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ノンタイトル その2 ( No.572 )
日時: 2023年01月14日 11:44
名前: futeki [ 返信 ]
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チタから逃亡したのは ( No.678 )
日時: 2023年03月03日 22:17
名前: 通りすがり [ 返信 ]
グレゴリー・セミョーノフですね。
コロネルセメノフ氏とは無関係でしたか。


ボリス・セメノフ ( No.676 )
日時: 2023年03月03日 20:10
名前: 三村 [ 返信 ]
いつも情報頂きましてありがとうございます。

露国陸軍参謀中佐ボリス・セメノフ(Boris Semenow)は明治40年7月に、同国大使館附の陸軍派出員として来日し、
転任(離日)するにあたり、大正2年2月に勲三等旭日中綬章が授与されています。

日本之産馬3(1)に「レツドサイモンは露国大使館附武官コロネルセメノフ氏の愛馬で、・・・」とある通り、
コロネルセメノフ氏は、この軍人だと判断しています。
ボリス・セメノフについては、来日前・離日後の情報が全くなく、詳しいことはよくわからないのですが、
ご指摘頂いたセミョーノフ氏はこの人物と同じでしょうか?


Little Dick ( No.673 )
日時: 2023年03月02日 19:14
名前: 通りすがり [ 返信 ]
神崎利木蔵氏は大震災の大阪へ移って亡くなったと
思っていたのですが、そうではありませんでした。
葬儀告知は見つけられなかったのですが、大正11年
6月10日の横浜貿易新報に会葬御礼がありました。
故利木蔵葬送の節は…… 六月九日 嗣子神崎利一
古き横浜の壊滅を見ずに済んだのは幸せでしたか。

レツドサイモンの馬主コロネルセメノフ氏とは改良馬を
支那馬と偽って中国の競馬を荒らし回ったセミョーノフ
ではないかと思っているのですが、ウィキでは若き日に
彼が日本にいたとは書かれていません。ところが米国に
逃亡してチタ政府の財産(熊皮数百枚)を横領した罪で
逮捕された後、大正11年9月に日本行きの船に乗ったと
いうニュースがあって、それに横浜貿易新報が日本でも
重婚罪で訴えられているから上陸できまいとコメントを
付けているのです。確かに日本にいたようです。ウィキ
の経歴は自称でしょうから全面的には信用できません。


おっしゃるとおり ( No.646 )
日時: 2023年02月14日 20:47
名前: 三村 [ 返信 ]
そういうようなことがあったのかもしれませんね。ご指摘ありがとうございます。

なお ( No.643 )
日時: 2023年02月13日 23:58
名前: 通りすがり [ 返信 ]
賞金を払ったかどうかはまた別の問題です。
イタリア競馬が信用を失ったのは賞金を払わなかったからですし
トルコでは国際招待レース以外では外国産馬には賞金の75%しか
支払いません(その代わり内国産馬限定レースがない)。


ありがとうございます ( No.642 )
日時: 2023年02月13日 20:13
名前: 三村 [ 返信 ]
早速お調べ頂いてありがとうございます。やはり二着賞まで、という見解のようですね。
明治39年秋の競馬番組の一部(初日の第一競走)は見ることができたのですが、確かに「第二着 金百円」までしか
書かれていなかったです。
施行規則は日本レースクラブのものを踏襲していると思いますし、記載は無くても三着賞が出ていると推測したのですが・・・
もっと調べないとダメですね。


その本によれば ( No.640 )
日時: 2023年02月12日 22:45
名前: 通りすがり [ 返信 ]
1着賞は御賞典+400円
2着賞は100円
3位入線馬は着外になっています。


明治39年秋・池上(つづき) ( No.639 )
日時: 2023年02月12日 20:47
名前: 三村 [ 返信 ]
須田鷹雄さんの2022/10/30のtwitterで、明治39年秋の池上での帝室御賞典で、
1着賞金(400円)が支払われたのかどうか、という話があり、そこで、
『田島芳郎さんが払われなかった説だった』とのつぶやきがありました。

田島芳郎氏の著作「天皇賞の世紀 第1部 第6回」では、
1着 400円+天皇御下賜の御紋章入銀鉢 2着 100円 ★ 第2部 第29回の修正反映済
と記載されています。何か新しく判明した事実でもあったのかも知れません。
(田島氏が書かれたと思われるJRA刊行の「天皇賞競走100年の記録」は手元に無いので未確認)

三着賞の分の賞金は、400円が支払われた場合 ⇒ 700円、400円が支払われなかった場合 ⇒ 1,100円
となります。出走馬が6頭以上の競走(優勝戦除く)ですが、
・二着の賞金が100円の競走(10レース)⇒ 三着の賞金を50円
・二着の賞金が 75円の競走( 8レース)⇒ 三着の賞金を25円
・二着の賞金が 50円の競走( 1レース)⇒ 三着の賞金を25円
と仮定すると(出走頭数は「牧畜雑誌 第254号」による)、合計は725円となります。
仮に、二着賞金が75円の競走の三着賞金を50円としても、合計は925円にしかなりません。

ということで、ぴったり数は合わないのですが、私としては支払われた説かなと思いました。


明治39年秋・池上 ( No.638 )
日時: 2023年02月12日 13:49
名前: 三村 [ 返信 ]
明治39年秋の東京競馬会(池上)の開催記録について手元で確認できる資料として、
・「東京競馬会及東京競馬倶楽部史 第3巻」P.2~3
 ⇒ 競走成績は東京朝日新聞および東京日日新聞の情報に拠っている。
・「牧畜雑誌 第254号」P.41~49
がありますが、どちらも賞金について1着・2着の記載しかありません。しかし、この開催においても、
3着賞が出ていたのではないかと考えています。

「東京競馬会及東京競馬倶楽部史 第2巻」P.481に以下の記載があります。
=====
競馬番組特別競走
八、明治39年~42年の競馬番組の注意・凡例等(特別条項に相当するもの)
明治39年秋季(東京競馬会)
注意 二着賞は四頭、三着賞は六頭より少からざる出馬数にあらざれば贈与せず
=====

「東京競馬会及東京競馬倶楽部史 第2巻」P.46~50に、東京競馬会の明治39年の収支決算報告書が
掲載されており、その、「第四項 産馬奨励費 第一目 競馬賞金」の欄には、
『16,200円(39年秋季競馬数37回に対する賞金1回平均金437円838厘弱を勘定す)』と書かれています。

同開催37レース(軍馬競走は除く)の1,2着の総賞金を合計すると、15,500円になります。
★ 第1日(11/24)の8レース2着賞金 100円は除く(イスズの単走)
この差分は、3着賞の分ではないかと考えています。(つづきます)


調査ありがとうございます ( No.608 )
日時: 2023年01月21日 20:40
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
お疲れ様でした。
ありがたくシートの方にも登録させていただきます。

富里村史の「明治11年取香種畜場購求牛馬其の他現在畜養頭数調べ」に登場する
牝馬の「ヘリー」は11年購入の牝驢「ペリー」だったのかもしれませんね。
牡驢の方はヂヤキの一言で片付けられてますが、まあそれは。


驢の輸入 ( No.607 )
日時: 2023年01月21日 19:24
名前: 三村 [ 返信 ]
農務局畜産課発行の「輸入種牛馬系統取調書」を見ると、
明治6年購入
 ・牡、黒鹿毛、産地米国、名前不詳、金400ドル、内藤新宿試験場
明治8年購入
 ・牝(騾)3頭、産地清国、金2804ドル
 ・牡牝合計171頭、産地清国、金212ドル77セント
明治11年購入
 ・牡、黒鹿毛、ウエクトル、金300ドル、下総種畜場
 ・牡、黒鹿毛、ブラツクスストン(=ブラツキストン)、下総種畜場
 ・牝、黒鹿毛、ジヨージタオン、下総種畜場
 ・牝、黒鹿毛、ペリー、下総種畜場、明治14年死亡
となっています。米国産の牡驢は明治6年の時点で内藤新宿試験場に1頭いたといえそうです。

ご指摘頂いた、明治8年の輸入については清国に買いに行ったようで、人力車の代わりにしたかったとの話があります。
=====
本邦に驢馬の舶来せしは明治9年内務省勧業寮員武田昌次岡毅氏等清国に派遣せられし際
飼養に於て百五六十頭を購求して送輸せり是即驢馬を本邦に移せし創始なり盖し人力車に
代用するの意を以て購入し益々繁殖を計らんとするに出でたりと云へり是より漸次各地に
飼養するに至れりと云ふ
=====
出典:大日本産業事蹟・上巻・P.274 ★ 明治9年は間違い。明治8年5月が正しい。

明治6年の時点で、牡驢が複数いることがわかればよかったのですが・・・
ただ、「輸入種牛馬系統取調書」に載っているブラツキストン(=Black Stone)の血統の記載を見ると、
jack, jennetの文字が見られるので、「ヂヤキ=牡驢」はかなり有力かなと感じます。


有力ですね ( No.602 )
日時: 2023年01月19日 18:40
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
武蔵野が行ったはずの福島で名前が出てこず、同時期に荒磯(のち改名の武蔵)が登場しているのは
なるほど合理的に考えれば武蔵野=荒磯(武蔵)という気がします。
ただ単に作表時に改名後と改名前の馬名をを入れ違えただけかもしれませんよね。

明治12年の7歳時に福島移入が正しいのなら、数えだと明治6年生まれになっちゃいますよね。
であれば明治9年生まれの第二四ツ谷の父として果たしてどうなの、という点がネックになりますか。
生年に関する記述が他資料にもあれば検証できるのですが、ちょっと見つけられませんでした。


荒磯 ( No.601 )
日時: 2023年01月19日 10:27
名前: bonklers [ 返信 ]
[ 削除 ]
いろいろと考察しているうちにこの馬は「荒磯→武蔵」ではなく
「武蔵野(=武蔵)→荒磯」なのではないかという考えがかなり強まってきました。

(1)福島県産馬沿革誌
https://dl.ndl.go.jp/pid/901145/1/69
(2)農務顛末
https://dl.ndl.go.jp/pid/2468750/1/134

まず、ここの「(1)荒磯→武蔵」と「(2)荒磯」は
いろいろな点で合致していますので同一馬と見て間違いないでしょう。
そうすると明治5年東京生まれで明治12年に7歳の時に福島に送られてきた事になります。

(3)農務顛末
https://dl.ndl.go.jp/pid/2468750/1/53
(4)富里村史
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9641696/1/376

そして(3)と(4)の資料を見ると武蔵野は福島に送られた事が分かりますが
(1)の表を見ても武蔵野の事は全く載っていません。
(これは以前にも書いたことある疑問ですね)

福島に送った武蔵野はどこへ行ったのか?
(3)の表を見る限り福島は同馬を受け入れて種馬として使ってるはずなのです。
しかるにこの時点で「荒磯→武蔵」はかなり「武蔵野」なのではないかという疑念が出てきます。

また(2)の資料では明治16年になっても「荒磯」の
名前のままで一体いつになったら「武蔵」になるのか
という点でも「ひょっとしたらすでに改名後なのでは」
という疑問が沸きます。

さらに、明治5年に東京で生まれた馬に「荒磯」などと
いう名前を付けるだろうかという点もあります。
この頃付ける名前はだいたい生まれたところの地名か
「高砂」や「老松」などの能関係であるので
そうすると「武蔵」か「武蔵野」であれば
かなりしっくり来る名前と言えると思います。

また「武蔵野」=「武蔵」であり、
正式名称が「武蔵野」で「武蔵」とよく呼ばれていたとか
そういう関係なのではないかなと思います。

等々いろんな面を妄想しますと
■武蔵野(牡)
・明治5年:(おそらく)東京雉子橋で生まれた。
・明治8年:雉子橋と交配
・明治9年:第二四ツ谷が生まれる。
・明治10年:吾妻と交配
・明治11年:玉川が生まれる。
・明治12年:福島へ
・明治16年:荒磯に改名?
こうなるんでしょうかね…。
種馬になるの少し早い感じがしますし、
もう少し考えを練る必要がありそうな感じはします。


違うっぽいですね ( No.600 )
日時: 2023年01月19日 07:21
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
福島移入は12年の間違いでしたか。

東京時代に武蔵野と一緒だったなら紛らわしい名前を付けているはずもなかったですね。
だとすると武蔵野の誤記だった可能性の方が高いのかもですね。

この表の駒場野(弥生)は毛色もそうですが、生年も怪しげですね。


判断難しいです。 ( No.599 )
日時: 2023年01月18日 23:21
名前: bonklers [ 返信 ]
[ 削除 ]
確かに荒磯もなかなか怪しいですよね。
ただこの馬って明治16年になってもまだ荒磯名なんですよね。

農務顛末
https://dl.ndl.go.jp/pid/2468750/1/134

駒場野は弥生になっているというのに…。あれ…、駒場野と弥生は毛色が違う…?

「荒磯→武蔵」ではなくて「武蔵→荒磯」ならば
ほとんどこの馬に相違無いと言っても良いとは思うのですが。


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