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ノンタイトル その3 ( No.1159 )
日時: 2023年11月04日 19:10
名前: futeki [ 返信 ]
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畑江五郎氏の情報 ( No.1247 )
日時: 2023年12月15日 21:59
名前: 通りすがり [ 返信 ]
ありがとうございます。

テンメイが盛岡に移籍したことを名馬虐待のように伝える
マスコミがあってファンからも非難の声が上がったことを
思い出します。畑江氏は旧盛岡競馬場の環境のよさを高く
評価され、毎年必ず所有馬を1頭預託しておられました。

様似のサンキスト街道の由来を知る人もいなくなっていま
したが、道路拡張に畑江家の土地を提供した際、未亡人の
アイ子さんがそう命名するよう依頼されたのですよね。


雪質によって ( No.1246 )
日時: 2023年12月15日 20:13
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
脚抜きは全然違ってくるでしょうね。
週末は大雪予報が出ています…。


畑江五郎氏に関してネットではあまり書かれていない事柄を備忘録として並べておきます。
例によって国立国会図書館デジタルライブラリーから拾ってきた情報です。

秋田県生まれの父(実父がどうかは不明)畑江郁太郎氏が渡道し、明治後期から大正、昭和初期にかけて
土木請負業で成功した(川村組勤務を経てのちに独立)。
釧路を拠点として道内各地、遠くは朝鮮半島など、各地で鉄道関連を主とした土木工事業を行う。
土木業の成功後は金融業など多角経営を行い財を成した。

https://dl.ndl.go.jp/pid/909335/1/31
https://dl.ndl.go.jp/pid/1020288/1/31

郁太郎氏も馬主だったようで、詐欺事件に巻き込まれ裁判沙汰に(見出しのみで記事内容は未確認)。

https://kushirolibrary.jp/kshinbun/21926/2192603012.php

昭和に入ったころから、住居(兼会社所在地?)は札幌、小樽の稲穂町から若竹町、静内へと移っている。
同族経営で、畑江五郎氏も川村組社員を経て畑江合名会社の役員となっている(社長は郁太郎氏)。

(五郎氏の馬主活動は省略)

晩年の五郎氏は東京南麻布で暮らされた。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1808029/1/65


畑江合名会社が釧路から転籍した小樽の住所は若竹町21で、現行の住所番地とは多少違っているようですが
グーグルマップで検索して出てくる場所と概ね重なる地域だと思います。
周辺には何度も行っていますし、ストリートビューを使えばよくわかりますが、
旧宅に該当するような古い建物は既に残っていないと思います。

本年の将棋王位戦、竜王戦が開催された銀鱗荘からほど近い、眺望が素晴らしい地域です。


亡くなったのは ( No.1236 )
日時: 2023年12月10日 21:36
名前: 通りすがり [ 返信 ]
弟さんでしたね。うろ覚えの話を書いてしまいました。

あの頃いろいろなことを覚えました。もっと気を付けて
いればと思うことも多々あります。音更あたり調教地と
して絶好なんですよね。20センチくらい粉雪が積もると
素晴らしいクッションになります。サンモリッツの氷上
競馬を見に行った時、やはりそれくらいの雪が積もって
いたのでなるほどと感じたものです。


いろいろ事象があって ( No.1235 )
日時: 2023年12月10日 19:48
名前: 三村 [ 返信 ]
のことですね。大川よねさんですが、終戦後、調教師の父の手伝いをするようになって、
父の死後は弟さんが騎手兼調教師をしていたのですが、弟さんがお亡くなりになって、
よねさんが引き受けるようになった、という記事がありました。
渡辺敬一郎さんが書かれた記事です。
真偽のほどはわからないのですが、そういう話もあるようです。
音更の件は、全く根拠の無い話で混乱させてしまいすみません。大川宇八郎と関係があるのなと。


旦那さんが亡くなって ( No.1234 )
日時: 2023年12月08日 23:54
名前: 通りすがり [ 返信 ]
大川厩舎を続けるために免許を取ったと聞きました。
土屋千賀子師も父親が不祥事で調教師をクビになった
ので、獣医師だった千賀子さんが後を継いだ形です。

大川厩舎は音更にあったんですかね。ちょっと記憶に
ありませんが、若松厩舎と久保厩舎は確かに音更で、
あの頃の道営は競馬場で越冬する人もあれば別に個人
の厩舎を持つ人もあり、個人厩舎もありながら競馬場
にも馬房を持つ人などさまざまでした。シンガポール
へ行った高岡師が騎手として所属していた清水厩舎は
帯広競馬場と日高の牧場と両方ありましたね。


ありがとうございます ( No.1232 )
日時: 2023年12月08日 19:37
名前: 三村 [ 返信 ]
情報ありがとうございます。やはり大川調教師以前はいらっしゃらないかなと思います。
大川よねさんはどういう方かはほとんど存じ上げないのですが、そういうお話があるのですね。
まだご本人をご存じの方もたくさんいらっしゃると思うので、調べれば何か凄い話があるのかもしれません。
音更と何か関連があるのでしょうか・・・
「日本初の~」の方なので、近い将来、書く人が出そうですね。


寡聞にして ( No.1230 )
日時: 2023年12月07日 19:42
名前: 通りすがり [ 返信 ]
大川師以前のことは存じません。

静内で宴会をしている時、その場に該当者もいるのに
手島調教師会長がアイヌがどうとか言い出して冷や汗
ものでしたが、ハッと気づいた手島師が急によねさん
気の毒だったとか方向転換した記憶があります。


女性調教師 ( No.1229 )
日時: 2023年12月07日 15:44
名前: 三村 [ 返信 ]
#仕事中ではありますが・・・
スポニチが史上9人目の女性調教師と報じていますが、大川よね調教師を忘れてますよね・・・
日経はこれまで9人と書いているので正しいと思うのですが、他に女性調教師が過去にいらっしゃれば
ご教授頂ければ幸いです。


そうですよね ( No.1222 )
日時: 2023年12月04日 19:55
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
先人が大変な思いで切り開いた道なのですよね。
自分なんぞは何周遅れかで(どこでもドアを使って)同じ道を通っておりますが何卒ご容赦を。

流星は明治10年生まれ長男説が優勢ですか。
文中の誤記の多さから考えても、そのくらいのミスは全然考慮内になるのでしょう。
11年生まれの双子だったら、その旨一言くらい触れていてもいいような気もしますし。
逆に当時、双子が忌避される存在で隠されていたのなら、余計な一言はなくて当然でしょうけど。


北方は基本資料の宝庫ですから ( No.1221 )
日時: 2023年12月03日 21:32
名前: 通りすがり [ 返信 ]
昔からよく行っていました。
なるほどイサリフトが原形でしたか。

ちなみに流星は七重ノ郷と同年生まれになりますが、何か
が間違っているのかそれとも双子なのか。七重ノ郷は5月
25日生まれなので「25日」が共通していますね。七重ノ緑
は翌年の4月28日生まれで、前年5月25日の分娩後最初の
発情で種付けしたとすると自然です。

流星の誕生日 25th March が May の間違いで両馬は双子、
あるいは流星は明治10年生まれなのかですね。飛花は明治
8年5月7日ドンジュユアンと共に入場していますから、
9年に種付けされたことは考えられます。その場合、9年
7月17日の天覧馬術は妊娠中だったことになりますけど、
4月末の種付けなら問題ないでしょう。明治10年生まれの
産駒がいない方がおかしいように思います。


リンク間違えました ( No.1220 )
日時: 2023年12月03日 18:41
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
ご調査済みだったのですね ( No.1219 )
日時: 2023年12月03日 18:39
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
少し前に bonklers さんに教えて頂いた北大の北方資料DBにある「馬4頭の血統書」のことですね。

https://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/kyuki.cgi?id=0C009600000000000&page=1&lang=0

ということは通りすがりさんはこうしてネットでデジタル公開される遥か以前に北大北方資料室の方は
調査済みだったということでしょうか。それとも同じものが別の施設でも閲覧できたのでしょうかね。

全くの想像ですが、開拓使文書などで漁がスナドリと記されているのは、松浦武四郎らが地名をまとめたときに
アイヌ語で「イサリフト」だった場所が明治に入り漢字をあてがうことになり「漁太」「漁」と記したものを
元々の呼称を知らなかった人達が漢字表記だけをもって「スナドリ」と読んだのではないでしょうか。
ちなみに現在は漁(イザリ)町と呼ばれているようです。
こういったアイヌ語の当て字を開拓使関係者?が誤読している例が他にもあるのかよくわからないのですが、
アイヌ語地名の研究者の方とお話しする機会があれば忘れずに尋ねてみようと思っております。


残りの2頭 ( No.1218 )
日時: 2023年12月03日 09:27
名前: 通りすがり [ 返信 ]
Kamoidake
foaled in March 1878 in the Niicap stud farm and grown in the
field of the stud. And then he was catched in January of this
year and made fame.
His sire was foaled in the Aomori Ken and his dam (原文で消し
is) was one brown of the Niicap stud who was Kept free in the
field during all season.

Kirin
foaled on the 7th May 1875 in the Kaitakushi Experimental Farm
Nanae in the province of Oshima Hokkaido.
His sire is Young Black Prince, sky blue in color who was foaled
in 1869 in America and was celebrated for his farm and strong
constitution in that country in the third at his age.
His dam is the produce of the Village of Izumisawa in the
province of Oshima.
The feeding of the horse is the same with that of common horses.


七重官園に関して ( No.1217 )
日時: 2023年12月03日 00:23
名前: 通りすがり [ 返信 ]
古いノートに参考になるかもしれないメモがありました。

Riusei
foaled on the 25th March 1878, (後で書き込み bred & ownus by) (後
で消し in) the Kaitakushi Experimantal Farm, Nnaye in the province
of Oshima, Hokkaido.
His Sire, stone on color (書き込み Bay), was foaled in 1869 (原文
で訂正 7→6) in the Territory of Kentucky, U.S.A. and imported
into Japan by the Kaitakushi in 1872.
His dam (原文で消し whitish) cream color, was also the produce of
America, she was large and strong and famous for its swiftness.
The feeding of this horse is the same with that of common horses.

Dub
foaled on the 15th June 1878 in the stud farm of the Industrial
Board in the village of Sunadori in the province of Iburi and
removed to the Niicap Stud in the province of Hidaka in July of
the same year.
(原文で消し Kept) let free (後で書き込み off)in the field of
the Stud until November of the next year when he was Kept in the
stable.
His sire is the celebrated Dublin foaled in 1871 in the territory
of (原文で消し America) Kentucky, U.S.A. and bred by E. Etherome
and
His dam is one, bay in color, bred by the Niicap stud farm.

冒頭の ownus は owned だろうと思います。
漁牧場はイサリではなくスナドリであること確定です。
流星の母は飛花、ダブの母は和種第一号のようですね。
カモイダケとキリンの記述もあります。


ハッギン氏 ( No.1213 )
日時: 2023年12月01日 18:36
名前: futeki [ 返信 ]
[ 削除 ]
トルコ系だったのですね。
そういう背景もあってか、新しいモノや人種に対する偏見も少なかったのでしょうか。

モンキー乗りのルーツは黒人の子供の遊びだったのですかね。
19世紀末のアメリカだというのに、レースで最初にやった騎手がよくわからないというのは
結構意外という気もします。


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