旅レポート
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小さな旅ー石棒と丸石信仰ー
fujizakura 投稿日:2020年11月10日 15:44 No.97
諏訪湖周辺から八ヶ岳山麓を通り甲府盆地に至る一帯は、「星降る中部高地の縄文世界」として
日本遺産に指定されています。
この構成遺産の一つである金生遺跡は、縄文時代の後期から晩期にかけての遺跡ですが、祭祀を
行ったと考えられる大型の配石遺構が発掘されたことから注目を浴び、遺跡公園として保存され、
出土した石器や土器は近くの北斗市考古館に収められています。
秋の一日、この遺跡を訪れ、縄文の人たちの心のありようや暮らしぶりに思いをはせ、今を生き
る私たちの思考の源流を考えてみました。
にわか仕立ての勉強で、首をかしげる部分もあると思いますが、遺跡から触発されたものを文章
にしてみました。
歴史や縄文文化に関心のある方はお読みください。なおSTFという限られた範囲の発表ですので、
ネット上などから引用した一部の写真の出典などは書き入れませんでした。


ダウンロード石棒と丸石信仰ー金生遺跡を巡って ( .pdf / 2.6MB )
yama 投稿日:2020年11月11日 23:56 No.98
著書として出版しないと、もったいない様な内容ですね。私は諏訪湖畔のしんゆ(親湯)と言う温泉ホテルに宿泊した時、朝食が終わってからホテルのバスで3時間半から4時間位諏訪大社の4社を説明付きで案内して貰いました。鹿の生首を神前に供える「御頭祭・おんとうさい」昔は75頭の鹿の頭を切り落とし生贄として捧げて居ましたが今は剥製の鹿の頭を飾って居ます。今の御柱祭について柳田国男は「ずっと昔は、祭りの度ごとに一人ずつ神主を人柱として殺す風習があつた」と書いているそうで、奈良時代になって人間の生贄が木の柱で代用される様になったと言って居ます。前宮では明治以前は諏訪明神の子孫である生き神様「大祝(おおほうり)」は社の中で食事を供えて貰いトイレはおまるで社から外に出る事は無く生神様として生活して居たという話です。


大月 投稿日:2020年11月27日 05:55 No.100
私の地元を詳しく知っていて、また知ろうとしていて驚くとともに、自分の無知を気づかされました。しかもカクベニ村まで登場し、更に驚かされました。

雪谷旅人 投稿日:2020年12月02日 13:12 No.101
マイクロツーリズムの先鞭となる素晴らしい旅ですね。身近な遺跡から多くの歴史的事実が浮かび上がる。やはりfujizakuraさんの「紀行集」を出版すべきですね。

一昨年の「お花見会」で訪問した「釈迦堂遺跡博物館」を思い出しました。桃花満開の笛吹町を起点に遺跡の旅を企画したいものです。


yama 投稿日:2020年12月03日 23:13 No.103
7年に1度の諏訪の御柱祭では1968年以降、74年、86年、92年、2010年と毎回の様に死者が出ています。弁護士2人 が諏訪大社の北島和孝宮司に対する業務上過失致死容疑での告発状を長野県警諏訪署に2016年5月13日付けで提出したそうです。

「生命を軽視し犠牲にするのは許されない」

https://www.youtube.com/watch?v=K2ZePCsbyMc

https://www.youtube.com/watch?v=jf9hSqRLHMQ

という理由ですが、神事であり、部外者が告発するのではなく参加した当事者に任せるべきではないか、などといった意見も出て、論議になっているそうです。御柱祭で死者が出た場合は地元では「名誉」とされるという。「名誉だ」と思わなければ、働き盛りの夫や父や息子を失った遺族はやっていられないでしょう。この構図は、かつて戦争の時、夫や息子や父親を奪われた遺族が、涙をのんで「名誉の戦死」なのだと自らを納得させたし、そうとでも思わなければ日本では非国民と呼ばれてしまう「靖国の構図」と似通っているような気がすると言って居たジャーナリストも居ます。