投稿画像
投稿者:p君
卑弥呼の墓は単独墓か。 ならば卑弥呼の両親も王族なので単独墓であったという事になる。 その両親もまた単独墓ということになろう。 箸墓であれ、平原であれ、祇園山であれ、卑弥呼の墓を単独墓だというなら、 13歳で即位したトヨを基点にして、 トヨから卑弥呼までを3世代とし、そして2世紀前半の「其国の男王」までを卑弥呼から4世代と仮定すれば、 計7世代、単純計算で256個の単独墓がなければいけない。 王墓クラスの巨大墓は7基でも、それより小さな単独墓を含めればそれくらいはあったということにはろう。 もちろん古代は親族結婚が多く、叔母と結婚した、姪と結婚した、姉妹に一人の男が婿になったなどと言う例もあろうから、 もう少し数は少なくなるであろうが、それでも最低100強の墳墓は必要になるであろう。 纏向古墳群であれ、平原・曽祢遺跡群であれ、全くそれらを説明できない。 卑弥呼の墓は単独墓ではなく、ひとつのリネージ、クランの集団墓だったのではないか。 塚は墳ではない。 三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。 諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。 その径百余歩(150m)のリネージ、クランの集団墓の一角に卑弥呼の塚が作られたのであろう。 場所は日本神話、歴史の原点である高天原(奈良県御所市高天)だ。 日本最古の神社の境内に、魏志倭人伝の記述通り、奴婢(土蜘蛛)とともに今もある。
投稿記事
画像を拡大