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投稿者:KZ
木山捷平(1904年~1968年)全詩集  (講談社文芸文庫版) 詩集 『野』から  (1929年 自費出版)   ☆『こげた飯』 くどの前にしやがんで 幸吉さのことを思つてゐる間に 飯がこげてしまつたんだ。 オトツツアン! オカアン! そんなにおこらずに 飯のにがい位辛抱しておくれよ。 わしはもつとつらいんだ 誰にも言へずつらいんだ。                 (昭・2) ☆『牝牛 』 秋のお日様が 牛屋の隅まで照つてゐる。 牛屋の真中に どてつとねそべつて 反芻(ねり)をかへしてゐる牝牛! その広いせなかにかけ上り 又とび下り 愉快にあそんでゐるひよこ! 牛屋の前で藁切りながら おらあ なんだかたまらなくなつて来た。                 (昭・3) ☆『男の子と女の子』 そら ええか 一、二、三……… わしと とみちゃん 石崖の鼻にならんで ふるへながら小便ひつた。 わしの小便と とみちゃんの小便 二本ならんで 芋の葉つぱへぱりぱり落ちた。 「とみちゃん、わしの方がちつとよけい飛んだぞ!」 「そら、あんたのはちつと突き出とるもん」 山も 野も あかるいあかるい月夜であった。                (昭・3) ⚫︎木山捷平はこの詩集『野』で詩人としてのスタートを切った。 木山の資質は ほぼここですべて表れていると思う。(2月3日の記事中の作品も参照) ストレートで純粋でけれんみがない。優しくて透明でとてもわかりやすく、読む者の胸に、その調べがそのまま流れ込んでくる。 生家の生業は農業だから(岡山県小田郡新山村、現在の笠岡市出身)、彼の感性は 多くその村の自然と暮らしに根ざしている。もちろん それだから素朴なのではない。人の生きよう、そこに暮らす人々の思いの根底にまで 作者の眼差しと言葉が届いているから詩(表現)として自立しているのだ。 作品のどこかに漂う余裕と諧謔。それは生涯 彼の詩にも散文作品にも 柔らかな背骨のように残って その豊かさを生み出しているように思える。 ☆『返り花』 さくらの返り花が校庭に咲いた。 あたたかい冬の日 学校一の低能児タマやんが ふところ手をしてそれを眺めてゐた。 わたしはタマやんをゆかしく思ひ 花をとってやらうかといふと タマやんはにこりとかぶりをふった。 「どうして」とたづねたら 「どうしてでもない」とこたへた。             (大・14 未発表詩篇) ⚫︎作者の没後 夫人の木山みさをさんが編んだ『未発表詩篇』には 以下のような詩もならんでいる。 ☆『妻』 団子や芋を食ふので 妻はよく屁をひるなり。 少しは遠慮もするならん それでも出るならん。 しかしぼくはつくづく 離縁がしたく思ふなり。             (昭・22 ) ☆『死』 お母さんのお胎(なか)から来た人間が 何故にお母さんのお胎へかへれないのだろう? 裏山のお墓はつめたい! そしてあそこはまつくらだ! せめてお母さんの生きてゐる間は いくら病気がおもくなつても あんな土の中へは行きたくない。            (昭・22 ) ………
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