第3節 公共施設と公共機関の経費
第1項―社会の商業活動を促進するための公共施設と公共機関
その2―商業活動のうち一部門を促進するための公共施設と公共機関 (Of the Public Works and Institutions which are necessary for facilitating particular Branches of Commerce)
組合会社は、都市の同業組合 (corporations of trades) に似ていて、同じような独占権を持っていました。スミスはイギリスには、貿易のための組合会社として、ハンブルク会社、ロシア会社、イーストランド会社、トルコ会社、アフリカ会社の5社があると言っています。そのうちハンブルク会社、ロシア会社、イーストランド会社は何の役にもたっていないとコメントしています。トルコ会社は加入制限や貨物の制限などが厳しく独占企業でしたが、後に法律である程度規制が解かれました。しかし、完全な自由な状態ではありませんでした。組合会社は、株式会社に比べて要塞や守備隊を維持することにあまり関心を示しませんでした。そのため、アフリカ会社は、独占の精神を抑えることと、要塞や守備隊の維持に関心を持たせるという目的で1750年に設立されましたが、独占体制が確立され、要塞や守備隊の維持は行政当局が管理するという結果になりました。
「株式会社による取引はつねに、取締役会 (a court of directors) によって管理される。取締役会は確かに、さまざまな点で株主総会による管理を受けることが多い」(331頁)のですが、株主の大部分は事業に関心を持たないし、株式会社は多額の資本をひきつけますが、取締役は自分の資金ではなく他人の資金を管理していることになり細部まで目を光らせません。このため、スミスは、「株式会社の経営には、怠慢と浪費が多かれ少なかれかならず蔓延する。この結果、外国貿易で冒険商人 (private adventurers) との競争にまず耐えられない」(331頁)として、排他的特権がない場合はめったに成功せず、排他的特権を認められても成功しない場合が多い、つまり、「排他的特権がない場合、貿易に失敗するのが通常だ。排他的特権を持つ場合には、貿易に失敗するうえ、貿易を制限する」(331~332頁)と言っています。
アフリカ会社の前身である王立アフリカ会社の場合、特許状によって排他的特権を認められていましたが、冒険商人との競争に勝てなくなり負債が増大しました。そして、1730年には要塞と守備隊の維持ができなくなり、その後解散してアフリカ会社に引き継がれました。
ハドソン湾会社の場合には、特許状によって排他的特権を得ていましたが、ハドソン湾は氷に閉ざされ1年のうち6~8週間くらいしか船の運航ができない広大で貧しい土地でしたので、競争しようとする冒険商人もいなく、資本も多くなかったので7年戦争前にはかなりの成功を収めていました。
南海会社 (the South Sea Company) の場合には、議会法で確認された排他的特権を持っていて、奴隷貿易権を持ったり捕鯨事業を試みたりしましたが、1748年にスペイン国王から認められていた奴隷貿易権を放棄し、貿易会社としての性格を失いました。
イングランドの旧東インド会社 (the old English East India Company) は1600年にエリザベス一世の特許状で設立され、最初は組合会社でしたが1612年に共同の資本で貿易をするようになり、長年にわたって貿易で成功してきました。しかしその後、密貿易の形で挑戦する商人が増加し、経営不振に陥りました。そのため、1698年に株式応募者が設立する新東インド会社が議会に提案され認められました。旧東インド会社もこの条件の下に存続し、しばらくは新旧の東インド会社が競争することになり、「東インド会社が惨めな状況だとした競争は長くは続かなかった。1702年には、新旧二つの東インド会社とアン女王が結んだ三社協定によって、両社はある程度まで提携することになった。そして1708年、議会法によって完全に統合され、現在の東インド貿易商合同会社 (the United Company of Merchants trading to the East Indies) になった」(338頁)ことになり、イギリスのアジア貿易を完全に独占することになりました。しかし、次第に債務が重なり経営が苦しくなったので、議会の調査がなされて規則が変更されました。しかし、取締役会と株主のほとんどはインドの繁栄に関心を持っていなかったので、「どのような変更を加えても、取締役会と株主総会をどのような点でも、インドという大国の統治に適したものにするのは不可能だし、統治への参加に適したものにすることすら不可能なように思える」(341頁)ので、「東インド会社はいまでは(1784年には)、かつてなかったほどの経営危機に陥り、目前に迫った倒産を避けるために、またしても政府の支援を要請するしかなくなっている」(343頁)状態にありました。