前回は、10世紀から13世紀にかけてのヨーロッパで支配したローマ教会の権力についてみてきました。この権力は、「商工業が徐々に発達して、大領主の権力が破壊されたのと同じ要因で、ヨーロッパの大部分で、聖職者がもっていた世俗の権力がすべて破壊されていった」(390頁)ということになりました。つまり、商工業の製品は土地生産物と交換できるので、それまでの聖職者のもてなしと大規模だった慈善事業が縮小し、従者の数も減り、借地人も独立していき、聖職者の庶民に対する絶対的な支配力はかなりの程度衰退していったのです。
こうした状況の中で、ヨーロッパの各国の主権者は、教会内での昇進に対する昔の権力を回復しようとしました。14世紀にイングランドで制定された聖職後任者法 (the statute of provisors) 、15世紀にフランスで制定された法王権制限詔勅 (the Pragmatic sanction) などにより、「聖職者の選任にあたって、主権者が事前に同意し、事後に承認を与えることが必要になった」(391頁)のです。このように宗教改革 (the reformation) 以前にすでに、聖職者の信徒に対する影響力は弱まり、聖職者に対する国の影響力が強まっていました。
宗教改革の信奉者はヨーロッパの各地に分散していましたが、カトリック教会のローマ法王庁のような権威をもつ機関がなかったので、意見の違いを解消できませんでした。特に関心を集めた対立点は、教会の管理と聖職給の授与権で、「この点に関する対立から、宗教改革派に主要な二つの宗派が生まれた。ルター主義とカルバン主義 (the Lutheran and Calvinistic sects) である。宗教改革で生まれた宗派のうち、ヨーロッパで法律によって教義と戒律が認められたのは、この二つの宗派だけである」(394~395頁)ということになります。
「ルター派といわゆるイングランド国教会 (the church of England) は、監督制 (episcopal government) を多かれ少なかれ維持し、聖職者の間に上下関係を確立し、主権者に国内の監督や主教などの上級聖職の任命権を認めて、主権者を教会の真の首長とした」(395頁)ので、主権者への服従を維持する要因となり、このような仕組みのある国では騒乱や内戦は起こっていませんでした。このような監督制のもとでは、聖職者は推薦を受けて昇進しようとするために、上流階級に取り入るために禁欲主義を軽蔑する聖職者と、民衆に尊敬されるために禁欲主義を主張する聖職者がいました。
一方カルバン派は、「フルドライヒ・ツビングリの教え、正確にはジャン・カルバンの教えの信奉者は、各教会区の信徒に、空席になった牧師を選出する権利を与えた。そして、牧師の間に完全に平等な関係を確立した」(396頁)のですが、牧師選挙をめぐって抗争が起こる結果になりました。社会の平穏を維持するために、政府が牧師の推薦権を握る必要があると判断し、長老制の教会制度 ( the presbyterian form of church government) が採用されました。「長老派の教会制度で確立されている牧師の間の平等とは、第一に宗教的な権威の平等、第二に聖職給の平等を意味する」(397頁)ので、聖職推薦権が確立している長老制の教団では、目上の人に認められるために、学識を深め牧師としての義務を誠実に熱心に果たすようになります。つまり、教団内で聖職給がほぼ同じならば、庶民が尊敬する道徳体系に従って行動することになり、「長老派教会の牧師は、おそらくどの国教会の聖職者と比較しても、庶民の心をうまくつかんでいる。庶民が迫害を受けなくてもほとんど全員、国教に改宗した国は、長老派が国教になっている国だけである」(398頁)と言っています。
さらにスミスは、ヒューム (D. Hume) の聖職者に関する見解を引用しています。ヒュームによれば、職業には、政府が干渉すべきでない職業と、財政、海軍、行政の組織で働く人のように政府が奨励策を取らなければならない職業がある。信者の寄付に頼る聖職者の場合は前者の職業のように思われるが、そのままにしておくと、真実や道徳や良識よりも、大衆の激情や信じやすさにつけこむ手法が開発されるようになるため、国の政治的利益という点からは却って高くつくことになる。したがって、政府は国教を決めて支援するほうがよい、というものでした。
これに対してスミスは、政党とそれを支持する教団との関係を挙げ、教団が支持する政党が勝利した後でも、一つの教団の教義を他の教団の教義より優先させることなく平等に扱い、国民が自由に適切と思う聖職者と教団を選べるならば、教団の数は多くなったはずだと言い、この場合、聖職者は信者を増やし維持するために努力するから、「いずれ大部分の教団の教義は、非合理や欺瞞や狂信の性格をもたなくなり、純粋で合理的な宗教の教義に近づいていくだろう」(379頁)と言っています。しかし、社会に一つないし少数の大教団しかない場合には、「周囲には信者と弟子と謙虚な崇拝者しかいないと思っているので、率直で穏健な姿勢をとる聖職者はほとんどいない」(379頁)と言い、「政府が宗教に一切干渉せず、各教団に対しても他の教団への干渉を禁じる政策を断固としてとっていれば、教団はまず間違いなく自然に分裂していき、すぐに十分な数になるだろう」(380ページ)と言っています。