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ワカサギ掬いと堂満岳
山本恵昭
投稿日: 2023年01月22日 20:28:36
No.120
【返信】
琵琶湖ワカサギ掬いと比良山ハイク、その2。今回は、堂満岳へ。
21日夜、23時頃から3時まで。ワカサギは前回よりいっぱい接岸していて、ひと掬いで5~6尾網に入ることも。家に帰って数えると、320尾!
22日、今回は、日の出に間に合う時間に目が覚めた。雲と湖面の隙間から、日が昇る。燃える琵琶湖が、輝く琵琶湖へ変わっていく。
8時半、イン谷口発。金糞峠経由で堂満岳に11時。雪は少なく、足首程度。トレースもバッチリで、ラッセル無し。激下りで、ノタノホリ経由、イン谷口に12時半。
また、One day two nightのつもりだったけど、最初の夜にワカサギが十分獲れたので、下山後帰宅。
今夜は、ワカサギ天婦羅。お酒が進む。
中井久夫さんが教えてくれたこと
川村靜治
投稿日: 2023年01月21日 16:00:01
No.117
【返信】
阪神・淡路大震災28年にあたり、神戸新聞に掲題の特集記事が6日にわたって掲載されました。ご覧ください。
大森雅宏
投稿日: 2023年01月22日 12:27:36
No.118
川村さん、掲出ありがとうございます。
いま通っているアルバイト先で、金曜日までの神戸新聞は目にしていたのですが土曜のは未読。
冒頭の加賀乙彦さんのこと。
亡くなってすぐに記事に入れてこんな事したら構成が変わるんではないか、と思いましたが加賀さんのことは織り込み済みの原稿でした。
神戸新聞は1990年から11年余り中井さんのエッセイを掲載しています。その頃の担当者はすでにほぼご退職と思いますが、今回の記者、中島さんは流れを引き継がれたようです。
最終回の「中井さんはきっと、スイッチを押したのだと思う」のことばが心に残ります。
ところで、中井さんは左からの写真を好まれたのでしょうか。
連載第2回の執筆風景はほぼ正面ですけど、ほかのはみんな左にカメラ。
初回の笑顔はNHKのテキストにも採用されていました。
「鳩杖」も左からではと思って確かめたらやっぱりそうでした。
余談のことながら。
大森雅宏
投稿日: 2023年01月22日 12:48:21
No.119
追伸
写真・左 のこと。
執筆風景はほぼ正面と書いてしまいましたが、訂正します。
首を巡らせて顔の写真はほぼ正面ですけど、カメラは左に控えています。
左にこだわりが。絶対といっていいと思います。
ますます余談のことながら。
沢木耕太郎『天路の旅人』
越田和男
投稿日: 2023年01月17日 15:05:13
No.116
【返信】
昨秋出て直ぐに読み、本欄に何か書こうかな思いながら、何となく気が進まず、そのままになってました。今朝の朝日新聞に「沢木耕太郎さん9年ぶりの長編ノンフィクション」として大々的に掲載されてましたので、背中をおされた気持ちなって紹介する次第です。既に7刷り4万部とか。
沢木耕太郎著『天路の旅人』新潮社 2022年10月pp574 2100円
主人公の西川一三(カズミ)(1918~2008)は戦時中の諜報員。密偵として単身情報収集の命を帯び、ラマ僧に扮し、中国奥地からチベット経由ヒマラヤ越えでインドに至る広大な未開地域の潜入を試み、戦争末期から戦後にかけて、内モンゴルから河西回廊、青海、チベット、シッキム、インドに至る八年間の苦難の旅を完遂したことで知られている。既に本人による回想記『秘境西域八年の潜行』(中公文庫)が上梓されており、小生もかつて読んだが、勿論今回のプロのノンフィクション作家が、生前の西川に一年間計50時間のインタビューを経て7年間かけて苦難の末書き上げたというこの作品の方が読み物としてお勧めできる。
また、本書では戦後帰国してからの西川の言動、身の処し方についても詳述されており、大変興味深かった。いつのことだったか、東京でのある会合で、西川の後援を聞く機会があったが、その時西川が大きな声で「私はチベット人が嫌いだ」と言ってのけたのが印象に残っている。
琵琶湖周辺でOne day two night
山本恵昭
投稿日: 2023年01月15日 19:34:42
No.115
【返信】
今年の登り初めは、比良山系釈迦岳。
でも、それより本命は、前夜と後夜。
冬の琵琶湖、夜にワカサギが産卵のために波打ち際まで来るらしい。それをタモ網で、バシャリと簡単に掬うことが出来るとのこと。
3連休で信州にと考えていたけど、のっぴきならない用事で、フリーなのは8日のみ。
One day two night、7日深夜発で琵琶湖へGO!
夜1時過ぎ、西岸和邇浜に到着。長靴を履いて、網を手に暗闇の砂浜へ。ヘッドランプで波打ち際を照らすが、魚影を全く見つけられない。
5時頃まで、ひたすら砂浜を歩きまわり、収穫は0。意気消沈。どっと疲れが出る。
投網の人は、そこそこ獲れている。今日は岸辺に寄っていないとのこと。見かねて30尾ほど分けてくださった。キラキラとした魚体が美しい。
8日、車で8時まで爆睡。楽しみにしていた琵琶湖畔からの日の出は、寝過ごして見逃した。
イン谷口を8:40、大津ワンゲル道を登る。下の方は雪がほとんど無いが、600m辺りから現れて、上部は膝から腰のラッセル。岩場も出てきて、トラロープ頼り。
釈迦岳山頂に11:20。展望なし。
下りは、リフト道。途中、1ヶ所展望が開け、琵琶湖が輝く。もう閉鎖された比良スキー場の登高リフト管理歩道は、ジグザグと高度を下げ、イン谷口に、13:40到着。
JR比良駅前の寂れた食堂で、お婆さんお薦めのおでんを食べて暖まる。味が良くしみて美味しかった。
今朝より北部の浜へ。明るいうちに下見をして、しばらく仮眠。カップ麺で腹ごしらえをして、18:30いざ出陣。
歩けど歩けど、魚を見つけることが出来ない。ああ、また今夜もボウズかと気力が失せかけたとき、波打ち際に肌色の魚が。素早く網を被せ、砂ごと掬いとる。
岸辺で網の中の砂を払い除けていると、キラリと輝く魚体。やった~!記念すべき、人生初ワカサギ掬い。
1度成功すると、キノコ目ならぬ、ワカサギ目が出来たのか、次々と見つけることが出来る。俄然、やる気も出て、浜を何往復も歩きワカサギ掬い。
急に風が出て波が荒くなる23時までの間に、72尾ゲットし、とりあえず、満足。
仮眠しながら、4時帰宅。
沢山あったと思ったワカサギは、息子夫婦と孫が遊びに来て、天婦羅にするとあまりの旨さにアッという間に無くなってしまった。
淡々と波音に耳を傾け、ヘッドランプに照された足元だけを見つめて歩き続けていると、雑念が失せていく。
また1つ、悪魔の遊びにはまりそうだ。
懐かしの羅臼温泉
柏 敏明
投稿日: 2023年01月14日 08:38:25
No.114
【返信】
穏やかなお天気に恵まれたお正月でした。今年も宜しくお願いいたします。
昨年の暮れ、NHKのドキュメント72時間「知床の秘湯にて」という
定点観測の番組を見ました。羅臼の漁師達が仕事の疲れをとる為に、
自分達の手で作った「熊の湯」という温泉の話でした。男湯は露天風呂、
女湯もあり、そこは別棟の建物でした。一般の人も200円位払えばはいれる
との事でした。番組を見ていると、あの時の温泉ではないかと気づいた次第です。
1961年7月~8月に、森本CLのもと、長谷川SL、伊丹、井本、竹中そして小生の6名で
知床半島と利尻島の偵察合宿を行ったのでした。当時はこのような地域に入る
山岳部は珍しく、羅臼の町から15分位の所にBCを張った我々に
「あ、探検家が寝ている」と言って、色々と差し入れをして頂いたものでした。
そのBCのそばに、すでに羅臼温泉と呼ばれ、露天風呂とペンキで表示された
温泉がありました。硫黄岳へのアタックや知床半島のわが身より高いハイ松に
泣かされた偵察の後の天国でした。あれから60余年、まさか当時の温泉を見るとは
思いませんでした。カンさん、恵ちゃんにも見て貰いたかったです。
写真は、当時の温泉と今の熊の湯です。入浴しているのは、若き日の竹中さんです。
雨宮さんの想い出
平井幹男
投稿日: 2023年01月09日 22:23:26
No.112
【返信】
大森君の投稿で思わず投稿します。
雨宮さんには本当にお世話になりました。
生意気ざかりの二十歳になる前、俺の山に対する情熱はこんなものではないと山岳部に退部届を出してネパールに一人で旅立ちました。
インド、パキスタン戦争の只中単独の登山は認められず、もう時効なので報告しますががガネツシユヒマールの付近を登りました。
帰国してぶらぶらしていると、雨宮さんから会いたいとの連絡が有り、山岳部に戻って来いとの説得、それ以来何かにつけ人生の相談を全て甘えてすがっていた人生です。
山岳部に退部届を出した初めての山岳会会長の想い出です。
去る者は…
大森雅宏
投稿日: 2023年01月09日 20:26:58
No.111
【返信】
世に「去る者は日日に疎し」の言葉があります。
会うことがなくなったら、しだいに親しみも薄れる、くらいの意味でしょうか。
でも。
そうでないかたもおられます。
薮内君や今井君は私に近い学年で、思い出すことが多いのは当然といえば当然です。
あいつがいたら飲みに誘うのにな、とか山に付き合ってくれるかな、そんなことです。
古いかたでは、香月さん・佐野さん・赤松さん・鷲尾さん・小川さん。
みなさん私の父親より年長の方です。なんで旧制の方ばかりそんなに。
思い出すわけは、山嶽寮。
皆さん山嶽寮ご登場の常連。
平成14年の57号から平成27年の70号まで、途中福田さんに編集をお願いしたとき以外、担当した私の誌面のお得意様でした。
旧制ではないのですが、山嶽寮といえば私が忘れるわけにいかないのが雨宮さんです。
海外紀行やエッセイ・論考とずいぶんたくさんのページを寄せていただきました。
編集のやり取りで電話やメールも度々でした。
そんな中で思い出すこと。
雨宮さんはその前のやり取りを記憶されていて、次の時はそこから入って来られました。
私が古バイクのメンテナンスをしている話をした次の時は「オオモリ君、バイクの調子はこの頃どうや」。
母が介護施設に入っていることをした次の時は「オオモリ君、お母さんの具合変わりはないか」。
気配りと記憶力がわたしより数段上だわ、と思うことしばしばでした。
有難い先輩に感謝いたします。
その雨宮さんの風貌に関して、すこし。
雨さん、カッコよかったでしょう。
若いころからずっと長髪、印象的な笑顔。
90周年の時の私の印象通りの写真を添付しておきます。
後からご覧ください。
その雨宮さんとよく似た印象の方を目にしたことがあります。
広告写真。
こっちも後からご覧ください。
通勤時にも駅の壁一面の広告でも目にしましたし、出張時の新幹線の中でも「あら、ここにもいてはるわ」。
私としてはこの広告は年齢を超えて溌溂として好印象でしたから、雨宮さんに「よく似た印象の方を見かけました」、とスマホの画像をご披露しました。
そしたら。
「にんなん似てるか?第一これ女性やろ」
とご立腹のご様子でした。
「雨さん。この世に生を受けて0.8世紀前後。ジイもバアもないでしょう」なんて言えるわけもなく、「ご無礼いたしました」と引き下がりました。
雨宮さんが亡くなられたことを知ったのはしばらくしてからでした。
アンタにも知らせたらの話もあったけど、雨宮家の「近い人だけでと送りたい」のご意向もあってな、とは後から教えてくださった方の弁です。
よくわかります。ご遺族のお気持ちが大切です。
それに。もし教えていただいても、私も列席できない事情がありました。
雨宮さんは令和2年1月8日に亡くなられて10日に告別式。
その雨宮さんが気にかけてくださった私の母も、同じ日に亡くなり同じ日にお葬式でした。
すみません、お教えいただいていても参列できませんでした。身内優先です。
新型コロナが世にはびこりだした令和2年。あれから3年。
こんなに長くなるとは思わなかったなあの思いで、投稿です。
雨宮さん、何かとお世話になりありがとうございました。
素適な後姿が印象に残っています。
どうぞお安らかに。
大森雅宏
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