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投稿者:p君
wiki「高天原」より 古典作品では、『蜻蛉日記』にて『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは(203-05下)』という和歌があり、さらにこれに続く和歌として『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける(203-07下)』とあることから、天岩戸が葛城山にあったとする理解は遅くとも平安時代まで遡ることが解る。鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。最終的には江戸時代初頭まで、新井白石が常陸国説を唱えるまでは、この地が高天原史跡だと考えられていたらしい。 つまりごく普通に高天原は大和葛城だと認識されていたことが分かります。 そこに径百余歩の奴婢(土蜘蛛)が埋葬された塚がある。 何も難しい事はなかった。 高天原が九州にあるなどと言う説は近年に出来たもの。 それに依拠してる邪馬台国九州説などはいかに底が浅いのかが分かります。
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