石川の鉄道掲示板

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大型連休徘徊記その3 管理人 投稿日: 2022年05月17日 06:00:00 No.183 【返信】

5月5日こどもの日
この日はちょっと遠出をしました。
6年ぶりの大糸線です。
大糸線は近年廃止の噂もあり列車本数が少なく1本撮り逃すと2時間待ちくらいになります。
この日は糸魚川駅から追いかけます。
写真は南小谷ー中土間の石原下踏切付近で撮りました。
乗客は糸魚川から乗車したファンが数人といったところでしょうか。




大型連休徘徊記2 管理人 投稿日: 2022年05月17日 05:51:06 No.182 【返信】

5月4日みどりの日
あえの風とやま鉄道で412系最後の走りが見られるというので越中大門駅近くの庄川の土手まで行ってきました。
当日は日差しが強く強風でした。
青空が綺麗だったので偏光フィルターで撮ってみました。




大型連休徘徊記1 管理人 投稿日: 2022年05月17日 05:46:19 No.181 【返信】

大型連休後半戦の3日憲法記念日
久しぶりに尾小屋に行ってきました。
尾小屋の街自体はずいぶん寂しくなっていますが、
尾小屋鉄道の車両は保存会の皆様のご尽力ですごく綺麗な状態です。
当日は運転日ではありませんでしたが、会の皆様が一生懸命トロッコ列車の整備に励んでいました。




無題 心は加賀人 投稿日: 2022年05月05日 08:45:05 No.176 【返信】

連投にてすみません。
代打・山本様にこの場をお借りして質問いたしますが…

・p.43下、撮影地を大聖寺→山代と訂正されていますが、画面左端のトイレ小屋と腕木式信号機、線路配置と背景から、どうも河南駅の山中側から撮影されたものだと思うのですが…。
・訂正にはありませんでしたが、p.41、連絡線の河南ー山代となっているのも、河南ー黒瀬間辺りか、連絡線のどこか(那谷寺ー馬場辺り?)のような気もします。
連絡線の宇和野以東を撮影したものはありませんでしたが、もしもこれがそうなら貴重な1枚ですね。
・p.117下、モハ1813は浅野川線に転属する事はなく、加南線廃止後も山代で車体がラーメン屋に転用されて残っていましたから、この浅野川線の1813は何なのでしょうか?
1813は車籍を入れ替えた同一番号の初代と二代目が存在するはずですから、そのうちのどちらかでしょうか?

間違っていたら申し訳ありませんが、ご教示いただければ幸いです。
代打・山本 投稿日: 2022年05月06日 09:16:21 No.177
心は加賀人様

ご指摘ありがとうございます。

p43下はおっしゃるとおり河南の山中側からですね。
3201の非貫通側は山中を向いていたので、大聖寺なら右側に見えるはずの国鉄の線路がないので山代かと思いましたが、線路の配置や建物の位置から山代ではありませんね。

p41は背後の地形から、河南を発車して大聖寺へ向かう列車を後打ちで撮影したように見えましたが、背後の築堤は国道8号線で、列車の左に見える信号機は帝国繊維前の場内信号なのかもしれません。
Googleマップで全く同じ場所は出せませんが、この辺でないでしょうか。
https://www.google.co.jp/maps/@36.3016238,136.3305017,3a,75y,229.77h,94.81t/data=!3m6!1e1!3m4!1sUZwLQdAkgVE-wSLz6F5CXQ!2e0!7i13312!8i6656

p117下の1813は初代で、パンタグラフ化されて都ホテルがあることから撮影時期は34年ではなく38年ですが、このあと間接制御化、貫通化されて3561になっており、加南線にいた1815の番号を書き換えて2代目1813になりました。この2代目は1815の頃から社紋の位置が高いのが特徴で、晩年は前面窓の左右が段違いのHゴム化されていました。
心は加賀人 投稿日: 2022年05月07日 10:45:21 No.178
再びこの場をお借りして、代打・山本様、ありがとうございました。
本当に、昔の画像の新たな物が見つかるたび、別の新たな疑問が湧いてきて興味が尽きないですね。
代打・山本 投稿日: 2022年05月08日 06:52:04 No.179
心は加賀人様からいただいたご指摘をもとに、正誤表を一部訂正して再掲させていただきます。(北陸鉄道の関係のみ)

p6下 加南線の廃止により→昭和39(1964)年に
p12下 撮影場所 本寺井→宮竹
p16下 駅が廃止になる平成13(2001)年→平成21(2009)年
p26上 場所不明→堤町付近
p27 モハ300形318→312
p41 撮影場所 連絡線 山代~河南→山中線 黒瀬~帝国繊維前
p43下 撮影場所 大聖寺付近→河南
p44下 モハ5001・5002は鉄道廃止後→昭和39(1964)年に
p46下 唯一新型台車を→「新型台車」の定義が釣り合い梁式などではないとした場合、昭和32年製のモハ3201、クハ1001以降も新型台車となります。
p49上 昭和6年には車庫火災は発生していません。
p51中 撮影場所 片山津線の動橋→連絡線 山代
p53上 新動橋は~(中略)~連絡線の終点→~動橋線の終点 貨車の授受は新粟津駅が→大聖寺駅が
p53下 遠州鉄道から譲り受けた車両は金石線から転入したクハ1603のほか、浅野川線から転入したクハ1602、金石線から浅野川線を経て転入したモハ3571の3両が在籍しました。
p54中 EB211→EB221
p58~59 前後についていた荷物台は撤去→最初から片側だけでした。
p61上 撮影場所 小松→鵜川遊泉寺
p62下 加南線が廃止されてからモハ1800の仲間は各線に散った→路線短縮や新車の導入で、廃止前から徐々に加南線を離れるケースが多く見られました。
p66上 昭和32(1957)年生まれの古豪→昭和26(1951)年
p66下 サハ1000形を名鉄の台車、電気品で→サハ1000形をモハ1500形の台車と名鉄の電気品で 撮影場所 野々市→野町
p67上 かつて石川線は蒸気機関車を持ち、貨物輸送を→開業当初の軽便鉄道時代には蒸気機関車でしたが、改軌・電化後はED201が就役するまで電車が貨車を牽いていました。
p68上 前面に旧番号の1が残っていますが、この時点ではモヤ541でした。
p68中 説明文はEB122ですが、写真はもと温泉電軌のEB111(←モヤ551)で、p69中の写真と同じ車両です。
p69上 モハ2000形の登場で木造単車は一掃されたが→昭和39年まで在籍しました。
p69中 金石電気鉄道から引き継いだ→温泉電軌から引き継いだ
p69下 モハ631として金石線で使用された→モハ621として金名線が非電化時代の鶴来~加賀一の宮の小運転や貨車の入れ換えに使われ
p70上 撮影場所 白菊町→野町
p73上・中 モハ1504は運転室を広げるため→モハ1502は
p73下 撮影場所 鶴来→新西金沢
p74上 総括制御のモハ3711に→モハ3712に
p74中 台車はサハ1000形と交換しています
p77下 モハ3004とサハ1001の編成→モハ3001とサハ1002の編成 牽引されるサハ2002→サハ1002 撮影場所 新西金沢付近→新西金沢~押野
p78上 撮影場所 野々市→野町 右側から入り込んでいるのは松金線→市内線との連絡線
p79中 撮影場所 鶴来→白山下
p79下 撮影場所 白山下→鶴来
p80上 撮影場所 鶴来→白山下
p84下 サハ612を自社工場で→東洋工機で
p85上 クハに改造された後で、洗浄台があるので撮影時期は検車区が移転した昭和42年以降
p87下 撮影場所 新西金沢→新寺井
p88下 モハ3103は昭和36年にモハ3151に改番しているので、撮影時期は昭和40年ではなく、36年以前になります。
p89上 撮影場所 手取温泉付近→手取温泉~釜清水
p90~91上 撮影場所 新鶴来~鶴来→岩本~本鶴来
p92上【手取川を渡るモハ3701】→【大日川を渡るモハ3701】撮影場所 新鶴来~鶴来→下野~大日川
p92下 台車は北鉄転入時からKS30Lでした。
p94 金石線廃止まで金石線で過ごし、浅野川線へ転じて→金石線から昭和39年に加南線へ、44年に浅野川線へ
p95 貫通扉がある以外モハ3301と似た→どちらも貫通扉がありましたが、金石線では3011が大野港側、3301が中橋側でした。浅野川線を経て金石線へ転じ→金石線を経て浅野川線へ転じています。
p99上 撮影場所 中橋→北鉄金沢 p116下と同じ写真になります。5101が金石線へ入ったことはないはずです。
p100下 国体輸送終了後能美線を去り→昭和24年に能美線を
p101上 大野港まで貨車の出入りは多かった→貨車の出入りが多かったのは金石まででした。
p101下 畝田は数少ない交換可能駅→唯一の交換可能駅
p102下 この時期の電車としては珍しく車体の四隅に独立した乗務員扉を持っている。異様に広い幕板はかつて優雅な飾り窓があった名残である。→木造車でしたが昭和28年に鉄板を貼っていわゆる「ニセスチール化」し、幕板を埋め、乗降扉を狭めて乗務員扉を設置しています。
p103上 金石線のほか隣の浅野川線でも活躍した。→本来は浅野川線の所属ですが、車両不足を補うために金石線にやってきた貴重なカットです。
p105下 撮影場所 中橋となっていますが、周囲が開けているので中橋ではないことは確かです。
p106 撮影場所 中橋→七ツ屋(浅野川線)
p106中 車両不足に苦しんでいた石川鉄道が→北陸鉄道が 登場したのが昭和21~22年なので、北陸鉄道の合併後になります。
p106下 車体を含め、どんな原形だったかは高度な研究に→原形はデッキ仕切りがありましたが、仕切を撤去して客室と一体化し、引き戸を設置しています。湯口徹氏が鉄道史料で発表しておられます。
p107上 サハ521と同じ簸上鉄道の客車だった。→出自は同じですが、サハ551は金名鉄道を経て北陸鉄道に引き継がれています。
p109中 中橋駅の入れ換えに使われていたDL21の検査入場の代車として駆り出されたものです。
p110上から3枚目 撮影場所 大野港→金石
p110上から4枚目 撮影場所 金石→中橋
p112上 モハ571~573とありますが、ポールがなく、台車の形態からサハ221です。
p112中 サハ220形が2両作られたとありますが221の1両で、もう1両は車体が若干小さく6枚窓のサハ210形211です。
p113上 遠州鉄道から来たクハ1602とありますが、遠州鉄道でモハだったクハ1602には屋根上にパンタ脇の歩み板が残っていました。それが見えないのと、1602は昭和39年に加南線へ転出しており、撮影時期が昭和40年ならばクハ1601となります。
p114 モハ3101は上の写真では貫通側が内灘を向いていますが、下の写真では北鉄金沢を向いています。クハ1650形と編成を組むために昭和37年に方向転換したためです。
p115上 のちに制御車(クハ1151)になって石川線に戻った→3102は国鉄から直接浅野川線へ入線しており「石川線に移った」が正しい表現になります。
p115中 内灘から砂丘を降りたところ→内灘から左にカーブして砂丘の尾根へ向かって勾配を登り、登り終えて右へカーブした先にありました。
p115下 撮影時期が昭和40年となっていますが、駅舎が新築された後なので49年以降になります。
p116~117上 昭和48年に撮影された時点ではいわゆる「バス窓」で、ユニットサッシに交換されたのは昭和62年になります。
p116中 加南線廃止とともにモハ3201とともに→加南線から昭和39年に石川総線へ移り、浅野川線へ移ったのは44年でした。撮影時期が昭和40年となっていますが、早くとも44年以降になります。
p116下 撮影時期が昭和40年とありますが、5101が浅野川線へ移ったのは44年なので、それ以降になります。
p117中 撮影場所 七ツ屋→山代
p117下 撮影時期が34年8月とありますが38年です。1813はこの年に3561に改造され、加南線にいた1815が二代目1813になりました。
p118中 石川総線時代に名鉄から来た車両の電気品に交換→電気品の交換は行われていますが、名鉄出自ではありません。
p118下左 モハ3563とありますが、貫通路の窓の形状から3561です。
p118下右 撮影時期が昭和40年とありますが、背後に車庫が写っており、車庫が完成した49年以降になります。
p119中 撮影場所 粟ヶ崎→内灘
p119下 サハ→クハ 撮影時期が昭和40年8月とありますが、左端に写っている1602は39年に加南線へ移っており、それ以前の撮影ということになります。
p120上 撮影場所 七ツ屋→割出
p120下 もと温泉電軌加南線のモハ1820形で昭和40年に浅野川線へ移動し→もと加南線のモハ1812で昭和46年に浅野川線へ移動し
p121上 サイクリングロードになった区間が多い→ほぼ全区間がサイクリングロードになっています。
p123上 前後に鮮魚台を→片側(羽咋側)に
p124上 昭和28(1963)年→昭和28(1953)年
p125上 撮影時期が昭和42年5月とありますが、キハ5151が付随車化されていないので昭和40年以前の撮影になります。
p125下 撮影時期が昭和41年11月とありますが、キハ5211の入線は昭和42年なので、それ以降になります。
p129下 鉄道がなくなった今も駅からの参道にあった大鳥居は残っている→老朽化により昨年撤去されました。
p130上 この機関車の役目はせいぜい構内の入れ換え仕業→スノープロウを取り付けて除雪車としても使われました。撮影時期が昭和41年5月とありますが、キハ5211の入線は昭和42年なので、それ以降になります。
p130下 海水浴の時期にDC302は直通列車の牽引には使われませんでしたが、七尾線の定期列車に増結された客車が羽咋で切り離されて能登線に入る運用があり、その牽引に使われました。
p132上 鉄道廃止まで機械式の気動車だった→入線した翌年の昭和41年に液体化、総括制御化されています。
p132下 後ろの2両は~機関士は2人で→3両とも総括化されているので、1人で
p133 昭和46(1981)年→(1971)年
p135 撮影時期が昭和48年とありますが、路線が廃止されたのは47年なのでそれ以前です。(キハ5301の客扉が二段窓からHゴムの一枚窓に取り替えられる前)
p139上 単車は緑色とこげ茶色の2種類があり→市内線の単車で焦げ茶色はモハ315が昭和26年から数年間、試験的にボギー車と同じ塗り分けになっていたのが唯一で、それをご覧になられたのでしょう。
p139右 金沢駅前から犀川大橋→最初に開業したのは金沢駅前から兼六園下までの区間でした
p141上 撮影場所 野町広小路→兼六園下
p143 小立野から兼六園下を通り→寺町から兼六園下を通り
p144下 撮影場所 野町広小路付近→野町四丁目~野町駅前
p145上 撮影場所 金沢駅前→県庁前~兼六園下 電車の左側が移転前の石川県庁です。
p146上 製造は大阪の広瀬車両→近畿車両
p146下 撮影場所 兼六園下→出羽町~兼六園下
p149中 昭和13年から金石線でモハ1101として→昭和13年から合併前の金石電気鉄道の15として、24年に1101に改番を経て28年に
p149下 撮影場所 六枚橋~白金町→六枚町~白銀町
p150上 廃止後は名鉄岐阜市内線へ移った→2100形のうち岐阜へ行ったのは2107の1両だけでした。
p153上 六枚橋~白銀町→六枚町~白銀町
p154上 モハ2300形2302→2301 撮影場所 野町広小路付近→出羽町~兼六園下
p186 あとがき 北陸鉄道の社名の由来は、前身の金沢電気軌道が電力会社と見做され、戦時中に北陸三県の電力会社が統合されて設立された北陸合同電気となっていた名残
管理人 投稿日: 2022年05月10日 16:30:19 No.180
代打・山本様の正誤表だけでも貴重な資料と言えますね。
私も見ている時に?と思われる記載もありましたが、忘れてしまいました。

しかし、金石線にDC302が入線していたのにはビックリしました。


連休中の楽しみ 管理人 投稿日: 2022年05月03日 08:00:18 No.173 【返信】

 最近発刊された素晴らしい本にはまっています。
「北陸の鉄路」「石川県の私鉄」そして本屋で見て買ってしまった「東武鉄道の蒸気機関車と廃線」それにいつもお世話になっている貨物時刻表です。

 つい先日発売された「石川県の私鉄」は貴重な写真が満載で見ていてワクワクしてしまいます。
 文面も先に発刊された「北陸の鉄路」に影響されているのかなとは思いますが実に楽しいです。
 
 代打・山本さんの指摘にもあった撮影場所などの誤り等も散見されますが、それ以上に価値のある本だと思います。

 ところで先の最後のレスにあったP105の811がいる場所ですが、確かに新須崎駅の雰囲気に似ていますね。
 811が浅野川線にもいたこと知りませんでした。
 金石線の長田・北町付近かなとも思いますが。

 私が最後に見たのは中橋駅の側線で付随車となって休んでいる姿でした。
 あの独特な前照灯と整ったスタイルが好きでした。


心は加賀人 投稿日: 2022年05月03日 11:06:09 No.174
買いました。
代打・山本様の細に渡る訂正のお陰もあって、疑問も晴れて楽しく、また懐かしく読みました。
訂正箇所の例をあげれば、Higins氏撮影の能美線「本寺井」はどう考えても景色や線路配置が違いましたから。「宮竹」だったのですね。
とはいえ、加南線のように廃止から50年も経てば当時の事はハッキリしなくなるのも当然でしょうから、それを差し引いても貴重な写真が多かったですね。河南駅の線路配置、改良前のものがハッキリと写っているのは初めて見ました。
代打・山本 投稿日: 2022年05月04日 14:08:31 No.175
今さらですが「石川県の私鉄」にもうひとつ、p85上の撮影時期が昭和38年4月とあるのは40年以降になります。解説文にも40年にクハに改造されたとあり、p84下には40年4月に撮影された改造前の写真が載っています。

あとがきでは北陸鉄道の社名の由来が「金沢が北陸の中心という自負」と述べられていますが、これも前身の金沢電気軌道が戦時中に電力会社と見做され、北陸三県の電力会社を統合した北陸合同電気(今の北陸電力の前身)となっていたためです。


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