|
大井の豪サラやファイナルスコアらとは完全に別件だったのですね。 馬資源を求めて皆さん集中的に外に飛び出した時期だった、と。 このニュージーランド購買馬の中ではイヴオンヌフオツクス、ノマデイツク、アバロンピークあたりが 繁殖として成功したと言えるでしょうか。 皆様ご存じ蓑虫屋の店主様が著書「競馬本温故知新」を出版なされました。 ご興味がおありの方はこちらからお求めください! https://minomushiya.com/?pid=177730454 |
原文は「ケンリツクの会社」ですね。失礼しました。 |
通りすがりさんにご紹介頂いた、津軽氏の話は、日本競馬史第7巻のP.740にも記載があります。 サラブレッド血統書第4巻には、ケンリック氏(アバロン、ライデイングスクール)輸入として 記載があります。アバロン〇〇〇〇という名前のニュージーランド産のサラブレッドたちが、 この輸入馬なんだと思います。 ケンリック商会というご紹介がありましたが、ケンリック氏が、津軽義孝氏に依頼されたのだと 思います。アバロンライディングスクール(アバロン乗馬学校)は、武宮正旺氏が開設した乗馬クラブで、 所属のケンリック夫人は乗馬大会で名前を見ることができます。 武宮正旺氏の話によると、ケンリック夫人とはビビアン・ケンリックという英国人のようですが、 ケンリック氏が同氏なのかパートナーの方なのかはわかりませんでした。 |
当時の津軽氏は競馬共助会でしたから、国営用の自由購買馬 ですね。極端に馬資源が不足していた時代ですから、各方面 から頼まれたようで、同行したのは獣医と乗馬家です。エー ジェントはケンリック商会ですが「日本人が買いに来たこと は、はじめの内は内証にしてくれと云つていました」とかで 豪州ほどではなくとも日本への心証は悪かったようです。 競走に出すつもりの二歳馬計七頭、子持の蕃殖牝馬七頭、三 歳馬が六頭、四歳馬が一頭、六歳馬が三頭の他にポニー、乗 馬等おのおの二頭ずつ大体三十二頭で、うち四歳馬は良血統 で、三歳馬は来春から走る予定だそうです。 昔の戸籍は操作が多いと言いますか、離縁して即日復縁とか 養子にしてすぐ解消というのもあります。後者は外で出来た 子に苗字を与える手段なんですよね。室生犀星の有名な詩は 20歳の時に故郷で作ったもので、家を出て二度と帰らない決 意を詠ったわけで、彼は戸籍上は父母の末子、事実は長兄が 外で作った子でした。私は函館大次も大経の実子ではないか と思っています。24歳下の弟というのは変ですよ。 |
馬の航空機輸送が可能になったことを受けて1952年に始まり ましたが、同じ年ニュージーランドへ馬買いに行った津軽義 孝氏の談話が『優駿』に出ていました。4月13日に門司を出 て22日に赤道を越え、ブリスベーンを経てウェリントンに着 いたのが6月14日の長旅です。 三、五〇〇トン級のボロ船で航海中なども故障を起し、二時 間三時間と修理のために船は進まず、それに船員が殆ど支那 人で、こんどの戦争の関係からわれわれに対して好感を持つ ていなかつたので随分閉口しました。 (ブリスベーン)一同で上陸しようと思いましたが、船長が 日本人はまだ危険だから、よした方がよいと注意されたので 上陸はしませんでした。 港を出て三日目に海上で大嵐に逢いまして、これにはひどく 参りました。船内の机や椅子などころがつてしまい、船中の 歩行すらできないほどの暴風でした。そこへもつてきて、先 程云つたボロ船でまたエンジンがストツプしてしまい、いや もう大弱りで生きた気持はありませんでした。 同じ号の菊花賞レポートに調教師は新堂捨次郎氏とありまし た。同氏はクラブ時代は助次郎と名乗り、日本競馬会以降は 本名の捨蔵になりましたが、おそらく日常的にスケジローと 呼ばれていて、それがステジローに転訛したのでしょう。 |
枠単も枠複も連単、連複と呼ばれてましたが、 中央の連単は昭和44年夏までローカル場で売られていました。 地方も都会地は早くから連複に切り替わってましたが、 益田あたり最後まで連単だった気がします。 法律では単勝式と複勝式を必ず売らなければならないことに なっていて、競馬は単複を買う人も稀にいたのですが、 競輪競艇は全くいなかったので、競輪場では柱の陰など 人目につかない所に単複売場を設け、競艇場では単複売場に カーテンを下していましたね。 |
想像もしていなかったのですが、昭和26年の『優駿』から 「穴場嬢の日記抄」中山駒子 窓口に、例のニコニコとした丸まつちいチョビ髭の「旦那」の顔が 大写しになり、やはり見覚えのある蒲鉾型の指輪の掌がニュッと入 つてきて、当り券特券五枚が突き出されたのです。「あッ、旦那も ④ー①の穴をお取りになつた!」と直感しながら、それでも私は冷 静に、敏速にお札の勘定をすませて、五万六千五百円を、ギュッと 握らせるのでした。と同時に、窓越に「今日も帰りに、いつものと ころでネ…」と、仰言るのでした。まるで事務的のように。 “いつものところ”と申しますのは、この土建屋さんとも、株屋さ んともはつきり致しませぬ「旦那」が、馬券で儲けられた期には、 中山法華寺の大門の所で、私たちのお友達数名をお待ちになつてい て、それから駅前の寿司屋か、時には銀座までのして、洋食をご馳 走して戴くというような習わしとなつていました |
だいたいはわかるのですが、競馬会時代の成績書は誤記が多くて、誤記なのか、競馬会ごとに 名前を変えることもあったのか、それとも通名で使用する漢字を変えていたのか。 近道はなさそうなので、時間かけて考えてみます。ありがとうございました。 |
クラブ時代に認められていた通名を認めませんでしたから、 岸三吉は昭和12年以後は岸参吉になりました。クラブ時代と 競馬会時代で違っているのでしたら、通名と本名の違いかと 思います。そうではなくバラバラでしたら、個々人について 調べるしかないでしょうね。 |
ありがとうございました。第3版が1987年、20年後に第4版なので、これが最新のようですね。 もちろん初版から全て拝見したことはないのですが、中央競馬PRセンターから1981年に出版された 「日本の騎手」、1994~1997年に競馬ブック上で連載された、大島輝久氏の「日本の調教師」は 「日本中央競馬会調教師・騎手系統図」を元にされていますが、第4版には付録として、改訂箇所 の一覧・氏名の改姓等の一覧・地方競馬ら移籍した騎手の一覧・系統不明の調教師騎手の一覧、 があるようなので、メンテナンスがされているようなので、いつか目にしたいです。 相羽仙一師と藤本冨良師の関係は、前掲・日本の調教師のNo.39にも少し記載されていますが、 藤本師と浅見師(浅見師のほうが14歳下)にもそんな関係があるのですね。 ちょうどいい例が出たのですが、私的に作成しているデータベース上で、騎手・調教師の氏名 をどうすればよいか、例えば藤本師の場合は、戦前だと「富」、戦後は「冨」で記載されています。 藤本師の場合は、どこかで改名されたのでは?と思うのですが、例えば「治」と「次」や、「一」と「市」 の両方の記載がある人物は、どちらが正しいのか、どっちも正しいのか、なかなか判断がつかず、 どうしたものかと思っています。 あとは「日本中央競馬会調教師・騎手系統図」には「系統不明の調教師騎手の一覧」があると 思うのですが(連載「日本の調教師」には記載無し)、この一覧にも載らない騎手・調教師は なんで載ってないのかなど、いろいろ疑問もあります。 |
系統図に出て来ない結びつきに藤本富良師と浅見国一師の ケースがあります。『藤本富良・名馬作り60年』によれば 同師は天皇賞に4回、桜花賞に2回管理馬を出走させ全部 勝っていますが(当日は臨場したでしょうが)「僕は一度 も行かない。関西には浅見君がいるから任せておけば安心 だ」と全幅の信頼を置いています。 藤本師は公認競馬に移る前、松山仙一(後に相羽姓)騎手 の弟子だったのです。松山騎手は静岡県袋井の生まれで、 岐阜の遊郭の楼主たちをスポンサーにしていました。函館 での帝室御賞典拝受は公認へのスポット参戦です。 |
certificated -> certificate これだけの投稿だともったいないので、続けて、通りすがりさんにご存じでしたらご教授頂きたいのですが、 2007年にJRA 日本中央競馬会免許登録部が「日本中央競馬会調教師・騎手系統図」の第4版を 出していることが、蓑虫屋さんのサイトでわかったのですが(欲しかったのですが、瞬殺されてました)、 2007年以降の改版を見かけられたりしてらっしゃいますでしょうか。 知ったところで、入手はほとんど不可能なのですが・・・ |