|
シアンモア産駒は内向の馬が多かったのですね。内向というと現代でもあの2冠牝馬を思い出しますが、 あの馬も売られなかったぐらいですし、気にしますよね。 |
前肢が内向気味だったのですが、産駒にはそれが強く出現する 傾向があり、そのため期待ほどは高く売れなかったのでしょう。 シアンモアの内向を矯正できる牝馬が欲しかったと思われます。 戦前は競馬がすべてではなく、軍馬購買もあり、共進会で入賞 して種牡馬という道もありましたから。 |
シアンモアの購入に関しては「小岩井農場七十年史」に書かれています。(第三章第三節) 文章を読む限りは、結構妥協してシアンモアに落ち着いた形のように見えます。 石塚栄五郎氏の現地からの報告は、中央獣医会雑誌にもありますね(第41年第9号)。 こちらは別のものかもしれません。 |
石塚栄五郎氏の報告書は現地からのものではなく かなり後で書かれた回顧でした。それでも克明に メモを取っていたらしく当時のイギリスの様子が わかるのですが、途中で調教師を批判していたり 「べきである」なんて表現があったりして事実と 石塚氏の理想とが混同されている気がします。 面白いことに『日本之産馬』だったと思いますが 一條友吉氏が日本人は馬の外形ばかり気にするが 海外では血統と競走成績が絶対であるから考えを 改めなくてはならないと説いたのに対し石塚氏は イギリス人は血統や成績にばかり目を向けるので 委託購買するとこちらの希望する馬がやって来る ことが少ない、日本では体格や肢勢が重視される ので出張購買すべきだと主張しています。 |
実に気になるタイトルですね。 しかし閲覧・複写するとなると、なかなか敷居が高そうな施設の印象ですが、実際どうなんでしょう。 順次デジタル化されネット公開の見通しであれば座して待つのですが。。。 情報ありがとうございました。続報がありましたら宜しくお願い致します。 エキサイトメント、そうですか。 まだ第5次の途中までしか確認していませんが、サ濠は2次に出てくるバクレツとパントメントだけ。 今再確認してみるとサ米のエキサイトメント産駒のイセが七飯産なので、上記2頭の亀田、上磯とは同一地域ゆえ、 全てが米サラのエキサイトメントと見た方が筋が通りそうですね。 ただ単に「父エキサイトメント」表記のナニワの産地大中山も七飯にあるようなので、これまた父米サラでしょう。 臼別産のユノカワが少し遠隔なので引っかかってしまいましたが、これも全然問題ないですね。 繋養先が移動した可能性だってありますし。 ご見解ありがとうございました。 6次、7次と進めていって、また何か気が付きましたら書き込みますので、懲りずにお付き合いくだされば幸いです。 |
第2次競馬聯合會報告書の登録馬名表の父欄に「濠サ、エキサイトメント」の記載があるのですが、 453行目のエキサイトメント(USA)のことだと推測しています(濠洲産ではない)。 確たる証拠はないのですが・・・ |
https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Kobunsho 宮内公文書館で「牧場録」やら「厩事日記」なる書類が検索されるようになりましたね。 (以前は検索されなかったものと思います) ネット上では中身は見れないのですが、何が書いてあるのか気になるところです。 高砂の死亡日がわかるかも…! |
常識なんていつ何時覆ってもおかしくないのですよね。 アメリカでも運動後の馬の脚を冷やすのは果たして正しいのか否か、 未だに異論があるようですし。 https://thehorse.com/189211/can-cold-therapy-safeguard-sport-horses-from-injury/ 古い優駿が読み放題なのはうらやましい限りです。 また拾いネタをご紹介いただければ幸いです。 全く関係ないですが、ほぼ同時期(大正期)の北海道で同名の種馬、豪洋のエキサイトメントと 米サラのエキサイトメントが存在していたのですね。連合会報告書から産駒登録していて気が付きましたが、 豪洋は亀田郡周辺、米サラは少し北の瀬棚郡辺りでの産駒が多いようなので(同じ道南ですが結構遠い)、 ただ単に父エキサイトメントとだけ記された馬の場合の父特定の手掛かりになろうかと思います。 |
運動後のアイシングは今では普通のことですが、 第1回ジャパンカップの際に日本の関係者が驚いたのは 北米の馬が運動後に脚を冷やされていることでした。 それまで脚は温めるものと思われていたのです。 ところが昭和2年に小岩井農場の石塚栄五郎氏が 留学先のイギリスから岩崎男爵に送った報告書には 「元来本邦においては、伝説上、あるいは種々の理論上、 サラブレッド競走馬だけでなく一般馬産界では、 運動後四肢冷却、あるいは冷水洗浄法(特に放牧揚げの 際の脚洗い)が常に行われているが…… ……英国現在の実際的(数百年の長年月の経験により 得た)方法に照らして熟考する時、英国法が有意義で あることを信じようと思う。 当国においては四肢蹄の洗浄、又は冷却を行なわない だけでなく、かえって調教終了帰厩後バンデージを 用いて保温保護するのを一般法則としている。 というわけで、当時英国で行われた方法が導入奨励 された結果、50年間の伝統が生まれたわけで、 本来日本では馬の脚は冷やすものだったのです。 以上は出羽卓次郎氏が岩崎男爵から貰ったものを 『優駿』に紹介した記事でした。宇佐美恒雄編集長 時代の『優駿』は宝の山なので、読み返しています。 |
日本競馬会会報が元ネタです。 昭和15年の総目次に調教師の表彰は岸参吉だけでしたので。 |
記述内容には疑問がありそうですか。 昭和15年は調教師12人の他に、故調教師北郷五郎と故調教師岸参吉の両名が表彰とありましたので。 これが何時の時点での記述なのか判然としなかったのですが、昭和18年までの記載内容なので、 おそらく昭和19年あたりの編集時に「故人」ということだったのでしょうか。 昭和15年1月18日の表彰と記された北郷五郎が昭和15年没のようなので余計に勘違いしたようです。 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2514623/1/96 |
故という文字は入っていませんね。 この年調教師騎手の表彰は彼一人だけです。 あるいは余命幾許もないところから特に表彰されたのかも。 本名は参吉ですが、クラブ時代には三吉と名乗っていました。 稗田虎伊が寅伊と名乗ったケースと同じかと思います。 |
ありがとうございます。ナスノに乗るほどの騎手がいつのまにか姿に消しているから何があったんだろうかと思ってました。 自分自身、戦中、戦後数年の競馬に特に興味があります。また何かありましたら書きます。 |