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徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 日本に殉葬の痕跡はない。 垂仁紀に埴輪誕生のそれらしき記事があろうとも殉葬の痕跡はない。 垂仁紀は魏志の記述を知った上での上書き解釈であろう、 習慣と事件は違う。古代日本に殉葬という習慣はないのならば。 この徇葬者奴婢百餘人は一つの事件である。 では崇神(4c前半)以前に奴婢を大量に誅殺し埋葬した事件があったか? ある。 神武軍による土蜘蛛征圧である。 大和国で恭順に及ばなかった、 ①波哆丘岬の新城戸畔(にいきとべ) 不明 ②和珥坂下の居勢祝(こせはふり) 天理の和爾 ③臍見長柄丘岬の猪祝(いはふり) 葛城一言主神社 ④高尾張邑にいた土蜘蛛を葛(かずら)をあんで作った網を使って討った これは④であろう。 ならば卑弥呼の墓の場所もそこにある。 その場所は高天原である。 |
私の説の主旨は、 ・崇神天皇4世紀前半として「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏系図から導き出される3世紀後半のトヨとはトヨ津媛、 卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛である ・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛はじめ鴨(神)族の墓は高天原にあり、日本最古の高天彦神社境内に奴婢(土蜘蛛)とともに径百余歩の塚に埋葬されている ・後漢書東夷伝の倭国王帥升とはヒメ(踏鞴五十鈴)から約5世代前のスサノオであり、記紀はスサノオの後漢・安帝への謁見要請、 つまり土下座という屈辱的史実を覆い隠すために大きく時代を変え、その結果神武127歳などとなった ・神武東征紀とは女王国時代を隠ぺいするために意図的に武勇伝を強調し男王国に見せかけたもの、 そして「天皇・皇后」という7世紀に創られた新称号は魏志に書かれた真の女王を隠ぺいするための物である 先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。 その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。 先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。 まぁ早い話が神武やニギハヤヒやスサノオなどの実在を簡単に言ってくれるなということでしょう。 しかるに崇神天皇4世紀前半がおおよそ確定的である事から考えると、大和盆地で土師器や古墳造営が始まる大変革期の庄内0期が最新編年で2世紀末にくるようなので、ならばプレ崇神というべきか崇神以前の王権を想定はできるはず。 しかもおおよそ崇神から庄内0期まで120年として世代で言えば6世代、記紀は崇神以前を親子継承として9世代ですが、先代旧事本紀の鴨や物部の系図では6世代。 先代旧事本紀の鴨や物部の系図は考古学とぴたり符合するわけで、先代旧事本紀という史書の信憑性がむしろ高くなってるのではないでしょうか。 また考古学者では森浩一さん、文献史学者では上田正昭さんなど先代旧事本紀の重要性や復権を言われていた方もおられたわけで、 私は素人ですがなにも臆することなく神武やニギハヤヒなどの実在を言い続けたいと思ってます。 また前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。 そこにもし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、ギリシャ神話のトロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと思ったりします。 「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ批判という名を借りた記紀からの「逃避」ではなかろうかとも思います。 |
> p君 さんへ *Wikipediaの記述が正しいとは限りません。 ※(1).「高天原」の語源。 ・『古事記』書き出し、神話の舞台で神々がいる天上界の事。 「天地初発之時 於高天原成神 名天御中主神<訓高下天云阿麻下效此>次高御産巣日神次神産巣日神 此三柱神者 …」に、<訓高下天云阿麻下效此>と註がある。 即ち「高天原」の「高」の下の「天」は「あま」と読み下は此れに效く(倣う)、とある。何故「天」を「あま」と読むかは触れていない。 既に「古代倭語」の“아메-”(a-mæ-)の意味が忘れられていたか、或は何かを隠ぺいするためか、舞台を天上界の事としている。 *太安万侶は、時の権力者から隠蔽を命じられたが、反骨精神から後世の賢者が読み解ける様に伏線を施した、観る。 ・私は、地上の事として発見。この神話の聖地を通説通り「タカマガハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。「たか・あま ン ばル」と読む。「ン=の」の格助詞。 *「高」=高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字で 朝鮮語“다가-”(taka=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と同じ語幹。 *「天(あま・あめ)」とは…。 (イ)“아-”(a-)=朝の「あ・さ」=朝の来る方向(処)=東の意と同義。 東(あづま)(あ・詰(つま))=東の端。朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。 朝鮮語の朝=“아침”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。 NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号。 [ハングル物語―母音字はどうつくられたか] 母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。 母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ。≪一部抜粋≫ (ロ)“메-”(mæ-)の母音は現代朝鮮語では“e”となっているが、本来は“æ”の発音記号で「ま・め」の中間音。故に「天(あま・あめ)」の両方の読みがある。“메”=「山」の古語的表現(民衆書林・韓日辞典)。 ・「山」が(やま)なのは「天(あま)」の九州弁訛り。「蟻」を「やり」と訛る。 「山」が「や・ま」なのは「東の聖なる山」の意の限定用語が一般の「さん」にも拡大したもの。「水縄山(みのうやま)」の他は殆どが「さん」。 ・「ま・み・む・め・も」は全て「膨れているもの」を表す。 脹らんでいる物の総称「ま・め」⇒「豆」の語源か。 ・「ま」=「眼(ま・な・こ)」=「な」は格助詞。「こ」=“곳”(god)=処。 格助詞が「な→ン」に変わると関東弁の女陰の隠語になる。 ・「み」=実、果実は殆ど丸く膨らんでいる。 ・「む」=「六つ」=家屋に象る=地面から突き出ている。陸(むつ)に同義。 ・「め」=「目・芽」は膨らんでいる。 「め一杯」=山盛り一杯。“곳”(god)=処が付くと関西弁の女陰の隠語。 ・「も」=幼児の排便の始末の時「も」しなさい=お尻を突き出せ。もっこり。 ∴「天(あま・あめ)」は「(国の)東の聖なる山」の意となる。 *「原=ばル」とは、“벌”(beol)=[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。 ※従って、「高天原」=「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」。 水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇(ひしめ)いている。此地に「日向」の地名が現存。朝日に向いた地の意で「筑紫の日向」(国生み神話の舞台)である。 他にも「○○日向」の地名が十二ヶ所。 「浮羽」の地名も[旭日原] =“욱일벌”(u-kil-beol)の語尾子音欠落発音であり、漢字音由来なのは、「徐福」渡来後の影響か。「高天原」=「阿斯達」とも同義。旧・浮羽町役場は「朝田」=「阿斯達」と同義。 ≪「水縄連山(耳納山地)」は谷沢に刻まれた東西25㎞の保水力のある水源の山である。稲作に必要な水量を必要な期間供給、棚田稲作の穀倉を潤した。『記・紀』神話は弥生文化の産物である。今の平野部は未だ低湿地の荒野である。≫ *「高天原」の東西の入り口に「三春原(うらせばる)」と「牛鳴(うしなき)峠(とうげ)」がある。 ・「三春原」は「うらせばる」と読む。東側にあるが普通では読めない。 “울쇠-벌”(ul-soe-beol)=「鳴く鉄・原」(直訳)=鉄が唸る原(意訳)。 ・「牛鳴峠」=“쇠울”(soe-ul)峠=「鉄鳴く峠」=鉄が唸る峠。鉄⇔牛は同音。 ・“울쇠”(ul-soe)=「五月蝿い」の語源か。製鉄の音は「ウルセェ!」。 ・「高天原」には、東多々羅、南多々羅、西多々羅と製鉄地名がある。 方位から見て北風自然送風の製鉄炉か。「素盞嗚尊」追放前の製鉄集団跡か。 ・「高天原」には「諏訪神社」=「“쇠-와”(soe-wa)鉄来る神社」がある。 古代に在っては、鉄を制する者が国を制した。「高天原」の東西の入り口が製鉄絡みの地名である。韓国の首都の“서울”はこれの訛りを疑う。 |
不思議なことに邪馬台国九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。 突然、高天原は常陸であるなど言われても意味が分からない。 これは逆に考えるべきだ。 新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。 邪馬台国も高天原も大和にあった事を知ってたからだ。 高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。 国学者としてこれほど辛い事はない。 つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸と発表することで大和に焦点があたることを避けたのだ。 邪馬台国九州説とは高天原常陸説と同じく新井白石が創ったデマである。 |
福島雅彦 さんへ >*新井白石も解き明かせなかった、「高天原」を私が天上界でも日立でもなく地上に引き戻しました。 新井白石は高天原を解き明かせなかったのではなく、彼の生きた時代にも高天原はどこなのかという疑問もなく、 大和葛城で完結していました。 しかしその大和葛城は大和朝廷の発祥地であることから、スサノオが帥升であることに気づいていたであろう新井白石には、 太古の大和朝廷が中国に朝貢していたことになりますから、耐えられない屈辱であった。 だから「常陸説」なる新説を創作し、高天原は大和ではありませんという焦点ぼかしをしたわけです。 福島さんの言っている場所には高天原の痕跡など何もないわけですから、いいかげん諦められた方が良かろうと思います。 |
諸県君一族と推定される宮崎の西都原古墳群は、 高塚墳311基(前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基) 前方後円墳を首長墓だとすると、 300年弱で31基ですから、 おおよそ一代平均在位11年を説明できると思われます。 そうすると円墳は首長ではない王族の墓ということになります。 纏向遺跡が卑弥呼の王権の遺跡であり、 纏向古墳群が王族墓だとすると、 この西都原と同じような状況でないとおかしい。 すなわち2世紀前半の其国の男王からトヨまで150年と仮定して、十数基の前方後円墳、 そして100数十基の円墳が必要になります。 とても説明できない。 だいたい纏向では2世紀前半の其国の男王の墓が説明できない。 このあたりについて、 一度プロの学者さんの見解をお聞きしたいと思っております。 私の結論は、纏向遺跡は卑弥呼の王権の遺跡ではないし、 箸墓古墳は卑弥呼墓ではないというものです。 |
本居宣長の九州の熊襲の女酋長による偽僭説、これもかなり変テコです。 本居宣長が考えて、考えて、考え抜いた末にこのような説を提唱したとはとても思えない。 彼も何か大きな、決して口外できない真実に気づいていたとしか思えない。 それはやはり「倭国王帥升=スサノオ」、日本の歴史が中華皇帝への土下座から始まるという史実でしょう。 ちなみに卑弥呼=ヒメ踏鞴五十鈴媛説は、私が子供の頃、説としてあったと記憶してるのですが、 先日、図書館のレファレンスで徹底的に調べてもらいましたが、ありませんでした。 ならば素人ながら提唱させていただこうというわけです。 この九州の熊襲の女酋長による偽僭説、鶴峯戊申に引き継がれるようです。 鶴峯戊申は、邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定する論者ですが、 スサノオ=帥升の渡海しての土下座、そして5世紀の倭王武の上表文という、 自ら中華皇帝の臣下になりたがる、当時の日本人のプライドとして耐えられない時代までを「九州によるもの」としたい彼の心中が察せられます。 彼も邪馬台国が九州にあったとは全く思っていない九州説者でしょう。 そしてこの変テコな偽僭説、那珂通世に引き継がれ、スッと終わります。 何故か。 それは、那珂通世の生存中に日本が日清戦争に勝ったからでしょう。 もともとが白村江の敗戦が引き金となった記紀編纂、卑弥呼の時代を神武東征紀という武勇伝で男王国として上書きし、 その神武即位をBC660年というとんでもない時代にずらし、卑弥呼より100年前の倭国王帥升=スサノオの土下座を隠した、 つまり耐え難い劣等感の中から生まれた記紀編纂、そして江戸時代の国学者による偽僭説、 これらが記紀編纂から1200年後、10分の一の兵力で中国に勝利するという圧倒的優越感によって、消え去ったのでしょう。 私はそう思っております。 |
私は卑弥呼の墓が高天原(奈良県御所市高天)にある日本最古の神社の境内に、 奴婢(土蜘蛛)と共に今もあるという説を唱えてます。 ので、今現在最有力説である卑弥呼墓=箸墓古墳説を、 素人ながら批判したいと思います。 まず箸墓古墳建造開始時期が布留0式古相。 これを卑弥呼の死亡時期である248年におくこと自体に無理があると思われます。 北陸の二口かみあれた遺跡の木片の年輪年代が258年、時期は庄内3式。 ならば庄内3式の次の布留0式古相が258年を遡ることなどありえません。 また魏志の記述は卑弥呼が死んですぐに径百余歩の塚を作ったように読めますが、 高齢の女王が死んで慌てて完成まで10年はかかる墓を作り始めることはあり得ないと思われます。 冢は墳と違い、「棺を容るに足る」ですから、 径百余歩の墳がまずあって、卑弥呼が死んでから冢=埋葬部分の工事が行われたのではないでしょうか。 ならば箸墓古墳の墳丘は卑弥呼死亡時期の248年には完成しており、 箸墓古墳が卑弥呼墓であるなら、その墳の建造開始時期は3世紀前半の庄内2式ごろだと推定されます。 これでは実際の建造開始時期の布留0式古相とは大きく時代が違ってきます。 そして何より径百余歩(約150m)が箸墓古墳の円墳部分にしか合致してないこと。 これは円墳先造説もすでに否定されていますし、魏志が前方後円墳の円墳部分のみを記したなど、無理がありすぎると思われます。 また卑弥呼が箸墓古墳に埋葬されてるとして、 特殊器台をはじめ瀬戸内、とくに吉備との関係を説明せねばなりません。 卑弥呼と瀬戸内に何か強い関係があるのか、これを説明することなど とうてい無理でしょう。 そして何よりも奴婢埋葬痕跡が全くない。 奴婢埋葬にかかわる文献資料もないし神社伝承などもない。 以上、 箸墓=卑弥呼墓説は時代が合わない、大きさも合わない、 瀬戸内との関係も説明できない、奴婢埋葬痕跡がない、 これでは卑弥呼の墓などととてもじゃないが言えないのではないでしょうか。 では石野さんの勝山説、 寺澤さんのホケノ山説、 これが魏志に書かれた卑弥呼の墓に合うのか。 時代だけは合うかもしれないが、それ以外、例えば大きさも、その様相も全く合わない。 くり返しますが、百余人の奴婢埋葬痕跡が皆無。 これはそもそも纏向古墳群が王族の墓ではないことを意味する。 根本的に一度ガラガラポンして考えないといけない、 と私は思うわけです。 |