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玉川の父とされる武蔵は前名荒磯の可能性はありませんか。 https://dl.ndl.go.jp/pid/901145/1/68 東京(恐らく)内藤新宿試験場生まれで、7歳時=明治10年9月の耶麻郡移入のようなので、 10年度に東京で吾妻に種付はギリギリセーフじゃないかと思ったのですが…。 この項は阿部美濃守に配布されたアラビア馬の名が雲龍だったですとか、 他にもアラビア馬関連のエピソードが豊富なんですよね。 |
早速サイト拝見いたしました。 ざっと一通り眺めただけなのですが、新情報があれやこれやとあるようですね! 今後とも大いに参考にさせて頂きたいと思います。 一点気になったのは第十吾妻の父がクジャクになっていましたが、馬籍原簿では桂木のようです。 別資料か何かで否定されていたのでしょうか。 この公文書は明治8年なので少し時期が下りますけど、清から驢馬150頭の購入お伺いがありますね。 https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/3019587 勧業寮という事は内藤新宿試験場でも供されたのでしょうかな。 |
ないでしょうか。横浜競馬では支那馬が走っていましたし。 中国は昔からロバ大国で、私が初めて中国へ行ったのは1982年 ですが、北京の街中で2頭立ての荷馬車をよく見かけました。 ロバとラバの組み合わせが多かったですね。モンゴル人は去勢 していない牡馬は売らないので、自然にそうなるのでしょう。 |
皆様のヂアキに関する推理。 楽しく拝見させていただきました。 あればロバの事だったのですね。 当時の日本には存在しなかった生物なのだと考えられます。 (居たら海外の言葉を借用せず普通に「ロバ」と記載するでしょう) それにしても内藤新宿試験場では 相当な割合でラバを生産しているように見えます。 本当にこう、マッドサイエンスな実験が繰り返されている。 この試験場にはそんなイメージが出来上がりました。 最近ホームページを作ってみました。 まだ方向性がいまいち定まっておりませんがよろしければご観覧下さい。 →https://sites.google.com/view/bonklers103/home |
そうでもないのです。農務顛末に記載されている明治7年の生産表に「ヂヤキ」とかかれていますが、 当時日本には基本的に驢はいなかったように思います。 (もちろんいたのかもしれませんが・・・平日で調べる時間が無くすみません) いろいろ検証ありがとうございます。 |
wiki で mule 調べると a male donkey (a jack) を父にすると 書いてあります。下総ではおそらくラバ生産目的で牡ロバも輸入 しましたから、その扱いについても質問したのでしょうね。私も ヂヤキの謎が解けてほっとしました。 |
アママン、グートユーについては、確かにそうなのかもしれません。 購求元には目が行きませんでした。ご指摘ありがとうございます。 それよりも、ご紹介頂いた「下総種畜場事業問答筆記」のP.31(24コマ)に以下の記述があるのに気づきました。 ===== 又騾(ミユル)ト稱ヘ牝馬に牡驢(ジヤキ)ヲ配シ得タル一種の馬族アリ其骨格ハ頭大 ニ耳長ク躯幹碩大ニシテ尾ハ馬ヨリ細ク且粗ナリ善ク農用に適ス ===== 「ヂヤキ」の推測が間違っていたのかもしれません。驢馬は英語でdonkeyですが、牡の驢馬はjackだった ような気がします。答弁書の第十五条は、ミュールの生産を避けるべきとの意味なのでしょうか・・・ |
三村さん、ご教示ありがとうございます。 ヂヤキとは馬名であると露ほども疑わなっかたので、壮大な勘違いを繰り広げたようですね。 作成中のシートを全世界へ公開しなくて良かったです…後ほどコッソリ修正を(汗) 考察がお進みになられましたら、またお話をお聞かせください。 手書き資料から活字に起こした「まとめ本」の類から情報を引用する際はより細心の注意を 払う必要がありそうですね。反省です。 bonklers さん、昨年中は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いします。 アママン、グートユー、ハリスの御示唆ありがとうございます。 馬名と地名、人名(生産者あるいは売却者)を取り違えて記載していた事例は以前にもありましたね。 輸入トロッター血統の父母名が関係者の人名になっていたのかな。 これらは契約時の英語文書のようなものが一次ソースだったため起きたミスなのかという気がします。 明治初期の生産馬番号管理は、各地方からの買上馬に対しても行われていたようですね。 明治何年の買上かは判然としなかったのですが、富里村史記載の奥州買上番号馬の種牡と農馬には (後に付けられた?)馬名も相当数併記されていたので整理しやすかったです。 ただこれ馬名的にみて牝馬も混ざってるような。種牡十二号紅梅とか種牡十四号橋姫とかかなり不審ですよね。 あと、東京内藤新宿試験場から取香へ移って来たらしい洋種牝馬「片見」の素性は全くの謎なのでしょうかね。 明治11年取香の畜養数調べによれば斃死になってるようですが。 |
ご提示頂いた「富里村史」の史料については、いろいろ考えるもよくわかりません。 他の資料(下総御料牧場沿革誌や輸入種牛系統取調書)の情報と合わない点が多いためです。 元々筆書きされた文書を掲載しているものでもありますので。 洋種牡馬については、アラトレー⇒ブラドレー、モンモース⇒モンマースなのでしょう。 アママンはアマドールかなと思うのですが、グートユーは全くわかりません。 洋種牝馬については、ハリス⇒巴里かもしれません。 ヘリーについては、ペリーという驢の牝馬が米国から来ているのでこれかもしれません。 農務顛末の牛馬羊出産表に戻りますが、この表を見て感じるのは他の動物と同様、馬についても 「第〇号」という記載になっていることです(番号すら無い記載もありますが)。 下総御料牧場の名簿の載っている馬でも、父が「東京内藤新宿元試験場 第三号」と書かれた馬が4頭います。 老松、高砂、武蔵野、駒場野、雉子橋、第一四ツ谷、第二四ツ谷などの馬の名前は、どの時点で 付けられたのだろうと考えさせられます。 これまで、第二四ツ谷の母は雉子橋だから、雉子橋は四ツ谷と呼ばれていたのだろうという考えを支持していたのですが、 第二四ツ谷の母は雉子橋だけど、雉子橋は四ツ谷とはどの場所でも呼ばれていなかったのではないか、 と考えるようになりました。 例えば、試験場で生まれたアラブの牡は「牡第一号」「牡第二号」と呼ばれていて、どこかで「第一東京」「第二東京」になり、 アラブの牝は「牝第一号」「牝第二号」は、どこかで「第一四ツ谷」「第二四ツ谷」になった、とか。全くの思い付きですが。 以前話題にあがっていましたが、「第二~」「第三~」みたいな馬名の付け方についての日本での統一ルールは、 今に至っても無いと思います。御料牧場のルールを当てはめて考えるべきではないと気づかされました。 |