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木山捷平の詩  その2

1: KZ:2024/02/17 18:13 No.452
木山捷平(1904年~1968年)全詩集  (講談社文芸文庫版)

詩集 『野』から  (1929年 自費出版)
 

☆『こげた飯』

くどの前にしやがんで
幸吉さのことを思つてゐる間に
飯がこげてしまつたんだ。
オトツツアン!
オカアン!

そんなにおこらずに 飯のにがい位辛抱しておくれよ。
わしはもつとつらいんだ
誰にも言へずつらいんだ。
                (昭・2)


☆『牝牛 』

秋のお日様が
牛屋の隅まで照つてゐる。

牛屋の真中に
どてつとねそべつて 反芻(ねり)をかへしてゐる牝牛!
その広いせなかにかけ上り
又とび下り
愉快にあそんでゐるひよこ!

牛屋の前で藁切りながら
おらあ
なんだかたまらなくなつて来た。
                (昭・3)


☆『男の子と女の子』

そら
ええか
一、二、三………

わしと
とみちゃん
石崖の鼻にならんで
ふるへながら小便ひつた。
わしの小便と
とみちゃんの小便
二本ならんで
芋の葉つぱへぱりぱり落ちた。

「とみちゃん、わしの方がちつとよけい飛んだぞ!」
「そら、あんたのはちつと突き出とるもん」

山も
野も
あかるいあかるい月夜であった。
               (昭・3)


⚫︎木山捷平はこの詩集『野』で詩人としてのスタートを切った。
木山の資質は ほぼここですべて表れていると思う。(2月3日の記事中の作品も参照)
ストレートで純粋でけれんみがない。優しくて透明でとてもわかりやすく、読む者の胸に、その調べがそのまま流れ込んでくる。
生家の生業は農業だから(岡山県小田郡新山村、現在の笠岡市出身)、彼の感性は 多くその村の自然と暮らしに根ざしている。もちろん それだから素朴なのではない。人の生きよう、そこに暮らす人々の思いの根底にまで 作者の眼差しと言葉が届いているから詩(表現)として自立しているのだ。
作品のどこかに漂う余裕と諧謔。それは生涯 彼の詩にも散文作品にも 柔らかな背骨のように残って その豊かさを生み出しているように思える。

☆『返り花』

さくらの返り花が校庭に咲いた。
あたたかい冬の日
学校一の低能児タマやんが
ふところ手をしてそれを眺めてゐた。
わたしはタマやんをゆかしく思ひ
花をとってやらうかといふと
タマやんはにこりとかぶりをふった。
「どうして」とたづねたら
「どうしてでもない」とこたへた。

            (大・14 未発表詩篇)


⚫︎作者の没後 夫人の木山みさをさんが編んだ『未発表詩篇』には 以下のような詩もならんでいる。


☆『妻』

団子や芋を食ふので
妻はよく屁をひるなり。

少しは遠慮もするならん
それでも出るならん。

しかしぼくはつくづく
離縁がしたく思ふなり。
      
     (昭・22 )


☆『死』

お母さんのお胎(なか)から来た人間が
何故にお母さんのお胎へかへれないのだろう?
裏山のお墓はつめたい!
そしてあそこはまつくらだ!
せめてお母さんの生きてゐる間は
いくら病気がおもくなつても
あんな土の中へは行きたくない。
      
    (昭・22 )






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