もあるようです。

・東戸田城の横の横の山
CS立体図で見て気になったので、昨年11月に行ってきました。
北側の方は、城館遺構にも古墳にも見えませんでした。藪がやや酷く地表面が荒れていたせいではないと思うのですが...
CS立体図の画像とは地形が少し違っているように感じましたが、小生の感覚の方が間違っているかもしれません。
南側は、小生は城館遺構だと思いましたが、貴殿の基準ではやや微妙な気もします。
比高が余りないので尾根先から取り付いても問題はありませんが、
南東側下の墓地辺りから堀切(仮)を目指して登る方が楽だと思います。

・馬頭
一番西側の所だけ昨年4月に行きました。
場所からすると城があった方が自然な気もしますが、
畑作ゆえか林業ゆえか分かりませんが、後世の改変があちこちにあり、城と思えるものはありませんでした。
近頃、貴殿を悩ませている様子の"天使の輪"問題について、小生は簡素な陣所跡ではないかと考えておりますが、
城館についての基準が緩く甘い小生の目で見ても、この山に城らしさはありませんでした。
貴殿が調査したら、間違っても城跡とは判断しないと断言できます。
東側の2ヶ所は、CS立体図の画像を見ても、今の所行ってみようという気にはなりません。

・大鳥 
こちらも林業等山作業関連と思われる改変ばかりが目に付きました。
CS立体図の基となったレーザー測量がいつ行われたのか存じませんが、
小生が昨年4月に訪問した際は、できてから10日も経ってなさそうな新しい作業道があり、
現状はCS立体図の画像よりも更に改変されていると思います。
山頂の平場にある石祠+土盛りと、北西側中腹にある露天掘りの痕以外は古さを感じさせるものはありませんでした。

既にご存知かもしれませんが、貴殿のビーナス、烏山城の北側の尾根先近くに小さな出城のような遺構があります。
貴殿にとっては烏山城の高い完成度を損ねる、ミロのビーナスの腕というか指先というか、
文字通り蛇足のような遺構かもしれませんので、心に充分余裕のある時にでも調査してみて下さい。
貴殿の愛情が揺るがぬ事を祈念しております。




RE:けいぴんさん 大里の城 管理人 帰ってきた栃木県の中世城郭 投稿日: 2024年03月03日 06:22:00 No.67 【返信】

けいぴんさん
おっしゃるとおり、ここを城とする資料はありませんね。
けいぴんさんの情報から察するに、間違いなく新城となるでしょう。
時間を見つけて、行ってみたいとおもいます。
しかも、ありがたいことに自宅から近い!

しかし、私も時間のあるときにはCS立体図をかなり眺めてます。
「かなり」です。
かなり眺めてるつもりでも、ここの陰影には当方も全く気づいておりませんでした。
自分が気づいたところは現地に出向いておりますが、最近は、ハズレばかり続いておりましたので、ちょっと腐りかけてた矢先の朗報です。
やはり、CS立体図の城探しは、たくさんの目が必要なようですね。


大里の城? けいぴん@kmkm1884 投稿日: 2024年03月02日 22:36:47 No.66 【返信】

 ご無沙汰しております。富池に続き、笠松の城の縄張りをご調査頂きありがとうございます。さて本日は那須烏山の大金クジラのすぐ南に城影を見つけて登ってきました。主郭?の東尾根から上るとすぐ3段の小郭、40mほどで弧状の切岸、ついで主郭へ。だだし郭内は削平されておらず、全山が細竹のちょっとした?藪だらけです。が、CS立体図の通り、なんと主郭南端には土塁と中央に土橋と堀切と両側に縦堀が!ムスカのように細竹をこいでいくと、さらに南Ⅱ郭の南端にも土塁、堀切、縦堀と、さらに西側にオフセットされた土橋が!念のため、その先150m位の尾根筋の道まで行きましたが遺構はありませんでした。主郭・南Ⅱ郭とも東側に2段ほど帯郭が、さらにその下には横堀状?の通路?があるようです。主郭から北に下った城の北端の堀切は土塁、土橋、両側に縦堀のセットに加え、土橋を渡った先が小馬出状になっていて圧巻でした。管見ではこの城を資料やネットで見たことはないのですが、もし既知の城でないのなら、ご調査とCS立体図ページへアップをお願いいたします。



壬生町四所神社の境内 RE:railway08さん 管理人 帰ってきた栃木県の中世城郭 投稿日: 2024年01月28日 17:39:13 No.58 【返信】

本日、女房と買い物がてら、四所神社に寄りました。
結論としては、城ではなく、神社と考えます。
土塁状の二つの高まりは、おそらく古墳です。
神社、背後の直線的な切岸は神社の造成でできたものと判断しました。
昔はもっと広かったのかな、と思いました。
いずれにしても城としての軍事的な匂いがしてこない事から、古墳という神聖な場所と神社が組み合わさったのだと思いました。


railway08 投稿日: 2024年02月05日 10:05:38 No.65
調査ありがとうございました。
古墳ということで納得,安心(?)しました。
これからもまた情報がありましたら投稿します。


RE:けいぴんさん 笠松の城 管理人 帰ってきた栃木県の中世城郭 投稿日: 2024年02月04日 20:19:44 No.64 【返信】

けいぴんさん。
笠松の城に行ってきました。
おっしゃられるように、遺構が存在します。
けいぴんさんの観察に感心いたしました。
結論としては、間違いなく城跡です。
ただ、先端の土橋付き堀切には、問題を感じました。
とにかく新城発見ですね。
このあとホームページにアップします。

しかし、やはり佐野は宇都宮から遠いなぁ。


もう少し勉強します railway08 投稿日: 2024年01月26日 22:51:28 No.56 【返信】

城郭研究者から言えば,「城郭類似遺構」と言うことになり,城郭と非城郭を区別し,城郭にこそ意味を見出すという意志が,確かにこの名称からは感じられます…。

たしか,千葉に幕府の馬の放牧場があり,そこから馬が逃げられないよう野馬除けの土手があったと,かつて聞いたことがあります。これは規模が大きいので「城郭」とは類似しないという意味では,城郭研究者の心をかき乱すことはないので,「城郭類似遺構」には該当しないということになります。したがって,「類似」には,城郭研究者の心をかき乱すものという意味合いがあるのかもしれません…。

だとすると「類似」は,「非類似」である本物に意味を見出そうとする強い意志と,「類似」と「非類似」の間で揺れ続けるからこそ生まれる追究心を生み,「実際はどうなのか?作った人に直接聞かなければわからない」ことについて,確かめたいし調べたことをもとに考え続けたいという苦しいけど楽しいことが生むのだなぁと思いました。

でも,おそらく場数を踏むと,ここはきっと中世の城郭!という確信を生む感覚が身に付くと思いました。

確かに,眺めが良いとか,睨みがきくとか,管理人さんがやっているように赤色立体地図から読み取れる起伏とロケーションから判断できる,そいうところに城があるような気がします…。

赤色立体地図とも照らし合わせながら,フィールドも確かめ,何か気づいたらお知らせします!
管理人 帰ってきた栃木県の中世城郭 投稿日: 2024年01月26日 23:35:36 No.57
おっしゃるとおり、そこが城であると断言できるのは、「場数」を踏んでいるからでしょうね。なにしろ中学生の頃から図面描きをしているので場数は自信有りです。城か類似かと悩むのも、やはり「場数」が邪魔をしているからかもしれません。

こんごとも、よろしくお願いします。

あ、すんません。
まだ壬生には行けてません。


教えていただきありがとうございます。 railway08 投稿日: 2024年01月25日 16:17:58 No.51 【返信】

「城郭類似遺構」というのがあることを初めて知りました。たしかに,俗世との「結界」としての土塁・堀ということは,なるほどなぁと思いました。例えば,古河でみた土塁や,金山城で見たものなどは,規模や堀の深さ,土塁の高さからいっても,敵の侵入をこばむという強い印象を受けます。しかし,それらを思い浮かべたときに,この神社の土塁らしきものの起伏は,かなりなだらかであり,堀というよりも溝という印象でした。

管理人様の,踏査の様子や具体的な方法を,現場を踏む中で改良し継続しておられ,感心させられます。どうか,今後もさまざまな踏査をもとに,このHPや鹿沼の広報でも,いろいろなことを教えてください。とても楽しみにしています。

このたびは,こちらの思い込みにも近いもので,お考えをいただきましたこと,それについてわかりやすく教えていただいたことに,改めて感謝します。

当方,管理人様の調査方法や,このHPについての素晴らしさと凄さを,まわりの方にも伝えつつ,現場を踏むことの大切さについても,今後も機会のあるたびに伝えていこうと思います。

ありがとうございました。
管理人 帰ってきた栃木県の中世城郭 投稿日: 2024年01月25日 22:46:37 No.53
お褒めに頂きありがたいのですが、いえいえ私の知識など他の人からの受け売りです。
受け売りついでに言ってしまうと結界以外にも「城郭類似遺構」には他にもあります。

①獣よけ・・・現代でも猪対策に山腹にバリケードを張り巡らしますが、それと同じで、土塁や石垣を築き、獣避けをしたようです。鹿垣(ししがき)などと呼ばれたりします。
②防犯対策、所有地の境界、権威の象徴・・豪農と呼ばれるような農家には、家の土地を巡る土塁、堀が築かれる事例があります。獣よけではなく「人よけ」です。これは、栃木県では結構見られます。防犯としての意味もあったのでしょうね。また、所有地の境界を表したりもします。それを見て、あ、あの家はすごいな金持ちだな、という権威の象徴としても意味合いがあったと思われます。

とにかく、タイムマシンでもなければ、このような遺構がどのような目的で作られたのかははっきりわかりません。「城郭類似遺構」なんて、いまは言ってますが、実際はどうなのか?作った人に直接聞かなければわからないですよね。
その「わかんない」ってところも、城郭調査の魅力だと私は思ってます。


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