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旅して、$と円の関係! 北の空に飛び人 投稿日: 2024年03月30日 08:36:23 No.991 【返信】

Newsで35年ぶり、円安152円越え報道!私が初めての海外旅行時では、1$360円だった。その後Nixon shock?で、1$308に!更に変動為替になって、1$が308円から200円の間で変動していた。以降、Oil Shook後、Shockの乗り越えが早かった自動車輸出で急速に日本経済が回復!後押しに円高が進み、頻繁に米国行きを始めた頃には、円高!私の飛行機を訓練を始めた頃より、1$100円前後となり、米国行きは、食事代、Hotel代、Gas代と、何を日本と比べても '' ビックリ'' する安さに!特に食べ物は、安い上に量の多さに度肝を抜かれた。兎に角、飲食費等の滞在費とCessna機の Rental価格の安価さに、米国行は、私にとって、米国を存分に堪能出来た。2.000年代になり '' ジワジワ '' と米国物価が上がり出し、N/Y 9.11テロ以降、飲食費は、日本では下がり気味なのに、米国の飲食費を含め滞在費は安く無くなり、日本より高く感じるようになった。其処にこの円安、米国の安さは全く感じ無く、人件費を含め、経済の停滞で世界から取り残された、日本に!
Shopping MallでのHood Courtの賑わい!Restaurant で食事での量!夜は屋外で '' Dance '' に興じる人達!の写真を掲載する。




こんな石碑が いし 投稿日: 2024年03月30日 07:31:14 No.990 【返信】

徳島で発見



RJEDからRJCOに向けて飛立つ! 北の空に飛び人 投稿日: 2024年03月28日 08:31:01 No.989 【返信】

滞空検査を終えて、長距離飛行の準備も整え、横浜在住の H氏と札幌の S氏を前席に、私は後席に乗り込み、天気予報で、今日は太平洋Courseが良いと判断しRJBDを飛立つ!好天なので紀伊半島を斜めに、尾鷲を通過、志摩半島に!浜松、焼津を過ぎ海岸線を飛ぶと、静岡辺りから '' 富士の高嶺の白雪を '' と思わず口ずさみながら、左手の富士山を眺めながら、伊豆半島を越え、伊東辺りから伊豆大島の遠景を眺めながら、小田原沖から、PICの H 氏が居住する横浜市上空に!次は羽田空港の脇を飛び、Skytreeを眼下に見ながら、都心部を通過!埼玉、宇都宮を飛び越え、福島空港を目指し、通過後は H 氏が羽田空港行きに便に搭乗の為、降機するRJSSに向かう!到着後、H氏と別れ、給油後、S氏がPICに!私は右前席に移りRJCOに向かう!好天に恵まれ、楽しい思い出に残る長距離飛行を無事終えた!毎年の春には何年か続いた、様々なMemberがLong Flightの経験を積んだ楽しい、年間行事でもあった。
RJEDを飛び立った直後の写真。富士山の遠景を眺めて飛ぶ映像。横浜市上空からの撮影した写真を掲載する。





この時期になると、59機のその年の旅立ちの準備に!特に雪国の北海道でも、日本海に面する札幌に住む我々の地帯は、根雪の為、雪解けを日々望み、Flightが出来るのが、待ちどうしい日々になる。一昨年末より美唄SPに大型 Hanger が完成したことにより、59機を美唄SPに預ける事に、更に滞空検査も、同所で行う様になった。それ迄は、Mobile Gas 仕様許可の申請が、関西航空局傘下で運行している機体のみだった。その為に、申請手続きに手慣れた、南紀白浜空港に所在する S 整備工場に、更にTime Overした、EngineをLycoming社に送り、分解作業で内部部品もModile Gas仕様に交換し終え'' 日本へ'' その換装作業を終える迄、S社にお願いしていた経緯がある。その為、毎年59機の預かりも同社にお願いしていた。この時期には、59機の Ferry が、ある意味では、Memberの飛行訓練にもなり、仲間にとって、その長距離飛行は、初めて飛ぶAreaとなり、計画を立てるだけでも '' ワクワク '' 感のある楽しい行事でもあった。
南紀白浜のHotelから朝の風景。S整備 Hanger 内の出発準備中のMember!飛立つ準備中のMemberの写真を掲載する。




応援 きろ9 投稿日: 2024年03月26日 21:15:17 No.987 【返信】

能登半島の地震で空飛び仲間も被災してるとききました。
しばらく石川県のものをかいたいとおもってます。





私の心の中の "' Symbol '' 広島上空を飛ぶ!実行も、岡山行きの目的でもある。忘れる事の出来ない '' 工兵橋 '' 周辺を飛ぶ事!工兵橋とは?爆心地 2.3km に架かる吊橋!第五連隊の駐屯地は、手前は兵士が居住する兵舎と広い敷地、兵士が乗馬して渡る、幅の狭い、ワイヤーで吊った吊橋 '' 工兵橋 '' が架かっており、子供の我々は、橋を渡るのを見逃され、自宅 (爆心地1.6km) から橋は近く、毎日の様に遊び渡った、吊橋だった。手前は広い敷地の兵舎が建ち '' 緊急時避難場所 '' に指定されていた。私達は、8月6日8時15分被爆後、爆風で倒壊家屋から這い出し、周囲の街並みも爆風で全壊していた。未だ火災は発生しておらず、中心部より怪我を負いながら走って来る集団と、我々家族は合流し、第五連隊の '' 指定緊急避難所 '' に逃げた。兵舎も爆風で倒壊、敷地内にはパンツ姿で、朝の体操をしていた兵士達が全身火傷を負い '' 水くれ '' の大合唱!我慢できず、次々と川に飛び込み!流されて行くのを目の当たりに見ながら、市街地からの火災発生で、逃げて来る集団と、Wireの強さで落橋しなかった吊橋に、多くの人達と逃げ渡った '' 工兵橋 '' で今でも私の脳裏に焼き付いている。
'' 工兵橋 '' 袂、当日の避難説明プレート写真。現在安田学園校舎と工兵橋、学園をバック我家跡、付近写真。





瀬戸内の旅で、何度もLand Mark にする '' 赤鳥居 '' 厳島神社のシンボル!通常は海面から立ち上がり、潮が引くと海面にから全体の姿を現し、歩いても鳥居の真下まで行ける。私の赤鳥居の記憶は、満4歳半ばで、千葉の松戸市から、1945年5月に、父がマレー半島から帰還、広島市の軍令部に転属になり、家族揃って広島市に移り、一段落した頃、父親の勤務中、家族四人で、広電に乗って、厳島神社を訪れ、海上の赤鳥居を眺め、鹿に餌を与えたのが最初の記憶だった。原爆投下で住まいから焼け出され、その後、父親の転勤で、仙台市、富山市を経て、札幌に移り住み、勤務後も東京迄は頻繁に行く機会は多かったが、西日本を訪れる事は滅多に無く、更に、私の気持が乗らず広島行きは遠ざけていた。偶々飛行機を飛ぶ様になる10数年前まで、訪れる機会は無かったが、K氏と知り合、瀬戸内を飛ぶ様になってから、空から、地上からと、幾度も瀬戸内を訪れる機会が増え、様々な '' 赤鳥居 '' の姿が観れる機会が多くなり、まるで私の毎年の春の行事の様になった。
今年は好天に恵まれ、時間をかけ '' 厳島神社 '' に行き、上空を周回し、様々な高度から撮った写真を掲載する。




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