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『国富論』再訪(62) 二村 重博 投稿日: 2023年05月30日 17:25:03 No.248 【返信】

『国富論』(59)第5編 第1章 第3節 第3項 ② (2010年5月15日)

 前回は、10世紀から13世紀にかけてのヨーロッパで支配したローマ教会の権力についてみてきました。この権力は、「商工業が徐々に発達して、大領主の権力が破壊されたのと同じ要因で、ヨーロッパの大部分で、聖職者がもっていた世俗の権力がすべて破壊されていった」(390頁)ということになりました。つまり、商工業の製品は土地生産物と交換できるので、それまでの聖職者のもてなしと大規模だった慈善事業が縮小し、従者の数も減り、借地人も独立していき、聖職者の庶民に対する絶対的な支配力はかなりの程度衰退していったのです。
 こうした状況の中で、ヨーロッパの各国の主権者は、教会内での昇進に対する昔の権力を回復しようとしました。14世紀にイングランドで制定された聖職後任者法 (the statute of provisors) 、15世紀にフランスで制定された法王権制限詔勅 (the Pragmatic sanction) などにより、「聖職者の選任にあたって、主権者が事前に同意し、事後に承認を与えることが必要になった」(391頁)のです。このように宗教改革 (the reformation) 以前にすでに、聖職者の信徒に対する影響力は弱まり、聖職者に対する国の影響力が強まっていました。

 このようにローマ教会の力が衰えてきたとき、宗教改革のきっかけとなった論争がドイツで起こり、ヨーロッパ全体に広まりました。スミスは、「新しい教義を受け入れた人のなかには、理論にひかれた人もいた。新しさにひかれた人はもっと多かった。権威ある聖職者に対する憎しみと侮蔑にひかれた人はさらに多かった。だが、ほとんどどこでも、素朴で粗削りな場合も少なくなかったにせよ、情熱的に狂信的に説かれた点にひかれた人の方がはるかに多かった」(393頁)と言っています。
 このような危機的状況の中で法王庁は、フランス国王と神聖ローマ帝国の皇帝であったスペイン国王を味方につけてそれぞれの領土内で宗教改革の動きを制圧しましたが、かなりの犠牲が伴いました。イングランドでは、法王庁はイングランド王も味方につけたかったのですがスペイン国王カルロス1世を怒らせることになるので、「イングランド国王のヘンリー8世(治世1509~47年)は宗教改革の教義をほとんど信じていなかったが、当時の流行に乗じて、国内の修道院をすべて廃止し、ローマ教会の権威を失墜させることができた」(394頁)ので、後を継いだ息子のエドワード6世の時代に宗教改革を完成させました。

 宗教改革の信奉者はヨーロッパの各地に分散していましたが、カトリック教会のローマ法王庁のような権威をもつ機関がなかったので、意見の違いを解消できませんでした。特に関心を集めた対立点は、教会の管理と聖職給の授与権で、「この点に関する対立から、宗教改革派に主要な二つの宗派が生まれた。ルター主義とカルバン主義 (the Lutheran and Calvinistic sects) である。宗教改革で生まれた宗派のうち、ヨーロッパで法律によって教義と戒律が認められたのは、この二つの宗派だけである」(394~395頁)ということになります。
 「ルター派といわゆるイングランド国教会 (the church of England) は、監督制 (episcopal government) を多かれ少なかれ維持し、聖職者の間に上下関係を確立し、主権者に国内の監督や主教などの上級聖職の任命権を認めて、主権者を教会の真の首長とした」(395頁)ので、主権者への服従を維持する要因となり、このような仕組みのある国では騒乱や内戦は起こっていませんでした。このような監督制のもとでは、聖職者は推薦を受けて昇進しようとするために、上流階級に取り入るために禁欲主義を軽蔑する聖職者と、民衆に尊敬されるために禁欲主義を主張する聖職者がいました。
 一方カルバン派は、「フルドライヒ・ツビングリの教え、正確にはジャン・カルバンの教えの信奉者は、各教会区の信徒に、空席になった牧師を選出する権利を与えた。そして、牧師の間に完全に平等な関係を確立した」(396頁)のですが、牧師選挙をめぐって抗争が起こる結果になりました。社会の平穏を維持するために、政府が牧師の推薦権を握る必要があると判断し、長老制の教会制度 ( the presbyterian form of church government) が採用されました。「長老派の教会制度で確立されている牧師の間の平等とは、第一に宗教的な権威の平等、第二に聖職給の平等を意味する」(397頁)ので、聖職推薦権が確立している長老制の教団では、目上の人に認められるために、学識を深め牧師としての義務を誠実に熱心に果たすようになります。つまり、教団内で聖職給がほぼ同じならば、庶民が尊敬する道徳体系に従って行動することになり、「長老派教会の牧師は、おそらくどの国教会の聖職者と比較しても、庶民の心をうまくつかんでいる。庶民が迫害を受けなくてもほとんど全員、国教に改宗した国は、長老派が国教になっている国だけである」(398頁)と言っています。

 多くの学者をかかえているのは教会でしたので、大学の教授職は聖職者の中から選ばれました。したがって、その国を代表するすぐれた学者は、教授職の収入が聖職給より高い場合は大学に、低い場合は教会に集まることになりました。スミスは、カトリックの国とイングランド国教会は教団が豊かだったので優れた学者が大学にいることは少なかったが、スイスのプロテスタントの州であるジュネーブ、プロテスタントの国であるドイツ、オランダ、スコットランド、スウェーデン、デンマークでは、優れた学者の大部分は大学の教授であった、と言っています。

 国教の教団の収入の多くは、国の一般財政収入からきますので、「他の条件が変わらなければ、教会が豊かになるほど、主権者か国民がかならず貧しくなり、どちらが貧しくなっても国の防衛力がかならず弱くなるといえるはずである」(400頁)と言い、スイスのプロテスタントの州やスコットランドの教会の例を見れば、少ない収入で、信仰の統一、信仰心の豊かさ、秩序を守る精神、規律のとれた生活態度、倹約の精神などの好影響を生み出しているという例をあげています。
 またスミスは、どの職務でも給与や報酬が職務の性格に釣り合っていなければならなく、報酬が低すぎれば人格と能力が劣る結果になり、報酬が多すぎれば怠慢になり怠惰になる可能性が高くなるとし、さらに聖職者の場合収入が多すぎると、「聖職者としての義務を果たすのに使うべき時間を浪費するだけでなく、聖職者にふさわしい人格ではないと庶民にみられるようになり、義務を果たすのに不可欠な権威や重みがなくなることにもなる」(402頁)と言っています。



マイナンバーカード、情報の取り違え 5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月27日 08:22:02 No.245 【返信】

 マイナンバーカードの普及を進めようと、国がポイントのオマケまで付けて普及を進めましたが、健康保険証機能に他の人の情報が登録されたり、公金口座が別の人間にヒモ付けされて確定申告の還付金が他人に支払われたり。。、
 多少の事故は仕方がないのですが、あまりにも件数が多過ぎると思います。人の手による作業は避けられないのかもしれませんが、それならダブルチェックでミスを防止する、とか。

 私も、転職先から健康保険証を交付されてから数日後に主治医で受診した際に、主治医が「マイナンバーカードを持っておられるなら試してみてよ」と頼まれたので端末にかざすと、情報がありません!健康保険証の登録変更がかなり遅いようです。

 DX(デジタルトランスフォーメーション)は、人口減少社会の人手不足・コストダウンのキーになりますが、受託業者や下請業者への業務指示が徹底できていなかったようで、広告やイベント業者が受託する形態に疑問を感じます。
 DXは、デラックスやろ、って? うっ。。。

 至誠館商学部事務室前に行くと、同志社商学を無料でいただけます。これはずっと変わっていませんね。



4期生 うすい 投稿日: 2023年05月29日 13:27:19 No.247
健康保険証がスマホに搭載されるようなので、マイナカードに切り替えました。
スマホ1台でいろいろ出来るので、財布も小銭入れに替えています。
運転免許証もスマホに搭載されれば、持ち歩く必要がなくなるので実現して欲しいものです。



またもや円安。 5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月25日 08:28:45 No.244 【返信】

 ここ1か月でまた円安傾向が強まりました。
https://finance.yahoo.co.jp/quote/USDJPY=FX?styl=cndl&trm=1d&ovrIndctr=sma,mma
 アメリカFRBの金利政策の方針と日本の低金利政策との乖離に着目されているのでしょうが、新しい日銀総裁は悩ましい。株式の買い支えが50兆円あるというし。
 一方でアメリカの銀行が続けて破綻したことで、アメリカの金融機関に対する信頼が揺らいでおり、アメリカ連邦政府の債務上限問題も決着しないことから、日本の株式も下げの展開になっています。

 子育て予算の財源が社会保険料の値上げだなんて、ビックリ。税負担を保険料負担に振り替えるだけで、効果はあるのかどうか。所得が多い人ほど社会保険料を払うのですが、方法はなかったのか。
 それより「異次元の」子育て支援、はどこへ。高校生に月1万円支給しても出生率は上昇しません。
 「維持現の」子育て支援、にすり替わったのか。

 画像は昨夕の今出川キャンパスです。





国富論』再訪(61) 二村 重博 投稿日: 2023年05月23日 18:05:05 No.243 【返信】

 『国富論』(58)第5編 第1章 第3節 第3項 ① (2010年5月8日)

 第3項―生涯教育のための機関の経費 (Article Ⅲ Of the Expence of the Institutions for the Instruction of People of all Ages)

 ここでの「生涯教育」の意味は、日常使われている生涯教育ではなく、「生涯教育のための機関とは主に、宗教教育のための機関である」(374頁)という文脈で宗教との関係で使われています。

 宗教を教える教師は、その収入を信者の寄付や他の財源から得ていますが、「信者の寄付に頼っている場合の方が、教師ははるかに努力し、熱心で、勤勉である可能性が高い」(374頁)とスミスは言っています。この意味で、聖職者が聖職給に安住している国教 (established religion) の教団は、大衆の信仰心を維持する努力を怠るので、新興の教団から教義や戒律を攻撃されたとき、新興の教団のほうが人気を獲得し、改宗者を獲得することに優れていることになります。ローマ教会の場合は、末端の教会の神父は収入のかなりの部分を信者の寄付に依存し、托鉢修道会 (mendicant orders) は収入のすべてを寄付に依存しているので、カトリックの国では、貧しい末端の神父と修道士の熱意と勤勉さが宗教心を支えていると言っています。

 さらにスミスは、ヒューム (D. Hume) の聖職者に関する見解を引用しています。ヒュームによれば、職業には、政府が干渉すべきでない職業と、財政、海軍、行政の組織で働く人のように政府が奨励策を取らなければならない職業がある。信者の寄付に頼る聖職者の場合は前者の職業のように思われるが、そのままにしておくと、真実や道徳や良識よりも、大衆の激情や信じやすさにつけこむ手法が開発されるようになるため、国の政治的利益という点からは却って高くつくことになる。したがって、政府は国教を決めて支援するほうがよい、というものでした。
 これに対してスミスは、政党とそれを支持する教団との関係を挙げ、教団が支持する政党が勝利した後でも、一つの教団の教義を他の教団の教義より優先させることなく平等に扱い、国民が自由に適切と思う聖職者と教団を選べるならば、教団の数は多くなったはずだと言い、この場合、聖職者は信者を増やし維持するために努力するから、「いずれ大部分の教団の教義は、非合理や欺瞞や狂信の性格をもたなくなり、純粋で合理的な宗教の教義に近づいていくだろう」(379頁)と言っています。しかし、社会に一つないし少数の大教団しかない場合には、「周囲には信者と弟子と謙虚な崇拝者しかいないと思っているので、率直で穏健な姿勢をとる聖職者はほとんどいない」(379頁)と言い、「政府が宗教に一切干渉せず、各教団に対しても他の教団への干渉を禁じる政策を断固としてとっていれば、教団はまず間違いなく自然に分裂していき、すぐに十分な数になるだろう」(380ページ)と言っています。

 スミスは、文明社会では二種類の道徳についての考え方があり、一つは庶民の厳格で禁欲的な考え方、他は上流階級の自由な考え方、だらしのないともいえる考え方であるとしています。「浮かれ騒ぎという悪徳、景気が良いときや陽気なお祭騒ぎが行き過ぎたときに生まれがちな悪徳をどこまで非難するべきなのかが、二つの考え方の主な違いのようだ」(380~381頁)と言っています。浮かれ騒ぐと庶民は浪費によって身の破滅をもたらしますが、上流階級は資産があるので破滅するとは限らないということがこの考え方の違いを生み出してきたようです。
 教団は庶民の中で始まりましたので、教団のほとんどは厳格な道徳観を採用しました。上流階級の地位と資産のある人は社会の中で目立つ存在なので、自分の地位と資産にふさわしいとされる道徳観から外れないような行動をとることになります。一方、大都市の庶民は、名もない庶民の一人なので、行動が観察され注目されることはありません。しかし、小さな教団の一員になると重要性が認められ行動が注目されるようになります。「小さな教団ではほとんどの場合、庶民の信者の道徳は驚くほど一定で秩序だっており、国教会の信者よりもはるかにそうなっている。不快なほど厳格で非社交的な道徳を守っている場合すらある」(382頁)と言って、この不快なほど厳格で非社交的な道徳を矯正する方法として二つ挙げています。一つは、中流以上の全員に科学と哲学を学ばせ、試験をして資格を与えることです。科学の学習は、狂信と迷信の害毒を抑える解毒剤になり、中流以上の階級が狂信と迷信を持たなければ下層の階級にも影響するからです。第二は、国が大衆娯楽を奨励することです。これは、大衆の迷信や狂信の温床になっている陰鬱な気分を吹き飛ばし、狂信的な扇動者の行動を困難にするからです。

 ところで、法律によってすべての教団の聖職者を平等に扱っている国では、つまり国教のない国では、主権者や政府は聖職者に特別の関心を持つ必要はがありませんが、国教のある国では事情が違ってきます。国教になっている教団の聖職者は大きな組織体になっていますので、教団の利害と主権者の利害が一致することはなく対立することもあります。スミスは、「東ローマ帝国では滅亡までの間、ギリシャ正教の聖職者が起こした騒動でコンスタンチノープルがたえず混乱していたし、ヨーロッパの各地が何世紀にもわたって、ローマ教会の聖職者が起こした騒動で混乱した事実をみれば、強い力をもつ国教の聖職者に影響を与える適切な手段をもたない主権者が、いかに危うく不安定な状況におかれるかがよく分かる」(384~385頁)と言っています。主権者が聖職者の決定に影響を与える手段は、威嚇と暴力か操縦と説得ですが、聖職者を暴力で押さえつけることはできませんので、「主権者の安全と社会の平穏は、主権者が聖職者を操縦する手段に大きく左右されるようだ。そして、主権者が使える手段は、聖職者を昇進させる権限以外にないと思える」(386頁)と言っています。
 キリスト教会の古い制度では、各司教区の司教は聖職者と信徒の投票で決められていましたが、やがて教会内の昇進は教会が決めるようになりました。またローマ法王は、司教と修道院長の上級聖職の任命権を、さらに各司教区内にある下級の聖職の任命権をも手中に収めるようになりました。「ヨーロッパ各国の聖職者は一種の宗教軍に組織され、各地に分散してはいるが、移動も作戦も一人の指揮にしたがい、共通の計画のもとで行われるようになった」(387頁)ので、主権者の立場は悪いものになりました。大領主と同じように、聖職者も地主として富を持ち信徒に大きな影響力を持っていました。聖職者は土地からの地代だけでなく十分の一税によっても収入を得ていました。製造業はまだ発達していなかったので、大量に余った土地生産物を活用するために、もてなしと大規模な慈善事業を行っていました。「もてなしと慈善によって、大量の信徒を動員し指揮できただけでなく、宗教的な武器の力も大幅に強まっていた。もてなしと慈善という気高い行いによって、下層階級の全員に尊敬されていた」(389頁)のです。
 「ヨーロッパの大部分で10世紀から、11世紀、12世紀、13世紀にかけて、そしてその前後のかなりの期間にわたって続いた状況では、ローマ教会は、政府の権威と安全に対して、さらには政府が保護する力をもたないかぎり開花できない人類の自由と理性と幸福に対して、かつてなかったほどの脅威を与える組織になっていた」(390頁)のですが、「人間が知恵と徳をつくしても揺るがすことができず、ましてくつがえすことなどできなかった巨大で頑強な組織が、ものごとの自然の動きによって、まずは弱まり、後に一部が破壊され、おそらく今後何世紀かのうちに、まったく崩壊すると思える状況になっている」(390頁)というような大きな変化を受けることになります。



超大国インド、天下を2分?三分? 4期生 うすい 投稿日: 2023年05月18日 07:40:07 No.239 【返信】

広島サミットが開催され、インドの動向が注目されています。

G7(欧米)のコペルニクス的転回
第2次世界大戦後21世紀を迎えるまでは、世界の政治、経済、安全保障は欧米を軸に世界が回る天動説で動いていました。
21世紀に入りアジア諸国の台頭により、NATOの安全保障政策ではトルコの、エネルギー政策ではサウジアラビアの、東アジアの安全保障、経済政策ではインドの意向、動向を抜きにしてG7単独での政策決定と発信が困難な状況へと変化しました。
世界は多軸化により欧米も一緒に回る地動説へと転換しています。

天下分け目か?三分の計か?
中でもインドは、人口世界一、GDPはやがて3位、核保有の軍事力4位の超大国です。
覇権を争う各陣営から盛んに秋波を送られており、関ケ原の戦いにおける小早川勢の様な立ち位置にあるようです。
インドが組みした側が世界の経済、安全保障で勝者となる鍵を握る存在となっています。しかしながら現代で関ヶ原が起こると、いずれが勝っても人的被害や経済的損害は計り知れない悲劇的結果をもたらします。

インドはどの陣営にも属さず、巧みな外交により各陣営から恩恵を受けています。このことが世界の経済、とりわけ安全保障面で奇妙な安定をもたらしていくのではないかと期待しています。
特定の陣営に属するとパワーバランスが崩れ天下分け目の戦いを誘発する要因となりますが、インドが旗色を明らかにせずに絶えず各陣営を牽制することが無用な戦争を起させない抑止力に繋るものと考えます。
イタズラに非難しあって戦争を誘発している遥か遠く離れた国々に依存して無用な戦禍に巻き込まれたり、途中で匙を投げられ梯子外しに会うことのないよう、戦争を望まないアジアの国々と協調、連係していく方が、安全保障上の利点が多そうです。

5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月21日 11:26:27 No.240
 今回の広島サミット、私は懸念することが多いです。
 ゼレンスキー大統領が来日参加してくれたことは喜ばしいけど、G7が反露集会であることがより明白になりましたし、ゼレンスキー大統領に政治利用されることも間違いないでしょう。
 ウクライナに軍事侵攻したロシアが元々悪いし、即時停戦すれば良いのですが、はじかれてしまったヒネクレっ子もタダでは治らないし、なだめ役が期待されたインドも参加する中、そこにウクライナも合流したのでは、ロシアグループは疎外感を高めます。

 広島にG7国が集まって、原子爆弾の悲惨さ、戦争の無惨を確認し合うのは無駄ではないと思いましたが、核兵器を放棄したウクライナが各国に軍備支援を要請することになるのでしょうから、平和と核廃絶を唱えたところで意義は薄れそうに思います。
 G7各国も核兵器を保有し、核兵器の廃絶など微塵も考えていない。現状では、核廃絶を行った途端に、侵略を考えている国による侵略が始まりかねないと想像するところでしょう。事実、ウクライナが核兵器を手放してからロシアの侵略が始まっており、とうとうウクライナの首都をも脅かす事態となっているのですから。
 岸田首相は、唯一の被爆国である日本の、被爆地の一つである広島で、出身地をアピールしながら核廃絶をアピールするのでしょうが、ゼレンスキー大統領の来日により、残念ながら核廃絶は無理だ、との見方が強まるのではないかと私は勝手に思っています。当面は、核兵器による抑止力バランスに頼らざるを得ないのではないか、ウクライナの例があるやろ、と。
 それも人ごとではありません。自国を守るために核武装を図る北朝鮮はともかく、自国の領土を減らさない・隙あらば増やそうという中国は、日本からアメリカの核の傘がなくなったら侵攻を始めるかもしれません。事実、南シナ海のフィリピンやベトナムの海が侵されています。
 核廃絶は在るべき理想ではあるけれども、一部の不届な指導者が指揮を執る国家がある限り、理想のままになってしまいそうです。
 せめて核兵器の縮小が進むことを願うばかりですが、他国のことは気遣わす自国の利益を主張・確保する国々が考えを改めない限り、核軍縮すらも難しそうです。

 広島サミット、ロシアが停戦を表明、などのような何か驚くような良いニュースが飛び込めばいいですが、東西冷戦当時より悪い状況に向かっているのではないか、、と私は悲観的です。

 画像は、京都駅のコインロッカー。使用停止中です。



5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月21日 12:05:07 No.241
 G7会合、ゼレンスキー大統領の席は、なんとインドのモディ首相の隣。

4期生 うすい 投稿日: 2023年05月22日 09:46:54 No.242
(意に反して?)広島サミットは核兵器決起集会となり、真逆の核兵器是認メッセージを世界に発信したこととなり、核使用の口実を与えて日本への核攻撃の可能性を高めた結果となりました。

「日本からアメリカの核の傘がなくなったら侵攻を始めるかも」

→「G7について巻き込まれ事故に遭うか?」「アジア諸国と連携して侵攻をうけるか?」資源もない陸路もない核もなく国の選択は難しい。



『国富論』再訪(60) 二村 重博 投稿日: 2023年05月16日 19:33:22 No.238 【返信】

 『国富論』(57)第5編 第1章 第3節 第2項 ②(2010年5月1日)

 前回は、教育機関のもたらした影響についてみました。それでは、教育の方法と機関、またその必要性はどのように説明できるのでしょうか。

 スミスは、「古代ギリシャの共和国では、すべての自由人が政府の役人の監督のもとで、武芸 (gymnastic exercise) と音楽 (music) を教えられた」(361頁)と言っています。武芸は身体を鍛え戦争に備えることが目的で、音楽は精神を豊かにして社会的で道徳的な人間を作ることが目的でした。古代ローマでは、マルスの原野での訓練が武芸を教育する目的となっていましたが、音楽に当たるものはありませんでした。それでも古代ローマ人は公私の両面で道徳心が優れていたようです。これは祖先から受け継いできた制度や習慣を大切にしてきたからのようです。
 ギリシャでもローマでも、教師に対して国が報酬を支払うことはなく、公共の広場だけを提供して教師の選択は各個人に任されていました。両国とも読み書きと算術の教育もありましたが、これについても保護者の責任に任されていたようです。
 文明が発達して哲学 (philosophy)と修辞学 (rhetoric) を学ぶ教育の需要が増えてくると、学校が定着するようになりました。国は特に給与を払って学校を支援することはありませんでしたが、場所は提供しました。「プラトンにはアカデメイアを、アリストテレスにはリュケイオンを、ストア派の創始者、キティオンのゼノンにはポルティコスを国が提供したようだ」(364頁)とスミスは言っています。また、ローマでは、ローマ法が秩序だった体系になってきたので、法律を学ぼうとする教育の需要も増えてきました。

 ギリシャでもローマでも軍事訓練を除けば、国は教育に対しての努力はしていませんでしたが、教育に対する需要があれば教育をしようとする人材が必ず出て、激しい競争が起こり教師の能力が高まりました。しかし近代では、大学の教師は給与を受けているのと、大学卒業の資格の学位が有益であるので、「大学にしっかりした財源があるために、大学の教師が熱心に教えなくなっているだけでなく、大学以外で優れた教師が活躍する余地も、ほとんどなくなっているのである」(366頁)と言っています。
 公的な教育機関がなかったならば、需要のない学問は教えられなかっただろうし、上流階級の有能な若者が最高の教育を受けて社会に出た時、上流階級や実業界で話題になっていることを理解できないということもなかっただろう、とスミスはコメントしています。逆に、女子教育のための公的な機関はありませんでしたので、女性は、女性として主婦としてふさわしい教育を選んで受けました。「女性は人生のどの時期にも、受けた教育がどれも役立っていると感じることができる。男性の場合には人生のどの時期にも、受けた教育のうちとくに厄介で苦労した部分を役立たせることがまずできない」(367頁)と言っています。

 スミスは、それでは国は国民の教育に関与しないようにすべきなのだろうか、と問うています。そして、「分業が進むとともに、労働で生活している人、つまり大部分の人の仕事は、ごく少数の単純作業に限定されるようになり、一つか二つの単純作業を繰り返すだけになることも多い」(368頁)ので、「このような仕事をしていると、考え工夫する習慣を自然に失い、人間としてそれ以下になりえないほど、愚かになり無知になる。頭を使っていないので、知的な会話を楽しむことも、そうした会話に加わることもできなくなるだけでなく、寛大な感情、気高い感情、優しい感情をもてなくなり、私生活でぶつかるごく普通の義務についてすら、多くの場合に適切な判断をくだせなくなる」(368頁)ために、知的な能力、社会的な能力、兵士として戦う能力がなくなるので、「文明が発達した社会では、政府が何らかの対策をとらないかぎり、住民の大部分を占める下層労働者はかならず、このような状態になるのである」(368頁)として、国による教育の関与の必要性を論じています。つまり、狩猟社会や遊牧社会、また製造業が発達する前の農業社会では、人々はさまざまな仕事をしていましたが、文明社会では、上のような理由で政府が庶民の教育に関与する必要がある、と言っています。そして基礎教育の必要性を指摘し、ラテン語の初歩ではなく、幾何 (geometry) と力学 (mechanics) の初歩の教育を提案しています。
 さらに、ギリシャとローマでは国が武芸の習得を奨励しましたが、「文明が進歩するとともに、政府が適当な支援策をとらないかぎり、武芸の訓練が行われなくなっていき、それとともに住民の大部分が尚武の精神 (martial spirit) を失っていくことは、近代ヨーロッパの現実に十分に示されている」(372頁)として、この分野の関与の必要性にも言及しています。

 最後にスミスは、国が下層階級の教育に真剣に関与することから得られる利益として、教育が進めば人々は、狂信や迷信に惑わされにくくなり、礼儀正しく秩序を守り、反対派や先導者が政府の政策に反対したとき、その裏にある利害を考え見抜く能力も高くなるので理不尽な反対や、ためにする反対に踊らされにくくなる、と言っています。つまり、「自由な国では、政府の行動について国民がどこまで好意的な判断をくだすのかで政府の安定性がかなり左右されるので、国民が早まった判断や気まぐれな判断をくだす傾向をもたないことは、政府にとってきわめて重要なはずである」(374頁)ことになります。



アメリカの債務上限問題、葵祭 5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月16日 05:39:07 No.236 【返信】

 広島サミットにバイデン大統領が来日できるかどうか調整中などと2週間前に報じられて、なんだ、また国際情勢に駆け引きを持ち込むのか、どうせ最後は出席だろう、と私はタカをくくっていましたが、なかなか深刻な事態だったようです。
 私も債務上限についての調整の経験があります。
 30年くらい前ですが、予算が赤字ながら1毎年500億円くらいの投資(工事)をどんどんやらないといけないが、財源の半分を国が出してくれるものの、補助裏はわずかな自己資金と高金利の地方債発行ということで、借金の残高が3千億円くらいになっているにも関わらず投資は進めなければならないという状況でした。
 ある時期は国の補助金が入金して運転資金が潤沢、ある時期は市中金融機関から一時借入をする、という切り盛りが必要で、一時借入の額を見積もって予算案を議会で審議してもらいました。その一時借入の額が適正なのかどうかなど、実務をやっている者しか分かりませんが、国の定める予算の雛形にあるので諮っていました。

 アメリカも資金調達のうえでは、借金の上限を定める必要もあり、大統領と議会野党での調整が難航したということかと思われますが、野放図な財政運営でない限りは債務上限を緩めにしておかないと、戦争や災害に対応できませんから安全保障上も変な駆け引きはすべきでないと思います。だったら債務上限などどうでもええやん?う〜ん。。。
 とにかくバイデン大統領は広島に来られるようになったようで、よかったよかった。

 昨日5月15日は、葵祭路頭の儀が行われる予定でしたが、雨が予想されたので、今日16日に延期されました。
 上皇夫妻が大宮御所に御滞在になり、葵祭をご覧になるそうです。
 今回は、同志社の寒梅館の南にある大聖寺にもお立ち寄りになり、明治天皇のお后たる皇后の大礼服をご覧になったそうです。
 大聖寺は、門跡寺院なので、御所の近くの御親戚という存在だったのでしょうか。明治天皇が生まれた中山邸は同志社女子大のすぐ南にありますから、距離的にも近い存在であったことが想像できます。
 そういえば、学生時代だったか、私と同年代の「大聖寺の娘さん」が同志社に通っていると聞いたことがあり、当時の私は「大学が近くていいな」とつまらないことを思った記憶があります。
 さて、子どもの頃、福井国体に来られた昭和天皇がお召し列車という専用列車に乗られているのを見ましたが、今時は新幹線で御移動ですね。
 画像は、出町ふたばの店頭にあった双葉葵の鉢です。今日は鬢にフタバアオイを付けた人々の行列が都大路で見られます。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1025761

 二村先生傘寿記念の記念誌の編集は佳境です、先生のお忙しさのピークは今日?
 私なら、今日16日が原稿の締切と言われたら、エスケープするか、お酒を買って編集者に締切の延期をお願いする(某先輩の使われた方法?)するところですが、先生は凄い。さすがです。でも、無理をなさいませんように。

5期生 ひろせ 投稿日: 2023年05月16日 05:42:33 No.237
 画像の添付ができていませんでした。




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